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2.死の原因である「罪」とは

2014.02.18 (Tue)
・死の原因は「罪」

聖書でいう「罪」とは、私たちが犯してしまった、法の定めを踏み越えるいわゆる「犯罪」を指すのではなく、また、個人の良心が咎めるような何か特定の行いを指すわけでもありません。

それは誰もが持っている、「悪に向かおうとする人間の傾向」、あるいは「倫理的欠陥」を指して聖書は『罪』と呼んでいるのです。

ですから、聖書でいう『罪を悔いる』とは、自分のかつての何かしらの行いを反省することを必ずしも意味しません。むしろ、人間全体の内に宿っていて、逃れることのできないでいる「悪を行う傾向」を、それを自分では願わず、拒否しようとする姿勢を見せることを意味します。

人は誰であっても、聖書が述べるこの「罪」を逃れることができません。
それはどれほど優れた宗教家であっても、善良で献身的なキリスト教徒であっても一向に変わるところがありません。

キリストの使徒パウロは、その言動においてきわめて模範的な人物といってよいでしょう。
その彼でさえ『私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っている』と述べ、自分が『みじめ』であり『誰がこの死すべき体から救い出してくれるでしょうか?』と問いかけています。

聖書は『罪の報いは死』であるとしています。
つまり、人間の悪に向かう傾向、倫理上の欠陥は、わたしたちに「死」をもたらしているというのです。

なぜでしょうか?
それは人間が神によって創造された、ということが深く関わっています。

神が天地を作り、植物や動物で地球を満たして後、それを管理させるために人間を最後に造られたと聖書は述べますが、この人間だけは『神の象り(かたどり)』に創られたとも創世記は述べます。
つまり、ほかのどんな生き物とも異なる特性をもちます。

もちろん、人間の知性はどんな動物よりも抜きん出ていて、多様な言葉や文字を用いて高度な意思の疎通を図り、創意を巡らし器用な手を用いて、ほかの生き物では到底及びもつかない様々な物を作り出すことができます。

ですが、聖書の観点では人間についてより重要な特質があります。
それは自らを存在させた創造者との意思の疎通を図れることにあり、神にとってこの関係性が人間の最も大切な能力であり、創造者との交流こそが最も基本的な絆となるべきものといえます。

つまり、創造の神は人間にとって存在の由来である根源者、自分以外の最初の他者であり、この創造者との関係は本来、あらゆる倫理の基礎となるべきものです。
もし、この第一の関係を正しく適切なものとしないなら、人は倫理、また他者との関係をふさわしく確立することができません。
人間が倫理的に問題を抱えていることは、少し世相を見るだけでまったく明らかなことです。

自分を存在させた神との関係性が損なわれているなら、他にどんな良好に見える関係があろうと、そこには不完全性がついてまわり、実際には誰とも真実に親しい関係を構築することに無理があります。最初に満たされるべき土台となる最重要な関係に倫理がないのに、人はどんな倫理や道徳を持ち得るでしょうか。愛において完全ではないのです。

それでこの世では不正や不義を避けることができないばかりか、それが横行しているといっても間違いではない状況にあります。

しかし、神は最初から人間をそのようなものとなるよう意図して創ったわけではありません。
神は天地を創造し、地上に人間を置いてからすべてのものを眺めて、非常に満足されたと創世記に書かれています。

人間は本能に従うよりは、自由に考えを巡らし、自分で何かを決定するものとして創られました。
ですから、人間から自由に思考することを奪ったり情報を制限したりするなら、それは必ず圧制となるのです。そのように押さえつけることには、人間本来の優れた自己判断を委ねた神の設計に反する無理があります。

この自由意思を持たせることにより、神との関係性を良いものとする機会を人間に与える可能性を有します。
人は強いられてではなく、思う通りに行動でき、その自由な意思から自発的に神を愛し敬い、その関係を築くことができるものに創られていたに違いないことは、自発性が人間らしさを特徴づけることからも明らかでしょう。
もし、愛で結ばれるなら、神と人間は自由に交友を持てるはずでしたが、そこに両者を隔てる要素が入り込んでしましました。それこそが「罪」です。

創造された最初の人間アダムは、創造者との関係を損ねたことを創世記は記します。
つまり、一本の木の実だけは食してはならないという、与えられた唯一の禁令を破りました。
その場合、これは「些細な間違い」ということでは済みません。

なぜなら、創造された者が、創造者に敬意も愛も示さず、神の意図から外れて、あらぬ方向に足を踏み出したからです。それはアダム自らの命を損ない、創造界に争いや不調和をもたらしましたが、最も大きな損失は、この「罪」、つまり倫理上の欠陥が遺伝によって全人類に蔓延してしまったことです。

したがって、わたしたちには押しなべて、悪に向かう傾向が避けられません。
人間の『すべての者は罪を犯したので神の栄光に達しない』と聖書ははっきりと記されているように、アダムの子孫である限り、これに例外はありません。
聖書は『ひとりの人を通して罪が世に入り、すべての人に罪が広がった』と述べています

創造者は、自ら意図した規準に達していない創造物をいつまでも存在させることはされません。
その規準とは「罪」が無い状態であり「聖」であることが求められます。
もし、「罪」あるものをずっと存在させるなら、創造の意図も永久に遂げられないことになり、創造界は混乱が収まらず、それは創造物にとっても益になりません。

聖書では、創造された動物はそれぞれに「魂」と呼ばれますが、人間については『罪を犯す魂は死ぬ』という原則が創造者によって定められています。まさしく『罪の報いは死』と書かれている通りです。
これは「魂」に命を与えて生きるものとした創造の神だけが持つ、生殺与奪の権限と言えるでしょう。

神によって「罪」ある人間には寿命が定められたので、身体は歳を重ねるうちに老化するようになり、生命の終わりに向かってゆくことが次第に明らかになります。それだけでなく、人間は病気を避けることができず、いつなんどき事故や災いに遭って死に至るのか分からない不安定な存在となりました。
つまり、すべての人間は、アダムからの「罪」によって何時しか死に処せられるべき死刑囚のようにされてしまいました。

この神の取決めは非情に見えるかも知れませんが、このように虚しい状態をいつまでも放置されることはありません。それでは創造の業がいつまでも完遂しないからであり、それは神の全能性に反します。
そこで神は、人間から「罪」を取り除く「贖罪」(しょくざい)という方法を用いてすべての「魂」を創造本来の姿に戻すことを意図されました。これが「救い」と呼ばれます。

神はそのためにキリストを地上に遣わし、その地上に由来しない「罪」のない命、「魂」を犠牲とし、人間の最初の先祖アダムが失った清い「魂」の代わりとしてキリストの「魂」を据え、こうして倫理の道理が崩れないように取り計らいました。
ですから、一般常識に反してまで、キリストが普通の方法によらず、処女懐妊によってこの世に来たとキリスト教徒が信仰する理由はここにあります。パウロはイエスを『最後のアダム』また『第二の人』と呼んでいます。

キリストは自らの「罪」が無く、生き続けることのできる魂を人類の救いのために捧げましたので、今や、すべての人は神に買い取られた状態に入っています。 まさしく、キリストは『すべての人のための対応する代価』であったと記されている通りです。

創造者はすべての「魂」を存在させた方であり、当然にその所有権を持ちます。
まして、キリストの貴重な犠牲によってすべての人を買い取られた今、何者も勝手に神の創造物である人の「魂」を取り除くことは許されません。

しかし、『罪を犯す魂は死ぬ』という原則は依然として有効であり、わたしたちの状況は変わっていません。
ですが、その原則のゆえにも、神は自らとの倫理上の関係を正そうとするかどうかをすべての人に問う時を設けられました。それが『裁き』であり、世の「終末」と呼ばれる期間に行われます。そこでは人々が創造者を創造者として当然の敬意や愛を示すか否かが問われることになります。

つまり、あたかもエデンの園でアダムが試みを受けたように、一人一人が終末に問われます。
わたしたちは自分の内に宿る「罪」をどう見做すでしょうか?
聖書は『自分には罪が無いというなら、その人は自分を惑わしている』と言います。この世の有様を見ても、人間に「罪」が無いとは到底言えません。

終末の「裁き」で必要とされるものは「信仰」であることを新約聖書は繰り返し述べています。
この「信仰」とは、神が人間を「罪」から救おうとされる意志に応え、忠節な愛を示すことであり、そのようにする人は、神をはじめとする他者への愛を育み、利他的であろうと努めることでしょう。

ですから、単に神の存在を信じることが信仰ではなく、終末のときにはっきりと示されることになるところの、「罪」を除く「神の手段」を信じて願い求めることを意味します。

その「贖罪」のための「神の手段」を聖書は『神の王国』と呼んでいます。
これがイエス・キリストの教えの中心となっていたものであり、聖書の全巻を貫く主題です。



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