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1.聖書の目的

2014.02.17 (Mon)
今日世界には、二十億ものキリスト教の信者が存在すると言われ、この人々が世界で最も信者数の多い宗教を形作っています。
キリスト教徒はイスラーム教徒の住む地域にも存在し、広範な布教の努力により、仏教国とされる日本のような国にも一定数存在することからすれば、明らかに全世界に広まった大宗教と言えましょう。

キリスト教徒の経典は「聖書」と呼ばれますが、この書の頒布数も世界で最たるものとされています。
原本は失われてはいますが、遅くとも紀元前千数百年からモーセという預言者によって、それ以前の資料の編纂も含めて創世記から書き始められ、紀元第一世紀の終わり頃のキリストの直弟子たちの時代にまで執筆が及んでいます。

つまり、ひとりの教祖や特定の世代の人々だけによって記されたり監修されたりしたものではなく、永い期間に亘って、その時代毎に筆記者が現れては書き継がれてきたという特殊な書物です。そればかりか、その内容が時代を経る共に深く意味が明かされ、また以前に書かれた預言が成就し、謎が解かれて、いよいよ深化し発展していったところは、神秘的と言って過言でありません。それぞれの書物が関連し、全体の意味を補い合っているために、ただ古い著作の寄せ集めとは言えない不思議がそこにあります。

通例には六十六の分冊から聖書は構成されますが、それぞれの書にはある種の「聖性」のようなものが宿っていますので、この書を育むことを任されたイスラエル=ユダヤの民は、その水準に達しないありきたりの人間の発想に由来する程度の著作を聖書から除外してきました。

その排除された一部は、聖典の外に置かれたために「外典」また「疑典」と呼ばれています。それらの書物は、清さや高邁さ、天的な画期性を欠いてしまっていることで聖書に含まれた諸書に達しないことは読み込むと明らかになるものです。

「旧約聖書」は、聖書全巻のおよそ三分の二を占め、非常に古くからの歴史を語り、法律を制定し、預言を宣告し、また霊感を受けて詠まれた詩歌や格言を編纂したものが集大成されたものですが、それぞれの書には気高い風格と、後代に起こった事を予め述べている不思議と、いまだに解けない謎も込められています。

その旧約聖書が書き終えられて四百年後に起こった出来事、つまり、旧約聖書の中に予告されていたメシア、つまりキリストとされた類い稀なイエスという人物の登場と言葉と行動を記したものが福音書で、その弟子たちの活動や当時の人々を教え、キリスト教を完成へと導いた手紙類、そして終末の預言である黙示録から出来上がっているのが、聖書の残る三分の一に当たる「新約聖書」です。

双方の聖書には見事な文学性や、人間の本質を突くような鋭い指摘があるため、人類文化に与えてきた影響にはたいへん大きなものがあります。

しかし、聖書の教え本来の目的は文化的影響を与えることではありません。
新旧の聖書は書かれた時代も言語も異なりますが、幾らかこの書に親しむなら、人間の思惑を遥かに超える神のずっと変わらぬ強い意志が双方の書を貫いていることに注意が向くことでしょう。

その神の意図するところは、創世記のはじめの時代から五千年以上の時を巡り、最終巻の黙示録に描かれる将来に至るまでも漸進的に語られ、神のひとつの目的がどのように成し遂げられてゆくのか、それがこれらの諸書の中で次第に明かされてゆきますから、その構想の大きさ、関係する人々や世代の多さ、悠久の時にわたるその歩み、また未だに解けない多くの謎も含んでいる事を知ると、筆者らの背後にあってこの書物を著し続けた偉大な存在者の前に人は謙虚にならざるを得ないでしょう。

しかも、それらの記述の目的とするところは、我々人間がどんなに求めても得られることのない、数々の優れたものをもたらすことなのです。

聖書の目的は、人間がただ神を崇拝するようになることではけっしてありません。
人生をよりよく導くための指針がもっぱら書かれているわけではありません。
また、人間を裁いて死後に天国に召したり地獄の懲罰を与えたりすることでもありません。
人間たちの上に主権を唱えて君臨することさえ神の目的ではないのです。

すべてを創造された神は、初めから人間に崇拝させたり支配したりすることを目的とはしていませんでした。
この世で人生を間違いなく、幸福に過ごさせる導きであれば、占いや他の宗教の方が余程よいでしょう。
また、人間を死後天に召すというなら、神は人間を初めからそうせずに地上に置いたのはなぜでしょう。
死後に悪行者が地獄で懲罰を受けるというのは、神をサディスティックな性格の持つ主であるというに等しいことです。

神は創造の初めから人間を地上に置かれ、そこは「エデン」つまり「愉しみ」と名付けられるほどに良い環境であり、それは今日のような、残された美しい自然をさえ汚染や紛争で台無しにしてしまう世界とは無縁であったことでしょう。

神の目的の一端は、このように世界を汚し乱す人間の性質、その貪欲から地上を絶え間ない争いの場としてしまう人間のその「倫理上の欠陥」を取り除き、人間を本来意図された輝かしい創造物に回復させ、次いで世界を創造された当初の企図に沿った素晴らしいところとすることにあります。すなわち人間について、本来の創造の意図を成し遂げることが、すべてのものを創られた神の強固な意志なのです。

聖書は、人間の中に巣食う倫理上の欠陥を「罪」と呼びますが、それは個人が犯す個々の悪行を指すのではありません。人間に難病のように憑りついて離れない悪に向かう「傾向」を指しています。それでこの「罪」を「原罪」と呼ぶこともあります。

これを例えれば、人はなぜ争い、奪い合うことを止められないのでしょうか?
世界中で多くの人々が平和を望んでいたとしても、人間は争いを止めることができません。
また、どこであれ社会のあるところに犯罪の無いところがありません。
これは経済環境に恵まれていても困窮していようと然程変わるところがないのです。
この世界には、はっきりと人間の悪に向かう「罪の傾向」が見て取れるのではありませんか。

そのうえ、人の生涯は長いようでいて短く、その命はいつ消え去るのかも分からない不安定なものです。
人生は幾らかの幸せをもたらしますが、俗世にあって労し苦しみ、やがて知恵と経験に満ちたとしても、誰にでも訪れる死がその一生を無へと奪い去り、最後に虚しいものとしてしまいます。

人類はこのように人生が空虚であることの理由を求めて様々な宗教を存在させてきました。
つまり、人は何のために存在するのか、またなぜ生きるのかを尋ねるのですが、この普遍的な答えを的確に述べることは人には難しいことであり、人類はより高い次元に向かってずっと問いかけてきたといえます。

それらに答えを与えるはずの「宗教」の大きな教えのひとつが、人間が死後も意識を持って霊界で生きるという発想、また、他の生命となって生まれ変わるという輪廻、勧善懲悪を教える天国と地獄など、これらに共通するところは、人は死を迎えても何らかの形で残るというものです。それらは人生の空虚さを回避する教えといえるでしょう。

ですが、この点で聖書は即物的ともいえるほど理知的です。
つまり、死とはその人の思考も情念も無に帰することであるとして人生の空虚さを回避しないのです。
もちろん、それで終わってしまうなら人間には何の希望も無くなってしまうのですが、聖書の伝える希望とは、霊界の存在となることでも、輪廻して転生することでも、天国や地獄さえもありません。

では聖書の差し伸べる希望とは何かと言えば、それこそは人間の死を超克することであり、その人そのものの「復活」なのです。「復活」こそは、人が死から被るあらゆる損害も、どんなに悲惨な生涯を送ったとしても、そのすべてを相殺し得るものであり、「復活」こそが、人間を地上に在らしめた創造の神だけが行えることであり、且つ、理に適った真の幸福といえるものです。

聖書では「死は敵」であって、他の命への移行の機会でも、霊界への旅立ちでも、まして天国や地獄への報いを受けるためのものでもないのです。それは終局であり、滅びであり、土に帰り無に帰する以外の何ものでもありません。

聖書は人間のこの「罪」と「死」からの虚しさを直視し、天国と地獄による勧善懲悪も、死後にも霊の存在が残るなどとはけっして教えてはいないのです。
そのようにキリスト教が死後を教える宗教であると誤解されてきたのは、どこにでもあるような諸宗教と聖書の教えが中世以前に混じってしまい、それが欧米を経由して広がり、今日キリスト教としてもっぱら教えられているからにほかなりません。

ですが、聖書には人の「罪」と「死」の問題、そしてこの障壁を乗り越えようとする神の偉大な意志の表明がはっきりと読み取れ、それこそが力強く聖書全巻を一貫して流れるものとなっています。
すなわち、聖書に流れる神の意志は、アダムが神との絆を振り切ったことから人間全体に入り込んだ「罪」と「死」が除かれ、神の創造の業が完全に成し遂げられるに至ることなのです。
このように人類最大の問題が何であるかを的確に指摘し、それに対する神の意志を知らせるもの、それが聖書の大きな主題でありますから、この書は人類にとって最も価値があるというべきでしょう。

キリストの使徒パウロは次のように述べます。
『被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるのではなく、服させた方の意志によるのであり、また同時にひとつの希望を持っています。
即ち、被造物も、いつしか滅びへの隷属から解放されて、神の子供の栄光に輝く自由にあずかれるようになるからです。』(ローマ8:20-21)

聖書は、今日までの人間には「罪」があって、それが神との間を隔てるものとなっていることを知らせます。
つまり、人間は神に創造されたのですが、神の意図した状態からは大きく逸脱しているので「神の子」ではありません。

ですが、いつの日か人間の「罪」が除かれるように神は取り計らわれました。このように「罪」を除くことを「贖罪」(しょくざい)と呼びます。
ですから、キリスト教が「人間を罪人と呼んで卑しめる宗教だ」という批判は当たりません。
むしろ、この世に溢れる諸悪の根本原因を見据え、真実な解決に焦点を当てていることにおいて、多くの宗教に無い特長を持っているのです。

具体的に、人間の「罪」を取り除く神の「贖罪」の備えとなるものこそ、「イエス・キリスト」という『神と人との仲介者』であって、このキリストの犠牲の死を通して、人は「罪」を除かれ再び創造されたままの姿、つまり『神の子』としての状態に引き上げられ、「罪」の傾向はことごとく消し去られ、老化の失意も、死の恐れもまったく克服されます。なぜなら「死」は『罪の報い』であるからです。

キリストは人類の「罪」によってこれまで冒されたすべての悪行、またこれから冒されるであろうあらゆる倫理にもとる不正について、人類の悪に向かう傾向ごと一身に荷い、その身に責めも報いも引き受けて自らを投げ打ちました。
聖書はこれを『一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになる』と述べます。

そうして、仲介者キリストの犠牲を通して人間が神との関係を回復する道がただ一本拓かれることになったのです。
「キリスト」とは「任命された者」を意味しています。キリストは自らを『道であり、命であり、真理である』と言われます。キリストはその地上の歩みを通して、神と人を愛する生き方を体現されました。愛こそは『罪』の反対に位置するものであり、創造の意図そのものでありましたから、すべての被造物はこの愛によって結ばれることが、神の意志であり、聖書の主題です。

こうして聖書の人類に伝えようとしているところが見えてきます。
それは、創造を成し遂げた偉大な神と人間が再び深い愛の絆で結ばれることであり、神の意志のままに世界がその栄光へと変えられることなのです。その価値は、これまで多くの人々によって「この世」の改革が真剣な努力によって追求されながらも達成されることのなかったところの、その描かれたすべての理想世界をも遥かに超えるものとなるでしょう。

人間に「罪」が宿るので、確かに「この世」で艱難辛苦が絶えません。
しかし、イエス・キリストはこう言われました。
『今、嘆き悲しむ人々は幸いだ その人たちは笑うようになるのだから 』

これはご利益信仰のように、今すぐ個人に利益をもたらすことも、この世で順風満帆の満足の生涯を送らせてくれることでもありません。占いのように益ある人生上の選択を助けるものでもありません。

聖書の神がなさろうとしていることは、個人の利得や小さな幸福を遥かに超えて、人類の全体を視野に入れています。
それなくして真実の幸福は無いからです。この世がそうであるような誰かが幸福であっても誰かがそうでないことを神は意図されません。この神はすべてのものの創造者であられるからです。

だれが、この聖書の目的に価値を見出すでしょうか?
もし深い価値を感じるなら、まことにその人は幸福というべきでしょう。
その価値についてキリストは例えを用いて語り、ある商人が持てる商品のすべてを売り払ってでも手に入れようとするほどの「高価な真珠」に例えています。

神はその目的に向かってずっと行動してこられ、数千年に亘りゆるぎなく歩みを進めて来られました。
聖書が非常に古い本であるのはそのためです。
そしてイエス・キリストが犠牲の死を遂げられた以上、「贖罪」の準備は整い、もはや偉大な目的は成し遂げられるに違いないのです。

神の次の一歩が、やがて踏み出されようとしていることを聖書は告げています。
その一歩によって、福音に価値を見出す人々の「罪」を拭い去って祝福へ導く新しい時代『神の王国』の到来が近づくことになるでしょう。

ですからキリスト以後、いよいよ可能となったこの救いの知らせは「福音」(ふくいん)と呼ばれています。
聖書は、この世にあって最も広く頒布されてきましたが、この「福音」こそが人々に知らされるべきものなのです。






⇒ 「聖書というもの


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コメント
確かに、聖書の底流はエデンに発し、アブラハムからモーセへとイスラエルへと至ります。イエスがこの言葉を語ったときに律法契約の背景があったに違いありません。イスラエルの人々の面前にメシアが現れているにも関わらず、彼らが命を得ようと懸命に聖書を読んで居ながら、眼前のメシアに気付かなかったとは、神の裁きの恐ろしさと言うべきでしょうか。
将来、現れる聖徒に対してもキリスト教徒が同じように振る舞いませんように。
Shema | 2014.06.07 16:51 | 編集
ヨハネ書を研読していて、「聖書の目的」とも関係があるのかなと思う箇所で立ち止まりました。
ヨハネ5:39「あなた方は聖書によって永遠の命を持てるようになると考えて、それを調べています。そして、これこそわたしについて証するものなのです。」
聖書というのは、旧約の部分だと思います。

「創世記の胤に関する預言→アブラハム→イエラエル国民→ダビデ→預言者達→イエスの登場」という流れを考えたときに、「聖書の目的」は人々をイエス・キリストへと導くものでもあるのかなと考えました。こういった理解いかが思われますか?おかしな点ありましたらご指摘いただければ嬉しいです。
KS | 2014.06.03 23:36 | 編集
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