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バプテスマについて

2014.02.11 (Tue)
私に分からないところはまだ多くあり、首を傾げるばかりの聖句も相当量あるのが正直なところではあります。

それでも、背骨はつかんだという実感はいよいよ強くなっているという状態です。

去年、また一昨年と比べても現在の理解が広がっているのは、今回の下巻の書き換えではっきりと致しました。

それで、ずっと尽きない源泉に行き当たると、人は学び続けるほかなくなるのだろうと思います。

進歩が無くなったり、的外れになったなら、そこで自分の老衰以外に理由があるとしたら、今日の蒙昧に陥った教派と同じ何らかの根本的ミスを犯したことになるのでしょう。

この点で、重要なのが「動機」ではないかと感じられます。
つまり、人が真実に値しないとき、それは人が真実に対して迎え入れる気持ちの準備が無いのでしょう。

しかし、自分を捨てて、まず真実を求めようとする人を、神は捨て置くままにはしないのではないかと思えます。

と言いますのも、キリスト・イエスは『求めよ、さらば与えられん』と言われているからです。しかも、そこに聖霊が与えられるとも言われます。

御教会のみなさんが、この動機を持たれ、また主要な教訓とされて聖書にアプローチなさいますなら、進歩する上で恐れるものは無いように思います。

逆に申しますと、この動機を持たないことをこそ恐れるべきなのでしょう。
人は多くの「欲」のフィルターをもって、都合のよいことだけを濾し取ろうとしてらくだを呑み込むかのようです。神の真実に近づくことを求めるなら、これはどうあっても避けたいところではありませんか。



さて、ご質問の件

Q:<十字架の血潮で私たちの罪は赦された、私たちは赦された罪人、と言われ続けてきましたが、今もそういい続けていますが、どうなのでしょうか?
<(ここにも、ノンクリスチャンとの差別を感じてしまいますが)

A:「許された」と過去形にするところは誤解を招くようです。
ローマ8:1などで「許された」とされるのは「聖なる者」であることが文脈から明らかで、それは確かに聖霊の賜物を注がれ「新しい契約」に入った人々だけについて、当時は言い得たものでありました。

誇り高い人には受け容れ難いかも知れませんが
今日の人間はおしなべて許される以前の段階にあり、神の観点からすれば「まったくの罪人」となるでしょう。
そこには、どんな宗教を信奉していようと何の違いもありません。

ある人々は、「それなら自分は何故、キリスト教を信じてきたのか?」と、その効用や得られるところを憤然と求め、異を唱えるかも知れません。それはすなわち「ご利益信仰をしたい」と云っているのです。

今日のキリスト教徒は、聖徒と信徒が何を意味しているのか区別がつきませんので、誰でも彼でもバプテスマを受ければ「罪を許され」また「救われた」と勘違いをしています。 ⇒「聖徒
この人々はおそらく「新しい契約」の意味をも理解しないからでしょう。

しかし、聖書全体を流れる神のご意志は「人類の救い」であって、その信者のご利益ではありません。
これは懐く精神が180度も異なります。公共善の大志と些末な利己主義の違いです。

「新しい契約」はアブラハムに約された、その後裔が人類の祝福の所以となることで、それは律法契約が成し遂げなかった事柄、即ち、選ばれた人を「諸国民の光」となる真のイスラエルに召し出すということです。これは新旧の聖書を一条貫く最も重要にして根幹となるべき概念で、パウロはこれを『奥義』(ミュステーリオン)と呼んでおります。 ⇒「ミュステーリオン

その人々「聖なる者」たちを実に「聖」たらしめるものがキリストの血の犠牲の最初の適用であります。
我々「諸国民」は、彼ら「アブラハムの裔」の働きによって、最終的に罪を除かれることになります。 ⇒「アブラハムの裔

ですから、現状のようにキリスト教徒だけが「救われる」としてしまうと、おっしゃるように「ノンクリスチャンとの差別」が生じてしまい、そこでは「収税人とパリサイの祈り」の例えのような優越感がどうしても避けられませんし、それは神もイエスも意図するところではけっしてありません。

さすがに、これを正面切って「自分たちだけが救われる」と強調する宗派は少ないとは思いますが、それでも、やはり「自分たちには特に救いがある」、あるいは「有利である」としないと「やってられない」信徒がごっそりと抜け落ちる危険があり、それは多くの宗教組織が何としても避けたいところでしょう。そうして数多くの教会が堕落しております。

ですが、誰かが許されたか否かに関わりなく、キリスト教とはまことに素晴らしいものです。
それは個人の利益にはならずとも、全人類を罪から贖い、創造の当初の「神の子」としての輝きを人にもたらしますし、なんと言っても、神が神とされ、創造の業が完遂し、あらゆる事柄を創造者の意図に帰させ安定させるための基礎が据えられます。

これほど素晴らしい宗教がほかにあるものでしょうか。
この神の御旨こそは「極めて値高い真珠」、「すべてを売り払う」価値があるとわたしは思うのですが、人の価値観はそれぞれで、どうしても自分の救いを今欲しいという方々もいらっしゃり、神の裁きの以前である今、これを裁いてしまうことはできません。

ですが、それらの方々が聖書の教えの本質的なところに触れて、それに沿った信仰を抱けるものかは難しいでしょうし、同じ価値観を持てないでしょう。

つまり、神の御旨に関わる「聖徒」や、彼らを生み出す「新しい契約」を理解できるか否かで、キリスト教徒はおめでたい御利益信仰者にも、人類のための自己犠牲となるべくイエスに続く者とも変じることになり、その違いは余りに大きなものとなります。

《厳密に言わせて頂けますなら、「血潮」の中の「魂」(ネフェシュ)が贖罪を為します。(レヴィ17:11)》 ⇒「ネフェシュ





Q:<イエス様を信じれば・・・と洗礼を奨励するのもおかしいでしょうか?

A:バプテスマには
1.まず、自分にアダム由来の「罪」があり、神の前に贖罪を必要とする罪人であることを認め、その<罪を悔いる>、つまりその「罪」から逃れようと強く願っていることが求められるでしょう。それは犯された個々の罪を指す訳ではありません。その「罪」とは、パウロも自身について嘆いたところの、人に巣食う倫理上の欠陥を言うのです。それが世に蔓延し、ほとんどの苦難の淵源となっております。

2.それから、マタイ28:19にあるように、<信仰のうちに>自分の造り主として神を受け入れること

次いで任命されたキリストがイエスであることを認め、神の導き手また贖い主として受け入れること

更に、神から出る聖霊をキリストが導きの経路として、聖書中の過去、また将来に際立った仕方で用いられるときに受け入れる信仰を持つこと ⇒「聖霊という第三のもの

ただ、「あなたは信じられましたか? はい、ではバプテスマを受けましょう」と信徒を乱造していれば、その報いは「幼稚な教会」、あるいは「雰囲気だけの信者」を作るだけで、わらの家を建てるようなものにしかならないことでしょう。

判で押したように「すべての荷を負って労苦する者よ」と呼びかけ、「どなたでも」と広く門戸を開きながら信徒が増えず、あるいは流動的である日本のキリスト教界の実情はこの粗雑な造りに原因しているようにも思えます。

3.キリストへのバプテスマは、アダムの命にあって生き、今後も実際にはその命に在って生きるのではありますが、自分自身のキリスト信仰によって古い生き方を去り、我欲を捨てて<アガペー愛に沿って生きる>決意を固めたことを公に示すものでもあるでしょう。

それは同時に<神の安息に入る>ことでもあり、俗世の欲を離れ、自分の義を立てず、この世に在りながら神の義と将来の王国を求める生活へと移る決意表明ともなるべきのように思います。それこそがキリスト教徒らしい特質をその人に形成するのでしょう。それは単に善人や道徳的模範者を装う事とはまるで異なります。

だからといって、放縦が良いわけでも、自分の思うまま、望むままに言動を慎まなくて良いわけでもありません。それでなくとも人は度々失敗を繰り返すのですから。
一途に、神と人を愛し続けることは容易なことではなく、それを自ら判断し行うのは誰かの定めた規則に従ってしまうよりもずっと難しいことでしょう。

ですが、これを自ら行わなければ、イエスに教えられる弟子としての成長も、「神の子」に求められる「愛」においても一向進むところがありません。無頓着にしていれば、聖霊の顕現の時にさえそれを軽視し兼ねないのではないかという危惧も考えられます。なぜなら、自らの価値観で反応することに怠惰に過ごした為です。

一方「愛の掟」は、行う個人によって見かけ上は異なる結果を生み出すことを予期しなければならず、またそれを隣人愛の内に尊重する余裕も求められます。
そのように教条を離れることによって、人は愛における判断力を向上させてゆくことができ、それこそが人のアガペーを強化し、アダムからの罪あるとはいえ、キリストの教えに沿って、その道を進むことができるのでしょう。

それですから、バプテスマを受けた後も手取り足取り指導し続けるのは、信仰においてその人を成長させることにはならず、却ってユダヤ教のような規則に依拠する低次元の信仰へと、わざわざ信徒を拘束してしまうことでしょう。
やはり、規則に従わせることは、自発心を失わせ、自己の判断力が育たず、愛において進歩できなくなるからです。(ローマ13:8-10)

まして、自分では得心できなくても何かの規則や命令に従えというのであれば、ユダヤ教はともかくキリスト教の原則からまったく逸脱しているというよりほかありません。 ⇒「愛の掟

この点で、エチオピアの宦官がバプテスマを受けるとフィリポがすぐに移されたのは示唆的であるように思えます。神は不必要な事を行われません。宦官は「喜びつつ自分の道を行った」と書かれております。
ですが、キリストへのバプテスマも、それぞれの教団に帰依させるかのようになって、神の偉大な寛容さから遠く離れて、偏狭な正義感の徒を作っている宗派もあり、それらは他山の石とすべき教訓でしょう。



その一方で、キリストの教えに倣おうとする人は、常に聖書に相当に親しむ必要があり、その程度如何でキリスト教徒としての成長がどのくらいになるかが決まってしまうでしょう。しかし、これは他の信徒と比較してという意味ではありませんし、その人の倫理性がどの程度影響を受けるのかは分かりません。知識が救いとなるのではなく、より重要なのは共感でありましょう。

聖書に親しむことにより、神の意志を自らの思いに影響させ、そこに深い価値を見出せるなら意義があります。
そのために個人で聖書の熟読(けっして通読ではなく*)と、価値観を同じくする仲間と進歩を促し合う集まりの必要が生じます。
その集まりとは儀式や祈りを主体とする「礼拝」ではなく、今日では必ずしも場所を共にする必要もないかも知れません。
集まりでは、パウロも強調していたように学び合うところにその意義があります。*(通読を強調する教師は、信徒に「聖書を理解してはならない」と云うに変わるところがありません)

ですから、キリスト教徒の集まりには本来は「礼拝」と呼ばれるべき理由はありません。狭義の「崇拝」とは、聖霊なしでは存在し得ないでしょう。
聖書は人が一生を費やしても、けっして学び切れるものではありませんから、そこにお目出度い典礼儀式の必要はなく、むしろ初期キリスト教徒のように、『聴いて学ぶ』ものでなくてはなりません。(ローマ10:17)

またその学習の目的は、神のみ旨を再認識し、心に刻み込むことであり、そのご意志に協働する自分の道を探ることが集まりを必要とするのでしょう。つまり、信仰するということは、何かを信じるというだけのことでも、教理を学び得心することでもありません。信仰とは、それ以上ない究極的な倫理上の決定であり、その人が何かを退け、何かを擁護することを意味します。

そして、その擁護される事とは、「御子」と「聖霊」で表される神の御意志、あるいは神の行動目的である「経綸」と呼ばれるべきものであり、「信仰」の働きは、それを心から擁護し、推進させるべく自ら出来るところに応じて協働しようと努めるところにあるでしょう。

それは神がなさろうとされる事を理解し、その精神に同調し、自らにも培い、神が将来に行う事柄に自分を合わせ、終末に至っては、聖霊で語る『聖なる者ら』が現れるときに、自らを役立てようと努めることになるでしょう。そのときに行うべきことは主なるイエスも語っておられます。(ヨハネ17:20/マタイ25:40・10:42)




ですからバプテスマは、教理教育の卒業や入信儀礼以上のものであるべきのように思えます。
もちろん学んで信じたことの積み重ねがあってのことですが、バプテスマを一言で云えば<信仰を持った者が、その後を神の御旨に沿って生きる決意表明>ということなのでしょう。

それでも引き続き「罪」は内面で働くので、倫理的失敗や、思わぬ結果を招くこともあるかも知れませんが、それにも耐えられる信仰が育っていなければならず、その後に度々決意を翻すようなところが見えそうなら、バプテスマの判断は早計なのでしょう。

その人は、たとえ意図した通りにならなくても、自分の行動がアガペーに基づくものであったことを心底確信できるでしょうか。もしそうなら、それは他人のあれこれ言う領域のものではありません。しかし、本人にも疑念があり、そうしたことが傍目にも多いなら、その人は十分な倫理的決定に至ってはいないように思えます。

しかし、バプテスマを恰も完全な「裁き」のように見做してしまうと、人間の不確かさという現実を無視することになり、それは早晩無理が祟ってくるに違いなく、この辺りにはバランス感覚が求められます。 ⇒「神は人の何を裁くか
殊に、本人バプテスマを強く願っているなら、それを敢えて留める資格は何者にも無いように思えます。

と言いますのも、バプテスマそのものが、罪や汚れを洗い流すわけではなく、「裁き」が依然人々の前から去ることはないからです。それは『良心を願い求めることである』とある通りです。真実の正しさは神にのみあるからです。(ペテロ第一3:21)


ですから、バプテスマを受ける人はそれを神秘主義的に捉えて、自分が神との格別な関係に入ったと思い込むよりは、よほど自分の救いをともかくとして、一途に神の御旨に役立て用いることを願うことでしょう。
もちろん、「聖霊の賜物」の地上に存在しない今日、誰も「新しい契約」に参与して「罪」を許されることを今このときに期待するのは的外れです。

コルネリウスに聖霊が降るのにバプテスマの先行を必要とはせず、イエスの傍らの罪人はバプテスマを受けることなく、パラダイスへの復活という救いに与っております。

ましてやバプテスマを受けたからと「イエスさまが自分の中に住んでくださる」というのは、「聖徒」にのみ言い得ることであって、今は、思い込みの強い人の妄想による心理作用だけの厚顔な「ご利益信仰」でしかありません。

また、バプテスマは何かの宗教組織や教祖への恭順や帰依を表すのでもなく、もちろん「救い」を得る手形のようなものでもけっしてありません。

ただただ、信仰の対象*である神と子と聖霊を受け入れるべく『整えられた民』の一人となるというスタート地点に立ったことの表明でしょう。*(崇拝の対象は神YHWH以外にありません)




⇒ 「バプテスマの意義は何か
⇒ 「聖霊と火とのバプテスマの異なり







2013.2.23加
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