FC2ブログ

エイレナイオス 使徒伝承の継承者

2013.12.19 (Thu)

 第二世紀、小アジアの初期ギリシア系に属するキリスト教徒の集まりは、非常に活発な状況にありました。
 その原因には、十二使徒で最後に残ったヨハネにより新約聖書の終りを飾る五つの書が知るされ、当地のエクレシアイがその薫陶に浴していたことが考えられます。そして、彼らのキリスト教は注目に値する特徴を持っていました。

 そのグループの中でも殊に著名な人物がエイレナイオス(ca.130-202)と言えます。

 彼は、大震災(117/118)から復興したスミュルナ市で生まれ、少年の頃からキリスト教の教育を受けています。
彼は長じて、大地震後の小アジアからの移民の世話のため、南フランスのルグドゥヌム市※(現リヨン市)に移住したのでしょう。その後、素質あるディアコノスとして、終末が近いと煽るモンタノス派をどう見做すべきかを討議するべくローマに呼ばれると、彼の存在はキリスト教界の注目を集めるところとなります。
(※アウグストゥス以来の退役兵の入植地、ガリア人のローマ化を推進する拠点、ティベリウス期にドルスス(クラウディウスの父)はこの地をガリア三州の中心都市とする)

 彼がローマに在る間にルグドゥヌムを含むゴールでは苛烈な迫害が起こり、それが如何に酷いものであったかはエウセビオスのHEに採録されている通りに信仰を試みられた多くの老若男女が拷問と処刑に遭っていました。

 その後、当地に戻り迫害で亡くなった前任者を継ぎ、エピスコポスの職を担った彼は、今日その主著と見られる「異端反駁」を著し、グノーシスを初めとする異端諸派を理路整然と論駁するばかりか、全五巻の最終巻において千年王国を信奉していることをはっきりと示しました。ヒッポのアウグスティヌスが意図的に抄本から削除させたというのはこの部分であり、その不正は16世紀に発覚することになります。このアフリカのラテン教父は晩年「千年期説」に疑念を懐くようになり、その教えが後のキリスト教界の趨勢となってしまいました。


 エイレナイオスが世を去る前のAD197年に、ルグドゥヌムはローマの内戦によりセプティミウス・セウェルス帝によって僅かな部分を残してほとんどを廃墟とされてしまいます。エイレナイオスはその後五年間生存しますが、苦しい晩年を過ごしたことでしょう。更に続いた迫害によって彼は殉教したとも伝承されています。
(ルグドゥヌムの再興は450年代のブルグンド族の定住まで待たねばならず、それまでは寒村であったようです)

 それでも、エイレナイオスの遺骸は宗教改革期までカトリック寺院の聖人の墓に保存されていました。しかし、16世紀に狂信的改革者の手によってその墓が暴かれ遺骨は捨てられてしまいます。その人々はエイレナイオスが如何に当時のカトリックとは異なっていたのかを理解せず、単にカトリックの聖人であるという理由だけでそうしたのでしょう。宗教的正義感とは却って愚かしい行動を人に促すものです。骨を処分したからといって何が変わったのでしょう。


 さて、エイレナイオスは小アジアのスミュルナで少年時代を過ごしていましたので、殉教者ポリュカルポス(ca.70-155)も識っており、このずっと年長の人物が殉教する前に、少年のエイレナイオスはその教える姿を眺め、幾らかの話を覚えたとのことです。この殉教で知られた人物と使徒ヨハネの生涯は30年ほど重なっており、若きポリュカルポスが使徒ヨハネと小アジアで会い、その教えや姿に接していた可能性は小さくありません。

 ポリュカルポスの十歳ほど年長の師パピアス(ca.60-130)は使徒ヨハネの弟子であったと伝えられており、使徒らと面識のあったこの人物は小アジアのヒエラポリス市のエピスコポスに任じられておりました。彼が青年であったときに、使徒フィリポはヒエラポリスで晩年を送っており、パピアスはこの使徒をも知っていた可能性が濃厚です。
ですから、最後の使徒ヨハネからパピアスやポリュカルポスを経て、使徒伝承はエイレナイオスに伝えられており、日常の使徒ヨハネの姿も彼を通して今日に伝えられています。

 使徒ヨハネは、おそらく西暦70年のユダヤとエルサレムの滅びに際しヨルダン川の東の山地、デカポリスひとつペッラ市に逃れ、その後も政情の安定せず相変わらずヨハナン・ベンザッカイが主導するパリサイ派が幅を利かせるパレスチナを後にしたのでしょう。
 十二使徒のヨハネが、イエスの母マリアを伴い小アジアのエフェソス市に落ち着いたことは複数の資料の一致するところであり、当地はユダヤ・キリスト教徒を敬意の内に受入れたことが当時の資料から想像されます。そのヨハネはドミティアヌス帝(ティトゥスの弟)の迫害のころまでにはこのエフェソスでメシアの母の最期を看取っていたものと思われます。

 使徒ヨハネは十二使徒の中で最年少であり、比較的近くのヒエラポリス市に家族を伴い移住していた使徒フィリポ(80年ころ当地で殉教)より長生きをしていました。ヨハネは、預言の霊の賜物を持っていたという、使徒フィリポの娘たちともこの地方で面識があったことでしょう。

 またヨハネは、ドミティアヌス帝よりも長生きをしたため、流刑先のパトモス島であの驚異的な「黙示録」の霊感を授かった後にエフェソスに戻り、福音書と三通の書簡をも残したと云われます。特に福音書や第一の書簡は聖霊の霊感に溢れており、新約の最終期を飾るに相応しいもので、新約聖書中でも殊に優れた著作と呼び声高く、ルターらによっても非常に高く評価されてきました。

 その一方で、「ヨハネ黙示録」は謎の書であるゆえに多くの反対を受けたにも関わらず、今日聖書の巻末を封印する書として不動の座を占めております。ですが、この書には聖書全巻に亘る緻密な関連が込められていることに気付く人々もまた存在してまいりました。小アジアはこの「黙示録」の担い手として、反対するシリアなどの指導者から擁護してゆきましたので、今日、この書を読めるのも小アジアのキリスト教徒に負うところがあるといえます。

 黙示録で言及された七つのエクレシアイが使徒ヨハネの指導した小アジア地方のものであったことは、この時期のキリストの教えの中心がこの地であったことを例証しております。この書の中では、キリストがそれら七つのエクレシアイを神殿の燭台に例え、その間を歩む姿までが描かれていましたから、それは他の地方、パウロが働いたマケドニアとテッサリアやアカイア、またアポロやマルコとも関わりがあるという大都会アレクサンドレイアやペテロの殉教地にして帝国の威信あるローマからするとトルコの田舎のエクレシアイに面目をつぶされるようにも感じられたかも知れません。

 しかし、最後の使徒ヨハネに臨んだ聖霊は、「奥義の家令」であったパウロと双璧を成すほどの高い境地に至らせたことをその残された諸書が証ししています。その薫陶を受けた小アジアのパピアスやポリュカルポスなどの教父たちの貴重な著書の残りは今日数少ないのですが、エイレナイオスの著書「異端反駁」はそれらを補うべき格好の資料となっています。
 したがって、エイレナイオスの著作の精神は最後の使徒に近く、識者らが認めるように、彼の著述には使徒の声が残響していたと言って過言ではありません。

 第一世紀から第二世紀にかけて小アジアには度々大地震が襲い、スミュルナも壊滅的被害を受けたので多くの移住者を出すことになっていたことでしょう。エイレナイオスの活躍時期はこうした移住の時代であったと思われます。それは聖書が完成し聖霊の指導が整えられて間もない頃のことでしたから、宗教面では清く活気に溢れたキリスト教徒のヨーロッパへの移住となったと云えましょう。

 ルグドゥヌム(現リヨン)はフランス内陸と地中海を結ぶ要衝であり、東方との交易が盛んであったとのことですから、地震もすくなく気候が小アジアに似てブドウやオリーヴ栽培に適したこの南フランスは小アジアの人々の好む移住先であったとことでしょう。

 その後、小アジアは(150年以降)隣のフリュギアに登場したモンタヌス主義の侵入を受けますが、この主義の前の時代とその後とは明確な宗教的区別がされて良いように思います。つまり、僅かに残った聖霊の賜物についての理解が変わってしまいます。
当時は聖霊に賜物の退潮期に入っていましたので、そこに新風を吹き込むモンタヌスら新たなタイプの預言者たちが現れたことで普遍教会はこれをどう捉えるべきかに悩みます。

しかし、モンタノス派に注がれた霊は聖霊ではなく、次元の低い偽ものでしたから、「『終わりが近づいた』という者について行ってはならない」というイエスの言葉を無視して、その「終わりは近い」という緊急感を煽る「預言」はついに実現せず、その失意と反動もあって初代に明確に示された「聖霊の顕現」という崇拝の主要部分もモンタノス以後は軽視され、キリスト教は反論を許さぬ人間の教理と大仰な儀式をもっぱらとする崇拝方式に向かうことになります。

 かつて使徒フィリポが導いていたヒエラポリスでは、確固たる教父アポリナリオスがモンタニズムの影響に敢然と立ち上がり、その指導の下に、ヒエラポリスのキリスト教徒は一丸となってこのモンタノス派に頑強に抵抗しましたが、近くのフィラデルフィアはこの異端の前線基地のようになってしまい、州都エフェソスのエクレシアには混乱がもたらされ、スミュルナとテュアテイラではエクレシアごとモンタノス派に改宗してしまったとのことです。そこには恰も小アジアに残った使徒伝承をかき消そうとするかのような意図さえ感じられもします。

霊の顕現を誇るモンタニズムはフリュギアから始まって、黒海沿岸から北アフリカまで広まりはじめ、やがてローマにも流れ込みます。
そこで、この派の真偽を確認するために、ローマのエクレシアはエイレナイオスをルグドゥヌムから招聘しました。小アジアからも人々が呼ばれ、そこでモンタニズムへの審議が行われます。キリスト教界がモンタニズムを直ちに断罪できなかった背景には、当時には奇跡の賜物を示す聖霊の注ぎがほとんど見られなくなっていたことが関わっていたことを、エウセビオスがその「教会史」の中で往時の何人かの言葉を引用して知らせてもいます。

この審査がローマで行われていた間、ルグドゥヌムの方面では、177年のことであったと伝えられるマルクス=アウレリウス帝期の激しい迫害が生じて多くの犠牲を出し、エイレナイオスの上長のエピスコポス、九十歳を越えるポティオスも殉教を遂げました。このときの有様を小アジアに伝える書簡がエウセビオスの「教会史」にかなり長く引用されており、その過酷な状況で信仰を保った人々の名前と偉業が伝えられています。それはヨハネ黙示録がキリストと共に『世を征服する』よう求めた言葉を彷彿とさせるものといえましょう。
迫害の後、エイレナイオスがローマからルグドゥヌムに戻ると、彼はこのエピスコポスの座に推され、ゴール地方の信徒を束ねる役割に就くことになります。

 また、この時期には多くの使徒らの名を騙る偽典の数々が雨後の竹の子のようにあちこちから現れてもいますが、いよいよ本格的な背教の時代の到来がそこに見えます。即ち、聖霊降下の去った『夜』の時代のはじまりです。
 それは、使徒らを直接に知る人々と共に聖霊の賜物が徐々に去って、「聖徒」が極めて希少な存在となりつつある時代でもありました。

 使徒ヨハネの当時から、ユダヤとエルサレムがローマに蹂躙されることにすっかり落胆したユダヤ人の中からグノーシスの教えが現れておりました。その教えはユダヤ教とキリスト教を不自然に混ぜ合わせ、神を愚弄する自虐的な特徴があります。
 ヨハネ自身も、その創唱者のひとりであるユダヤ人ケリントスに面識があって、その一派がエクレシアに近付くのを非常に警戒していたことが伝えられています。彼の第二の書簡にも『挨拶の言葉もかけないように』と注意を促しているのが、キリストの仮現説を説くグノーシスの信者たちに対するもので、幾らかキリスト教にも似ているところをヨハネが危険視していた様子が表れています。

 しかし、グノーシス主義を含めてこうした新たな「霊感」に対し、エイレナイオスらによって聖なる書への追加は禁じられ、使徒ヨハネまでの著述を以って、それもユダヤ人以外の著作が(ルカをヘレニストとして)一切認められなくなっています。エイレナイオスはその点で使徒伝承の保持者であり、高まる背教への最後の防波堤であったといえましょう。 まさしくエイレナイオスの「異端反駁」はグノーシス派への強力な糾弾の書となっています。

 エイレナイオス及び彼の世代は、云わば聖なる書を綴じる役割を担い、ユダヤ人のタナハを「旧約」(ラテン語ではなく)と呼び、使徒たちの世代の書物を「新約」[Καινή Διαθήκη]と初めて呼ぶようにしたとのことです。小アジア・サルディス市のメリトンなどは、旧約に通じ、新約での成就や対型をそこに見出す「予型論」を展開しておりました。

 エイレナイオスの主要な予型論には、アダムによって失われた神の是認のキリストによる回復が挙げられますが、これはパウロの論議でもあり(ローマ5:19)、また、使徒ヨハネがキリストを『世の罪を取り去る神の子羊』として、出エジプトの前の晩に犠牲として捧げられた子羊の対型として位置づける使徒伝承に立脚するものです。

 このようなキリストによる人間の回復は、神の創造物の再統合であり(エフェソス1:10)、創造の業の完遂として捉えることにより、新旧の聖書全巻に流れる神の経綸を、聖書理解の礎としてエイレナイオスは据えます。

 他方でシリアのアンティオケイアの著名な教父イグナティオスですら、自分が旧約に通じていないことを認めており、そこにも小アジアの人々による旧約への丁重な扱いにユダヤ・キリスト教徒への敬意を垣間見るかのようです。
 シリアはパレスティナに近いこともあってか、ユダヤ教との軋轢が相当に強かったのでしょう。日曜を「主の日」と呼んでユダヤの安息日と差別化し、それをイグナティオスは書簡の中で小アジアにも勧めてもいます。その日に聖餐を行うようにとも暗に求めてもいます。

 ですが、小アジアの多くの人々は使徒ヨハネの伝承に敬意を払い、ユダヤ教への憎しみからの変更を潔しとはしなかったのです。つまり、小アジアのキリスト教は使徒ヨハネの下で新旧双方の聖書をバランスよく学び理解していたと云えます。加えて、小アジアの教父たちのもうひとつの特徴はその『主の晩餐』(キュリアコン・デイプノン)にあります。

 嫌ユダヤから派生した日曜重視の習慣はその後コンスタンティヌス帝に至って、いよいよ俗化したキリスト教徒が週の第一日を主の復活を祝う日とし、聖餐もその日に行うことにしましたが、これに対して小アジアの集団はユダヤ暦ニサン(アヴィヴ)の月の月齢14日の夜を年一回の晩餐として守ります。

 この点、確かにイエスは自身の「死を記念せよ」、と命じられたことは聖書に書かれていても、「復活を祝え」とは命じられておりません。
しかし、一般人にとって記念よりは祝いの方が目出度く「祭る」に易いからか、「主の晩餐」(パスカ)が復活を祝う「復活祭」(イースター)に置き換えられるのは時間の問題であったようです。

 スミュルナでポリュカルポスが火刑に処されるときにも、せっせとその足元に薪を運んだのはユダヤ人であったと殉教録に記されていますが、自分の宗教の正義感から尽くキリスト教徒に反対し、迫害時に密告を繰り返してきた陰険なユダヤ教徒をキリスト教徒は猛烈に嫌い、彼らと安息日も正餐の日付を同じくしたくない気持ちを抱く多くの信徒によって、日曜日を「主日」(キュリアケー・ヘメーラ)呼んでシャバットと差別化しようとする動きが小アジア以外の各地で加速され、それは週日だけでなく毎年の「主の晩餐」にも影響してきました。
つまり、ユダヤ人が過ぎ越しの犠牲を屠っている日、つまりユダヤ教がキリストを殺め、勝利する準備をしている間にキリスト教徒が聖餐をとることさえ忌み嫌うほどになってしまいました。そこでは、キリスト教をユダヤ教からはっきりと区別したいという欲求がいよいよ高まったと言えます。

 さらに、年一回であった聖餐を毎週の日曜日に行いまでして、ユダヤ人の安息日の食事の祝いとの日付の一致を避けてゆきました。しかし、毎週の日曜に聖餐を行うべき根拠とされる聖句の裏付けは薄弱であり、使徒らからの明確な指針とはなっておりません。
 その影響は過越しの祭りの日付の忌避にまでも及んでおり、今日でも復活祭だけが陰暦による日付とされ毎年太陽暦の日付を移動するところにも見られます。わざわざユダヤ陰暦と合致させないようにし、ユダヤ教徒とキリスト教徒が同じ日を祝うことのないようにしていたためです。これはコンスタンティヌス大帝により法制化され、その日付を決定する権威をアレクサンドレイアのエピスコポスに与えています。
 そこにはキリスト教徒の殉教の死に深く関わった当時のユダヤ人の悪辣さと、キリスト教徒の怨恨の根深さが現代まで克明に刻まれていると言えましょう。

 しかし、一部のキリスト教徒には(おそらくエッセネ派のように)第七の月(政暦)の十四日に主の晩餐を行なう人々も居たことも史実とされています。特に「ニサン十四日遵守」はキリスト教界の行過ぎた嫌ユダヤの風潮を肯んじなかったアジア州だけでなく、パレスチナ、シリア、ローマにも同様の習慣を守る小グループが存在したと伝えられています。
 この両派、つまり主の「復活」を祝う人々と「死」を記念する人々が西暦162年にこの件でラオディケイアで討論していますが、これは平行線を辿って終わっています。
 この「十四日遵守」に関するエイレナイオスの立場は、ローマのエピスポコス(「教皇」)ウィクトルへの進言に表れています。エイレナイオスはその名「平和(エイレ-ネー)を作る人」の意味に相応しく、この件でキリスト教徒が分裂し争うことを危惧しておりました。彼の願いは、自ら受けた使徒伝来の教えを守りつつもキリスト教徒の融和を何とか保とうとすることにあったのです。

 キリスト教界では、その後においても日付に関わるふたつの習慣が存在したのですが、二百年が経過するうちに、キリスト教徒自称者で太陽神崇拝者でもあったコンスタンティヌス大帝が「復活祭」を帝国の法律に規定して後に、小アジアの伝統は次第に消えてゆくことになります。ニカイア会議以降、帝国の法としてローマ曜日の太陽日(ディエス・ソリス)と呼ばれていた日曜日がユダヤのシャバットの翌日とされ、更に後の時代に新設された「ミサ」の中で聖餐がサクラメントゥム(秘蹟)の地位に登り、こうして「聖日典礼」つまり「日曜礼拝」が完成します。これらは聖霊を失った結果としての、キリスト教のエントロピーの増大というべきものでしょう。

 ユダヤ人を「主殺しの民」となじるキリスト教側の嫌ユダヤの感情は、キリスト教を本来のものとはまるで異なるものに向かわせます。そこで余りにユダヤ性を払拭しようとして別の極端に傾き始めたのです。
 つまり、イエスも使徒もユダヤ人であったことを忘れさせるほどのギリシア=ローマ化、新旧の聖書を貫通する教えを無視し、ヘレニズムの異教や哲学を材料にして作り上げた「新しいキリスト教」の登場です。そうしてキリスト教側はユダヤとは神までも同じくしないところにまで立ち至ってしまいます。即ち第四世紀以降の「三位一体論」の登場と抗争を歴史は告げるのです。
 こうしてアブラハム、モーセ、そしてキリストという力強い神の経綸の悠久の歩みは忘れられ、「新しい契約」の意味も曖昧となってしまい、「聖霊の賜物」を中心としたヘブライ的原始キリスト教は過去のものとされつつありました。

 それは、キリスト・イエスの王権拝受の旅の「出立」に伴って、人々を導いた「聖霊の賜物」も引き上げられ、聖徒も絶え果てた「誰も働くことのできない夜」の時代が始まったということなのでしょう。キリストの教えの特徴は失われ始め、政治的な国教へと変化し、争いと戦いを容認するばかりか、迫害を受ける宗教から迫害を行う宗教へと変化を見せて行きます。
簡潔な教えの集会は、荘重なバジリカでの儀式と秘蹟の授受というユダヤ教の神殿祭祀の要素に逆戻りを始めてゆきました。大衆はバプテスマでの「救い」を請け負う聖職者に膝を屈めても、本来のキリストの教えからは遠く離れてゆきました。

 こうしてユダヤ教を嫌ったはずの「新しいキリスト教」では、「割礼」のように信仰によらず生まれによって宗教の決まる「幼児洗礼」が施されるようになり、ユダヤ教が国教であったように、キリスト教も国家のものとなり軍隊を祝福するようになったので、兵役拒否者は信仰を否認していることにされてしまいました。それはかつて殉教に散っていった初期の人々の「キリスト教的清さ」の喪失でありましょう。そうして古代イスラエル民族の有様に退行しはじめ、更に時代が降ると、パレスティナから異教徒であるイスラームを追い出すための「巡礼」の名による流血と暴力「十字軍」も興されるような忌々しい基礎が据えられました。キリストや使徒たちの言葉から何と遠く隔たってしまったことでしょうか。

 こうした変質を遂げつつあったキリスト教界の抗し難い潮流の中にあっても、使徒伝承とキリスト教徒の融和を守ろうとしたエイレナイオスの功績は否認されることなく残されています。彼は以後カトリックで「聖人」とされただけでなく、東方教会においても「リオンの聖証者イレネイ」また「二世紀の最も偉大な神学者」と呼ばれたところに表れています。
しかし、広く聖人と奉られても、エイレナイオスの精神をそのままに評価した人がどれほどいたでしょうか。





エイレナイオスの千年期説

エイレナイオスの聖書解釈雑録

小アジア・メモ

小アジア十四日派人士

ヨハネ黙示録の意味するところ


.

トラックバックURL
http://irenaeus.blog.fc2.com/tb.php/94-50df2f2e
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top