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男女関係の要諦

2013.08.17 (Sat)

神は男女によって、人が『地に満ちる』ことを意図されましたが、これはアダムの堕罪の以前からのことでありました。
創造の神は、そのようにして人の『魂』が存在するようになり、『地に満ちる』ことを堕罪によっても変更しなかったのでしょう。
そこで『罪』はすべての人に伝播していったのですが・・(ローマ5:12)

人が、男女を通して『魂』を生み出すことが神の創造の一端であるとすれば、次々に世代交代を繰り返している『この世』の有り様というものは、創造者の意志を行っているのであり、性本能がすべての人に与えられた理由も本来はそこにあるのでしょう。
(それでも、性差は生殖だけが目的ではないようにも見受けられますが・・創世2:18)

しかし、この今日の有り様には、神の意図を充分に反映しない部分があることは避けられないでしょう。
『罪』ある一般社会で、男女関係は道徳問題に直結しており、何かと煩いの淵源と成り兼ねません。
これに関して、以下に所見を述べます。


おっしゃるように、新約聖書は聖徒たちに淫行や姦淫を避けるよう命じる他は、性道徳を絶対的道義のようには書いてはおりません。そこは日常的に外見に敏感で厳格なイスラームとは随分違います。

ですが、律法を見ると、婚前の交渉についての幾つかの戒律がありました。

未婚の処女が犯された場合、相手の男には結婚の義務が生じます。(申命記22:23-)
婚約は結婚とほぼ同等に見做され、婚約者以外との関係を持つ者は死罪となりました。(出埃22:16-17)
(但し、結婚後にこれが発覚した場合には死罪には至りません)
強姦の為された場合、女性が叫んだ場合その女性は罪無しとされ相手の男性は処刑されました。

もちろんクリスチャンは(この名称には語弊がありますが)律法の下に居ないのですが
これらの規定を見るだけでも、神の意向を汲むことは可能です。婚約を含め、結婚関係は重いものであり、それ以外の関係は、本来は神の受容されるところではないように思えますが、現在に至るまで、婚姻と家族の制度が、生き辛いこの世を互いの福祉を顧みながら生存や養育を担保するものであることを忘れるべきではないでしょう。堕罪したアダムとエヴァの関係には、変化が生じていることを創世記は示しております。(創世3:16)
また、律法の要求が当時のままに人類への神の意向を伝えているわけではありません。

それから、婚約を含め未婚状態の場合では、淫行があれば即死刑というわけではありませんでしたが、その淫行は結婚の義務付を以て、結婚関係に入ったかのように見做されたかのようにされています。

したがって、性関係は限定されるべきものとされていたことになり、その違犯への処罰の多くが死刑であったことからすると、これは現在も軽視されるべきものではありません。

さて、男女の愛(エロース)は最も狭い人間関係を作り、その狭い二者の場でのみ作用する愛であり、本来的に他者を受け入れようとはしないものです。
この愛は、アガーペーとは異なり相互報酬的なものなのでしょう。人格や個性、あるいは価値観までも異なるふたつの魂の永い結びつきを保つのは、容易なことではありません。人格は二十歳までに形成されると言われます。その後の根本的変化はまず望めないので、神も荒野で二十歳以上のイスラエルを処罰されたように思えます。
つまり、二十歳を越えた男女が半永久的な相手を選ぶということには、ある種の危険が潜んでいます。
それゆえ、時に誓約を伴うという愛ともなりますが、そこに親子関係とは異なる脆弱さも見えています。

また、男女関係は性犯罪と裏表でもあり、危険の伴うものでもあります。
そこには、生まれてくる第三の人格への配慮も為されねばなりません。 創造の神が、性関係に重い戒めを与えていたのは、多分にこのためであったようにも思えます。それは生み出される魂を歓迎するための必要性が極めて高くあるべきことが創造者の意図であろうからです。この第一に親密にされるべき関係が崩れるときに、最も損害を被るのは子供ではないでしょうか。
やはり神は家族制度から、この世を生きるための相互扶助を顧みたと言うべきでしょう。なぜなら、実際に家族はそのような機能を当然のように見せてきたからです。それが何らかの原因で崩れるときに悲劇が起るのは平素見聞きする通りでしょう。

そこで、男女関係は単に「好いたの惚れたの」ということでは済まされない要素が潜んでいます。益の一面だけを見て、男女関係を始めてしまうのは簡単ですが、実際に継続させてゆくには、そう易しいことではないでしょう。安易に考えていては、その関係は初めから破綻に向かいます。

ですが本来、この愛(エロース)は他の愛にはできない働きを持つところがあり、それは単に子を生むというところを超えて、互いに個人的で最も親密な支えを与え合うということでしょう。(しかし、実際には永い夫婦関係がエロースだけで成り立つようには見えませんが、重要な媒介であることは動かし難く、軽視されては他人になってしまい兼ねません)

アダムが「ひとりで居るのはよくない」と言われた創造者が、エヴァを設けて後、創造界を眺めて「甚だ佳かりき」と言われたのであれば、男女関係の本来的で最善の創造の意図を表明なさる謂われが神にあります。
それがこの世を生きる現状で、律法に概要が現れたとするのは理に適った考えのように思います。

しかし、当初のアダムとエヴァの関係が今日と同様の「結婚」であったかと言えば、堕罪後に変化が訪れている記述がありますので、おそらくは異なるものであったように思われます。特にエヴァで代表される女性の側に変化があり、それが以後の世代に於ける「結婚」の本質を形作ることになり、それが子を成すだけでなく老化して死を迎える人間の必要に応じた男女関係の変化であったのでしょう。

新約聖書でパウロは、聖徒たちに淫行や姦淫を避けるよう何度も手紙で説得しています。ですが、ペテロはソドムのようなことのために裁きがあることも警告していますから、これは聖徒ばかりへの戒めとも言い切れません。聖徒以外の人々が原則的に聖なる行状を求められないとしても、性関係の乱れはやはり「過ち」となり、他の悪行同様に御旨に適うものとは云えないでしょう。

殊に、律法では、夫の妻への疑念の晴らし方について律法の儀式が長々と加えられており、嫉妬心というものの扱い難さを物語っています。(民数5:14-)
男女間で最大の害をもたらすのは、この愛の独占性からくる正当的欲求なのでしょう。この意味で男女の愛は相互報酬的、また契約的なものと言えます。無条件な家族愛には及びません。

しかし、律法のように厳しく断罪するのは『病人にこそ医師が要る』という言葉に沿えず、キリスト教えらしからぬものなってしまいます。律法が離婚を容認していたこともまた事実なのです。

ですが、男女関係で潔くあることは、様々な身の守りであり、要らぬ煩いから離れていることの価値は極めて大きなものです。
また、性関係が本来的に新しい人間の誕生に関わるものである以上、その人格への尊重と配慮がなされるべきことは論を待ちません。 人間の生涯とは、生まれ、育てられ、配偶し、自分も子を成し、養育し、その間の命をつなぐという業に要約でき、それらが終われば、もう長くは命もありません。それが現状での『罪』ある人の務めだからでしょう。人間の魂を存在させるという創造の業を荷って、人は代々営々と存在してまいりました。(しかし、それが創造本来の人間の姿であるか否かはわかりませんが)


また、その男女愛を生かすも殺すも、本人たちの資質や認識次第であり、少なくとも律法の規定の知識は持っているべきのように思います。 但し、そこでは二人の当事者の不仲を、片方がまったく正しく、片方がまったく間違っていると断定することはできません。どちらかの肩を持つなら、その後も後を引く「余計なお世話」をすることになり兼ねないでしょう。

加えて、パウロもコリント第一で教えるように、この点で余りに厳格になるべきでもなく、キリスト教がユダヤ教のように過ちを二度と許さないというものではないことも念頭におくべきでしょう。またイスラームのように性関係を極端に危険視し、女性の自由を奪うまですることも何ら解決になりません。 それは人間の実際の不完全な倫理性に対する無理の押しつけになるでしょう。
人間としての自然な欲望が存在することや、男女共に魅かれように作られていることは変えようがないからです。 むしろ、これは『地に満ちよ』という神の意向ともいえます。

この点では、不義の関係を法律で罰する国家もあれば、売春を合法化する国もあり、人間の現実の倫理性に見合った「規則」というものを見出すことは非常に困難であることを示しています。
どの性関係を悪とするか善とするかには、その社会によって様々な観点があります。
聖書の中でイスラエルの族長ユダは買春を行っておりますが、その行為の是非はそこで語られていませんが、その結果は悪いものとはなりませんでした。しかし、これはユダヤ教の範疇に属します。

そこでキリスト教の対処法は、抑制するだけでもなく、許容するばかりでもないでしょう。
律法を後にしたキリスト教が、型にはまった規則を設けたりすれば、それはこの世と変わらぬ良識判断と、誰が何をしたかしないかということを問うばかりの相互監視と断罪の牢獄を造ってしまいます。
規則については、基本的に施行される法に任せるのがよく、キリスト教で規則を設けてしまうと、二重の法制度を作り兼ねず、それはキリスト教徒を警察官のようにしてしまいます。

そのように個人の行動を何とか圧力で規制できたとしても、それは俗世に勝る内面の道徳性に到達できたわけもなく、その信仰は『見るな、触れるな、食すな』という苦行の隷属、外からの規制を要する低いレベルのもので、肉欲に対して本当の解決を提出するものではありません。(コロッサイ2:21)
それは「新しい契約」に預かり聖霊を注がれた聖徒でもない人々に「聖さ」を強要することになり、そこまで要求されていない一般的な人々が悔い改めて頼ることを難しくもするでしょう。

キリストの離婚が姦淫であるという発言も、山上の垂訓のように現状の人間には実行不能の、究極の聖さを言い表しているとみるべきでしょう。その理由は、使徒らも驚嘆してモーセの離婚の条項を問い掛けているからです。イエスは、それを神の妥協であるとしているところからすれば、ますます、聖徒らへの清さへの要求として、あるいは、神の聖に達する律法が真に示す高い基準を語っていたとみるべき理由となります。

規則化はまた、ユダヤ教やイスラームのような権力を持つ「コミュニティの宗教」の特徴であって、個人の自立した信仰を持つキリスト教のものでもありません。

ここでも、キリスト教の最重要な指針としてアガーペーが生きます。 (ローマ13:8)
もちろんアガーペーとエロースは異質なものですが、アガーペーに従うなら、相手や他の人々の益を願い、また神の意図に鑑みて歩むということになるでしょう。
そこで具体的に何が正しいか悪いかを唱えると様々に問題が生じ、拠って立つ根拠を法律や一般良識に求めなければならなくなり、キリスト教の埒外に足を踏み出してしまいます。法曹関係者や民生委員でもないなら、これは止めておく方がよいでしょう。


何でも言えることですが

アガーペーを育てる ということがキリスト教を案内する者のできる事であり、務めなのでしょうね。

それは、「新しい人格」とパウロが呼んだものに関連するでしょう。
聖書中、彼はこれに二度言及しています(エフェソス4:24&コロッサイ3:10)いずれも、取って付けたような仮面人格ではなく、熟成に長い時間を要するものであることを説いています。 それも聖霊の助けある聖徒について言うのであって、信徒はそれに倣うばかりで厳格な履行要求の対象外なのです。

この聖徒への人格の規準を要約すれば、キリストに在って聞き、学んだことを通して古い人格を捨て、自分の霊において新たにされ、作り主の有様に似てずっと新たにされてゆくものであると彼は言います。
そこでは、怒り、憤り、悪意、罵りを後にし、不品行や汚れも避けるよう促されることでしょう。

その変化をもたらすのは、「個人の努力」といえば的外れです。もちろん聖書に十分親しむ努力を積まねばこうした変化は起こりませんが、だからといって自分の努力で成し遂げると思えば、パリサイにしかなりません。

イエスの生き方、人との接し方、また神のものごとの扱い方に注目し、そこに深い価値や感動を覚え続けることで、それらが薄絹のように折り重なって、次第に見事な新しい人格が織り出されるのでしょう。
それは人生訓や処世術のようなもの、また世間の良識や責任の押し付けでは決してありません。

神の本質はアガーペーまたはヘセドにあり、創造界もそのようであるべきなのですが、現在は利己心の世となっていますので、様々なことが、男女関係を含めて創造の意図に沿って機能しません。

ですから、キリスト教徒たるもの、このアガーペーを学び、また知らせる点で結果を焦ることはできませんし、かといって手を抜いていれば、一向に変化も起きず、悪化の危険もありましょう。 また進歩と後退を何度も繰り返すかも知れません。

そこで、地道に神とキリストの素晴らしさを説き示してゆく、というのがキリスト教の案内者の仕事、素晴らしい労苦なのではないかと思えてなりません。それは本人の良心をその持てる愛によって伸ばすことであり、世間一般の良識を説くところからは遥かに上をゆく教えでしょう。

その方の誤った行動を何とか避けさせてあげたいものですが、私たちにはキリストの弟子としての方法、アガーペーの道があり、一歩前進を繰り返しつつ、その感化の働きを待つという方法だけが行えるところではないかと思えます。


しかし万一、実際の危害の恐れがある場合、他の問題と同様に、危険度に応じて世俗の権力と裁定に遅滞なく委ねる明敏な判断の必要が生じることもあるでしょう。

現状では、すべての人に「罪」があり、それゆえに誰であっても公権力の介在を必要としていることもまた、動かし難い事実だからです。(ローマ13:3-4)

加えて、以上の考察も、「この世」という現状の中でのものでありまして、千年期以後にどうなるかは、まったく分かりません。
イエスは、『娶ったり嫁いだりしない』という状況を述べられましたが、それが聖徒の霊体への変化だけを言い表してはいないと観るべきように思います。

今日の結婚関係を「契約」と見做すか普遍的「制度」と見做すかでも、男女の将来像は異なってまいります。
旧約に見られる神を夫として語り、また預言者の妻との関係の記述に鑑みるに、おそらくは「契約」なのでしょう。(マラキ2:14)
このあたりを現実から観ると、夫婦相互、また子など近い世代への福祉を顧みる制度の核として結婚があるのでしょう。ですから、死別後には、他の誰かとの再婚を新約聖書も是認されたものとして描きます。

ですが、夫婦が恣意的また頻繁に相手を換えることには、本人たちだけでなく、大なり小なり周辺世代への悪影響が避けられません。また、男女間の誘因力は長くは続かず、『罪』ある現状では人格的に問題が生じやすいうえに、この世では老化が避けられませんから、『若いときの妻に忠節であれ』とは、夫がかつての日々に結んだ契約に真実を尽くすよう求める言葉であり、そこに制度だけでは支えきれない男女関係の難しさが表れているように見えます。(マラキ2:15)

そう捉えると、結婚関係とは双方の生前中に於ける一時的な契約となり、また生殖と子孫保護、また相互扶助に伴う「一時的な制度」のひとつであるのでしょう。しかし、それは永続する普遍的な制度ではないようです。それは「この世」を生きるのに適用されてはいますが、『地に満ちる』という創造者の下命が遂行された後は異なるものと思われます。

では、結婚ではない普遍的な制度としてのエデン的、また永遠的な男女関係がどのようなものであるのかは、現状ではまるで分かりません。今は知る必要が無いのかも知れません。

現状での結婚というものを、契約と捉えるにせよ、やはり「契約」とは、不確定な物事について定められるものであり、ひとつの目的の達成を目指すものであっても、必ず終りがあります。その目的というのは、生殖だけでなく、夫婦の相互扶助により、この生き難い「この世」での生涯を全うするためのように見えます。そこに子供が加われるなら、それは更に助けとなってゆくことでしょう。

家計というものが社会一般から独立して営まれるのは、家庭という場が「この世」からの退避港、最善の福祉を受ける場、また社会で生きられるよう子を養育する巣であり、世の利己心の荒波から保護する最後の防波堤として機能すべき「制度」でもなくてはなりません。それが機能していない家庭は、すでに崩壊しているのであって、どんな理屈をつけようと却って害悪でしょう。それはどんな重罪人の家庭であっても同様であって、人が呼吸し、飲食するように必要なものです。親子関係が不動なように、家庭愛は無条件の許しと、尽きない慈愛こそが本質をなすべきものでなければ意味がありません。それを本来行うべきは公共施設ではないのです。

『生めよ増えよ』と言われた創造者は、生殖によって人の魂を創ることを意図されたというべきでしょう。
『すべての魂はわたしのもの』と言われる神ですが、遠い先に存在することになる人物を待たれた記述も聖書に何度か見られますので、結婚と出産は、我々人間界の民事問題だけではないのでしょう。

しかし、だからと言って、完全無欠の男女関係など存在するわけがなく、むしろ極めて不完全な人格の結びつきが大半を占めるというのが現実であり、『不釣り合いな頸木』というものが存在する以上、「離婚」という逃れ場は確保される必要があるでしょう。
離婚は、ほとんどの社会に見られる法制度であり、一般的人間というものの限界を教えるものとなっております。

もちろん、神『離婚を憎む』とあります。(マラキ2:16) ですが、これはユダヤに横行したであろう、夫の都合で安易に離縁し、そこで女性が窮境に陥ることを指していると読めます。そこにはこうあります。
『わたしは離縁する者を憎み、また、虐げをもってその衣を覆う人を憎むと、万軍の主は言われる』
つまり、何らかの理由をつけて離婚し、女性への虐げを覆い隠す行いを糾弾しているのです。

そこで宗教がキリストの言葉に洞察なくただ離婚を禁じたとしても、「契約だから」と無理を通せば、神の設けた「制度」としての結婚は機能しないことになり、神の意志からも外れるように思われます。それは神に対する「罪」と声高に主張しても、愛のない夫婦関係は、現実に神の定めた相互扶助の「制度」としては機能せず、意志に反することになります。

それゆえ、「契約」という側面と、「制度」という側面とのバランスを考えなければならないのが、結婚関係というものの難しさでしょう。そこには愛と嫉妬という諸刃の剣がそのバランスを左右するように思いますが、それは個人個人で異なるのであり、最終的決定は、簡単ではないものの、当事者両人の合議であるように思います。





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