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「クリスチャンは救われているか」への回答

2013.02.22 (Fri)
裁きは存在するのか

終末の裁きは人々、特にキリスト教徒を恐れさせるものとなってきました。
殊に、天国と地獄の教理が入り込んで後、これは強烈なものとなりましたので、神の不興を買うことで自分の身が地獄に落ちる事への恐れが増す余り、「救い」を自分に確約してくれることを強く欲するようになったことは明白です。
キリスト教会の歴史の中では、中世の暗黒時代、ローマ教皇を頂点とする封建制度の中で、人々は地獄を恐れ、天国を夢見ながら、現世の不公正な為政者らへの隷属を忍耐していたのですが、この傾向は現在も教会の教えの中に残ってしまっています。

そこでは、「裁き」というものの本質を見定めることよりも、恐れから「保身」が先立ってしまい、神を知りその意図するところを探ろうという姿勢は封じられてしまいます。 つまり神の御前にあってさえ、自分に関心を向けているのです。
「裁きを教える宗派はカルト」との発言も、こうした恐れの産物なのでしょう。

この中世的恐怖が現代までも存続した背景には、教会が信者を一人でも多く得ようとするときに、信者になることに何等かの魅力的なメリットを提供しようとする誘惑あって、「天国行き」の切符がごく自然に確保されたことにあるのでしょう。それが「救い」と称されたとしても何の不思議もありません。それでは「教会」というのはJRのみどりの窓口と変わりません。人々は自分自身の益のために教会を必要とすることになります。

そこで使徒2:38などが援用され、それが『聖なる国民』となるよう既に招かれていたユダヤ人に語られた背景を無視して「バプテスマ」=「救われた」とされたであろうことは容易に想像がつきます。(ルカ19:9)

人間は本性から「救われたい」と思うものです。それは間違ったことではありません。
しかし、より大切にされるべきことがあります。(詩篇63:3)

それは神の視点であり、なぜ「裁き」があるのか、というこのことです。これを考えようとすると神の御旨を探る姿勢が必要となり、ともあれ自分が救われたいという願望をひとまず脇に置く心のゆとりが必要になります。
ほとんどの信仰者というものは、自分の命を最重要視して、神の意志を探ろうとはしていません。
つまり、神を探ろうと思うなら、自己保存の欲求という利己心からしばし離れるべきということです。

もし、裁きが必要無いものなら、そもそも人間が救いの必要な状態に陥ることもなかったでしょう。
アダムと同様な選択の機会は、すべての理知ある創造物に対して提供されるべきことが、神が自らの象りを尊重することであり、創造物個々の選択が即ち裁きとなります。(ローマ5:14)

もちろん、エデンと同じように木の実を食べるか否かという同じことにはなりませんが、利己的であるか、また神を尊重するかという問いと試みが避けられないことは、神に似る者に委ねられた自由意志の代償でもあります。
理知ある創造物は、喜んで神を神として高め誉め称えたいと願わないものでしょうか。そう願う者にとって「裁き」は、むしろ神を支持する愛の表明の機会となるものです。

では、人は神の裁きを避けることができるでしょうか。それはできないでしょう。
ヘブル書にはこうあります。
『人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている』(ヘブル9:27)

そこで、ありもしない抜け道が作られて「信じれば救われると書いてある」と唆され、神の裁きに正面から向き合おうとしないのが、ほとんどのキリスト教で、洗礼が裁きを通過する方法にされてしまいます。わたしはひとつとしてそうでないものを見聞きしたことがありません。それは神への支持を表す機会の放棄でもあります。


「救い」とは何か


「救い」とは、総じてアダムからの『罪』を許され、『神の子』に復帰することを指すとしてよいでしょう。(ヨハネ1:12)
現在の人は、今後も『罪』ある限り、神の創造の基準に達することはないので、『命から疎外されて』います。(エペソ4:18)

アダムと子孫が『永遠の命の木』から遠ざけられたのは、神の創造の御旨がいつまでも実現されないでいることの無いよう、寿命が設けられたためでした。「罪ある魂」はいつかは消去されなくてはなりません。(エゼキエル18:4)

こうして人類は、創造の意図から外れ『神の子』ではなくなっています。
世の苦しみも死もこのことの証となっていますので、『救い』とは『神の子』への復帰する事であるとして良いでしょう。


アダムは堕罪以前には『神の子』の状態にあり、イエスは生まれながらに罪なく『神の子』でありました。
ですからイエスが『子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは真実に自由になる』と言われたのは、生まれながらに『罪の奴隷』であるアダムの子孫が、奴隷の年季に従って『家に留まらず、去って行く』存在であることから自由にされ、神の子となって留まる者となることを言うのです。(ヨハネ8:34〜36)

イエスによって最初に『神の子』とされたのは、水と聖霊によって生み出された『聖なる者たち』であり、『キリストの兄弟』として父である神に認知されています。(ヘブル2:11〜17)
しかし、この立場は『新しい契約』による仮のものでしたので、新約聖書は再三『救いに至る』『救いを得る』よう『狭い門を通って』努めるべきことを知らせています。
したがって、たとえ聖霊を受けたとしても誰もがそのまま救われる訳ではありません。(マタイ10:38-39)

第三に、これら先に『神の子』とされた『初穂』と呼ばれる人々と、それとは別に、キリストが共に構成する『神の王国』『王なる祭司』を通して『贖罪』されるべきところの、聖霊を持たない無数の人々がいます。
神とその経綸(子と聖霊)に信仰を働かせる彼らは、『千年』の『神の王国』を通して初めて、地上の肉体においても『罪』から浄められて『救われる』ことになります。ここに人類を祝福するという「神の王国」の本来の意義があり、それはアブラハムに約された事柄の完全な成就となります。(創世記22:18)
しかし、千年の前に生ける者の裁きがあり、やはり誰でもがアダムの堕罪前の状態に救われる訳ではありません。(マタイ25:31-32)


さて、お尋ねの件「現状でキリスト者が救われているか否か」ですが


「裁き」の観点

考慮しなければならない要素のひとつに『裁き』があります。
これは、まず終末に定められているもので、キリストの『兄弟たち』にどう接するかを以て裁かれる様がマタイ25:31~にあります。
『兄弟たち』に親切を施すか否かで、右と左に分けられますが、その峻別は処遇の著しい違いとなってゆきます。

この以前に『裁きは神の家から始まり』ます。(ペテロ第一4:17)
ペテロは、彼の時代にその裁きが始まっていることをそこで述べていますが、それは聖霊を受けた聖徒らもその行状の如何によって相応しいか否かが問われていることを警告するものです。これは「聖徒の裁き」であって、この世の人々の裁きではありません。
ペテロ第一の書簡は、「聖徒」らが聖い行状を保つべきことを再三繰りかえし強調しております。

確かにペテロは『これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです』(ペテロ第一1:9)とも語っておりますが、これも『信仰の試練』について述べるものであり、やはり、彼ら聖徒であっても救いが完結したということではありません。(ペテロ第一3:6)

そして、聖霊を受けた聖なる者らは第二世紀の終わり頃までにはまったく姿を消し、次に現れるのは終末となることを福音書や黙示録などは告げております。

当時の彼らの『救い』も『新しい契約』有ってのことであり、契約というものは常に「不確定」なものごとに関して取り結ばれるものです。

ペテロはバプテスマが『今あなた方を救っている』と書いています。(ペテロ第一3:21)
この文脈を見ると、やはり語った相手は聖徒であることは否めません。(ペテロ第一4:2)
また、その救いは彼らの清い良心に沿った行動が関係していることも示されています。(ペテロ第一3:21)

そこで、第一には聖徒の裁きがあり、彼らは天でキリストと共になるという自らの救いの最終目標に向かって『シミなく聖い姿で主の御前に立てるよう』努力をしなければなりません。

第二に、一般人また信徒の裁きがあり、これは聖徒というキリストの『兄弟』の現れ無くして行われ得ず、左右に分けられることもありません。

ですが、キリスト教の教師に「あなたは救われた」と幾ら説かれても、人が神の裁きを免れないということは厳然として少しも変わりません。
そうなると、バプテスマを受けたので「救われている」はずの人々は、畏怖すべき「神の裁き」を人間同士で勝手に前倒ししていただけになってしまいます。
果たして、それで良いのでしょうか。

このように「救い」を見ることに反発する信者は大変多いと思われますが、一二度説いても変わらないようでしたら、しばらく様子を見るよりほかないようです。
といいますのも、これはその人の神に関する倫理的決定であり、誰も代って下すことのできるものではありません。
つまり、その人は「ご利益信仰」を望んでいるのであって、関心は神より自分に向いているのでしょう。

ですが、聖霊の臨むときに想いを変える可能性は残されており、そうなれば大きな喜びとなるでしょう。


信仰生活について

もうひとつのご質問も「救い」と関係しています。

ほとんどの教会員は、自分たちが「救われた」状態にあるということで、感謝を捧げ、気力も得てきたことでしょう。
それが長年の習慣ともなっていれば、常にその観点からものを考え、行動してきたに違いありません。

聖書そのものは、救いとは現状の生活の中で与えられる心理効果のようなものではなく、神の威力であり、人間から倫理上の欠陥である「罪」を除き去り、創造のままの輝かしさを回復して「神の子」の栄光に至ることが救いであると教えます。

ある人にとって、罪や裁きの教えは現状の生活上での生き生きとした活力を然程与えてくれるものでもなく、魅力に欠けると思えるのでしょう。
そのように思える人々の価値観を変えることはできませんが、是非とも神の御旨に表される壮大な「救い」に大志を奮い起こしていただきたいものです。
そのためにはキリスト教の原点に一度立ち戻り、第一歩から考え直す労は避けられませんし、相当な謙遜さが求められる場面もあることでしょう。


多くのキリスト教徒の主張といえば、自分たちの生活の中で聖句がどう役立ったとか、自分のなかに住んでくださるイエスさまが、自分をこんな風に導いてくださったとか、聖霊さまの働きにエクスタシーを得たとか。このように自分を中心にして語られております。
また、ボランティアに熱心であることをとやかく言うつもりはありませんが、そこでは神ご自身のなさろうとしていることはどれほど意識されるのでしょうか。

教会からすれば、クリスチャンと呼ばれている人々に、神の意向を探るという労をかけさせることが重荷で、そんなことをすれば信徒は四散するとでも思えるのでしょうか。
今日のプロテスタント諸教会が信徒の減少に悩む背景には、誰でも彼でも門戸をできるだけ広く開いて、人が集まるように安易な信仰生活を示すところもあるのではないでしょうか。

それでも増えない、のではなく、それだから求心力が無いのでしょう。
バプテスマを受ければ「あなたは救われました」としてしまうことで、その後は教会に来なくても良いようにわざわざしてしまってはいませんか。
しかも、聖書には明らかに裁きが控えていることが書かれているにも関わらずです。


新十四日派の観点からものを見るということは、単にキリスト教の宗旨替えのようなものでは済みそうにありません。
それは自分中心のものの見方を留め、神に視点を合わせる必要があり、いずれの教派の方であれ、見方を自分から神へと180度変えることが求められるでしょう。

「キリスト教」に限らずほとんどの宗教は、信者個人のメリットに訴えるようです。
人生で成功を得ること、現在と将来の安心や安全を確保すること、自分と身内や友人の幸福、こうしたものが全面に出されて信者が募られます。

新十四日派の観点からしてそれら「救われたい」という願望がいけないことであるという訳ではありません。
ですがヤコブ4:1-3にあるような世の利己的な方法で求められるべきでもありませんし、第一にキリスト教は「この世のものではありません」(ヨハネ第一5:19)。アダムが神への忠節よりもエヴァへの情愛を選び、そうして分かたれたのであれば、ますますそう云えます。

神は我々の必要を初めからご承知であり、何が最も良いことであるかを正しく知っているのもまた人ではなく神です。
そして、今日見られる不幸の原因が利己心にあること、それが倫理上の欠陥からくることを指摘するのが神の言葉である聖書であり、本来キリスト教は利己心を助長するべきものではないでしょう。


では、今日何を行うべきでしょうか?
まず、聖書に学ぶべきことは汲めども尽きず、第二世紀のエクレシアが聖霊の賜物から学んだように、今日、賜物は無いにせよ、既に聖霊の導きの下に書かれた事柄を探ることには多くのフロンティアが残されています。
殊に、聖霊が何かという理解の鍵を得た場合だけでも、そこには古代から封印されたかのような、聖書中だけでも解明されるべき未開の原野が手付かずに広がっているかのようであると言っても過言ではありません。

したがって、聴くことから信仰を得た後にも、学ぶことはそれまで以上に多くあります。
また、将来に聖霊を迎えるまでに、それに見合う程の認識には到達することが求められるでしょう。そうでなければ、聖霊の価値すら分からず、冒涜してしまう危険さえあります。

こうした認識に加え、ヤコブは汚れのない崇拝について『孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つこと』としております。
そしてあの『愛の掟』があります。

これだけでも、何と多くのことが関係していることでしょうか。
加えて、宣教があり、これらを真剣に考えれば、信仰生活で何をすべきかと困ることはまずありません。
ただ、未だ習慣化されていないだけで、今後に創られてゆく必要はあります。

そこには安易な安らぎも、既に救われ神に寵愛されているような実感もないでしょうが、ひたすらに神を知ろうと努め、求め続け敲き続ける熱意があります。それこそが真実の心の安らぎや神へと近づく実感をもたらすでしょう。


これには同じくキリスト教の名を冠しても、まったくの発想の転換が求められることでしょう。
この転換は人間や宗派を崇拝するようなところを去って、神を崇拝することを目指すものであり、これは神への深い感動と尊崇の念を奮い起こされるような、ある意味で「大志」が無いとできないことでしょう。

つまり、ご利益信仰との決別であり、それに慣れ親しんだ方々には痛みを伴うこともありましょう。
それでも、神の御旨である最大の益に到達するよう、神の御旨に協働することこそ価値あることではないでしょうか。
このようにして真実に神を崇拝しようと望む方々は少ないとしても、キリスト教界にまるで居ないとは思えません。


結論として
私には、「クリスチャンは救われている」と唱えることは、聖書全体の理解と合致せず、キリストの人類全体への公共善に対する献身と偉大な自己犠牲の精神からも逸れ、性質が何か別のものであるように思われてなりません。それが一般に「ご利益信仰」と呼ばれているものなのでしょう。「クリスチャン」の多くが聖書を探求し続けないとしても不思議はありません。自分に関心が向いているのですから。
パウロは『キリストが亡くなったのも、生ける者がもはや自分のために生きず、自分たちのために死んで生き返らされた方のために生きるためであった』と書きましたが、この言葉を自らの生き方に感じるキリスト教徒はけっして多くはないように思えます。









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コメント

何と感謝を申し上げたら宜しいのか、言葉も見当たりません。

やはり、いつまでも孤立することは無いとの徴を得たように思えます。

コメントを頂戴し、大いに励みを得ました。

どうか、御身にも祝福が注がれます様に


Shema Israel
Shema Israel | 2013.02.27 12:59 | 編集
 いつも興味深い聖書からの考察を読ませていただいている者です。

 私も救いに関して聖書を調べたところ新十四日派さんの解釈に全く共感しコメントさせていただきました。
そこでこの解釈に対し裏付けとなる聖句が幾つかありましたので、僭越ながら助けになれば幸いです。


 信仰が救いの要になるのは、争いの無い点ですので省きますが、ヤコブ2章14節では、信仰を証明するために業を行う必要があると書かれていますね。
そこで聖書に対して、「業」と検索をかけたところ、やはり主に愛を動機としたものでした。

 しかし、エフェソス2章8節9節では「救いは神の賜物」「行い(業)によるのではない」とはっきり書いています。ここから信仰と業は救いの最低条件であって、後はひたすら実際に救われるまで、神の賜物を求める態度が必要なんですね。

 だから、神は救って下さるという信仰は重要ですが、何もしなくても良い言い訳として、救われていると思うことや、業を行いまくっているから救いを獲得したという動機はダメなんですね。私は怠惰なので前者の人間ですが。

 ということで私も新十四日派さんの結論は全く理にかなっていると思います。


 誠に勝手ながら長文コメント失礼しました。
新十四日派さんの聖書解釈が、本当にいつも参考になります。これからも記事を投稿してください。
義之 | 2013.02.27 09:31 | 編集
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