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聖餐とは

2013.02.12 (Tue)
キリスト教の最大の祭儀は「聖餐」にあります。それがミサの原形とされ、元はパン裂き(クラスマ)として日曜礼拝の根拠ともされてきました。
しかし、「聖餐」と呼ばれているキリストの命じた祭儀に、本来はどんな意味があったのでしょうか。

この儀式はキリストと使徒たちによって、イエスの亡くなる前の最後の晩餐のときに制定されました。
その場面は三つの福音書に描かれており、パウロもその手紙の中で述べています。

パンとぶどう酒によって行われるこの儀式は、キリストの犠牲によって信徒が救われることの再確認とも言われています。
多くのクリスチャンを自認する方々は、イエスの死を通して自分が救われるようにされたことを感謝する機会と見なしています。

それは目出度いことでありパンとぶどう酒に与ることが楽しいことにも思えることでしょう。
イエスが『このことを行って行きなさい』と命じられましたし、それほど良いことでしたら、毎月、毎週でもキリストとのつながりを再確認して幸せな気持ちになるのは相応しいことと思えるかも知れません。

ですが、もし信者のすべてがこのパンとぶどう酒に与るべきなのでしたら、なぜイエスはご自分の身近な使徒たちだけとこの儀式を行ったのでしょう。
また、公生涯の間にわずか一度だけ行ったのはなぜでしょう。

実は、ここに聖餐の本当の意義が込められています。

まずそれは、モーセの律法で定められたユダヤの「過ぎ越し」という祭りの晩であったことに意味があります。
イスラエルがエジプトから出るその日に、イスラエル民族は奴隷から解放されようとしていたエジプトで過ごす最後の晩を特別な食事で記念しました。(出埃12:1-14)

それは「過ぎ越しの食事」と言って、各家庭で一頭の子羊を焼いて食べましたが、その血は門の鴨居と柱に赤くはっきりと分かるようはねかけました。(出埃12:7)
その晩に天使がエジプトを通ると、血のかかっていない門の家では長男が死ぬという災いが起こったのです。
こうして初めてエジプトの王ファラオは、イスラエルの出立を認め、彼らは奴隷から開放されてパレスチナの地を目指すことになりました。

一方、イエスはバプテストのヨハネから『神の子羊』と呼ばれていました。(ヨハネ1:36)
キリストの血は出エジプトのときの羊の血のように、「長男」のような人々の命を救うものとなります。

では、「長男」のような人々とは誰でしょうか。
イスラエル各部族のうちのレヴィ族は、神から「長男」と見なされて、祭司の職が与えられました。(民数記3:11-13)

そこで、『神の子羊』であるイエスの血も、祭司となる人々を救うことになります。(黙示録20:6)
と言っても、イエスの血は最終的にはすべての人々を救うものとなります。(ヨハネ3:16)

ですが、まず「長男」のような祭司となる人々が救われないと全体が救われることになりません。(ヘブライ12:22)
これは律法でもそのようにされていました。

毎年の秋の『贖罪の日』という祭りの日には、まず大祭司と祭司たちを罪から清める儀式が動物の血を用いて行われました。
一般のイスラエル人は、後ほど彼ら祭司たちの別の贖罪の儀式によって罪から清められたのです。(レヴィ16:11・15)

これはキリストを中心にして天で行われる本当の「罪」の浄めを表す模型のようなものでした。なぜなら、地上の祭壇で捧げられた動物の血は本当には人間の罪を清めなかったからであり、本当の浄めにはイエスの血が必要だったからです。(ヘブライ10:1-4)

さて、イエスが聖餐という儀式を制定したときに、使徒たちだけがこれに預かったのにはこのような理由がありました。それはユダヤ人なら誰でも与れるようなものではなかったからです。使徒たちのように本当にキリストにつき従う者でなくてはなりません。(マタイ10:32-33)

キリストは『大祭司』とも呼ばれています。そして大祭司の下には祭司たちがいました。大祭司と祭司は共に一般の民の罪の浄めのために働きます。(ヘブライ7:26-28)

それで、ぶどう酒という『神の子羊』の血の象徴を飲む人々は、キリストという大祭司の下で働く祭司たちとなることを表しているのです。

彼らがイエスと密接な関係を結ぶことは、キリストを隅石として『神殿の生ける石となる』ということにも表されています。(エフェソス2:20-22)

つまり、彼らは天でイエスと共に霊の体を得て、天使のようになる人々です。
それですから、無酵母のパンで表されたイエスの体を共にするという意味で、彼らはパンを食べました。
そしてイエスは霊の体へと復活されました。(ゼカリヤ12:8/コリント第二5:6/ヨハネ第一3:2)

こうして、聖餐というものの意味が少し分かってきます。
それはただパンとぶどう酒に与る信者が救われるというものではありません。
むしろ、聖餐は神の人類救済というご計画の途中にある重要な一部分を成しています。

すべての人々が救われる前の段階として、まず祭司となる人々が選ばれて、先に罪から救われるための儀式だったのです。彼らは人類の中からの「初穂」とも呼ばれています。(黙示録14:4/ヤコブ1:18)

また、この選びは『新しい契約』に入ることを意味します。その契約は、パンとぶどう酒に与る人たちが、天でキリストと共になって、祭司の職に就くことを成し遂げさせるものとなります。


すこし、考えてみて下さい。
もし、パンとぶどう酒に与る人だけが救われるというなら、キリスト教とは非常に狭い救いしかもたらせないことになりませんか。
しかし、聖書の神はすべての人々が救いを得られるようにとアブラハムの昔から取り計らってこられました。(創世記22:18/ヨハネ3:16)

このように世界を救おうとなさる神こそ、世界の人々から賛美を受けるに相応しい方です。
聖書の神もキリスト・イエスも一部の人々だけを救おうとしておられるわけではありません。(ヨハネ第一2:2)

どれほどイエスを罵倒しようと、どれほどの罪を犯そうと、どれほど他の宗教に熱心であっても、最終的に謙遜に「罪」を認め信仰を働かせるのであれば、大いなる神の救いを受けることができます。(マタイ12:32/ゼパニヤ2:3)

そのためには、まず世界中の人々の罪を清めるための祭司たちが必要であることを、聖書の神はモーセの律法の中で模型のようにして教えてくださっていたのです。(出埃19:5-6/ペテロ第一2:9)

ですから聖餐とは、それを食べたり飲んだりすることがその人を救うというよりは、聖餐に与る人が天の祭司になって世界のあらゆる人々に救いをもたらすことを示しています。
そのような人は、自分の救いだけを求める利己的な人であってはなりません。キリストと共に自分を神と人々のために自己犠牲的に役立てようとする人こそが聖餐に与るべきであるのです。

(追)
しかも、その人は神からの招き(召し)を受けていなければならず、その証拠というのが「聖霊の賜物」です。
では、キリスト教徒になるとは、天のキリストの下で働く祭司になるということでしょうか。
必ずしもそうではありません。その件についてはまたお話しましょう。



(こんな話しかけでいかがでしょう)






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