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聖書の中の「地獄」 異教への後退

2013.01.18 (Fri)
まず、新約聖書中で「黄泉」「地獄」等に訳されることの多いその語は、ギリシア語「ハデス」か「ゲヘナ」のいずれかで、これは共に死者のゆく地下の世界を表すことはありません。

「ハデス」は常に「墓」であり、人の霊魂が集められるようなところと解されたのは、キリスト教がヘレニズムの影響を受けて以降のことです。
「ゲヘナ」はアラム語「ゲー・ヒンノム」から造語されたギリシア語で、もとのアラム語では「ヒンノムの谷」という意味を持ちますが、こちらも地獄でも黄泉でも冥府でもありません。旧約聖書からして、死後永遠に出て来られない責め苦の場所という発想がありません。

カトリックの影響で「地獄」が世俗全般に広くキリスト教のものと思われている実情からすれば、これは意外に思われるかも知れませんが、実はヘブライ人の書いた聖書には、旧約にも新約にも死者のゆく「地獄」のようなものは一切ありません。
人は死後に、誰もが『復活』を待つことになるというのがヘブライの教えであり、そこにこそ他の宗教にない優れた特徴があるのです。
一方で「地獄」は、この民族が教える、亡くなれば人の意識も世への関わりも共に失うことになるというヘブライ人の「死」の概念に反する異教のものであり、諸宗教の混濁したヘレニズム期にこっそり紛れ込んだもので、ギリシア文化圏に取り込まれてしまった後のユダヤ人によってミシュナーが編纂される前には「死後の世界」などは見られず、本来は聖書の排斥する教理であったものです。むしろ人は死ねば意識を持たないと聖書は教えているのです。(伝道9:5)

多くの聖書で『地獄』と訳されている言葉については、ヨシヤ王の時代以降、「ヒンノムの谷」はエルサレム城壁の外、南西側の斜面の下がゴミ焼却場とされていたことから、これが火の燃える地獄のように解釈されてしまってきました。その単語が「ゲヘナ」ですが、これは本来『地獄』とは言えないものを指しているのです。
このゴミ焼却場には火が絶えないように多くの硫黄がまかれ、全体からいつも煙が上がっていたとユダヤ教のラビらによって伝えられています。

この火が絶えると虫がわいたり、疫病の原因になったりしますので、律法で衛生感覚を磨かれたであろう人々によって硫黄は常に広く散布されていなければならなかったでしょう。
それは「火の燃える湖」などの聖書中の表現の理解に示唆を与えるものでもあります。

ゴミ処理場には、死刑に処されたような重罪人の死体も投げ捨てられたと伝えられます。これは「死」について示唆に富むものです。
と言いますのは、イスラエル人は伝統的に土葬を行いましたが、そこには復活信仰があり、丁寧な埋葬は死者の復活を願う気持ちが反映されていたとのことです。この点で、亡くなった兄弟ラザロの復活を語ったベタニア村のマルタの認識は、当時のユダヤ人の死生観を言い表しています。(ヨハネ11:24)
一方、特に引き取り手もないような凶悪な罪人の場合には、誰も丁寧に埋葬する人なく、誰にも復活が望まれない者と見なされてしまいます。

もちろん、キリストの教えによれば、『義者も不義者も』分け隔てなく復活することになりますが、無慈悲な殺人者などは人々からすれば復活してほしくはないと思われたことでしょう。そこでその死体は埋葬されずにゲヘナに廃棄されることになりました。

神が明言されたように「罪を犯す魂が死ぬ」のであり、創造の神は裁きを行っても無存在にならせる以上の処罰をされません。その理由は、作られた者を存在させるか否かは創造者の正当な生殺与奪の権利であり、創造の企図に相応しくないものを創造者が排除することは動かし難い道理であり、それが被造物全体の益となることも明白です。(エゼキエル18:4)


これらの点を踏まえて聖書を見直すと、マタイ5:22などのイエスの言葉『だれでも,『卑しむべき愚か者よ!』と言う者は,火の燃えるゲヘナに処せられることになるでしょう』の意味が明瞭になります。
つまり、「復活に値しない者と見なされる」さらに敷衍すれば「永遠の滅び(虚無)に定められる」という意味でイエスが警告をして話されたことが分かります。これは復活がなくなるという意味ではなく、パウロが言うように「人は皆、一度死んで後に裁きが定められている』のであり、その復活後に裁かれ『永遠の滅び』に定められるなら、あたかも復活に値しない者が『ゲヘナに処せられ』ることをいうのです。

黙示録でもサタンが滅ぼされる場面で、「火の湖に投げ落とされ、その煙は永久に立ち上る」の意味も同じです。(黙示録20:10)
その裁きの滅びにおいて、サタンは象徴的に焼かれるのであり、その意味するところは永遠の消滅であり、ゴミ処理場の硫黄の火にくすぶる復活に値しない重罪人の屍のようです。
もし、そこが死者を虐待する「地獄」であるならサタンの居場所としては相応しく、虐待を嗜好するサタンも居心地よく永続することになってしまうことでしょう。

むしろ、そこではサタンや偽預言者を含め、死や墓(ハデス)という象徴物までが「火の湖」に投げ込まれますから、これは現実の「火の湖」ではなく、不要なものの処分、敷衍して完全な消滅の象徴として用いられていることが言葉の用法から分かります。
しかも、その「火の湖」という場所には、ゴミ処理場のように「火と硫黄がある」と書かれ、はっきりと「これは第二の死を表している」とも書かれております。つまり永続的な消滅です。(黙示録21:8)

これらの事柄は、すべて新約聖書中の記述ですが、エルサレムのゴミ処理場の知識がない人々にとっては、容易に世俗に広まってきた異教の「地獄」や「黄泉」の概念に染まってしまいます。
そして、ニケアー会議以降のキリスト教界も、この大きな間違いを受け入れてしまいました。当時、ユダヤ人排撃の姿勢が強かったので、異教の混濁するヘレニズムの思想を選んでヘブライの知識を無視したからです。

それゆえ、前述のマタイ5:22などにあるゲヘナを「地獄」や「黄泉」と異教に沿って訳すのは、まったく聖書を曲解させることになりますが、口語訳と新共同訳はそうしてしまっている中で、新改訳がその語のままに「ゲヘナ」としていることは真に適正であり、文字通り「有り難い」ことです。

またペテロ第一3:18-19*にある、「キリストの黄泉降り」とされている部分は、続く20節を読むと分かるように、人間の死後霊を述べているのではなく、大洪水前に勝手に振る舞っていた天使たちが拘束されている状態を指しているのであり、それは、彼らの滅びの処遇がキリストの神への忠節を通して確定したことがキリストを通して伝えられたことを指しているのでしょう。*(「囚われの」[φυλακῇ ]「黄泉」も「獄」の意も無し)

キリスト教界の重い病気は、神理解を覆い隠す三位一体だけではありません。言い訳がましい偶像崇拝や多神教的聖人崇拝、そしてこの地獄や煉獄の教えもその病名を連ねます。

世俗権力を結びついた「キリスト教」は警察力だけでなく、地獄の教えによっても民衆を統治しようとしてきました。つまり「恐怖」の支配です。それは農奴の基礎の上に成り立つヨーロッパ封建制を支え、またプロテスタント領邦支配にも関わってきたことでしょう。「地獄」は脅し以外の何ものでもないからです。

「十字軍」に参加する兵士に贖宥が与えられ、地獄行きが免除されるというのは、その脅しのタガが外されたことで誘発した蛮行と虐殺の数々は、サタンの特質を表すよう動かしたものとしか云いようもなく、これこそは、為政者も出来ないほどの悪辣な大衆操作のこのうえない事例として、歴史上に拭いようもない事実として刻まれています。

こうした力の支配は常に簡単で便利です。脅しさえすればよいのですから、人々の愛などの内面に働きかける必要がありません。そこでキリスト教そのものも教理においてまったく後退したと言わざるを得ません。つまり愛を教えず脅しで教えたからです。

そのうえ、地獄の教理は「復活」や「愛の掟」などキリスト教の真に優れた特質を失わせ、どこにも見られる宗教に平凡化してしまうものでもあります。そこには一般信徒の心に働いている「自分さえ救われれば」という利己心も引力のように作用してきたことでしょう。

結果として、目を半分閉じてしまったかのような蒙昧の中にグレコ=ローマン型キリスト教は千数百年足踏みを続けてきました。これは人間の恐るべき倫理上の欠陥の為せる業なのでしょう。到底、神意によるものとは云えませんし、また云うべきでもないはずです。

しかし神はエレミヤ32:35にもあるようにヒンノムの谷がゴミ捨て場になる以前にまさにその場所で行われていたカナン異教の崇拝、嬰児を火に投げ入れるようなモレク神の残忍な礼拝などをイスラエルの神は「考えもしたことがない」と言い切っています。
人を創造した神は、人を焼いて責め苛むことをしないというのです。

確かに死はすべて人に臨みますが、それは意識の終わりであって、例え悪人であってもサディスティックに苦しみを与え続けるのを喜ぶのが創造者の神の意図でしょうか。
神は創造の初めからそれを意図したと言い張るなら、それは神を尊ばず、創造者はサタンのようだと言うに等しい暴言、また中傷というべきでしょう。それは「義者も不義者も」関わりなく人々の復活を意図するイスラエルの聖なる神をサタンの化身である異教の過酷な神々と同列に置くような冒涜ではありませんか?(使徒24:15)


そこでキリストを信じる者は、キリストの語られた言葉の真意を探ることに意欲を持たねば、こうした非ヘブライ的異教の誤謬に簡単に絡め取られてしまいます。
同時にこのことは、翻訳された聖書に潜む落とし穴に注意を向けてくれるものともなります。

是非にも、この観点からもう一度聖書を読み直してみて頂きたいものです。
そうするなら、創造者が人類をキリストの犠牲に基づいて買戻し、復活を通して本来の創造の企図に適った輝かしい人間の姿を回復させ、全ての人が宗教を必要としないほどに、神との親しい関係に入ることこそが創造の神のご意志であることを味わい知ることになるでしょう。



富者とラザロのたとえ

「天国」か「天の王国」か

「大いなるバビロン」の滅び

「あなたがたはゲヘナの裁きを免れるだろうか」





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