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洗礼で聖霊を受けるか (回答)

2012.09.25 (Tue)
さて、ご質問の件ですが
Act2:28『悔い改めなさい、そしてあなたがた一人一人が罪の許しを受けるためにイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい、そうすれば聖霊の賜物を受けるでしょう』

これは割りに簡単な答えになります。

と言いますのも、使徒言行録第二章では、語られた相手が我々とは異なる立場にあったからです。

当日の背景を見ればこれは明瞭です。
つまりユダヤのシャブオート(五旬節)の祭りの当日であり、まさに聖徒が最初に産み出された日で、今後はまずユダヤ人の中から聖徒を増やしてゆかねばなりません。
彼らは割礼を受けたモーセの律法契約に預かる民であって、律法不履行の罪から「救われる」ことは、父祖の罪に連なることに咎めを感じていた良心の鋭い人にとっては大いに望ましいことであったでしょう。(Deu28:15/Gal 3:13)

この「救い」についてはユダヤ人と異邦人に差異があります。
ユダヤ人は律法契約に関して神の前に異邦人には無い『呪い』を負っておりました。
彼らがその罪から「救われる」にはメシアを受け入れて「新しい契約」に与る以外に道がありません。殊に聖徒出現の当初においては強くそう言えるでしょう。

彼らの「悔い改め」とはバプテストのヨハネが促していた、律法不遵守とその結果である契約の廃棄に対する自分たち民族の不行跡についてのこと、これは当時のユダヤ人であれば心の痛むことであったに違いありません。
ヨハネの許を訪ね、悔い改めのバプテスマを受けたのはユダヤ人であり、この点で心を整え、メシアと新しい契約へと備えられました。したがって彼の「悔い改めのバプテスマ」がユダヤ人に限るものであることは時代の背景から明らかに見えています。(Luk1:17)

このヨハネはユダヤ=イスラエルに警告を与える古い型の最後の預言者でありました。
続いてキリストが現れ、そのユダヤ人の弟子なるには、まず第一に血統上のアブラハムの裔が律法契約の破綻を「悔い改め」て、それから「新しい契約」に入り「救われて」「聖霊を受ける」機会を提供する務めがありました。
それは神がアブラハムに約した事柄を、血統のままの裔に果たす意図に基づくものであったでしょう。(Gen12:3)

この時点であれば、引用のように『聖霊のバプテスマとは、罪の赦しを受けた者に与えられる、神様の恵みの賜物です』と言うことは可能です。

一方で、キリストの水のバプテスマはユダヤ人に関するものだけではなくなります。
フィリッポスがサマリアの人々やエチオピアの宦官にも水のバプテスマを施すきっかけを作ったのは、ユダヤ人のメシアの弟子らへの迫害であり、メシアの更なる拒絶と言えるでしょう。
そうして、ユダヤ人の体制がメシアに対する拒否を更に加えて明らかにすることで、自動的にメシアの「救い」は非イスラエルに向かいはじめます。
特に、ペテロがコルネリウスを訪ね、無割礼のまったく律法に関わらなかった異邦人にも聖霊が注がれて、「救い」は新たな意味を持つようになります。異邦人にもアダムの罪がありユダヤ人とは異なるものの、彼らも悔いるべきものがあります。

しかし、異邦人は律法契約の呪いを負いませんので、彼らの救いは必ずしも「新しい契約」に与る必要はありません。もともと契約に関わるアブラハムの裔ではないからです。
それでも、コルネリウスをはじめとした異邦人からこの契約に参与する人々が出たことは、即ちユダヤ人が拒絶の意志を明確にした為、神の側でメシアの下での祭司を補充するための行動であり、これはオリーヴの接木のたとえにも明らかです。

続くAct2:29で『この約束はあなたがたとあなたがたの子ら、遠くの者ら一同、そして神の召しに与るすべての者に与えられている』と続ける理由もここにあるでしょう。
つまり『約束』とは神がアブラハムに与えたものなので、ユダヤ人を意味する『あなたがたとあなたがたの子ら』という血統、そして『遠くの者ら一同』つまりディアスポラしている同胞を指していると読めます。
但し、最後の『神の召しに与るすべての者に』は異邦人を含むか定かでありませんが、後にパウロも言うように『神の言葉は、まずあなたがた(ユダヤ人)にこそ語られるべきでした』し、『約束』に与る以上は、特に異邦人であれば『招かれ』『選ばれる』からには誰にでもということはあり得ません。(Act13:46)

したがって、神の前におけるユダヤ人の状況を異邦人のものと混ぜこぜにして誰かれ構わずに『聖霊のバプテスマとは、罪の赦しを受けた者に与えられる、神様の恵みの賜物です』と言うことは、聖書全体の理解からすると成り立ちません。Act2:28の水のバプテスマを受ければ聖霊も受ける、というのは五旬節当時からしばらくのユダヤ人にのみに適用でき、また確言できる言葉であったからです。(おそらく異邦人にこのように語った場面はなかったでしょうし、コルネリウスには聖霊が先んじています)


こうした誤解もユダヤ教とキリスト教の不和の悪影響のひとつでしょうか?ユダヤ側から見ればパウロの発言の意味など一目瞭然でしょうが、あちらはキリスト教も新約聖書も認めず読まず、むしろパウロを何とか殺害したいとの強い意志を抱き続けたほどでした。

他方でキリスト教と言えば、ユダヤ教を主殺しの迫害者として嫌い、新約をかつて異邦人のあいだで流行したヘレニズム式に解釈しては、ユダヤ教から遊離した独自な教理を作ってしまって悦に入り、こうして双方を結ぶ理解によって打ち立てられるべき高度な教理は潰えてしまい、共に神の経綸の全体像については依然どちらも蒙昧の中に留まって、片や懐古に浸り、片や幼稚に夢見ています。
これほど重大な理解に双方が揃って背を向けたように、旧約と新約に分断されたこの実情は非常に奇異で嘆かわしい状態と云わねばなりません。

聖書を読むときは、前後の文脈はもちろんのこと、全体の知識との調和のうちに理解されてゆく必要があります。
そこに求められるのは、聖書全巻とユダヤ=イスラエルに対して該博であることでしょう。(ギリシア語はずっと付加的です)
今は「新約時代」だから新約を中心に・・という見方は、新旧の聖書が如何に緻密に絡み合っているかの醍醐味を幾らも味わったことのない人だけが主張し兼ねない単純な割り切りと云うべきでしょう。

聖書中に何かひとつの言葉を見つけて、「そこにそう書いてあるのだからそうなのだ」式の信仰は、「点と線」のような理解でしかありません。機械的に聖句を覚えて羅列できたところで、少なくとも歴史や文化という「面」の把握にはなりません。それでも聖書を理解したと思うような「クリスチャン」をよく見かけます。
このような「信仰」はどうやら英米にルーツがあるようで、日本までもがこれを無抵抗に受け入れる愚は、是非とも避けるべきであると常々痛感いたしております。

これも詰まるところ、関心の対象が神なのか自分なのかという問題を孕んでいるようです。
教会の信者に、「水のバプテスマを受けてもあなたがたには聖霊はありませんし、いつか天のイエスの身許にゆくこともありません」と言えば激しい反発を招くことは目に見えています。

その希望は、元々『神のイスラエル』となって、天からこの世のすべての人々の贖罪を行う、祭司として『世の光』となる『聖徒』の極めて異例な高い立場にこそ与えられるものなのですが、その美味しい部分だけ約束されてしまい、迫害の死をも辞さないほどの世界宣教に聖霊と共に邁進する苦難の部分は知らされず、教会の信者獲得の策にはまったものですから、まるでご馳走を引っ込められたかのような不満が感じられるとしても、無理はありません。

ですが、キリスト教にアプローチしていながら、利己心を煽られるという矛盾には気付けないものでしょうか?
たいていの宗教はご利益目当てで入信するものという一般的な常識からすると、「クリスチャン」でもよほどの倫理観や潔さを持っているような方でもないと、これは高望みかもしれませんね。

残念ですが、それが現実なのでしょう。





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コメント
ありがとうございました。
またしても前後関係を無視してしまいました。

私も『「そこにそう書いてあるのだからそうなのだ」式の信仰』で突っ走ってきました。
k&k | 2012.09.25 21:51 | 編集
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