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キリストの果たす役割7

2012.08.23 (Thu)
主人の旅と不在


それは「ミナの譬え」と呼ばれます。
そこで弟子たちの先走る思いとは裏腹に、譬え話では、生まれの高貴な人物が王権を確かなものとして授かるために遠く旅をすると語られます。
これは、当時のローマ帝国に従属する王たちが皇帝からの王権の承認を得て、それを確立するために帝都に赴くという、実際の習慣を思い起こさせるものであったでしょう。

イエスの当時ユダヤと周辺を治めていたヘロデ大王の子らもそのようにローマに行って、そこで従属の王権を得てから、再び領地に正式な王として戻っていました。しかし、実際に支配を始められるか否かは帰国した時点では定かではありません。
ローマ皇帝の承認状は手にしてはいても、対立王子や諸勢力を屈服させてはじめてその王権も意味を持つことになりました。
そこで、この「ミナの譬え話」の王の帰還の場面は、それを聴く弟子らにイエスの王権についても同様に思い巡らさせたことでしょう。

キリストの王権は弟子らの期待に関わらず、イエスの旅立ちとその後の期間があることが示されます。加えて、イエスの譬えは時期的なことから更に進み、弟子らの待つべき態度に触れてゆきます。
つまり、キリストの王権獲得には、相当の期間を要することが知らされてゆくのでした。

この譬え話では、王を得ることになる主人は、出立に際して家僕らに財産を分け、留守中に運用させることにします。
そして、この人物が王権を得て帰還したときには、家僕らは預かっていた財産の銀子(1ミナ)をどう増やしたか報告することになると語られます。

ある僕は1ミナを見事に10倍に増やしており、他の一人も5倍にすることができました。
しかし、ひとりは1ミナのまま差し出し、主人は厳しい人で、自身が撒きもしなかったものを刈り取るので怖かったから1ミナをそのままとっておいたと言うのです。

すると、主人は憤って言います。
「ならばそれを銀行に入れておけばよかったのだ。そうすれば利息と共に受け取れたものを!」
それから、この家僕から銀子を取上げ、さらに、この主人を王として受け入れるのを拒んだ市民らを「敵」と呼び、討ち殺させます。(ルカ19:14)

この譬え話の「王権」を確かなものとして戻る主人がキリストなら、留守を預かる家僕たちは弟子たちを指していることでしょう。
したがって、弟子らはキリストが戻られるまでになすべきことが委ねられることになります。

この「ミナの譬え」によく似たマタイの「タラントの譬え」(マタイ25:13-)では主人の財産を増やそうとしなかった家僕は『外の闇に投げ出され、そこで歯噛みします』、これは主人の家から出され、当然、家僕の務めを失います。

ミナの譬えでも、この不精な家僕から預けられていた財産が取り上げられるところは同じようですが、こちらでは、この主人が王となることを望まなかった市民らの処刑が続いていて、この不精な家僕も関連をほのめかされています。(ルカ19:27)

そこで家僕の務めについて記述を総合すると、主人が皇帝からの王権の許諾を得て帰ったときに、家僕はその王権を支持し高める務めがあることのように示唆されています。

そこで彼らに託されたものは、聖霊によるイエスの教えであり、特に王国に関する理解ということができるでしょう。
しかし、それは単なる教えではありません。彼らは主人である王となる方の王権を代弁し、その土地の支配者らにその権力を渡すよう求めることになります。

その発言は福音書が述べるように誰も論駁のできない言葉であり、彼らによらず聖霊が語らせるものとなると予告されています。
確かにそれを活用するなら、主人が王権を確かにして来られるときにふさわしい栄光や誉れで飾ることができます。
また、これらの反対する市民の存在は、キリストの王権を望まない人々が終末に居ることも示しています。

しかし、聖霊の言葉を語らないなら、それは主人が王となることを望まなかった市民らと幾らも変わるところがありません。王権を理解せず支持もしない彼らは、みな「王権」の反対者であり、王からすれば『敵』と見なされても仕方のないことでしょう。


ですから、イエスは弟子たちの『主人』として、弟子らに教えを残し、ある期間にわたって天に戻られます。つまり、その間はイエスは地上に対して不在となるのです。(マタイ24:43-51)
「キリストの再臨」という言葉は、キリスト教界で良く聞かれる言葉です。それはイエスご自身が『再び戻って来てあなた方を迎える』と語られていたところにより、それは何度か話されました。

再び来られる以上は、不在の時期があるに違いないのですが、多くのキリスト教徒は、イエスが自分の傍に居てくれることを願って、主が不在であることを軽視します。

使徒たちも、イエスが地上に居た間に王となられ、その王国が設立されることを期待していましたが、それはこのような譬えによって、イエスが王となるために旅立ち、しばらくの期間を経て王となった主人を弟子たちが迎えるというように理解するべきことが示されました。

しかも、弟子たちは主人の帰る時がいつになるのかを知りません。そこで『いつも見張っているように』と諭されています。(マルコ13:34-36)


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このように、神から正式に王権を与えられてのキリストの王としての登場は、イエスが地上にある間にも起きませんでしたし、これまでにも世界は王権を帯びたキリストが到来を見てはいません。(ヘブライ2:8)

キリストが王としての行動を起されるまで時があることについては、詩篇110編にも述べられていて『【主】*は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」』(新改訳)とあります。この言葉は新約聖書でも五回繰り返され、キリストの王の立場に深く関わっていることを教えています。(*全能の神)

この言葉も、イエスが王権を受けるまで、神の右に座して時を待つことを教えています。そして、次にキリストが地上に関わりをもたれることは「再臨」という言葉で語られていますが、これに相当するギリシア語は「パルーシア」です。

「パルーシア」という言葉そのものには「到来」や「再び」という意味はありません。その言葉は「その場に関わりを持つ」という意味を持っています。つまり、一定の期間を過ごした後に、王権を得る前にキリストは地上に対して「関わりを持ち」はじめることになります。そこで「パルーシア」を王に成るべき方の「臨御」と訳されるのが妥当のように思えます。

その時に、イエスは再び聖霊を弟子たちに注ぐことを通して、大祭司としてとしての権能を発揮されることでしょう。
しかし、「王権」を得るのはその必要の生じる諸国民との戦いまで待たねばなりません。⇒「黙示録の四騎士

しかし聖書の全体は、このキリストの王となるべき「臨御」の時についてかなりの注意を向けて書かれています。なぜなら、それはただならぬ時代となるからです。

一方、その時までの間は地上に対してキリストはこの意味において不在(アプーシア)となります。
当然、大祭司として弟子たちを聖霊を通して選んだり、その人々が聖霊の業を行うことも無くなりました。

キリスト教界には聖霊が無くなったため、知識の統一ができなくなって分裂や分派が登場し、どこにもまったく「正しい宗派」というものがなくなりました。

それでも、人々の手元には聖書が残されています。それはモーセの頃から記された霊感の書であり、数多の神の事跡や聖霊の働きの記録が記されています。

わたしたちは、この書の中からかつて聖徒たちに注がれた聖霊の教えの姿を知ることができ、こうしてキリストの様々な役割を新旧の聖書からある程度探り出ことができます。

そして、今日のわたしたちの注意を集中するべきは、いつか始まることが待たれている、王権による実効支配前のキリストの「臨御」です。
聖霊を受ける弟子らがミナやタラントの譬えの不精な家僕のようにならないために、キリストの王権や「神の王国」への知識を知らせる聖霊の働きを隠さずに、堂々とその神の義に基づく啓示を世に知らしめる務めがあるのです。⇒ 「ミナの例え

そこで奴隷が主人を『厳しい方』と言うのは、聖霊の言葉や働きを公にすることへの怖れからであったことを、この『不精な奴隷』は自ら告白しています。(ルカ19:21/マタイ25:25)
つまり、世の政治家との対立を怖れ、聖霊の言葉を自ら封じてしまい、恰も地面に埋めてしまうという行いを通して、主人の王権をないがしろにしたのです。
『この世が受けることができない』『聖霊』というそれ以上ない宝を受けながら、それを運用することを怖れて躊躇する結果は、王となるべき主人からの拒絶と、この世と共に過ぎ去る者となる永遠の不名誉ばかりです。

実際、イエスは非常に多くの言葉をもって「王国」を説明していましたが、それはキリスト教界にあってどれほど理解されているのでしょうか。それらのひとつでも多くを知って、人々に広く知らせようとすることは、イエスの弟子を自認するすべての人の務めと言ってよいでしょう。

そのようにする方々は、キリストが「臨御」するときに、その王権に栄光を加えることになるでしょう。
ですが、キリストが戴冠し彼を王として迎えることを望まなかった不精な奴隷を含む全勢力を打ち砕くときには、ミナの清算は終わっていて、あとは家令たちの誰がどこを治めるかの話に進んでしまいます。

そして全ての敵を処罰する戦いに王は乗り進まれることでしょう。⇒ 黙示録の四騎士

では、キリストが「王なる祭司」となるためにこの世に「臨御」なさるとき、イエスはどのように世と関わることになるでしょうか。つまりそれは「世の裁き」に関わる事柄となります。

この将来に生じる事態について、その重要さからしても世界に周知されるべきことではありますが、その前に、キリストの死が成し遂げた事柄について次に考えましょう。
それは、神と創造に関わる根本的な理解に影響するものです。



 ⇒ 創造の助け手としての御子





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