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キリストの果たす役割4

2012.08.17 (Fri)
キリストが導いた聖なる者たち

イエスが天に去って十日後の五旬節の日に、初めて聖霊を注がれ奇跡の能力という賜物を受けた弟子たちはその後も増えてゆきます。
その能力の種類も増えてゆき、後にパウロは九つの賜物の種類を挙げています。(コリント第一12:7-11)

それらには、最初に与えられた「異言」という外国語で神に関することを話す能力の他に、「預言の賜物」では後に起こることを知らせ、飢饉や地震、またパウロの身の上に起こることを知らせて、覚悟を促したりすることもありました。(使徒11:28/21:11)
また、イエスが予め語っていたように『真理の全容に案内する』という、『知識』の賜物もあり、その働きで各地の弟子たちはその教えを混乱させたり、異なった教理で分裂してしまう事態を避けることができました。(ヨハネ16:13)

それで、パウロと異なる意見を持つ弟子が出てきても、パウロは徹底的に反論する必要がなく、却って『これと違った意見を抱くことがあっても、神はあなたがたに啓示してくださるでしょう』と穏やかに言うことができました。(ガラテア5:10/コリント第一14:37/フィリピ3:15/ヨハネ第一2:20-)

このように、聖霊の賜物は「異言」のように人々に広く福音を知らせることを助けるものもあれば、弟子たちの全体の一致を保つことを助ける働きもあったと言えます。

当時の集まりは、これら様々な聖霊の賜物を通してプログラムが満たされ、人々はそこから信仰上の糧を得ることができました。
パウロは当時の集会を秩序立て、異言を話すならひとりずつ順番にして、できれば翻訳できる人を付けて聴いている皆が理解できるようにするようにと勧告しています。(コリント第一14:26-40)

さらに、使徒たちには「癒し」の力も与えられており、ペテロやパウロは死んでしまった人を生き返らせることも行っています。
それはあたかも、キリストの行った業を弟子たちが受け継いで地中海世界の各地に広げられたかのようです。これについてはイエスも『わたしを信ずる者は、わたしと同じ業を行い、しかもより大きく行う。わたしが天にゆくからです』と予告していました。(ヨハネ14:12)

使徒の生きている時代の初期には、信じて集まる人々のほとんどが、この「聖霊の賜物」を受けた人になったことが新約聖書の記述から分かります。
パウロは、これらの聖霊の賜物は、それを受けた人々がキリストと共になるように選ばれ召されたことの印であると語っています。(エフェソス1:14/コリント第二5:5)

キリストは既に天に戻っていますので、『キリストと共になる』とは、彼らもいずれは天に昇ってキリストのような霊の姿となって共に神に仕えることを知らせています。(フィリピ1:22-23)
使徒たちは、この人々を『聖なる者』または『聖徒』(ハギオス)と呼びました。この人たちの行う奇跡の業は、彼らが地上に居る間からキリストと業を分け合う者であることを証しているかのようです。(ローマ1:7)

聖霊を用いて、キリストは天から使徒や際立った弟子たちを導き続け、宣教に赴く方向を教え、迫害の際には傍にあって励ましを与えます。

また、「王国の鍵」を与えたペテロを用いて、まったくの異邦人であるコルネリウスのところの出向いて、選ばれた非ユダヤ人にも聖霊が注ぐというご自分の意志を遂行させ、そうしてペテロが鍵を用いて「王国」にユダヤ人以外の人々も含めさせるようにします。

これら、使徒時代の奇跡的で充実した業の進展は、聖霊によるキリストの天からの指導なしには成し遂げられなかったことでしょう。

しかし、使徒時代の後期になると、弟子の中には聖霊の賜物を受けない人が次第に現れてきている様子が聖書に散見します。(ヘブル6:9-10/ローマ8:9)
これらの人々は、自分に聖霊がないからといって神に捨てられているわけではありません。

むしろ、聖なる者たちの働きから益を得ることができ、それはキリストと聖徒が共になった後には、さらに贖罪されて地上で「神の子」となるので、アダムがそうであったような創造された本来の素晴らしい人間として地上で生きることができます。(マタイ5:5/詩篇37:11)
ですから、聖霊ない弟子らは聖徒たちの存在に感謝することができます。そして実際、聖徒に選ばれるということはけっして楽なことではありません。

パウロもペテロも、聖徒たちが『聖なる者』として『聖なる行状』を保つことを求めており、加えて彼らには迫害や誘惑があることが再三予告されています。彼らはイエスに続き、それらに打ち勝って『世を征服する』務めもあるのです。(エフェソス5:3/ペテロ第一1:15)

初期キリスト教は、多くの殉教者を出しましたが、死に面しても揺らがぬ信仰や静穏さには、異教徒からの同情や尊敬さえも得ることになり、それは結果的に更なる信者をもたらすことにもなりました。
イエスは、『わたしの杯を飲み干せるか?』と使徒らに尋ねましたが、それは彼らがイエスの後に続く決意を問うものでしたし、パウロはそれを『キリストへの死へのバプテスマ』と呼び、実際彼もローマで処刑されたとされています。(マルコ10:38/ローマ6:4)

しかし、今日のキリスト教徒の集まりに古代と同様に聖霊を持つ人を見ることはありません。もし、正しく聖霊を持つ人がいれば、キリスト教界はこれほど分裂はしていないことでしょう。
聖霊は神の御力であり、明瞭に働くのでパウロはその現れを、英語でマニュフェストとも訳される「ファネローシス」という語を用いて言い表しました。(コリント第一12:7)
それら教えや奇跡が組み合わされると、様々に集まった人々全体を益することができる意義深いものとなったことが聖書に窺われますので、本人の陶酔や自己満足で終わるようなものではなかったと言えます。(コリント第一12:4-12)


では、古代のように聖霊を注がれた聖なる者は、今日居ないのでしょうか。


 ⇒ 聖徒の伝承 






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