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非三位一体論者の挙例

2012.08.05 (Sun)
 三位一体を信奉しないキリスト教徒の歴史

   三位一体の教理を否定してきた教派および個人と集団

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ユダヤ教から進んだ原始キリスト教も、共に同じくエルサレム神殿で崇拝されていた唯一神”YHWH”*を崇めるものであり、イエス・キリストもその直弟子らも生涯ユダヤ教と神を同じくしていた。イエス自身、自ら『人の子』と述べ、また自らは『父を尊ぶ』とも云われ、祈りをも捧げるユダヤ教徒としての生涯を全うしている。イエスは福音書中では『神の子』であることを繰り返し語っており、十二使徒もパウロもキリスト・イエスが創造神であったとの認識を表す場面も記述も聖書にはない。

したがって第四世紀以前の「普遍的キリスト教」は唯一神を信奉していたことは明らかなことで、キリスト=メシアとは、神から任命を受けた印として、頭に「香油を注がれた者」の意であってユダヤ教の概念であり、神の使者ではあっても神自身ではない。
*(現在は発音不明となっている神の固有名を示す聖なる四文字でユダヤ人には「ハ シェム ハ メフォラーシュ」と呼ばれる)

旧約聖書に於けるその役割は、モーセに匹敵する偉大な預言者、世界を統べ治る王、人類の父、平和の君、大能の神(従属的)、契約の使者であり、新約聖書では贖い主、神と人との仲介者、裁き主(臨在時の)、神への道、命の与え主、聖徒の代理人、天の大祭司等がある。しかし他方で、創造の神、またアブラハムに現れた全能の神であるという概念は聖書中にない。

そこでキリストを神の座に就けるには、キリストをユダヤ教の神と同等にする以外に方法はなく、まず二位同質説からキリスト教界に取り入れられ、後にヘレニズム文化に見られた三面神体の神秘宗教から移植されたのが三位一体説であった。

以下の一覧の以前(第三世紀まで)の歴史では、キリスト教徒は絶対的多数が一神論を信奉していたところに、ヘレニズム異教に影響されつつあったキリスト教とユダヤ教徒との強い不和が影響し、ユダヤ教徒と神を分ける動機が生じ、また強まっていった。
キリストを神に祭り上げたいキリスト教徒の都合といえば、元来はユダヤ教に対する強烈な敵愾心であった。
しかし、第三世紀まではキリストも神か否かが論じられていたのであり、聖霊を加えた三位一体説の登場は、エジプトの異教における三神一組の影響を受ける第四世紀を待たねばならなかった。

三位一体派はアレクサンドレイア発の新生異端キリスト教であり、その変質的教理の登場には当然ながら異を唱える人々を避けることはできなかった。。⇒「アンブロジウス 俗世との岐路に立った男


◆アレキサンドリアの執事(ディアコノス)であるアレイオス(ca.250-ca.336)

 このアレイオスから「アリウス派」いう半ば侮蔑を含んだ名称が生じ、以後は非三位一体論者は一括りにこの名で呼ばれることが多くなった。しかし、普遍教会には初めから三位一体は存在しなかったので、「アリウス派」の名称を付されるようになったのは、論争が高じるようになった後からである。

 アレイオスはリビア(キレナイカ)の出身者で、誰も彼の人格面について攻撃していないところは、アタナシオスとは異なり、高潔なキリスト教徒であったと考えられる。
 シリアのアンティオケイアで学び、師はルキアノスであり、オリゲネスの影響を受けていたと言われる。
その後、彼は道徳的に厳しいドナトゥス派の頭目の一人、メリティオスに加担し、一時は普遍教会から追放されていたところを、アレクサンドレイアのディアコノイの叙品に含まれ、復帰を果たしたとのことであるから、道義に厳しい観点があったように見受けられる。彼は弁舌に長けた人でもあり、周囲に慕う人々も少なくなかったという。

 彼が、この論争に入ったときには、既によい齢に達していたというので、三位一体説は彼の人生の終わり近くなって始まったものか、あるいはその主張を強めたと見ることができるが、それは第四世紀に入ってからということになる。
 第三世紀にはオリゲネスが、「子は父よりも小さい光」と述べており、「子と父は実は同じ神だった」という神概念を第三世紀の資料に見出すことはない。しかもオリゲネスはアレクサンドレイアの出身であり、第三世紀前半の彼の時代にはその地に三位一体説は無かったことになる。

 それで、ローマ帝国周辺の諸部族が「アリウス派」を信奉していたというよりは、唯一神論の方がヘブライの古から信じられてきていたのであり、シンプルな神認識は古来のものであった。辺境にゆくほどに古いものが残るという実情に鑑みても、これは説得力を持つ。当時のアレクサンドレイア市はローマに劣らない大都会であり、より先進的で洗練されたギリシア語文化の中心都市となっていた。
 三一派からすれば、古来の信徒に「アリウス派」のレッテルを貼ることで、後出の彼らは優越感と排撃の便宜を得た。しかし、単純明解な唯一神論が後から発生したのではなく、三位一体説が異教神秘主義的ヘレニズム思想の混沌とするエジプトから後から発生したという方が有体と言え、より複雑なものは後から造られるものである。

西暦紀元以降の時代のアレクサンドレイア市では、エジプトとギリシア、またオリエント東方など様々な宗教や心霊術の混沌とするようなキリスト教にとっては危うい地域であり、オシリスなど三つ組を構成する神々が信奉されていた。加えて当時のギリシア哲学は非常に宗教的になっており、哲学の中心は既にアテナイからアレクサンドレイアに移っていた。しかもキリスト教側も哲学者で教父のユスティヌス以来ギリシア哲学と迎合を始めており、第四から第五世紀にはギリシア哲学を通してキリスト教が解釈されるまでに変化していた。そこでキリスト教が時流にのった思想を利用して信者を獲得しようとするには多くの危険が伴った。つまり、キリスト教を実質的に異教に入れ替えてしまう危険である。

 三位一体を推進することになる監督のアレクサンドロスや執事のアタナシオス(298-373)とは、元々同じアレキサンドレイアの教会(エクレシア)に属していたが、執事アレイオスはアタナシオスより50歳ほど年長だった。「キリストは神によって創造され、したがって神より後に存在するようになったゆえに、み子なるキリストは、父なる神に従属しており、本質を異にする」という従来のヘテロシウス説を唱え、ニカイア会議で一度は敗れるが皇帝の心変わりを得て、その後も旧来の一神論は、しばらく帝国内では優勢であり続け、特に帝国辺境では広く信じられていた。



◆エウセビオス(ニコメディアの)341没
 教父時代における聖俗両面で影響力の非常に大きな人物であり、ニケアー会議でもアレイオスの擁護者で弁の立つ人物であった。
彼は、335年にコンスタンティヌス大帝を動かしてニケア議決をひっくりかえし、三位一体派を禁令に処させたうえ、アタナシオスもアウグスタ・トレヴェロールム(現ドイツ・トリーア)に追放させた。臨終のコンスタンティヌス帝(337没)に洗礼を施したのは彼であると云われている。以後、ウァレンティアヌスⅡ世に至るまで(異教のユリアヌスを除いて)皇帝は代々一神論を信奉したが、その基礎を据えたのがこの人物であったと言える。


◆ウルフィラス (ca.310-383)
四世紀に於ける蛮族への宣教で非常に有名な人物
非ゴート族でカッパドキア出身のギリシア人、蛮族によって奴隷にされた、或いは奴隷に生まれたか、若年期に捕虜になったかもし知れない。ゴート族として成長し、彼は後でギリシアとラテンの言語に熟達した。
彼はニコメディアのエウセビオスにエピスコポスに任命されたが、彼の出身地のゴート族は彼を宣教者として迎える。
ゴート族の首長からの迫害があった348年に、コンスタンティヌス二世の許可の下にモエシアのイストルムのニコポリスに逃れる。
そこで彼はギリシア語からゴート語に聖書を翻訳する。その過程でゴートアルファベットを考案。その写本はウプサラ大学図書館で1648年以来保管されている。それが「銀の聖書」と呼ばれるオストロ・ゴート王テオドリックのために作られたもので、ウルフィラスからおよそ百年後にラヴェンナかブレシアで製作されたものと考えられる。ラヴェンナ市には、今日も一神派のバジリカが複数建っているのを見ることができる。
彼は後に[http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20140317/1395013956:title=ドロストルムのアウクセンティウス]となる男子を養子にとっている。
彼については主に五つの人物伝が伝えられているが、ふたつはアリウス派で三人がカトリックによる。


◆メディオラヌムのアウクセンティオス -374
エピスコポス・アンブロジウスの前任者で一神論派のギリシア人、ラテン語は不自由したという。
彼はその地位をピクタヴィウムのヒラリオスに脅かされていたが、皇帝コンスタンティアヌスⅡ世が一神派であったために保護され、生涯をメディオラヌムのエピスコポスで終えることができ、三一派のヒラリオスはフリュギアに追放されている。


◆ドロストロウムのアウクセンティオス
ドロストロウムはドナウ河畔の現ブルガリアのシリストラ、ローマ帝国ではモエシア州に属し、ゲルマン諸族との接点に近い辺境であった。彼はアレクサンドレイアでディアコノスを務めメルクリウスの渾名を持っていた。
メディオラヌムの自分と同名の前任者で一神派のアウクセンティオスの支持者でもあったが、彼の死去によりメディオラヌムのエピスコポスに推挙されていたが、三一派に担ぎ出された知事アンブロジウスに敗れている。
若いころウルフィラスの養子になったとも


◆ラティアリアのパラディウス
ドナウ河畔のラティアリアはダキア州にあった。彼は一神論派の論客であり、アンブロジウスは自著「信仰論」の中に彼を批判するための書「一神論派の駆逐方法」を加えて皇帝グラティアヌスに献上し、その影響力を除こうとしている。
このパラディウスも辺境のエピスコポスであり、素養ある熱心な一神論者の有能な弁士であったため、三一派に加担したアンブロジウスに討論を申し込むが、勝てないことを悟ったアンブロジウスは皇帝を動かし政治力を用いて彼を討論の場に出させなかった。


◆シギドゥヌムのセクンディアヌス
ラティアリアのパラディウスと共に、381年に行われたヴェネツィアの東80kmにある町アクレイアでのアンブロジウス一派との討論に出るはずであったが、皇帝テオドシウスの権力の脅しを恐れて討議には出頭せず、パラディウスと共に地元から投票にだけ加わったが、アンブロジウスの政治力に屈し、三一派の優勢を崩せなかった。


◆コンスタンティウス帝(位337-361)及びウァレンス帝(位364-378)
 一度、ニケアーの議決が覆ったため三位一体派が衰退し大帝コンスタンテヌスの子、コンスタンティウス帝、ウァレンス帝と三位一体を特に信じない古来の一神信仰を持つ権力者が続く。

以後のカトリックの歴史では考えられないことだが、コンスタンティウスⅡ世帝は東方教会と共に、ローマの司教リベリウスに圧力をかけ、連綿と続くローマ教皇の中でただ一人三一派から一神論派に転向させることに成功している。それがため、ほかに迫害に屈してトラディトル(妥協者)となった教皇や行状芳しからぬ教皇が多く居たにも拘わらず、この時期、一神論と三一派を行き来したリベリウスだけがカトリックの「聖人」に列せられていない教皇として名を留めている。

こうした帝国の一位論優勢が覆るのは、受洗もままならぬ地方長官であったのが、突然に三位一体派によって俄か司教に祭り上げられたアンブロシウスを待たねばならず、このミラノ司教が、ふたりの皇帝の上に権威を振りかざすようになって「カトリック教令」を下させた380年以降にようやく権勢の強制によって三一派は勢力を盛り返す。その教令は、以後はエジプト式のキリスト教を普遍(カトリック)とすることを定めた。その後は一神論派の集会が権力によって禁じられる ⇒ アンブロジウス当時の三一派の趨勢


◆ウァレティアヌス二世帝(位375-392)
 ウァレンス帝の子で母ユスティナの信仰を受け継ぎ三位一体派ではなかった。
アンブロシウスに膝を屈め、三位一体を強要されたグラティアヌス(位375-383)とテオドシウス(位379-395)のふたりの皇帝に挟まれ存在感は薄かった。この皇帝の死の前後して、アンブロシウスが使嗾した「アリウス派」への過酷な迫害が始まっている。


◆スティリコ 365-408
 テオドシウス一世を支えた将軍、メディオラヌムを攻囲したゴート族を撃退している。
父はヴァンダル族の軍人、母はローマ人。
彼は自分がローマ人でない自覚を持っており、周囲は彼をアリウス派としていた。
 ホノリウス帝は彼に内通を疑いラヴェンナで処刑してしまうが、そのために西ローマは軍の中核を失い、スティリコに従っていた多くの蛮族出身の将兵が敵方に寝返り、西ローマの滅亡を早める結果となった。


◆東ゴート王テオドリック、及び東ゴート族
 493年以降イタリアのほぼ全域を50年に亘って支配した東ゴート王国は一神論を信奉していたので、首都であったラヴェンナ市などには今だに「アリウス派」のものとして建てた教会堂が複数現存する。

 テオドリック王曰く「宗教は王といえども自分の意のままに左右しえない事がらである。なぜなら、何人もその意志に反することを信ずるよう強いることはできないからである」と自ら述べたように、彼は一方でカトリックの保護も行って宗教上の寛容さを示してもいたのだが、それと共に当時イタリアの非三位一体派には無理強いする必要のない自然さがあったことが分かる。
 東ゴート族はその王国が滅亡に至るまで、アリウス派と唯一神論を保った。


◆ブルグンド族
北欧バルト海に浮かぶ島由来のこのゲルマン支族がいつから一神論の古いキリスト教に改宗したかは定かでないが、西ローマは彼らを「アリウス派」として警戒していた時期があり、それは彼らが第二ブルグンド王国を維持していた時代まで継続していたという。その後、西暦500年頃を境にこの対立は解消されカトリックに同化した。


◆西ゴート族
  南フランスからヒスパニアに居住していた西ゴート民族も、司教ウルフィラスの働きもあり「アリウス派」を信奉していた。5世紀半ばから、711年までスペインに存続した西ゴート王国は、「アリウス主義」の拠点であった。
 後にフランク王のクローヴィスがローマと組んで西ゴート族の地に攻撃を仕掛けるに際し、「神の加護を得て」アリウス派を屈服させる意図を前面に出し、数多くの惨殺を行こなわせたが、教皇グレゴリウスは、彼らがカトリックの正統的信条を擁護したとの理由で彼らの残虐非道の罪を赦すよう祈願したという。
 修道院で教育されたフラビオ・レカルドⅠ世王が第三回トレド会議(589年)において自らカトリックに改宗する旨を示し、西ゴート王国の国教と定めて後はアリウス派も衰微していったが、ヒスパニアには、アフリカから別の完全なる唯一神論、ユダヤ教同様に三位一体を異端とし「三位などと言ってはならない」とするイスラム教が迫りつつあった。



◆ネストリウス派
 アレクサンドリア総大司教キュリロスの神性不可分説に対し、アンティオケア学派出身でコンスタンティノポリス総主教であったネストリウス(ca.381-ca.451)は、キリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つの位格に分離されると考えた。それゆえ、人性においてキリストを生んだ「マリア」が神の母(テオトコス:Θεοτοκος)であることを否定するが、これは神母マリアを崇拝する普遍教会の許すところではなかった。(マリア崇拝がイシスやキュベレなどの地母神崇拝との結びつきを指摘されることを普遍教会側は恐れていた)

 この派はエフェソス公会議において異端とされた後、498年セレウキア・クテシフォンに新しい総大司教を立てるなど、東方世界に活路を見出し、その一部は変質しながら中国までに及び当地では「景教」と呼ばれた。現在もカルデア典礼カトリック教会と呼ばれ中東に存在しており、アメリカやオーストラリアの移民の中にも信徒がいる。


◆ロンゴバルト族
  ゲルマンの一支族で、5世紀から6世紀にかけて北イタリアを占領した民族。
 彼らは前住の東ゴート族の信仰を取り込んで非三位一体信仰であり、アタナシオス派のローマ人を迫害するほどの勢いであった。現代イタリアのミラノを中心とした州の名「ロンバルディア州」にその「長い髭」の意をもつ名を留める。


◆ヴァンダル族
  北アフリカに及んだゲルマン民族で、スペインのアンダルシア地方にその名の痕跡を留める。ヨーロッパの東ゴート族・ロンゴバルト族の時期に前後してジブラルタルからモーリタニアそしてチュニジアへと侵入した。
 ヒスパニアに居住する以前の四世紀半ばから非三位一体のキリスト教を信奉しており、この民族により、455年、帝国の象徴的中心であったローマ市は西ゴート以来再び外敵に占領された。ヴァンダルによる略奪は激烈という程ではなく、倒壊した建造物はなかったが、それは帝国内を震撼させ、また三位一体説を採りはじめた当時のローマ教会をも圧迫した。
 三位一体の強力な論客、ヒッポの「聖」アウグスティヌスはこの唯一神論を信じるこの「蛮族」の攻囲の中で息を引き取った。430年
 ヴァンダル族も滅亡まで「アリウス派」であり続け、最後の王ゲリメルもローマに捕虜となった後に、貴族に列せられる特権を固辞してすら一神論に留まった。



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改革期以降


◆ジョーン・ボーシェイ Joan Bouchey (あるいはブッチャー)

 ヘンリーⅧ世治下の英国で、この女性は王室内の女性たちに翻訳の禁じられていたはずのウイリアム・ティンダルの新約聖書を頒布したために捕えられた。査問委員会は、彼女が再浸礼派と関連があり、更に三位一体を否定することによって公然と「神を冒涜した」とし1543年に断罪し、ヘンリーVIII時代以来、相当数の処刑が行われていたロンドンのスミスフィールドに於いて、エドワードIV世治下の1550年5月2日、火刑に処された。


◆ミゲル・セルヴェト Miguel Serveto (1511-1553)⇒「セルヴェとその影響

 スペイン出身の医師にして法律家、気鋭の科学者であった。三位一体を含んで当時のキリスト教会の教理や慣習を痛烈に批判した著書を数多く出した。

 ことに「キリスト教の回復」では三位一体を「理解することができず、物事の性質上あり得ない事柄であり、また実際に冒涜的な事柄とさえ看做せる」とし「三頭の怪物」とまで述べた為、当然のことながら、やがて彼はカトリックに追われる身となり、逃避行の途上スイスに差し掛かったところを、自らの知人でもあった新教の改革者ジャン・カルヴァン、まさにその人の慫慂によってとろ火でじわじわと五時間をかけて焼き殺された。
これはカルヴァン最大の汚点とされ、1903年にジュネーヴ市シャンペルの丘にはこの一件の贖罪の碑が立てられた。

 宗教改革に求められたのは、旧来の教えに慣れた大衆がついてこられる程度の、相応しいカトリックの調整であって、当初はルターでさえ新派の立ち上げを意図してはいなかった。
 キリスト教回復の不徹底が社会総信徒制の宗教体制の限界であり、この当時にはフマニスト(人文主義者)らの活動によって、ようやくにギリシア語やヘブライ語文献の再調査が始まり、キリスト教に染みついた中世スコラ哲学の誤謬に一部の識者らが気付き始めた段階に在ったため、非三位一体説や再浸礼派などのキリスト教刷新は、不穏当な極論とされかねない状況であった。


◆ダヴィード・フェレンツ Dávid Ferenc(1510‐1579年)

 トランシルヴァニア出身でザクセン系のハンガリーの聖職者、ルーテル派から改革派、そして唯一神論者となる。
彼は聖書中に三位一体の根拠を得ず、聖霊のペルソナに疑いを持ち、1565年から三位一体を論駁し始める。
1568年からはトランシルヴァニアでユニテリアン教会を創始、三位一体を教えず却ってそれは「聖書に反する」とした。また、キリストが神に祈っていたことからキリストの神性を否定した為にトランシルヴァニア公と衝突、終身刑を宣告されトランシルヴァニアのデヴァの獄中で病死した。現在、その牢獄跡でフェレンツが記念されているのを見ることができる。

しかし、彼はトランシルヴァニアにユニテリアンのヨハン・ジークムント*学院を興しており、彼の意志は義理の息子ヨハン・ゾンメル(Johann Sommer)、次いでギョルギィ・エネディ(György Enyedi)へと学院に受け継がれ、後の唯一神論者たちも絶えることなく、現在もハンガリー・ユニテリアン教会が積極的に活動している。
英語圏のユニテリアンは19世紀まで、彼らの存在に気付いていなかったという。

*彼がこの名を学院に冠したのも、トランシルヴァニア公ジークムントⅡ世ヤーノシュ(1540-71)に彼が献策したトルダの勅令が1568年に発布され、様々な宗派を理由に迫害することが全面的に禁じられたことへの感謝が込められている。この勅令は16世紀にしては極めて先進的であった。
<György Enyedi(1555-28 Nov. 1597) Hungarian Unitarian bishop,The John Sigismund Unitarian Academy in Kolozsvár a theological school founded in 1557 by the Unitarian Diocese of Transylvania.>

◆レリオ&ファウスト・ソッツィーニ(ポーランド同胞団)1539-1604

  ミゲル・セルベトの刑死を目撃していたレリオは、受刑者の決然とした態度に感じ入り、丹念に聖書を見直してその非三位一体を確信した。
 その後、自らの弟ファウストと共にローマの検邪聖庁の追っ手を逃れてポーランドのクラクフに至り、その地の再浸礼派と合流し小改革派を起こした。
 これら信徒は三位一体説を退けポーランドで成長した派として確立されたが、後にイエズス会による情け容赦ない迫害を受け四散。   

 その派のごく一部はカトリックの及ばないイングランドに渡って、その後のユニテリアン運動の母体となった。


◆ジョン・ミルトン(1608-1674)

 あの「失楽園」の著者、この一冊を読んでも彼が神とキリストを被造物として明確に区別して役割を与えており、部分的にせよ17世紀イングランドの知識階層に三位一体放棄の気風が漂っていたことを今に伝えている。
彼は単なる詩人ではない。「宗教改革論」を著すほどの宗教の論客であり、その中では、ブリトゥンの改革の遅れた原因を指摘し、改善を促してもいる。またヘブライ語については、ロジャー・ウイリアムズに教えるほど通じていた。
1641年には、ローマ教皇を『大いなるバビロン』と見做しているところも、当時の新教側に立っていたことを示している。実際に彼は清教徒革命のオリヴァー・クロムウェルを支持して、カトリックに抗するイングランドの役割に深く期待していた。
1650年にはポーランドのソッツィーニ派由来の”The Racovian Catechism”(「教理回復」)の出版の行っている。


◆アイザック・ニュートン卿

 歴史上最大の科学者としてあまりにも有名なこの人物も、本件に関して物理学以上に多量の文書を残している。
 殊にその著「二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述」(1754年)にギリシャ語本文のなかへ、あたかも三位一体を言い表しているかのように挿入された偽のふたつの聖句を指摘し、自らの三位一体に対する「理解できないものは信仰の対象たり得ない」との主張を、地位を失う恐れから公表を控えた文書のなかでこそは雄弁に語った。

 彼が錬金術にのめり込んでいたことは膨大なメモの存在が証しする通りながら、他方で丹念な聖書研究をして唯一神への結論に達したのであるので、単に「アリウス派であった」とフリーメーソンの密議参入者と同様の怪しさを匂わせるのはどうであろう?彼の精緻な聖書研究が非三位一体論を自己発出させたと考えていけない理由はない。
 ともあれ、あたかも三位一体を裏付けたかのようであったヨハネ第一5:7などの挿入句*が大抵の現代訳で省かれるようになっているのは、ニュートンを含む今日までの聖書学者たちの一致した見解となっている。(*3-4世紀スペインか北アフリカで挿入されたと考えられているという)



◆トーマス・エイケンヘッド Thomas Aikenhead (1676-1697)

 彼はキリスト教全般に対して批判的でキリストよりはムハンマドを好んだ。18歳の学生の頃から三位一体を認めずに絞首刑を辞することなく、スコットランドのエジンバラで1697年1月8日に処刑された。20歳であった。



◆ウィリアム・ウィストン (1667-1752)

 ニュートン卿の後任としてケンブリッジの数学ルーカス栄誉教授職に就くが、先輩が保身のために公にしていなかったことを熱意に燃えて大いに明らかにした為、学士院から追い出され、その先輩にも見捨てられ科学者の地位を失うも、元から英国国教会に属し、後に「原始キリスト教再興」(1711)を著したが、世間からはほとんど共感されず、却って国教会側からその内容を告発される結果となった。ロンドンに出て1715年に原始キリスト教振興協会を設立することにより、三位一体の無かった原初の純粋さへの回帰を促した。
その後はバプテスト派に属したが自身は、イスラエルの帰還が近付いていると説いて英国各地を巡っている。



◆ジョセフ・プリーストリー(1733-1804)

 酸素を発見した化学者として歴史に名を残したが、三位一体を否定するユニテリアン教会の牧師である。というよりは、ユニテリアンの唱道者リンゼイの友人であり、その新しい宗派に協力を惜しまず、自らも説教壇に立ったということらしい。

その著書の「誤りと迷信という古い建物を爆破して」という、先鋭的題名が災いしてか、英国国教会信徒に家を襲われ晩年は渡米した。



◆ユニテリアン運動

 イングランドでは早くも13世紀から聖書研究が学者や民衆のなかで進められており、三位一体を否定し、神の唯一性を信じる主義は一定の歴史を持つといえる。一位論は16世紀海を越えてニューイングランドに移植され、英国と共に北米で発達。

 最初の「ユニテリアン」としての集まりは、唱道者リンゼイによる英国で1774年のことであったという。当初から信徒の信念をそれぞれに保つという自由度の高さがあったが、礼拝方式の斬新な変更は当時の人々を困惑させることもあったという。

後にピューリタンの地マサチューセッツを訪れた内村鑑三を最初に迎えたのも、福沢諭吉が日本向けのキリスト教として着目したのもこの教派であった。現在もボストンを中心にユニテリアンの教会が存在しており、それなりに「市民権を得た教会」と云うことができよう。

 イエス・キリストを宗教指導者としては認めつつも、その神としての超越性は否定するこの運動は英米において今日も健在であり、特に米国のUUなどの団体は少数者の信教の自由を擁護する面で大いに活動している。



◆キリスト・アデルフィアン派 (Christadelphians)

 北米で1845年頃に発足したとのこと、当初はグループの名称がなかったが、南北戦争当時良心的兵役拒否を貫くべく登録の必要が生じ、その時に英国生まれの医師ジョン・トーマス(1805-1871)が急遽代表するかたちで名称をキリスト・アデルフィアンとした。その後も良心的兵役拒否を続け二度の世界大戦もその立場を堅持し、代替作業を受ける許可を得たが、ドイツでは犠牲者を出している。

 教理では、三位一体を退け、地獄や霊魂不滅も否定、永遠の命に入らない魂の消滅、死者の復活とキリストの地上への再臨と王国の到来を信奉。ただし、キリストの地上生誕以前の存在は認めていない。また、悪魔を抽象的悪の性質と捉え、実在するものまた、堕落した天使とは見ていない。聖徒と信徒の区別はなく、罪によって神と隔てられた人間はキリストの弟子となり和解する。

 集団内では僧職階級を設けず、集まりを「エクレシア」と呼び、19世紀に英米で繁栄、20世紀半ばから英米豪で再び増加傾向をみせている。今日では120か国に5万人の信徒を持つ。
日本にも幾らかの信徒が存在するということである。



◆エホバの証人派
 
 ここの信徒らは認めないかもしれないが、長いスパンで見ると、英米のピューリタンの気風を受け継ぎ、聖書に綿密に従おうとする幾つかの派が現れたが、「国際聖書研究者協会」(前身)もその一つと言えよう。
 特に年代計算による預言解明を行う19世紀当時の密議解明の流行に同調した創唱者のチャールズ・ラッセルが、1876年からアドヴェンティスト派との共通する教理を唱導し、そこから「七つの時を2520年」とするウイリアム・ミラーに源を発するアメリカの覚醒運動の教理の流れを汲んでいる。しかし、三位一体はアドヴェンティスト派以上にはっきりと否定され、キリストの贖いの教理は明解となっている。

 独自の教義は、1914年を強調して大患難の勃発と携挙を予告したが、アドヴェンティストのような失望を経た後、やはり1920年からは二代目会長の下で教理をSDAのように「天での成就」に変更し、世界大戦等の社会悪を印としてキリストの臨在が1914年以来始まっているとされ現在まで継承している。
 周囲をサタンと断じ、正義感むき出しで三位一体等を暴いている事もあって、彼らに対するキリスト教界からの風当たりは今も強い。ともあれ、現代人には身近で気性の激しい非三位一体論者ではある。
 終末の時がいつになるかを預言したことの結果として20世紀後半にピークを迎え、21世紀に入り減衰が見られている。



◆ライナス・ポーリング(1901-1994)

 彼の師にはアルノルト・ゾンマーフェルト、ニールス・ボーア、エルヴィン・シュレジンガーなど物理学の大御所が居並び、物理学を応用した彼は化学結合の性質を解き明かし「分子生物学の父」と呼ばれ、この分野でノーベル賞をひとつ受けている。
彼はオッペンハイマーに原子爆弾の研究(最初の核実験は「トリニティ」と呼ばれる)に誘われたが、平和主義のゆえにこれを辞退。むしろ地上核実験の廃止を国連に訴えて米国内からは共産主義者のレッテルを張られる。
しかし、1963年にフルシチョフとケネディによる部分的核実験禁止条約が発効すると、彼はノーベル平和賞も受賞する。
 このほかに、大気汚染の憂慮して1950年代に早くも電気自動車の開発に着手するが、電池の進歩がない限り普及しないことを見極めてこの計画に中止を提言している。その先見性は21世紀の今日にあって電気自動車の躍進に証明されている。
この優れた学者もまた三位一体を信じないユニテリアンであった。




◆小田切信男(1909-1982)

 北海道で聖公会のバプテスマを受け、戦後に東京で医院を開業。
その間、東京神学大学夜間講座で受講生、また日本聖書学研究所で聴講生、医院二階をこの研究所として提供、後に日本聖書学研究所名誉会員。

 YMCAのメンバーであり神学者であるスイス人のエミール・ブルンナー教授が、設立されたばかりの国際基督教大学(ICU)の客員教授として来日した折に二つの質問を提起、1つめは、キリストの神性を認めることが、そのままキリストの神告白となるべきかどうか。2つめは、キリストを神とすれば神が死んだことになるが、聖書の立場からして神は死ねるものかどうか。いずれについてもブルンナー教授の解答は得られなかったという。
イエス・キリスト御自身は神ではなく、神といえば必ずイエス・キリストの父なる神であるとの見解を表明。⇒ 小田切信男氏の福音論







こうして概観すると、理系の優れた人々に非三位一体論者が多いことが分かる。
分析的な思考をする場合、アミニズム的、スピリチャルな要素に非理性的蒙昧を嫌悪する以外ないように思われる。

一方で、中世の暗黒のままに現代のキリスト教が三位一体を護持している理由には、欧州がキリスト教社会であり、キリスト教を大衆の精神を規制し秩序を与える必要があることに起因している。ローマ国教化から、ヨーロッパ封建制、主権国家の概念の登場に至るまで、キリスト教は個人が懐くべき信仰ではなく、社会単位の信仰であり続けてきた。
そのために、大衆の信仰心の限界を超えるような変革は不可能であり、もはや社会的キリスト教は原始の姿に回復できるような状況にない。
「三位一体」の信仰は、「天国と地獄」また「十字架」の象徴と共に、大衆のご利益信仰を形成しており、大衆は『この世』以外の何者でもなく、『この世は邪悪な者の配下にある』以上、唯一神のキリスト教信仰が優勢になることは期待ができない。
世界は、三位一体を信じるキリスト教が趨勢を占めたまま終末を迎えることになるだろうが、それこそが神の遠謀深慮であると言える理由がある。

  ⇒ 三位一体論について



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コメント
誤表記のご指摘を頂き、お詫び申し上げます。
現状のように内容を書き改めました。

確固として非三位一体説を唱える方々が日本にいらっしゃることは、大いに励みを得るところであります。


> 小田切氏をお取り上げ下さりありがとうございます。せっかく記載して下さったので誤記を2点、訂正させて下さい。小田切「信夫」とあるのは小田切「信男」です。それと「東京神学大学聴講生」ではなく、「聴講生」になった先は「日本聖書学研究所」で、東神大では「夜間講座」の「受講生」でした。以上、よろしくお願いします。
Shema Israel | 2013.06.15 10:14 | 編集
小田切氏をお取り上げ下さりありがとうございます。せっかく記載して下さったので誤記を2点、訂正させて下さい。小田切「信夫」とあるのは小田切「信男」です。それと「東京神学大学聴講生」ではなく、「聴講生」になった先は「日本聖書学研究所」で、東神大では「夜間講座」の「受講生」でした。以上、よろしくお願いします。
訪問者 | 2013.06.10 22:29 | 編集
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