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三位一体というパン種

2012.08.05 (Sun)
三位一体   Trinitas(羅)

教会員にとっては教えられるままに、三位一体を真実として受け容れている方々がほとんどであるので、実は三位一体の方が後から現れたと聞けばいぶかしく思うであろう。
つまり、初代教会はテオドシウス帝の発布した「カトリック教令」にしっかりと受け継がれたのであって、そこに一神論を主張するアリウス派という異端が後から現れたという説明がなされることが今日の趨勢となっているからである。

しかし、ユダヤ教から興った原始キリスト教は純然たる一神教であり、イエスも誕生後に律法に従い割礼を受け、生涯にわたりエルサレム神殿で崇拝し、その神に請願を祈り、また『自分からは何もできない』と云われるほどに神に頼る姿勢を見せ、『父のほかに良い者はいない』とも自らを低め、その地上の生活と犠牲の死を通して『従順を学んだ』と聖書も記す。
その使徒らもキリストをその称号の通りに神から任命された者として受け入れていたのであり、使徒ペテロは神への祈りの中で御子をダヴィデ王の呼称を踏襲して『あなたの僕イエス』と呼んでもいる。

キリストであったイエスは、『父の家』であるエルサレム神殿が商売や移動の都合で汚されていたのを見て、まったく例外的に実力行使に及んでいたが、それは神への忠節な熱心から出たことであったことが聖書に記録されている。
神と子が同じ存在であったとなれば、その熱心は単に神自身の憤りの表明となり、イエスの『わたしは父を尊んでいる』という言葉の意義も色あせてしまう。

もし、三位一体を教える教会と接触せずに聖書を読んだ人が神は三位一体であると考えるだろうか。
それは無理であろう。ユダヤ教が律法だけでは事足りず、無数の口頭伝承を加えて信者を規制してきたように、聖書だけ読んで三位一体を信じるはおろか、その概念さえ自然には持てるものでない。それはキリスト教界からすら三位一体を否定する人々が現れてきた歴史にも明らかと言える。
したがって、教会員さえもが「教会がそう言うのだから」と自分の中でつじつまを合わせて洗礼を受けるしかない。

当然ながら、複雑なものは単純なものより後に作られるのであり、単純明解な一神論が三位一体に置き換えられるのは第四世紀を待たねばならず、三一派がキリスト教界の趨勢となるには更に年月を要しており、その間には数世紀にわたる両派の一進一退の勢力争いが続き、遂に権勢に勝る三一派が趨勢を形作ったのである。

以下に、その来歴と影響を書き出してみよう。


■三者が等質で『唯一の』神

キリスト教における三位一体は、神は三つの位格(ペルソナ)を持っていて、1.父なる神 2.子なる神 3.聖霊 が共に一つの神を構成しているという。
東方正教会では「至聖三者」と呼ばれ、カトリック、プロテスタントという三大教派を中心に信じられてきた教えであるが、この三位一体を信仰箇条とする教派は、共通する教理を議決した公会議の名から「カルケドン派」とも、またヘブライからの教えを離れたギリシア=ローマ(グレコ・ローマン)型と呼ぶことも不適切ではない。

イエスも神ならば、その父も神であり、加えて聖霊も同じ「神」であり、しかも、その三者は等質にして不可分であり、その実体は三つではなく一つであるとされているのが三大教派の三位一体説である。
これを裏付けるかのような「アタナシウス信経」が、ローマカトリック圏内で根拠として利用されてもきたが、今日までにこの資料は五世紀の捏造であることが知られている。

ヘレニズム神秘主義の三神一体は、古代より様々な地域の多神教宗教において存在してきた教理のひとつである。
キリスト教においては、エーゲ文明に源泉をもつ神概念を萌芽とし、前4世紀のプラトンのギリシア幾何学(聖三角形)を媒介し、諸国の宗教に流行した三面神崇拝の渾融するヘレニズム思想がヘブライ由来のキリスト教が国際化に曝される中で、後4世紀(380年カトリック教令)に至ってエジプトからローマ帝国の法制度化と帝国の国教化を経て「キリスト教」に混じったが、それはローマ帝国も教会も東西に分裂する以前であったため、ヨーロッパで広汎に教理とされた。その後、西欧ではようやく五世紀に広範囲なキリスト教の教理として確立をみるが、8~9世紀にかけてもカトリックの十分に及んでいなかった辺境では依然として論争が残っていた。

■原始キリスト教以前の典拠なし

「三位一体」という言葉は、聖書全巻にも、新約聖書編纂より成立の早いとされる「ディダケー」にも皆無であることはよく知られる。使徒ヨハネの死去十数年後のアンティオケイアの教父イグナティオスにも、二世紀後半に殉教したアレクサンドレイアのユスティヌス(ca100-165)の著作にもその痕跡すらない。むしろ、ユスティノスはキリストは神に次ぐ”第二の位にある”ことを述べているし、キリストが創造物に先立って神と共にあり、”神はキリストを通して万物を美しく整えた”と述べ、コロサイ書第1章15節と調和した見方を唱えている。(第一護教論13:2-4/第二護教論6:1-5)

「三位一体」の言葉そのものを記す古いキリスト教の著書としては、西暦180年ごろのアンティオキアの教父テオフィロス(?-ca183)の著書に初めてτριας[トリアス「三位性」の意]というギリシャ語によって現れてはいるが、そこで後の三位一体説を唱えていない

 三位一体と同義のラテン語で[トリニタス]という語を用いたのは三世紀の教父テルトゥリアヌス(ca150-ca220)と云われているのだが、カトリックの刊行物も認めているように、テルトゥリアヌス自身も三位一体の意味においてその語を用いていない。

前述の教父テオフィロスの時期のキリスト教にも三位一体の概念がなかったし、アレクサンドレイア出身の著名な初期ギリシア教父オリゲネス(ca185-ca254)もまた”父と子は、その本質について言えば二つのものであり・・・父と比べれば子は非常に小さな光である”とその著書「諸原理について」の中で述べている。その理由については”「御子が御父よりも優れた方ではなく、劣った方であると言明する。私たちがそう言うのも、「私をお遣わしになられた方は私よりも偉大な方である」と言った方を私たちは信じているからである”とも言っている。
このように、第三世紀の使徒後教父文書にも三位一体を窺わせるような文言を見出すことはない。

エジプトのアレクサンドレイアには使徒伝来とされる司教座が置かれており*、アレクサンドロス大王による創建からプトレマイオス朝を経てローマに降って後もギリシア文化圏に属し、プラトン哲学的な思索と聖書の比喩的解釈で知られていた。即ち、この「世界の結び目」と呼ばれたこの学術都市は、キリスト教と多様な異教思想との危うい接点であった。(*使徒がこの地を訪れた記録は聖書には無い)

その当時はユダヤ教側も諸国民への宣教に取り組んで一定の成果を得てもいたことで、やはり諸国に広がるキリスト教には嫉妬を懐きやすい状況があった。やはりユダヤ教側は、自分たちの中から現れてきたキリスト教に対して激しく反対していたので、イエス派信徒に対するローマ帝国からの迫害に乗じて、密告はもちろんのこと、処刑の手助けも進んで行っていた様が古資料に残されている。
そこでキリスト教側は、ユダヤ教を強く怨んでおり、それはキリストの非ユダヤ化とキリスト教のヘレニズム化を強力に推し進める動機となっていた。

そこで、キリスト教がユダヤから全く取り去られ、ギリシア=ローマ独自のものへと再構成される下地は充分にあった。しかも、その間にユダヤ人イエス派信徒はユダヤ教側からの迫害に遭い、姿を消して行く途上にあった。ユダヤ人からすれば三一は勿論、メシアが神自身であるという教えはヘレニズム異教への堕落であり、受け入れることはまず不可能である。だが、キリスト教界はユダヤ人信徒を失ってゆくに従い、キリスト教の教師は非ユダヤ人に占められ、そこにユダヤ人との不和が働いて、異邦人主体のキリスト教界はヘブライズムを厭いギリシア文化に近付いてゆく。こうして二つの宗教は別の神概念の道を邁進してゆくことになる。
しかし、それは「聖書教」の分裂であり断片化でもあったので、双方から新旧の聖書を通じた一貫性ある貴重な理解が失われることを意味した。


■異教に観られる三一神
これらの状況下で、アレクサンドレイアは諸国の宗教とキリスト教混交の危険地帯であり、オシリスのエジプト三神組崇拝、またヘレニズムに見られるヘカテーの三面神崇敬への触媒の作用を及ぼす、また当時人種文化の混じり合うさまを「熱した溶鉱炉」というように表現もされていた。
それに加え、ギリシア哲学の中心地もアテナイからアレクサンドレイアに移っており、しかもその哲学は宗教化した時期にあった。
ヘレニズムの流行から、ユダヤ民族からもフィロンのようなヘレニズムとの折衷を指向する者さえ現れており、その路線を継承したのが、アレクサンドレイアのクレメンスのような異教哲学的「キリスト教徒」であったが、それは様々な宗教的ニュアンスの渾融を特色としていた。

アーリア系の宗教には三一の神々が特徴的に観られる。
ヒンズー教の「トリムールティ」とはブラフマー(創造神)、ヴィシュヌー(存続神)、シヴァ(破壊神)の三神によって諸相は変転を繰り返すとされる。仏教では、阿弥陀三尊で表され、阿弥陀如来像を中心に、勢至菩薩と観世音菩薩を伴う。「三尊」にはほかにも幾つかの配置があるが、仏教に限らず古来三つの崇拝対象は異教圏で採用されている。
イラン系のミトラ神、ヴァルナ神は、ミタンニ文化にまで遡るほど古い由来を持っているが、ヒンズーではアスラ族諸神の代表格でもあり、ゾロアストロス教のアフラ=マツダ神はイランでは太古のアスラ族の神でもあり、それはインドではアシュラとして仏教に入り、日本の興福寺に国宝として安置されている阿修羅像は三面六臂の姿であり、闘争の神として「修羅場」の語源をも提供している。

太古から、三神一体や三面を持つ神像はヘブライ文化以外で培われてきていたが、東西の文化が混じり合うヘレニズムの中心アレクサンドレイアでは、アーリア系からアジア・アフリカの宗教文化が混融する土壌にあった。西暦起源後にキリスト教がそこに入ったときには、ユダヤ教のようではなく排他性の弱いキリスト教には、教理の混濁する脆弱性があり、やはり、三位一体説が、二位論をさえ凌駕して登場する背景には異教徒の宗教概念の先在があったことを窺わせる。

■神名の問題
第三世紀まではキリスト教側でユダヤ教に対抗するために、神殿の消滅により固有名も曖昧となっていたユダヤの神に対してキリストの優越性を説く過程で、キリストも神とする傾向が高まりを見せていたが、それはユスティノス(mt)の著作「トリュフォンとの対話」にも見えている。だが、そこでは未だ二者論であり、ヘレニズム異教の三神論に同調したような形跡は残っていない。

ローマのクレメンスはその手紙の中で、コリントのキリスト教徒の不和を糾弾する文の中で「君たちは主の御名に冒涜を加えている。」と書いているが、この『主』がキリストを指すことは前の文章から分かるのだが、「御名」と有ればユダヤ人信徒であれば、旧約の神である『主』(アドナイ)つまり神YHWHと混同し兼ねない。当時にはユダヤ教ナザレ派は依然健在であったため(西暦100頃)その誤解はまだ避けられたであろうが、ユダヤ教からの信者が去った後のエクレシアではそれも期待できる状況にはない。

■強引な教説の開始と論争
しかし、後の第四世紀に入ったころ、アレクサンドレイアのエクレシアでは、キリストも神であるとの見解が支配的となり、更に進んではっきりと三位一体説を唱え始めると、執事(ディアコノス)のひとりであったシリア学派のアレイオス(250-336)は、キリストが神であるとの主張、また当時のヘレニズム影響下のキリスト教に於ける新たな三つ組の神を推進する風潮に異議を唱えた。
だが、他のディアコノイは趨勢に従って彼に反対し、エクレシアとしての結論をエピスコポス(監督)のアレクサンドロスが出したが、その裁定は、キリストも神とするというところとなって、アレイオスを破門に処してしまった。

こうして、アレクアンドレイアの監督アレクサンドロス(?-326)と、次いで当時若きディアコノス(執事)のひとりであったアタナシオス(298-373)は、明確にエジプト地域で古来優勢であった三神一体*をキリスト教のものとする意志をもった。その動機のひとつは、エジプトではキリストも神であることの理解は既に趨勢を成しており、都会的なヘレニズムの異教徒たちへの宣教を効果的に進めるという目的であったようだ。第四世紀当時のローマ世界の宗教の状況は、未だに大多数の異教の中にユダヤ教とキリスト教が熱心な少数者として存在していたに過ぎない。神秘主義の感銘を与えて取り込むべき雑多な異教徒が市井に溢れていたというべき状況であった。
*(オシリス(父)・イシス(母)・ホルス(子)の三一神、ヘレニズムでは三体合体の神ヘカテー(ローマでは「トリティア」)などの三面神の崇拝が古来からあった。哲学ではプラトンが幾何学を援用した「聖なる三角形」(直角三角形)が父神と母神の間に小神を生み出すことを説いている)
当時のローマ帝国は、キリスト教の法令による国教化と異教排斥の以前であり、帝国貴族や高官も依然としてギリシア・ローマの神々の崇拝者であって、それら知識層を占める異教を奉じる市民の多くを改宗される目論見を抱くなら、ヘレニズムとの渾融は手っ取り早い手段であった。だが、それを用いるならばキリスト教の純粋性から離れ、異教を取り込むことを意味する。

これに激しく反対し続けたのが、アレイオス(アリウス)であった。彼は父なる神と子なるイエス・キリスト、および聖霊は全く異なる(ヘテロウシオス)と抗弁して上長に逆らうことになり、新しい概念が大勢を占めつつあることに抗した。(キリスト神論争が始まった時点で、23人を数えたアレクサンドレイアのデイアコノイの中でアレイオスは二番目の年長者になっていた[A.Jones]CoE:142)

アレイオスの主張の概要は、「御子」はあらゆるものに先立って創られたが、「父」である神には先んじない、という簡明な事柄であった。(コロサイ1:15) しかし、エジプトでは古来の正統な教理は存在を容認されるものともならなかった。そこでエクレシアを主宰するアレクサンドロスはアレクサンドレイアに依存する諸都市のエピスコポイも参集させて評議し、アレイオスと支持者を破門としてしまった。

この分裂に対し、各地のエクレシアイは憂慮しアレクサンドロスとアレイオス両者を和睦させようと心を砕いた。その中にはヒスパニアの高名なエピスコポスであったホシオスも含まれる。彼は後に大帝となるコンスタンティヌスからこの調停を依頼されていたという。
一方のアレイオスはシリアのアンティオケイアで学んだ人物であり、オリゲネスの流れを汲んでいたとされるが、そのシリアのアンティオケア学派の同窓生らも各地でアレイオスの排斥は行き過ぎであると認識していた。そのようなひとりに、ニコメディアのエウセビオスもいた。

加えて、当時「三位一体」は今日のままの形で現れてはこなかった。それはエジプト以外ではまだ御子が神か否かの論争に終始していたのである。そこにはユダヤ教に対する強い嫌悪とキリスト教の優位確立への願望が作用していた。
当時の形勢は、この二位論(後の三位一体論)より一神論の信徒を持つ地方が多かった。その理由のひとつは、帝国辺境に存在した蛮族への布教は、原始キリスト教において続けられ、ローマより北のヨーロッパで専ら以前の唯一神の宣教が実を結んでおり、ヘレニズム異教の坩堝であったエジプトを別にした辺境に於いては一神論が趨勢を占めていたからである。

両者間の論争と確執は集会所の占有を巡って次第に各地に拡大をはじめ、帝国内に物議を醸しその騒動が政情にも影響するに及んで、クリスチャンを自認しただけのローマ皇帝までもキリスト教に肩入れし、その分裂を防ごうと考えて第一回ニカイア公会議が準備されるが、これは皇帝コンスタンティヌス主宰であるばかりか、様々な費用が国庫から支出されており、参加者は皇帝の権威に阿る状態にあった。

但し、この段階では依然「三位一体」までには至っていない、未だ、神とキリストが同質か否かの「二者」の論議に終始しており、「聖霊」を含む現在の「三位一体」がはっきりと教会議論の俎上に現れるのはこの第四世紀後半となる。
後に姿を現す「三位一体」はエジプトのエクレシアイで醸造されてはいたが、世に出る時節はまだ来ていなかった。


■帝国の介入
当時のローマ皇帝コンスタンティヌスは、ナタリス・インヴェクチ・ソリス(征服されることなき太陽の意)なる太陽神崇拝者であって、キリストと太陽神を混同していた上、死の直前までバプテスマを受けたキリスト教徒ではなかったのであるが、この問題については積極的に関わらざるを得ないと考え、自らが持つローマ帝国の最高神祇官(ポンティクス・マクシムス*)の立場も手伝ってか、自らをキリスト教指導者と見做し、帝国内の各地の司教(エピスポコイ「監督」)を小アジア(現トルコ)のニカイア(ニケアー)に召集をかけた。(*ローマ共和制以来の最高宗教職名でカエサルが多額の賄賂を払っても入手したという重職であるが、本来キリスト教とは何の関わりも無い。この顕職が後の教皇へと継承される)

 こうして、古代の蒙昧の内にキリスト教の教えが巨大な世俗権力の介入を最初に招いたのは、西暦四世紀の325年のことであった。
会議の議事録は残されていないが、その結果はアレイオスの敗北とはなった。 しかし、そこでまともな神学論争は行われなかったという。アレイオスの発言はしばしば無視され、その最中には故意に退席する者らもあったという。そして、最終的に裁可を下したのは、本来部外者のはずの皇帝であり、それも、まとまらない議事に介入してのことであったことをカエサレイアのエウセビオスが記している。

 議決に賛同することを最後まで拒否したアレイオスを含む三人は帝国の権力によって流罪とされる。
しかし、カエサレアのエウセビオスなど逡巡した中間派も少なくはなかった。多くの出席者は権力者としての皇帝の意向に従って議決を了承し、次いで皇帝を讃える祝賀の宴会に与った。

■ニケアー後の混沌
 こうして一旦は終わった会議ではあったが、皇帝御座所のニコメディアのエピスコポスであったエウセビオスが内々に働きかけ、皇帝の傍にあって議決を覆すに至り、それでなくてもキリスト教徒とも思えぬほど素行の芳しくないアタナシオスは、それも追い討ちとなって以後五度も帝国から流刑に処されることになる。

 その後、両者の形勢は一進一退であり、宗教の本質を更に外れて教勢を競い、そこに政治権力の抗争を伴って、宗教は政治状況に大きく影響され始める。この間に二位論は次第にエジプトの三位論への影響を強くしたようである。そこでは同時に、神が三位一体かそうでないかということよりも、どの宗教家が主導権を握るかという争点に入れ替わっていた。

360年にアタナシオスはカッパドキアの大バシレイオスの知己を得る。
このバシレイオスは修道制に於いてエジプトに倣うところあり、アタナシオスを介して多くの影響を受けている。
やがて、カッパドキア派はアレクサンドレイア派と共に、以後の「キリスト教」を形作ることにおいて主導的な役割を果たす。

加えてアタナシオスはローマにも流刑となっていた時期に、ローマのエクレシアに侮り難い影響を残しており、これも彼の死後に三一派を前進させる一助となるが、このように、皇帝はアタナシオスを流配させる度に各地に同調者を得させるという失態を犯してした。

■政治的決着
しかし、帝国外縁部での明快な一神論の優勢が覆されたのは、宗教の正統性の勝利とは縁遠い強引な権力による刷新であった。
この点では、メディオラヌム(現ミラノ)の官吏であった俄仕立ての司教アンブロシウスという人物を挙げないわけにはゆかない。彼は一神派に占められていたメディオラヌムの司教座が空いた時に、三位一体派によって担ぎ出された地方長官であった。バプテスマも受けるかどうかというところでいきなりに司教座を占めたのである。

この登用は、メディオラヌム市の三一派が大バジリカを占有して趨勢を決したばかりでなく、やがて帝国全体の流れを三位一体派に力ずくで変えることになった。それは彼が政治の手法を心得ており、ふたりのキリスト教徒の皇帝を三位一体派に改宗させたうえ、その施策までを諌める立場をとったからである。

キリスト自身は、自分を王にしようとする人々を避け、ペテロには武器の使用を戒め、政治では自分も弟子らも関わる風情も見せなかったのであるが、この元官吏はそうしなかった。グラティアヌスとテオドシウスというふたりのキリスト教徒の皇帝をまるで臣下のように手玉に取り、テオドシウス帝に政令を発布させ、帝国全体でアレクサンドレイア式の三位一体派キリスト教を正統とさせ、有無を言わさぬ権力によって一神派を禁じ、当時の趨勢を決定付けさせたのはこのアンブロジウスである。

その政治力による三一派の強引なキリスト教の「刷新」は、西暦380年のテオドシウス帝によって宗教上の決定的な施行を目的とした「カトリック教令」となって現れた。以後「キリスト教」と称する権利を持つものはエジプト式のものであり、それ以外は異端とされた。これに伴い古来ローマの神々の崇拝も禁止の措置を取られるに至る。
今日の「キリスト教」が、ユダヤではなくヨーロッパ文化のものと見做されるのも、キリスト教がローマ帝国の国教となり、こうして帝国がそれを規定したところに由来しているのである。

こうして、「正統派」のキリスト教は世俗権力にまみれ、自分たち以外をすべて迫害する程に変質して武器を執るようになっただけでなく、神概念を曖昧にする古代に流行したヘレニズムの神秘思想「三位一体」をカトリックとして強要したのであった。これが380年に発布された「カトリック教令」の効果である。こうしてヘブライ由来のキリスト教はグレコローマン文化の、即ち内面までヨーロッパの宗教へと変質を遂げた。⇒ アンブロジウス
また、死刑の刑具であった十字架をバジリカに飾って重んじる習慣も、アンブロジウスのウァランス帝の皇后ユスティナに宛てた書簡に表れている。その文面によると、一神論派は「十字架の前にひざまずく」ことを拒否していたことが窺える。その一方で皇帝はそれまでの十字架刑を禁止していた。


■テオドシウス帝の会議
325年に行われた第1ニカイア公会議はニカイア信条を採択し、アレイオスの破門とアリウス派の否定をもって終わった。しかしこれによってもアリウス派の問題は決着せず、政治問題も含めてより複雑化していた。
これを解決するため「カトリック教令」の翌年、381年に再び公会議がコンスタンティノープルで行われた。

主催者となったのはアンブロシウスに膝を屈するローマ皇帝テオドシウス1世で、行われた場所からコンスタンティノープル公同会議と呼ばれている。
コンスタンティノポリスは伝統的にアリウス派への賛同者が多い土地であったが、ニカイア信条の支持者であった皇帝テオドシウスは信頼していたナジアンゾスのグレゴリオスと共に会議を主導した。このカッパドキアの系統は大バシレイオスがアタナシオスと360年に接触して昵懇となることにより、すでにエジプトの教理を受け入れており、そこに自分たちの活路を見出していた。共通項として修道会が挙げられる。(また、おそらくは儀式で十字架を用いる習慣にカッパドキア派が積極的役割を果たしたように思える)
コンスタンティノープル公同会議の参加者は僅か150名ほどで、そのすべてが東方ギリシア圏からの参加者であった。

会議では最終的にニカイア信条を修正し、聖霊についての一文を付加するなど拡充し、翌382年には補足の会議が持たれ、そこでは「聖霊」の神格化も「決定」された。遂に今日的「三位一体」が会議で承認されて現れたのである。これらは「カトリック教令」に呼応するその後三年のことであった。国教化を通してキリスト教は個人の信仰によるものではなくなり、生まれによってキリスト教徒が造られる「コミュニティの宗教」となった。

この議決として、ニカイア・コンスタンティノポリス信条が採択され、アリウス派、サベリウス主義、アポリナリオス(シリアのラオディケイアの-390)主義およびホモイウジオス主義者(ニカイア信条に入っていた「同質」という言葉に反対し、「相似」(ホモイウジオス)という言葉を支持した人々)の呪詛も決定した。こうして帝国として崇拝する宗教の概要が定められた。

その後70年が経過して、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の方が「ニカイア信条」と呼ばれるようになってゆく。これは450年のカルケドン会議で強化されることになった。カルケドンのクレドでは理解不能の「キリストは唯一の同じ神」とされ、「神性と人性はふたつの位格に分割されない」ともされ、今日まで続く「三位一体」の形がようやくに整った。つまりキリストは人性を持つがまったく神であり、旧約聖書の神と同じだと云うのである。


以後、中世期に三位一体説は教皇権によるヨーロッパ封建制という世俗権力によって権威を与えられてきた。
それは、政治と宗教の癒着した姿であり、軍事力の脅しと地獄の恐怖によって大多数のヨーロッパ下層民を首尾よく統治する機構であり、それが擁護し続けてきたのが神の理解を阻む「三位一体説」であった。
こうして「キリスト教」と呼ばれる宗教は、ヘブライの香りを失い、ヨーロッパ臭い「グレコローマン」のものと変質し、以後はヘブライの祭りに変えてケルトやゲルマンの宗教習慣が後のゴシック文化へとなだれ込んだ。 歴史を俯瞰すると、三位一体説の混入は、キリスト教が変質を遂げる最初の一歩であったかの観がある。

しかし、ヨーロッパ封建制度のとうに終わった現代に、「クリスチャン」の大半が、未だに中世の蒙昧を後生大事に戴いているのは奇妙なことであるが、それこそが保守的な余りに時代の進歩を常に拒んできた宗教というものの実相である。この宗教世界では未だに中世で足踏みをし続けていると言ってよいであろう。

 一方、キリスト教の母体となったユダヤ教や、同じくアブラハム以来の啓典の神を崇拝するイスラム教もまったくの一神教であり、当然ながら三位一体をまったく容認しておらず、「キリスト教」を多神教に堕したものと見なす。神からメシアを約束されたユダヤ人からしてみれば、三位一体は汚れた異邦人の空想物に過ぎない。

しかし、キリスト教界に三位一体を招かせることになった様々な悪影響を硬軟取り混ぜて及ぼしたのは、明らかにユダヤ人によるキリスト自身と初期キリスト教徒への陰湿な反対行動にある。そのためにキリスト教徒側は、ユダヤ人と神も、安息日も、主の晩餐と無酵母パンの祭りさえも時期を同じくしない強い願いを懐いていった。

ニカイア会議の決議では、ユダヤの土曜の安息日とキリスト教の日曜安息の違いが法令化によって確定され、ユダヤの過ぎ越しとキリスト教の復活祭がけっして重なることのないようにとキリスト教において復活祭の日付だけが陰暦で定められるところとなった。
しかし、キリストの定めた「主の晩餐」はユダヤで年一度行われる「過越し」の延長線上にあることは否定できるものではないにも関わらず、キリスト教側は日曜を「主日」とし、無酵母パンをホスチアや発酵させたパンに入れ替え「パン裂き」(クラスマ)を行うべき日を年に一度ではなく習慣的に行う聖体拝受と変更したが、これが一般的教会で「日曜礼拝」と称される基礎を作った。
(例年のイースターの日付の移動にユダヤ嫌悪が顕著に表れている)

キリストを神の座に就けようという傾向も、ユダヤの名も忘れられた神を崇拝することを嫌ったところにあった。
神名については、セプチュアギンタと新約聖書では、ユダヤ人の習慣もあって使徒らの時代には既にヘブライの神の名が表れなくなっており、イエスがキリストであることを信じる「信仰」が強調されているところも「三位一体」を推進するものとなった。


◆教理の入り口に蓋をする「玄義」
「キリスト教」の擁護者たちによれば、一般人に三位一体を信じさせると、神に関する理解が複雑になってしまうが、これは神聖にして深遠なる「玄義」(人には理解不能のもの)であるとし、しばしば神の神秘を「理解する必要もない」と締めくくられる。
即ち、理解せずに信じよということである。しかし、理解できぬものは信仰できていない筈であり、聖書中のキリストの言動と三位一体の概念との違いは、しばしば信徒を動揺させるものとなっている。特にキリストの父への熱烈な神としての擁護と、自身の質素さ無力さとの対比や、一心に父を讃えて命までをも賭してゆくイエスの姿や自己犠牲の精神を「自作自演」に封じて無意味なものとしてしまうものが三位一体説である。

 それは福音理解の明解さから離れざるを得ないので、今日多くのキリスト教僧職者にとってもその難解のゆえに、質問する信徒たちに教えることがとても難しいと言われており、実際、信徒の側でも崇拝の対象が曖昧にされるものとなっている。

 そこで、それゆえにも理解を超えるキリスト教は「宗教」であるとも強弁される。それは「信仰するようになった者の中に聖霊が置かれ、その聖霊がその個人に啓示するもの」とのスピリチャル宗教のような教えも為されているとのことながら、それでは恰も童話のように、巧妙な詐欺師らに対し「裸の王様」の現実を言い出せなかった大人たちのような状況が信徒に中に見られることであろう。

しかし、宗教で最重要な崇拝の対象、つまり「神を知る」ことについて理解不能の「玄義」を置いてしまうなら、高度で難しい部分もあるというのでもなく、キリスト教の入り口に蓋をするようなもので、入門者を「神はだれですか?」という基礎の最初から理解させないということにはならないのだろうか。まさしくこの説は、キリストの教えを探求しようとする求道者の前に立ちはだかってきた。即ち、聖書全体の理解という宝の前に置かれた、これを理解してはならぬという封印である。

したがって、バプテスマを施す条件として「三位一体」を強制するのであれば、「神(もキリストも聖霊も)を理解しない」ことを条件にキリスト教徒となることを許していることになる。

 この説が成立した第四世紀当時から、正統派を自認する大多数のキリスト教各派は、この教理を有しない者を「異端」として多大の努力を傾注して退け、極刑を以って排除し続けて来た。
 これは中世から21世紀の今日までも似た精神状況にあり、ただ社会の方が個人の権利において進歩してしまった為に、「異端者」を正面切って暴力で排除できなくなっただけのことで、そのキリストに相応しくも無い陰険な敵意は温存されており、相変わらず「三位一体」は「正統」キリスト教徒の印のようにされている。

 しかし同時に三位一体の教理を持たない教派や個人がキリスト教史上に何度も登場し、命を賭してまで抗議を行ってきたこともまた紛れもない事実である。⇒前頁

 ようやく第五世紀ころまでに、どうにか主流派の地位を確固とした三位一体が21世紀の今日まで延命している背景には、ルターをはじめ「宗教改革」が三位一体を安定させたカルケドン会議(451)の信条より以前のキリスト教までに遡及しなかったこと、また、かつてのアリウス派との抗争(論争ではなく)と同じく、自派の正統性を三位一体説擁護を通して訴えるところがあったためと思われる。それに加え、当時の歴史・考古学、文献批評などの限界もあり、当時の宗教的良心はカルケドンを問うところまで進めなかった。

◆保存の理由
その後、研究が進んでも三位一体を金科玉条のようにキリスト教界が抱え込んだ理由は、教会組織そのものの安定性を求めてのことであったように見える。というのも、宗教改革でヨーロッパに宗教上の激動が訪れると、単性派を含め幾多の教理や新派が萌え出て、真理を得たと思う人間の常としての闘争性が惹起されて、各地を不安定で危険な状況に陥れたことが影響しているであろう。しかし、その反動としての様々な教説を抑制することが社会秩序の安定が要請されてきた。即ち、一般大衆は急激な信条の変化について行けず、そこに自説の義を主張してやまない急進派らの過激さも加わったので、そこでは宗教が関係していても宗教そのもの問題ではなく、教理の決定による社会秩序の課題となっていた。

 ルターも次々に噴出してくる新手の過激な派閥には随分と手を焼き、遂に諸侯に農民を攻撃するよう訴え、多くの死者を出している。それはカトリックという漬物石が除かれた地域では避け難い状況であったようだ。当時の改革の指導者は、社会秩序の安定までをも荷わねばならず、諸侯の権力と協力して信条と新しい社会体制の創出を目指す過程で、自ずと宗教思想に制約が生じた。その原因は、カトリックに対抗するために、キリスト教をローマ国教以来の「神権政治」、旧態依然とした「コニュニティの宗教」として捉えざるを得なかったためである。キリスト教信仰が個人の選択とされるのは近代のフランス革命以降になった。

 宗教改革期では、社会状況の安定化のためにも過激派を押さえ込む便法として新教も諸派の対して「異端」を叫ぶことで諸侯の鎮圧も期待でき、自分たちにとって急激な改革に見える非三位一体派などの派閥を撃退するのに有効であったろう。

ルターからカルヴァンの時代に、ミゲル・セルヴェトが三位一体への強烈な論駁を行ったが、当時の改革者たちは、三位一体までも変更することを望まなかった。その理由はキリスト教改革があまりに急激に進むことで、永らく続いた伝統から大きく離れるなら、民衆に不安を与え、またカトリックからの弱まりつつあった迫害が再燃する危険を冒すことを躊躇したからであったという。

カルヴァンは、ジュネーヴ市で捕えられたセルヴェトを異端者として裁かせ火刑に処させたが、ルターの協力者メランヒトンは、その処置に同意する書簡をカルヴァンに送っている。だが、これに匿名ながら抗議するシャティロンのような人物もあり、更には三位一体を精査するきっかけを作ったソッツィーニらへの影響をもたらすことにもなった。

もちろん、処刑による理解の封じ込めはキリスト教のものでない残虐行為ではあるが・・「異端への呪詛」を叫ぶのは坊主の悪い癖で、東西キリスト教会もアナテマの呪文の掛け合いを行っていたのであるから、新教も込みで権力と結託した者だけがその呪詛を跳ね返してきたのである。それはもう宗教の仮面をかぶった権力闘争であり、権力の保護を得ない個人などの弱者がその「呪詛」の犠牲となって専ら火刑台に登ることになった。

 その後、近世に入ったヨーロッパでは、科学の隆盛と生活様式の急激な上昇のために懐疑主義が趨勢となり、さらに人間万能を謳歌する19世紀を迎え、もはや真剣にキリスト教を改革する必要すら人々は感じなくなり、その結果、英米に於いて覚醒運動のムーヴメントはあったものの、16世紀のような大変化は以後起こっていない。


■俯瞰される実態
 この結論として言えることは、宗教が政治の影響を受けるなら、どんな内容にせよ純粋に教理を吟味できなくなるということである。第四世紀に三位一体論はこの意味で純粋に宗教上の教理の論議とはならなかった。
 果たして三位一体について真剣な研究や論議が歴史上為されただろうか。むしろ、それが「玄義」だという思考停止が、理性による吟味を阻んできたのではないか。それはどことなく、パリサイが「安息日を守らないから」と外面でイエスを裁いたところを思い起こさせるものではある。

 今日では、教会が三位一体の保持を根拠に自分たちの歴史上の連続性から「正統性」をアピールし、信徒を失わぬための方策としているかのようにも見える。その動機もやはり教会組織の存続の利用にあるだろう。しかし、それこそが信徒の強固な信仰を妨げ、中世の蒙昧に浸るばかりで、人々に訴えるほどの教えを得損なわせているのではないか。
 そのうえに、哲学者らが三一論を用いてヘレニズム哲学を敷衍し、更にキリスト教の哲学化を進めてゆき、それは一般の信仰者の預かり知らぬ、また理解したからといって特に意味を成さない衒学の徒の玩遊する宗教哲学の世界と化していった。

 だが、三位一体の今日の保存には信徒の側の信仰する動機も関わっている。
ひとつには、超絶的なユダヤの神よりも、人間となり弱者に寄り添ったキリストの姿への親近感が考えられる。
また、「正統と呼ばれる信仰に留まりたい」という内心の願望であり、『「三位一体」を教えている教会なら安心できる』というような考えそのものが、その求めるものは神の探求ではなく、自分の「救い」ためであることを見せている。その関心の対象は神ではなく、もちろん自分自身であろう。これは一般に「ご利益信仰」と称されるものである。

これは神を崇めるにしては相応しくもない倫理的選択であるが、「長いものに巻かれていたい」という人間らしい欲が関わっているだろう。だが、その願い求める「正統的信仰」そのものが神への無理解であり、人間の尊大な組織を認めて、他方で神を無視する危険性はどうみても拭えない。
そこには、信徒の欲望による人間中心主義があるだろう。

また、日本では、グレコローマン由来の諸教会が継承してきた欧米文化を愛してやまない人々が、「キリスト教徒」を名乗り、その教会の文化を守ろうとして、キリスト教そのものには頑なに理解を閉ざすケースが多い。
この人々が望むのは、実は「キリスト教」というヨーロッパ系の習慣と精神文化であって、キリスト教ではないというべきであろう。
ウエディングドレスを着て商業施設に設けられたチャペルでの結婚式を望む人々にそれが端的に表れている。十字架も三位一体もそこでは「正統」を演出する麗々しいアイテムであろう。その主役は人であって神でもキリストでもない。


以下に、普遍教会側に三一の根拠とされてきた文書翻訳の抜粋を掲げる。
中世にあっては有難い「アタナシウス」の名を語ってはいるが、これは彼の時代でも場所でもなく、この教理の植え付けに躍起になっていた第五世紀、しかもエジプトではなく南仏由来のものと今日では認められているものである。




-アタナシウス信経抜粋- ()内補足

救われたいと思う者は、まず第一に、カトリック信仰として次のことを信ずべきである。
これを完全に、欠けることなく守らなければ、疑いなく永遠に亡びるであろう。
これがカトリックの信仰である。三位における唯一の神、一体における三位を礼拝する。
三位を混合し、あるいは実態を区分すべきでない。

そのため聖父と聖子と聖霊はそれぞれ別の位格([ペルソナ]人格に対応する語)であって、唯一の理性と同等の栄光、そして、同じく永遠の威光が聖父と聖子と聖霊とに帰せられる。
この聖父にしてこの聖子、この聖霊、造られざる聖父、造られざる聖子、造られざる聖霊、無限の聖父、無限の聖子、無限の聖霊、永遠の聖父、永遠の聖子、永遠の聖霊、しかし三つの永遠者でなく唯一の永遠者、三つの、造られざる者、無限者ではなく、唯一の造られざる者、唯一の無限者である。

同じく、全能の聖父、全能の聖子、全能の聖霊、しかも三つの全能者でなく、唯一の全能者である。
また神なる聖父、神なる聖子、神なる聖霊、しかも三つの神ではなく、唯一の神である。主なる聖父、主なる聖子、主なる聖霊、しかも、三つの主ではなく、唯一の主である。
個々に一つ一つの神の位格を持つ主をキリスト教の真理として信ずる。
三つの神、または、主と言うことは、カトリック教では禁じられている。

聖父は何ものにも造られず、生まれず、聖子は造られたものではなく、聖父からのみ生まれたものである。聖霊は造られたものではなく、聖父と聖子とから発出したものである。
そのため、唯一の聖父であって三つの聖父ではなく、唯一の聖子であって三つの聖子ではなく、また唯一の聖霊であって三つの聖霊ではない。

この三位一体において前後はなく、全位格が同じく永遠であり、大きさにおいて平等であり、すでに述べたように三位における一体であり、一体における三位を礼拝すべきである。
救われたいと望む者は三位一体について以上のように信ずべきである。

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所見:権威をかざして問答無用とばかりに「救われたくば」と繰り返す辺りに、迫害に捨て身であった初代とは異質なご利益信仰を感じざるを得ない。もちろん聖書的な風合いはない。これがどんな教理(正反対の非三位一体説)に従う要求であったとしても、「脅し」の批難は免れまい。意味不明の呪文のような中世の暗さを思わせる出何処の不確かな古文書である。このような怪文書に基礎を置いてキリスト教界が千五百年近く惑わされて来たのなら、それはいったいどういうことであろうか。




イエスとは何者か ホクマの謎

非三位一体論者の流れ

アンブロジウス 俗世との岐路に立った男


外部参考頁 ⇒ 「小田切信夫の福音論」サイト管理者の論説 

三位一体の存在しなかった原始キリスト教

ヨハネ14:11『わたしが父におり、父がわたしにおられる』について

341年アンティオケア会議:十四日派の破門
[The Council of Encaenia is held in Antioch]

380年テオドシウス帝の「カトリック教令」の発布
381年コンスタンティノープル公同会議:三位一体決議
382年コンスタンティノープル補足会議:聖霊の神格化






※最後に一言、付け加えておきたいことがある。
この「三位一体説」がキリスト教の趨勢を成している状態が、これからも続くであろう理由であるが
終末に於いて、この教理が「不法の人」を顕在化させ、人々を篩に分ける役割を果たす危険性が聖書から読み取れることが関係しているかも知れない。
それに加え、ユダヤ人の自己欺瞞的習慣により神名の発音も忘れ去られたのも、神が「三位一体説」を誘ったという蓋然性がないとは言えない。全能の神が、一神論も御名の発音も人類に示せないはずがないからであり、かつてイエスを屠るようユダヤ人の誤謬を用いた神が、終末というこの世の総決算ともいえる時期に、同じように経綸を進めないと誰が断言できようか。
もしそうなれば、これは恐ろしい罠となり、神はこれをはじめから承知で許していることになる。
ならば、それは終末まで廃れずに多くの人々に信じられ、趨勢を形成している必要がある。
<「三位一体説」は、終末に於いて究極的偶像(不法の人)崇拝を推し進めてしまう危険性がある>



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コメント
閲覧者さま

リンクを一瞥致しました。後に時間を設けてお読みいたしましょう。

わたくしは一神論者であり、その神はかつてエルサレム神殿に崇拝されていた[יהוה]なる発音不明の御名を持たれる創造者で在られます。キリストは任命された者であり、神たり得ません。⇒ http://irenaeus.blog.fc2.com/blog-entry-120.html 「キリスト教と原始キリスト教の違い」

それにしましても、小田切氏が三位一体を受け入れていらっしゃらなかったことは、そのお仲間からのご指摘を頂いておりまして存じてはおりましたが ⇒ http://irenaeus.blog.fc2.com/blog-entry-42.html 

私も以前に通っておりましたことのある日本基督教団の中にも同様の方がいらっしゃるとは意外でした。

ただ、私の場合には「批判的」を通り越してまったくの一神論ですので、接点がどれほどあるのかは分かりません。

また近年は、メシアニックジューの運動が目に付き、私のような者は彼らから「置換神学」とレッテルを貼られ兼ねません。

ですが、やはりキリスト教はユダヤ教から次元上昇しておりまして、いまさら動物の犠牲を捧げる謂れもないでしょう。

(血統が選民を作るなら、パウロの言うようなハガルに勝るサラから生まれる自由人の子らを異邦人から接木する必要もなかったことでしょう。また、神殿の破壊と律法制度の終焉はメシア不信仰の後果であることは明らかのように思えます)

このあたりのバランスをとるのがキリスト教徒には非常に難しくなっているようにも思えます。

私見ではこのように感じております。


林 義平


> >三位一体説そのものの否定がわたくしの関心事であります
> ・・・ということは、エイレナイオスさんはトリニタリアンではなくユニタリアンということでよろしかったでしょうか?
> 小生も同じ立場です。web上で友を得た感じです。私が見つけて共感しているところの、「三位一体」に批判的な二つのサイトのリンク先を貼りました。エイレナスオスさんはどのように感じられますか?
>
> http://christology.jimdo.com/
> http://ehyehist.blogspot.jp/
Eilenaios | 2016.04.25 23:28 | 編集
このコメントは管理者の承認待ちです
| 2016.04.25 21:47 | 編集
閲覧者さま


せっかくのお尋ねではございますが
わたくしの主張と致しますところは、第二世紀以前に於いて三位一体の存在していない時期のキリスト教を探求しようとするものであります。これは、あるいは本ブログ全般をご覧頂けますならご了解頂けますものと存じます。

従いまして、バルトの三位一体に関する主張につきましても関わりを持つものではございません。

また、ほかの三位一体に関わる論議につきましても、その礎でありますところの三位一体説そのものの否定がわたくしの関心事であります以上、その肯定の上に展開されますところのどのような論議や推論にしましても、三位一体説の否定に関わりの無い何かを述べるべき動機がございません。

この件、悪しからずご了承ください。
ご理解を賜れますなら幸いに存じます。













> 御ブログで三位一体について拝見した者です。ひとつ御見解をうかがいたく送信した次第です。それはカール・バルトの「三位一体」理解における「存在様式」という考え方が、彼のオリジナルなのか、それとも誰かからの受け売りなのか?ということです。誰かが言い出したとすれば、その先駆けは誰と思われますか?という質問です。
> 上智大学のネメシェギ司祭は次のように述べています。
>
> 「二十世紀の神学者のうちで特に、K・バルトは、人格Person と意識についての現代哲学から、伝統的な三位一体論に関して生ずる危険を指摘している。すなわち、多くの現代人が人格と意識を同一視している。それ故、神における三つの位格という表現が多くの人にとって三つの別な自己意識、したがって三つの別々の神々を考えさせる。この危険を避けるために、バルトは、三位を指す表現として、位格(Person)ということばを避け、その代わりに、『存在様式 Seinsweise』ということばを用いているのである。(中略)
> 現代のキリスト者は一般に三神論に陥るよりも、古代においてサベリオスが唱えたような唯位神論に陥る危険が多いと私は思う。そして、神学者たちが父と子と聖霊を単に神の『存在様式』と呼んだり、また、より深い考察を行なわずに、意識的人間主体と神における三位の間の類比を全く否定したりするならば、唯位神論に陥る危険はますます大きくなるのである。>(ネメシェギ著『父と子と聖霊』p246~248)
>
> このように、ネメシェギ司祭はバルトの「存在様式」という見方を批判しているわけですが、これはカトリック側からの批判であり、バルトと同じプロテスタント側からの批判としてはモルトマンからのものが激しい内容になっています。すなわちバルトが「三位一体」の「位格」を「存在様式」とみなしたことは、古代教会史において異端とされた「様態論」に近いというわけです。モルトマン自身は西方教会に属していながら東方教会の三位一体論を継承し、父と子と聖霊の各位格の実体性・人格的固有性を強調して「社会的三位一体」を唱えています。
> しかしバルトの場合は、あくまでも西方教会の三位一体論の伝統に立っているはずであり、宗教改革者カルヴァンも「存在様式」といった考え方を示しています。バルトがカルヴァンの三位一体論における「存在様式」を受け継いだのかどうかはわかりませんが、もしそうなら、そのカルヴァンは誰から受け継いだのか?という疑問が生じます。彼らは西方教会に属しており、モルトマンのようにわざわざ東方神学の考え方を採用してはいないので、当然、バルトおよびカルヴァンの三位一体論の先駆けはラテン教父だろうと察せられますが、そうなるとテルトゥリアヌスやアウグスティヌスの名が浮かびます。しかし彼らの「三位一体」理解には「位格(persona)はあっても「存在様式」といった考えはみられません。
> それならバルトの「存在様式」という考えは彼のオリジナルまたはカルヴァンのオリジナルなのでしょうか?
> ちなみに野呂芳男は、次のように述べて、この「存在様式」という考えがラテン定式の古典的な三位一体論の理解として適切である旨を述べています。当時の「ペルソナ」概念は、現代における「パーソン」とは異なっていたからとのこと。
>
> 「古典的な三位一体論は、父、子、聖霊が三つの位格(ペルソナの複数)でありながら、しかも一つの本質(substance)である(tres personae in una substantia)としているが、この場合のペルソナは今日のパーソナリティの意味ではない。(〔略〕神学者カール・バルトが言うように)神の存在のあり方を言っているものである。だが、この古典的な理解では、父や子や聖霊の個々の(今日の言葉で言う)主体性が失われてしまい、ペルソナがまさに(言葉の元来の意味である、役者が舞台で被る役割の)仮面のようになってしまっていて、聖書の中の生き生きとしたイエスや聖霊の個としての存在感が失われてしまっている。」(<講義「ユダヤ・キリスト教史」第38回――アウグスティヌスの生涯と思想(1998.3.17)>)
> http://www.geocities.jp/yoshionoro/jud-christ-3-17.html
>
> さて、管理者のエイレナイオスさまは、バルトの「三位一体」理解はラテン教父の主流の三位一体論を継承していると思われますか?そして「存在様式」という理解を示した最初の人物は誰だと思われますか?
Eilenaios | 2016.04.23 15:13 | 編集
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