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救うために来るキリスト

2021.01.09 (Sat)


「キリスト教」とは、イエス・キリストに倣う教えであることはもちろんですが、それを一言で表すとすれば、何と言えるでしょうか。

『神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである』とはキリスト教徒の間でよく知られた言葉で、ヨハネ福音書の第三章十六節にあります。

確かに『この世』は、アダムの罪によって作り出された『空しい』世界ではあります。しかし、そこに生まれて来たすべての人が『アダムと同じ罪を犯してはいません』。(伝道1:1/ローマ5:14)
アダム以後に命を得た人々には、悪魔の道に入るかどうかは依然として問われていないので、死者について使徒パウロが言うように『人間にはただ一度死に、その後に裁きを受けることが定まっている』のであり、人は皆が『罪』のない状態に復活して、無垢であったアダムの状態で試される必要があります。それによって『愛』を選び取り、他者とどのように生きてゆくべきかを弁えなくては永遠に存在する理由もありません。(ヘブライ9:27)

そして、終末に生きている人々については、『生きていてわたしを信じる者は、だれも決して死ぬことはない』と言われたイエスの言葉のように、復活を経ずに生きたまま再臨のキリストに試され、『神の王国』の支配する地を受け継ぐことになるでしょう。(ヨハネ11:26)

ですから、アダムの子ら以降今日まで人々は、だれも神の創造物としての試みを経ていないことになります。例外があるとすれば、それは亡くなった過去の聖徒たちでしょう。義なるキリストの仲介する神との契約により、聖徒たちは地上にいる間から『神の子』と仮承認されていたからです。彼らが天に召されるときに、その復活そのものが、裁きを通過したことの証しとなることでしょう。(ローマ8:14-17)

ほかのすべての人々については、それぞれに『愛』について神とどう関わるかを別に問われなくてはなりません。それは神に服従するかどうかということではありませんし、道徳的であるかどうかにも関わりません。親が子を無条件に愛そうとするように、神は一人一人に出来る限り命を与えようとされることでしょう。

神がカナン人の崇拝や習慣を嫌ったことは明らかではありますし、荒野をさすらうイスラエルの弱った人々に残忍な攻撃を仕掛けたアマレク人を神が呪ったとはいえ、その一人一人はやはり神の創造物であり、復活に価しないとは言えません。神はこう言われます。
『わたしは邪悪な者の死をさえ喜ぶだろうか。むしろ彼がその行いを離れて生きることを喜ぶのではないか』。(エゼキエル18:23)
この言葉を証しする例が、旧約聖書の中にも散見されます。

例えれば、ヒゼキヤの王位を継いだマナセ王ですが、彼は律法を守ることなく父王ヒゼキヤが壊した異教の祭壇を再建し、先住のカナン人をも越えて悪を行い、加えてバアルを崇拝し、自分の息子さえ火に落とし、エルサレムを罪のない者たちの血をおびただしく流した極悪人でありました。(列王第二21:1-)
彼の甚だしい悪行を見た神YHWHは、ユダ王国のバビロン捕囚を決意し、それは遂に翻ることがなかったのです。

ところが、YHWHがマナセを罰し、彼が異国で獄につながれると心を入れ替えたように変わり、大いに謙ってYHWHに祈りを捧げるようになったのです。その悔いは本心からのものであったのでしょう。ユダ王国のバビロン捕囚の意志は覆ることはなかったものの、YHWHはマナセの変化に目を留め、彼をエルサレムに戻して王位に復帰させています。確かにひどい悪人ではあったのですが、YHWHは彼が以前に犯した多くの殺人を含む重罪を赦しています。人がその思いを改めるとは、神の前にこれほど価値のあることなのです。(歴代第二33:12)

また、その以前の時代には、イスラエル王国の王アハブが挙げられます。
このアハブがフェニキアからイゼベルを娶って、イスラエルにもユダにもバアル崇拝を広めさせた元凶なのですが、YHWHは預言者を送り、何度も道を改めるよう促していましたが、遂にYHWHは彼を罰することを告げ、エリヤを通して彼の王朝を終わらせ、その子孫も絶え果てることを伝えると、アハブは悔いの表明として上着を引き裂き、粗布を身にまとって憔悴して歩くようになります。

その姿を見たYHWHは、預言者エリヤに向かって『アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか!』と喜々として言われます。
確かに神は、悪人の悔いることを喜ばれ、アハブに告げた王家の終りを彼の次の世代に先送りし、彼にはそれを見させないことにしたのです。(列王第一21:20-)

これらの例は、多くの流血の罪を負うひどい悪人といえども、神がその悔いを見せるところを評価することの証しと言えます。
また、創造の神が人をどう見做しているかについての貴重な情報をも伝えています。
神は、エデンの園で禁断の木を監視しなかったように、自らの『象り』である人の心を自由の内に保って、働きかけはしても強制しません。まして、生まれながらにアダムの罪にある人々には、不道徳性が避けられないことを神は熟知のうえで、それゆえにもキリストの完全な犠牲を人々に備えたのです。(ローマ3:23-25)
そして、そのキリストは『人には、その犯すどんな罪をも神を汚す言葉をも赦される』、また『人の子に言い逆らう者も赦される』と明言されています。赦されないのは聖霊という神の証しを故意に退ける罪だけであり、まず脱落聖徒のような者だけがその罪に裁かれるでしょう。(マタイ12:31-32/ヘブライ6:4-5)

神の慈愛は、様々な重罪を赦すまでに深く、初臨のキリストは罪人や娼婦、また悪辣な収税人たちを退けず、『わたしは義人たちではなく、罪人たちを招くために来た』とまで言われました。この『義人』とは、自分は律法を守っているのだから、当然、神に受け入れられ是認されていると思い込んでいたユダヤ人のことです。(マタイ9:13)
それに加え、イエスは『神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである』と言われたのです。(ヨハネ3:17)

確かに、再臨のキリストはこの世を裁き、多くの人々が命を落とすことは避けられないことです。
しかし、それは人々が道義心や復讐心に燃えて悪人を敵視するようなものではありません。『人の怒りは神の義の実践とはならない』からであり、すべての魂を所有される創造神の見方は、やはり人間の想いを超えるものです。(ヤコブ1:20)
『邪悪な者の死を喜ばない』神は、最後まで悪人に気遣いを示し続けることでしょうし、放蕩息子の例え話からすれば、時には善人以上に気遣うこともあるでしょう。

やはりイエスは、自らの犠牲の死についてこう言われました。
『モーセが荒野で蛇を掲げたように、人の子も掲げられねばならない。それは、信じる者の誰もが、人の子によって永遠の命を得るためなのだ』。(ヨハネ3:14-15)

このモーセの時代、不信仰のために荒野を四十年さすらうことになったイスラエルは、度々に自分たちの境遇に不平を鳴らしていましたが、その旅も終わり近くなって、何十年も食べてきた奇跡の食物マナに不平を言い出し、それに対してYHWHは多くの毒蛇を彼らの中に送って咬ませて罰するということがありました。(民数記21:4)

次々に咬まれて死んでゆく者らを見た民は回心し、『わたしどもは罪を犯しました』とモーセに執り成しを願います。
そこでYHWHは答えて、モーセに銅で蛇を象らせ、それを木に打ち付けて民の間に掲げるようにと命じます。
すると、蛇に咬まれ毒の回る中にあっても掲げられた銅の蛇を仰ぎ見るだけで生き長らえたと書かれています。(民数記21:9)
まさしく、イエスはご自分の犠牲の効力について、この故事に例えられ、人が罪深いとしても、キリストの犠牲に信仰を働かせ、それを仰ぎ見る者には永遠の命を与えると言われるのです。

これらを考え合わせると、終末の大患難にあって、多くの人々の応報の死を神は喜んで見るとは言えませんし、悔いる可能性を残す人に注意深くあられるに違いありません。
「ハルマゲドンの戦い」の後で、洞窟に身を潜め『山や岡に向かって「われわれを覆ってくれ」』と嘆願する人々からも、また最終的な裁きである疫病の死の影に襲われている人々からも、荒野のイスラエル人が毒蛇に咬まれて毒が体に回りつつある中ですら、掲げられた銅のヘビを仰ぎ見るだけで命を長らえたのであれば、ヘビにはるかに勝るキリストの犠牲を仰ぎ見て救われないことがあるでしょうか。
人は皆が同じく「罪人」なのであり、キリストは『世を裁くためではなく、救われるために来た』と言われるのは、このようなことを指すことでしょう。

そして、この点は黙示録にも記されたことです。
ヨハネは天使から次のように命じられます。『わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで崇拝する者たちを測るように」』(黙示録11:1)

これは、来るべき天界の神殿の寸法を測ることですが、同時に『そこの崇拝者を測れ』とも言われました。
聖徒について理解を深めた方には、これが天界の神殿を構成する聖徒たちのことであり、彼らは建物の石が正確に積み上げられる必要から精密に測られ削られているべきことであると理解できることでしょう。
つまり、彼らは『新しい契約』について忠節で清い状態を保ってはじめてキリストを『隅の親石』とする神殿に組み上げられるにふさわしい石材となるのです。(ペテロ第一2:4-6)

しかし、注目するべきはその次の言葉です。
『聖所の外の中庭はそのままにしておきなさい。そこは測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所である。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう』。(黙示録11:2)

かつて地上に存在していた神殿の境内の外側は「異邦人の中庭」と呼ばれ、律法契約にない諸国民も入域を許されていました。ヘロデ王が改築したときに広げられた中庭には、ローマ皇帝も代理人を遣わして自らの名義による犠牲を奉納し、それが焼かれて捧げられる煙をその中庭から代理人が眺めたと伝えられますし、ユダヤに駐留するローマ兵の中にも神YHWHに犠牲を捧げる者があり、新約聖書には、イエスに僕の病の癒しを願って許された百卒長はユダヤ教の会堂を寄進しています。また、使徒ペテロを自宅に招き聖霊を注がれた士官コルネリウスは普段からYHWHに祈り、ユダヤ人に施しをしています。これらの人々を考えると、ユダヤを占領した諸国民であってさえ、神YHWHへの崇敬の念は薄いものではなかったことが窺えます。(マタイ8:5-13/使徒10:1-2)

ですから、ヨハネに話しかける天使が『外の中庭』と言った場所は、契約にはない聖徒以外の大多数の人々のための広場を意味すると考えられ、『そこは測ってはならない』とは、聖徒たちが天でキリストと共になるだけの忠節な行いと資質を問われるのに対し、『新しい契約』になく、むしろ聖徒たちの活動期間の『四十二か月の間』、それを『踏みにじり』反対し妨害する人であってさえ許されることが示唆されていると捉えられます。

そのように逆らった人々からも悔いて神殿の『外の中庭』に集う人々が出るのでしょう。ですから『そこは測ってはならない』のです。イエスの言われるように、『その犯すどんな罪をも神を汚す言葉をも赦される』からでしょう。
ですから『異邦人の中庭』の広さや人を測ってはならないのは、神がすべてを知る能力を持ちながらも、どのような人が、またどれほど人数が是認の内に収容されるかも事前に定められないということです。神は人の自発心からの信仰を望むからであり、エデンの禁断の木を監視せず、王たちの悔いた姿を予測されず、かえって驚き喜ばれる方だからです。
この事では、教会によって聖徒に当てはめるべき聖句を根拠に「だれでも救われる者は世の基が置かれる前から決まっている」と主張する余地はなく、その「予定説」は、神は人の自発心を尊重しないと言うに等しい誤解です。(エフェソス1:4)

しかし神のこのような寛容さは、もちろんキリストも見事に反映しています。
刑場に引かれてゆき、『どくろ』つまりゴルゴタと呼ばれる岡の上で十字架に釘で打ち付け、またその衣服を誰のものにするかとくじ引きしている兵士らに『父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです』とイエスは執り成しの祈りをされました。けっして報復を願ったりはしていないのです。(ルカ23:34)

それから共に磔にされていた重罪を犯していた者の一人も『わたしを思い出してください』と信仰を言い表しました。またイエスが息を引き取った後には、その処刑を指図しながらも起ったことを一通り見ていたローマ軍の百卒長は、『この人はまことに神の子であった』と讃嘆の声を上げています。これらはイエスの寛容さによって成り立った信仰と言えるでしょう。(ルカ23:42-43)

イエスの慈愛ある心は、その弟子にも受け継がれ、後にユダヤの宗教家らに石打刑を受けた弟子のステファノスも息絶えようとするときに『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい』との最期の言葉残しています。(使徒7:57-60)
その殺害に加担していたパリサイ派のサウルは、その後もイエスの弟子たちには苛酷な迫害者でしたが、キリストからの奇跡の働きかけを受け、やがて使徒パウロとされます。この人物はキリスト教という新たな教えを打ち建て、世界に広めることに於いて比べる者がほかにないほどの活躍を見せることになりました。

キリスト教徒であることに於いて完璧のように見えるその使徒パウロですら、『わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしている』また、『善をしようと欲しているわたしに、悪が入り込んでいるという法則がある』とも告白しています。(ローマ7:15-20)
そのうえ、彼は自分が迫害者であったことに非常な負い目を感じてもいました。(コリント第一15:9)
ですから彼は『わたしはなんと惨めな人間なのか。死にゆくこの体から、だれがわたしを救ってくれるだろうか』と問い、『わたしたちの主イエス・キリストを通して、ただただ神に感謝します』と言うのでしょう。

イエスに感化された罪人には、エリコのザアカイもいます。
収税人がローマの権力をかさに着て、税率以上を取り立て、払えない弱者には貸し付けたことにして、執拗に追い回し、当時のユダヤ社会から見下げられ、ユダヤ教の会堂に出入りして学ぶことは許されていませんでした。
しかし、イエスは最後のエルサレムへの旅の途上で、いきなりに彼の家に泊まると言われます。すると、それを目の前で聞いたエリコの群衆はひどくイエスに落胆せざるを得ませんでした。それほどザアカイは悪名を馳せていたのです。
ですが、その収税人も、メシアと噂される奇跡を行う方イエスを家に迎え、大きく感じ入ったのでしょう。『ゆすり取ったものは四倍にして返します』と言うまでに変わります。それにイエスは答えて『今日、この家に救いが来た』と言われるのでした。(ルカ19:1-10)

このように、キリストは確かに『裁くためではなく、救うために来た』と言われた通りです。ただ裁くばかりであるとすれば、人は誰も神の前に赦されないでしょう。また、神が人の心が行う決定をまったく予知するなら、創造界はただ圧制に落ち込み、人は神の『象り』でなくなり、そもそもアダムも後で変節するのなら、わざわざ創造されることもなかったでしょう。

そこで神の赦しがキリストの教えを形作るのであり、それは終末に在っても変わないに違いないことです。
たとえ、聖徒の迫害に加担し、あるいはその死にさえ責任を負う人であっても、それを悔いるのであれば神は赦されるでしょうし、聖霊の奇跡を通して「次なるパウロ」を救わないとも言えません。
人にとっては怨みがあろうとも、そのような人を神が赦すのであれば、誰もがその人を赦さねばなりません。(マタイ18:23-35)
石打で殺されたステファノスもパウロを赦さないということはもちろん考えられないことです。

キリスト以外、もとより人は皆アダムの子孫であり、神の前には皆が罪人です。
この世に多くの悪行が蔓延り、中には邪悪の極みのような事さえ行われて来たのですが、神の観点から見るなら、いずれもアダム由来の『罪』の行わせたことであり、本来、人は人を裁けません。
ただ、社会の秩序を保つために、人々は法を定め、違犯を取り締まるための権力を必要としてきました。
そこでは、社会一般の善悪規準によって裁かれる必要があるのですが、そうした人間社会での善悪規準と、神の観点とが同じものではないのです。

例えれば、イスラエルがエジプトで奴隷にされていた間に、アラビアにヨブという富裕な人物がいましたが、この人物から学ぶべき貴重な内容が旧約聖書のヨブ記の中に収められています。
彼の道徳性は並外れており、神でさえ『ヨブほど悪を離れ善を行う者もいない』と悪魔に豪語できるほどでありました。
突然の不幸が自分の家族と自分の身の上に生じたときにも、彼は神を一言さえ呪いませんでした。彼は子らのすべてと財産を失ってしまいましたが、そのうえに皮膚に難病を患い、ひどい痒みと潰瘍に悩まされ続けたのです。

しかし、その道徳の素晴らしさは、彼自身も自負するところでした。そこに三人の友人が訪ねて来て、彼に不幸が生じたのは、何かしら隠された悪があるのではないかとヨブを囲んで尋問を始め、ヨブ記はそれを長々と記録しています。

しかし、友人たちの疑いもヨブはすべて晴らしてしまい、彼の道徳性の立派な正義は「自分に不幸を与えた神に非がある」とするところまで進んでしまいます。
ですが、これは間違っています。
人がどれほど道徳的で義に適っているように見えても、やはりアダムの子孫であることには変わりがないからです。
そこでエリフという人物が論議に加わり、ヨブの間違いを徹底的に暴いてゆきます。
『あなたがどんなに正しくても、神に何を与えられるのか。神はあなたの手から何を受けられるのか?』と問われるヨブは、自負する道徳性の限界を言い当てられてしまいます。

エリフほ容赦なく、ヨブの問題をえぐり出し、こう指摘するのでした。
『あなたが悪を行っても、それはあなたと同じ人間に対するもの、あなたが正しくても、それは人の子に関わるだけなのだ』。(ヨブ記35:6-8)

さらに神自身がこの論争の場に大風に乗って現れ、ヨブに問いかけます。
『自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか』。(ヨブ40:8)
これにはヨブも返す言葉がありません。ここでヨブは自分の義への固執が間違っていたことを認めるに至ります。
『わたしは自分の言葉を撤回し、塵と灰の中で悔い改めます』。(ヨブ42:6)
どれほど道徳的であっても、それが神に対して是認を要求できないことを学んだヨブを神は祝福し、病を癒し失ったものを与えてヨブ記は終わります。

しかし、キリスト教界でこのヨブ記は、敬虔な善人であり続けることを勧める書と誤解されてきました。その理由といえば、「聖書は人に善い生き方を教えている」という決め付けから来るものでしょう。
いや、むしろ聖書の意義は、人類の全体を『罪』から救い、創造の神との関係を回復させる計画を知らせ、それがどれほど進展してきたかを教えるものではあっても、誰か個人を善人にならせ、神から罰せられない「正しい生き方」を教える本ではないのです。
これは大いに誤解されています。

逆に、どれほどの悪行を働き、どれほどの害を他の人に及ぼしたとしても、それで神の前に是認される機会をまったく失うこともありません。イエスは赦されない悪行として『聖霊を冒涜すること』だけを挙げるばかりです。(マタイ12:31-32)
ですが、これはどんな悪行をしても構わないという意味ではありません。そうすれば社会からの制裁を受けることでしょう。神は悪行を嫌うとしても、それはまず人間社会の問題となるからで、官憲という『上なる権威』は『いたずらに剣を帯びてはいない』のです。(ローマ13:1-4)

この違いを理解することは難しいことなのでしょうけれども、重要な真実がここにあります。
それは、この世で善人とされる人の善行であっても、それは人々の間で褒められるものであるばかりで、その善良さや正しさのために神はその人を特別に扱う義務を負うことはないということです。

しかし、これは人間の常識を超越しているため、キリスト教に於いてさえ理解されてきませんでした。
「聖書は人に敬虔で善良な生き方を教えている」と決め付け、「神に是認される生き方を送ることが神の意志であり、そうすれば救われる」と考えた人々はキリスト教の歴史上絶えたことがありません。
また、教理を理解し、信仰を持ったなら水のバプテスマを受けると「救われる」という単純な発想で、自分はほかの人々より神に近付いたと考えるのは自由にしても、そこで利己心を煽られてはいないのでしょうか。もちろん、それはキリスト教とは関係のない自負心です。

どこかの宗派に所属すること、また善行を積むことで、神に喜ばれ、または是認されると教えられる人々も少なくありません。いや、ほとんどのキリスト教の宗派はそのようです。しかし、それではキリスト教の真価を知らず、律法に従うユダヤ教から進歩していないというべきでしょう。
さらに「天国と地獄」など聖書にない教理が加わると、自分の周囲の同じ信仰にない人々は「地獄行き」になると思い込みさえしているのが実情ではないのでしょうか。それでは、自分たちは清くて『律法を知らないこの民は呪われている』と言い放ったパリサイ派、あのイエスに最も反発した宗教家らと同じ道を歩んでいるのではないでしょうか。(ヨハネ7:49)

この点で、大洪水を逃れたノアや、ソドムとゴモラの滅びを生き長らえたロトのようなキリスト前の例に目を向け、自分は彼らのような善人であろうと努めることは一種の罠となることでしょう。そのように装うことが本当に『義』なのでしょうか。その動機には何があるのでしょうか。ノアにせよロトにせよ、救われるために善を行っていたわけもないからです。
やはり聖書の示すところ、どれほどの善良さであっても「神の前の義」に達することはありません。それゆえにも「信仰」、つまりキリストの『義』に一心に頼ることではじめて人はキリストの義の中に含められる道がひらかれるのであり、それこそがキリスト教というものです。(ローマ3:22-24)

神がイスラエルに律法を与えたのも『罪を明らかにするため』であったとパウロは教えます。唯一キリスト以外に律法によって自らの義を証した人はいません。それは人の限界を超えた偉業だったのです。では、だれかキリスト教の信者が何かの規則や道徳を守ったから『義人』になれるのですか。(ガラテア3:19/ローマ3:20)
少なくないキリスト教の宗派が信者を獲得するために神の赦しを利用してしまい、「自分たちの教える条件を守るなら救われる」とし、ほかの人々を見下す原因を作って来なかったでしょうか。(マルコ7:7)

しかし、それはまったくキリストの教えとは違います。正反対に間違っています。
キリスト教の本質は『愛』と『赦し』であって、ほかの人を自分の踏み台にして自分の正義を喜ぶことなど、邪悪な方向に進んでいるというほかありません。(ルカ16:15)

そこで、終末の裁きで「自分の義」、人の間では通用するかも知れない「正しさ」などは、神の前にはその人を救うものとならず、むしろ逆の方向、つまり『自分を義とする』ユダヤ体制派に『火のバプテスマ』が降り注いだように、滅びへとその人を誘うものとなり兼ねません。(ローマ10:3-4)
神が人に求めるものは滅びの恐れからの「服従」ではなく、恐れの拘束のない自発的な『愛』であることはまったく明らかであり、『愛する者は神といつまでも結ばれる』とある通りです。(ローマ4:4-5/ヨハネ第一4:16)

ですから、終末の大患難も最後の災いである疫病が人々を裁く中に於いてさえ、『銅の蛇』に当たるキリストの犠牲を仰ぎ見る人がいるなら、神はその人に注意深くあることでしょう。
そして、終末の前からキリスト教を教えられた『シオン』の人々も、この『愛』と『赦し』という神の意志をけっして忘れてはならないに違いないのです。そうでなければ後から悔いて回心する人々の受け皿がありません。
やはり、「人を赦す者は自らも赦される」とイエスは言われます。それこそが神に倣うことなのです。(マタイ6:14)







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