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大患難をもたらす四騎士

2021.01.06 (Wed)


「大患難」とは、イエスが『終わりの日』について語られた中で、『その日には、それまで起ったことがなく、その後も起らないような大きな患難がある』との言葉からのもので、いつかは分からないながら、かつてユダヤ体制に「火のバプテスマ」が臨んだように、いずれは世界が逃れられない災厄の極まる体制の終わりを指している言葉です。

これに関して『終わりの日』は、神がキリストを介して人々を裁くことを目的としていることが否定できません。
そこには、二つの裁きがあります。
第一は、天に召されるべき聖徒たちを練り清める裁きであり、第二は、その聖徒たちを通してすべての人々がキリストの右と左に分けられる『この世の裁き』です。

そのようにして、神は人類を創造されたままの栄光ある姿に回復するための『聖なる国民、王なる祭司』となる人々を天に選び取って任命しながら、その過程を通し、彼ら聖徒の語る聖霊の言葉への信仰が世界の人々に問われ、『天の王国』の贖罪の祝福に値するかどうかについて、地上に生きるすべての人が裁かれます。新約聖書が「救いは信仰による」と主張するのはこのことを表しています。それは『神と子と聖霊』に対する信仰であって、『終わりの日』に問われる信仰であり、今バプテスマを受けているから救われているわけではありません。

その日には、エデンでアダムが悪魔によって試みを受けたように、終末の人々の前にも試みが許されます。
その試みが聖徒にとっては「迫害」であり、一般の人々には脱落聖徒、特にその中でも『反キリスト』による「背教」が強烈な影響を及ぼすことでしょう。それが神に対抗して立ち上がる人類諸国の権力の集まりが、かえって自壊することに端を発する世界の混沌に至ることを聖書は随所で告げているのです。

『終わりの日』も進み、終局(テロス)が近付くと、聖書中で『マゴグの地のゴグ』とも呼ばれる『不法の人』また『反キリスト』は、その高い地位から諸国の軍事力を集め、いよいよ『天の王国』に信仰を働かせてその側に立っている人々を攻め立てるよう号令を下すことになりますが、これが大患難への入り口となります。

ですが、実はこの攻撃には目標がもう一つあり、それは公には秘められ隠されるため、その相手にとっては思いがけない突然の滅びが襲うことになるでしょう。
その隠された目標が、聖徒たちを妬むあまりに権力をそそのかせて葬らせた元凶である旧来の宗教「大いなるバビロン』であり、黙示録は、この大娼婦が以前には「七つの頭を持つ野獣」を使って聖徒たちを攻撃させたように、その同じ『十本の角』の軍事力によって大娼婦自らが終りを迎えようとしていることを示唆しています。
しかし大娼婦は、『わたしは女王の位にあるし、やもめなどではないのだから悲しみを見ることはない』と自分に言い聞かせる姿も描かれています。ですが、この娼婦はすでに神と何の関係もないことが『騎兵隊』によって暴露されています。つまり、『やもめ』になっているのです。(黙示録18:7)

この段階で、大娼婦の立場は短期間に悪化していることでしょう。その大きな原因となっているのが、反キリストを中心とした脱落聖徒たちの背教、『羊のような獣』が後押しをする宗教合同的な新しい宗教の急成長でもあるでしょう。
黙示録は『獣の数字』について、『羊のような獣』が『その(数字の)刻印のない者には売り買いできないようにした』と告げていますので、『666』を刻印とする『野獣の像』崇拝、つまり反キリストの『背教』の隆盛のほどが分かります。(黙示録13:17)

これに対して、それまでの諸宗教がどう振る舞うのかを黙示録は語っていませんが、反キリスト崇拝にどう反応しようと、例え賛意を見せて迎合しようと、敵視しようと、『大いなるバビロン』への陰謀は水面下で進められ、諸国の軍事力の集合である『十本の角』の攻撃目標は、表向きの信徒攻撃のほかに、この大娼婦への奇襲も練られていることでしょう。

その以前に、反キリストの世界体制への凶兆が『神の怒りを満たした七つの鉢』よって次々に暴露されている中で、大河ユーフラテスも『その水は、日の出の方角から来る王たちに対し道を備えるために、枯れてしまった』とあり、『大いなるバビロン』が多くの信者を失っていることを黙示録は示唆しています。(黙示録16:12)
この『日の出の方角から来る王たち』とは、古代バビロンを東方から攻略したメディア・ペルシアとその連合軍を率いて巨大都市バビロンを一夜で征服したキュロス大王の故事を示唆していることは明らかで、諸宗教からの信者の急速な減少が『大娼婦』という旧来の宗教の没落を招くことは聖書全体の理解からして疑えません。(黙示録17:15)

旧約聖書中には、同じように死を目前にして女帝のように振る舞った前例があり、その名はイゼベルという皇太后で、イスラエルが律法で通婚を禁じられたカナン人のフェニキア出身でしたが、イスラエルの王アハブは律法に構わずイゼベルを妃に迎えてしまいました。この王妃はYHWHの預言者らの多くを殺害させ、一方で嫁ぎ先の首都にはカナンの神バアルの神殿を建立し、フェニキアからバアル神の祭司らを招きました。

その難局の中で預言者エリヤが対抗し、YHWHこそイスラエルの神であることを奇跡によって立証します。
しかし、神の奇跡を恐れぬイゼベルはエリヤの命を狙うのでした。
エリヤは、かつてイスラエルが律法を賜った砂漠の山シナイのホレブの峰にまで逃れてゆきますが、神は彼にバアル崇拝を罰するための三人を示します。それがエリヤの後継者エリシャ、シリア王ハザエル、そしてイスラエルの新王となるエフーです。

女帝イゼベルとイスラエルのバアル崇拝の最期については、新たに神から任命を受けたエフー王の活躍するところです。
預言者エリシャから油注ぎを受け王と宣せられたエフーは電光石火の行動で、イゼベルの息子でイスラエル王となっていたエホラムを一本の矢で心臓を射止め、次いでイゼベルの居る王宮へと進軍します。

息子の死を知ったイゼベルは厚く化粧をし、王族の衣をまとってエフーを出迎えますが、その姿にはいくらの恐れも見えません。
エフーはそれまでイスラエルの戦車隊の隊長でしかなかったのですから、イゼベルの背後にあるフェニキアとの同盟をエフーが必要とすると思い込んだのでしょう。実際、フェニキアの貿易商のもたらす富は絶大であり、地中海の各所に植民地を作ってもいました。

しかし、エフー王の心にはバアル崇拝の根絶という目的があったので、イゼベルにとってその死はあっという間に訪れることになりました。エフーが王宮に向かって「わたしに味方するものは誰か?」と問いかけると、寝返りを望む数人の官吏が顔を出したので、『その女を突き落とせ』と一言命じただけで、イゼベルは王宮から落ちて死んでしまい、野犬にむさぼり食われ、埋葬もできないほどになってしまいました。(列王第二9:37)

その後、エフー王は自分もバアルを崇拝したいからと偽り、バアルの信者を神殿に集めると、周囲に手勢を配置して、中に居た崇拝者を皆殺害させ、バアル神殿を公衆便所としてしまいました。

この故事を念頭に置いて黙示録の大娼婦『大いなるバビロン』を読むなら、そこに重なるものがあることに気付けます。
『大いなるバビロン』も、自分の最期が迫っていることを悟れず、イゼベルのように赤と紫の王族の衣裳をまとって悠然と『わたしは女王の位にある、やもめなどではない』と言っているかのようであり、それがあっという間に墜落死して、犬に食い尽くされるということは、黙示録の『あなたの見た十の角と獣とは、この淫婦を憎み、身に着けた物をはぎ取って裸にし、彼女の肉を食って、火で焼き尽すであろう』の言葉と似ており、旧約聖書をよく知る読者には、この類似には注意を促すものがあります。(黙示録17:16)

黙示録の大娼婦を滅ぼすのは、聖徒を滅ぼした野獣の『十本の角』であり、ここで言う『野獣』というのは、おそらく『野獣の像』のことを言うのでしょう。この『野獣』は宗教化した偶像であるので、旧来の宗教を『憎む』理由もあると言えます。
ともあれ、『大いなるバビロン』の滅びは当事者の予想外に起こり、水の中に石が消えて行くように突然に過ぎ去り、二度と見ることはありません。その滅びのあっけなさは、かつての関係者の驚きと嘆きを誘うほどのものであることを黙示録は強調しています。(エレミヤ51:63-64/黙示録18:9-11,21)

こうして反キリストは、諸国の軍を動員しておいて、王国の信徒を攻撃する前に大娼婦を平らげてしまい、それからいよいよ『シオン』に攻撃の矛先を向けますが、この時までに『シオン』は『神の民』となって、神から何かしら『新たな名』で呼ばれていることでしょう。
世界の連合軍が主要な目標とするのは、神の領域に入ったその民であり、そこを攻撃することが彼らにとって天の神に逆らう方法であり、自分たちの権力を固めるために避けられません。詩編の第二は、逆らう政治家たちの思いを描いてこう述べます。
『 地の諸国の王は立ち構え、諸国の高官らは共に謀り、YWHWとその油注がれた者とに逆らって言う、「われらは彼らのかせを壊し、彼らの縄目を解き捨てよう」と』。(詩篇2:2-3)
このシオンの危機にあって、遂に神はキリストを王として擁立することになります。
『天に座する方は笑い、YHWHは彼らを嘲ける。そして憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる、「わたしはわが王を聖なる山シオンに立てた」と』。そしてYHWHは王としたメシアに命じて言われます『敵のただ中から征服してゆけ』。(詩篇2:5-6・110:2)

こうしてキリストは聖徒たちを率い、地に向かい王権の実効支配のために進軍を始めます。
それはかつて、イスラエル民族が『約束の地』を征服して入植するときに、自分たちに降伏することを願い出たカナン人の街ギベオンを他のカナンの諸都市の連合軍から救うべく、一晩中の行軍を続けてまでギベオンの異邦人を救おうとの熱意を見せたときの姿に重なるものがあります。(ヨシュア10:1-)

イスラエル軍はギベオン救出に間に合ったばかりか、敵対したカナンの諸都市連合の軍勢を打ち破り、カナン平定の基礎をも築くことまで出来たのです。
神も天からこの戦いに加わり、カナン連合軍は混乱に陥ったうえ、天から大石のような雹を降らせて敵兵を打ち倒したのですが、『剣をもって殺したものよりも、雹に打たれて死んだもののほうが多かった』とヨシュア記は伝えています。(ヨシュア10:11)

それでも、戦いが夕刻まで続いたのですが、イスラエルは敵軍に十分な勝利を挙げられず、そのまま夜を迎えれば、闇にまぎれて逃げる敵軍が、再び陣立てを建て直す機会を与えてしまう心配がありました。
そこでイスラエルを率いるヨシュアが空に向かって『陽よ、ギベオンの上に留まれ、月よ、アヤロンの谷にやすらえ』と叫ぶと、『陽が天の中空に留まって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。これより先にも後にも、YHWHがこのように人の言葉を聞き入れられた日は一日とてなかった』とあります。(ヨシュア10:12-14)

もちろん、天文学からすれば到底有り得ないことでしょうけれども、聖書にはそう書かれています。
しかも、それは聖書中にもう一度示唆されてもいるのであり、それはやはり終末に関わる預言書の中、エルサレムが大きな地震に見舞われる日を予告したゼカリヤ書はこう述べます。
『あなたがたの神YHWHは来られる、もろもろの聖なる者らと共に来られる。
その日は、冷えて固まるもので満ちる。そこには連続した長い一日があるがYHWHはその日を知られる。これは昼でもなく、夜でもない。夕暮になっても光があるからである』。(ゼカリヤ14:5-7)

これは「ハルマゲドンの戦い」を指すのでしょうか。ゼカリヤは続けてこう記します。
『エルサレムを攻撃するもろもろの民を、YHWHは災いをもって撃たれる。すなわち彼らはなお足で立っているうちに、その肉は腐れ、目はその穴の中で腐れ、舌はその口の中で腐れる。
その日には、YHWHは彼らを大いにあわてさせられるので、彼らはそれぞれ隣り人を捕え、手をあげてその隣り人を攻めるであろう』。(ゼカリヤ14:12-13)

この同士討ちと『YHWHが知る日』の『夕暮れに光がある』とは、ヨシュアの大勝利と「ハルマゲドンの戦い」とを結びつけるものと言え、終末でのキリストと聖徒らの大勝利を暗示していると言えるでしょう。そして、その日を知るのはただ神お一人であられ、王キリストに征服の命令を下される時、その決定的な日を定められることでしょう。

黙示録では、神の怒りの第七の鉢が『大気に注ぎ出された』ときに『起ったことがなかったほどの地震が起り』『大いなるバビロンは神の御前に思い出され』『島々はみな逃げ去り、山々は見えなくなった。また一タラントの重さほどの大きな雹が、天から人々の上に降った』とあり、カナン軍と戦うヨシュアと、終末の地震を予告するゼカリヤとを結んでいます。(黙示録16:17-21)約26kg

終末のこの場で、救われるべき信仰を表すことになる世の人々は、神YHWHへの信仰を表したカナン人の街ギベオンのようであり、元々は罪ある異教徒であることは変わらないとしても、同じように終末に於いて、天のイスラエルが世を征服するために近付いてきた時には、信仰を働かせて自ら悔い改め、YHWHの側に着くことでしょう。
それは、キリストの前で右側に羊として分けられ、神の王国に入る事を意味します。そうであれば、終末のシオンの人々は、反キリストに集められる大軍勢が攻め立てるといえども、キリストと聖徒たちが救出のために急遽進軍し、大勝利を収めることを信じることができます。(テサロニケ第一3:13)

まさしく「真のイスラエル」によって、終末のギベオン人を救い出すために、全軍が徹夜で行軍したように、また丸一日勝利のために陽が沈まないような強大な奇跡を人々は目にすることになるでしょう。
預言者ミカも、それが出エジプトに際して、神が紅海の海水を二つに分けてイスラエルをエジプト軍から救ったあの大いなる奇跡に匹敵する事柄が再び起こり人々はそれを目にすると記します。(ミカ7:15-16)

さて、この大患難の始まりを画する戦いの後にこの世がどうなるかについて知らせるものに「黙示録の四騎士」があります。
それは天界に挙げられた使徒ヨハネが最初に見た終末への謎の啓示であり、子羊が開く七つの封印の最初の四つに当たります。(黙示録6:1-)
キリストを表す子羊が第一の封印を解くと、白い馬とそれに乗った騎手が現れます。
この者は弓で武装していますが、冠が与えられ、『征服のうえに征服を重ねるために出て行った』とあります。

次には第二の封印が解かれ、赤い馬とその乗り手が現れ、『人々が互に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きな剣が与えられた』とあります。

第三の封印が解かれると、黒い馬とその乗り手が現れますが、この騎手は天秤を手に持っていて『小麦一コイニクスは一デナリ。大麦三コイニクスも一デナリ。オリーヴ油とぶどう酒は損なうな』との声が聞えます。(1コイニクスは約1リットル、1デナリは日当)

第四の封印が解かれて現れるのは、青白い(病的な)馬であり、その乗り手は『死』(タナトス)と呼ばれ、その後を『墓』(ハデース)が追走しています。

これら四つの騎馬について『彼らには、地の四分の一を支配する権威、および、剣と、飢饉と、死と、地の獣らによって人を殺す権威が与えられた』と黙示録は述べます。

これらの四騎士の中では、『人々が互に殺し合う』という「ハルマゲドンの戦い」を示唆する赤い騎馬について、やはり『地上から平和を奪い取る』とあります。
この赤い騎馬が、同士討ちの「ハルマゲドンの戦い」を指すものであれば、その後には食糧不足と疫病が続くことになるのは旧約聖書の故事に何度も描かれたところです。
『剣と飢饉と疫病』という三つの事柄は、旧約聖書中で繰り返し、軍隊に包囲されて終わりを迎える都市の運命として語られています。(エレミヤ14:12/エゼキエル14:21)
ですから、イエスがエルサレムの滅びを予告した言葉の中でも、ローマ軍による厳重な攻囲の中でエルサレム市内がどれほど悲惨な状態に陥るかを語られていますが、そこで起こったことはまさに『剣と飢饉と疫病』でありました。(ルカ21:11,21)

これら黙示録の記述が書かれたのは、エルサレムの滅びが起ってから二十年も後の事ですから、その四騎士の場合は、ユダヤの体制の終わりを超えて、『この世』という世界の終りについて語られていると見ることは間違いではないでしょう。

そこで「ハルマゲドンの戦い」に敗れた『この世』がその後どうなるかの様子がこれらの騎馬に知らされていることになります。
キリストと聖徒たちに敗れたこの世の体制は、権力を著しく失って『山々も消える』つまり政府として成り立つことにも危機が訪れていることでしょう。
この段階での人々の切実な想いをイエスはこう語っていました。
『人々は、その住む全地を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失う。天の万象が揺り動かされるからだ』。(ルカ21:26)
そこでは、それまで神の王国に強硬に反対していた無信仰な人々にも、キリストが来臨していることは認めざるを得なくなるに違いなく『そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを人々は見る』とルカ福音書は続けて記しています。

確かに、国々が同士討ちをしたのであれば、貿易を介した便利品の流通も製造も、食糧の輸出入サイクルも失われることも想定しなければなりません。今日の世界の生活がどれほど貿易に依存しているかは言うまでもないことですが、諸国の関係が失われて、経済活動だけは回り続けると期待する理由がありません。おそらくは、平常時のような生活は出来ないことでしょう。
人々が生活の糧を求めて食料品の価格は高騰し、日当で一日の食糧を確保するのがやっとの日々となるのでしょう。そのうえ社会が機能を果たせなくなってゆくなら、人々が仕事によって給与賃金を得るシステムそのものさえ危うくなり、生活が逼迫することも考えなくてはなりません。

では、神の民とされた人々の境遇はどうなるのでしょうか。
おそらくは影響をまったく受けないとは言えないでしょうけれども、何もない荒野で数百万のイスラエル民族を四十年に亘って奇跡の食物『マナ』で養ったのであれば、またイエスが『天の鳥を見よ』と言われたからには、神を持たない人のように絶望する理由もないことでしょう。(申命記8:3-5/マタイ6:26)
この点で、預言者エリヤは、天が閉ざされ干魃が続いた間、フェニキアのザレファトの地に住む困窮し切った寡婦の家に身を寄せ、かえってその親子を救っています。贅沢などは到底できませんが、不思議に食物は絶えることがありませんでした。この世に在っては意識しないことですが、わたしたちの生活を支えるのは、自分たちの働きである前に、すべてを存在させた神であることを知る必要があります。(列王第一17:12-16)

この食糧危機の後には、第四の騎馬が現れ、人々の間に疫病が蔓延し始めるのでしょう。
この災厄が決定的な神の裁きをもたらすことは、第四の青白い馬の後を『墓』が追っていることから明らかです。

しかし、神からの疫病という災厄は、『神の民』の一人一人をまるで『奥の間』に匿うかのように選択的に臨むのかも知れません。そうであれば、救われる人々は実際のシェルターを必要としないでしょう。
詩篇にはこうあります『あなたの傍らに一千人が、あなたの右に一万人が倒れるとしても、それがあなたを襲うことはない。
あなたの目が、それを眺めるのみ。神に逆らう者の受ける報いを見ているのみとなる。
あなたはYHWHを避難所とし、いと高き神を住まいとした。
あなたには災難も降り掛かることがなく、天幕には疫病も触れることがない』。(詩篇91:7-10)

この世が自壊してゆく中で『神の民』はそのように象徴的な「保護の奥の間」に隠されることになるのでしょう。
『さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。激しい憤りが過ぎ去るまでしばらく隠れよ』とイザヤ書にはありますが、それは隣人に差別的に振る舞わせるという意味ではないことでしょう。そうしなくても守られるという信仰こそがその人を利他的にさせ、キリスト教本来の『隣人愛』を行わせることでしょう。
そうでなければ、秩序を失った『この世』の醜いありさまのまま、自分だけは救われようとして、かえって滅びに価する利己的な資質を見せてしまいます。

この状況を使徒ペテロはこう書いています。
『主の日は盗人のようにやって来る。その日、天は激しい音を立てながら消え失せ、天の万象は焼け落ちてしまい、地とその業とが暴かれてしまう』。(ペテロ第二3:10)
これは、『天』で表されるそれまでの人間の支配であった政府が無力となり、地上には無秩序と混乱が蔓延して、人間に宿る「アダムからの罪」が露わにされて、その闘争性や利己性がどれほど醜いものかを暴かれ思い知らされるということなのでしょう。
しかし、神を知る人は、もとより『罪』こそ人の悪であることを教えられているので、信仰がないかのように、無秩序な悪行に同調することもないはずです。

さて、黙示録はこうした四騎士の災い記述の終りに、『彼らには、地の四分の一を支配する権威、また、剣と、飢饉と、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが与えられた』と結んでいます。(黙示録6:8)
青白い馬の後をついて来た『墓』が、同じ個所で『地の獣』に変えられているのは、死にゆく人々の墓が野獣たちの腹の中となることを暗示するのでしょう。
実に、「ハルマゲドンの戦い」で戦死する人々を黙示録では鳥たちがついばみ、エゼキエル書ではその食事に野獣も加わっています。(黙示録19:17-18/エゼキエル39:17-18)

また、『地の四分の一』というのが、滅ぼされる範囲を指すのか、それぞれの災厄が地の四分の一に臨み、白馬の騎士の分の四分の一だけが救われるのかは分かりません。
もし、白馬の騎士の管轄する『地の四分の一』が救われるのであれば、この第一の騎士はキリストを表すことになります。
しかし、この白馬の騎士がキリストを指すのか、反キリストの人類連合軍の出撃を指すのかについては、はっきりとしていませんが、終末には聖霊を持つ聖徒たちが明かしてくれる事柄なのかも知れません。
本書ではとりあえず、原始キリスト教の指導者たち、使徒ヨハネの薫陶に在った小アジアの教えに敬意を払い、白馬の騎士をキリストと想定することにします。

しかし、それで救われる人々が人類の四分の一であるかどうかは分かりません。
なぜなら、これら四騎士が現れた後になってもなお、人々が救われる可能性を聖書が語るからです。
そのような多大の寛容さを示したのは、まずほかならぬイエス・キリストであったのです。








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