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ハルマゲドンに向かう世界

2020.12.24 (Thu)

『ハルマゲドン』という言葉に人々が何を思い描くかと言えば、人類の最後の戦争による世界の滅亡というイメージが広く定着しています。たいていの場合、描かれるのは破壊に次ぐ破壊でしょう。
オリジナルからして、黙示録という謎の書に現われ、この世の終わりに世界各国の軍隊が集まる場所の名として記される『ハルマゲドン』ですから、確かにそのように受け取られても無理もありません。

ですが、それはこの世がインフラも建造物もまったく破壊され、文明的な世界が終わるという、フィクションの主題にされているような大惨事と、黙示録が本来述べるところとは幾らか異なっています。
もちろん、聖書の『ハルマゲドン』に関する記述からすれば、それは「戦い」へと向かう状況を表す言葉ですから、確かに人間同士の軍事的衝突は避けられません。しかし、それはキリストの予告された終末も終わりの時期に起こる未曾有の災厄の中の一つではあるものの、それですべてが終わるわけではなく、むしろ『この世』という永遠盤石に見えた「巨大な体制」が、多くの人々の予想に反して自壊に向かうきっかけをつくるものです。

『ハルマゲドン』に集められた諸国の軍同士の戦いが始まる前に、忠節を守った聖徒たちが天界に集められ、キリストを『隅の親石』として彼らによる天の神殿建設と、『神の王国』の支配の準備が進むなか、地上では、偽キリストと脱落した元聖徒らの支配と崇拝が固められていることでしょう。天と地の二つの王国はいずれ対決が避けられません。

地上に対するキリストの業としては、信徒たちの『騎兵隊』の活動が見られるだけでなく、祭政の世界秩序を手中にした『不法の人』である偽キリストの支配と崇拝には、それが正しくもなく、善くもないものであることを示す凶兆が『神の怒りの七つの鉢』に込められ、地上を治める者、『野獣の数字を持つ者ら』に害悪が注がれ始めることになります。それは偽キリストによる地上支配について、人々の熱狂に水を射し、疑念を起こさせるものとなることでしょう。人々に何と唱えられようと偽キリストの支配は決して「神の王国」にはならないのです。

その一方で、黙示録も第16章の『怒りの鉢』の場面には、もはや地上に聖徒の宣教活動は見られません。むしろ彼らは天での祭司団としての祭儀を開始する用意が整っています。
そのため、黙示録では『キリストの権威が実現し』て後、天界の幕屋から七人の天使がそれぞれに神の怒りを満たした鉢を持って現れる場面となり、地上の偽キリストの支配のもろさが次々に知れ渡ってゆきます。
この間『聖所は神の栄光とその力とから立ち上る煙で満たされ、それら七人の御使の七つの災いが終ってしまうまでは、だれも聖所に入ることができなかった』とあります。(黙示録15:8)

このように視界が妨げられて崇拝儀式がしばらく行えなかった事例が旧約聖書に二回書かれています。
一度目は、エジプトからシナイ山麓に逃れたイスラエルが、モーセがYHWHの言葉に従って崇拝の準備を完了し、いざ、『会見の天幕』での奉仕を始められる状態となった時に、雲がわき起こって視界が遮られ、神との会見を続けて来たモーセですら天幕の中に入ることができませんでした。(出エジプト40:33-34)
このことは、後にソロモン王が第一神殿を建立し、祭司団が最初に祭儀に取り掛かろうとしたときにも起ったことです。(歴代第二5:13-14)

そして、黙示録はここに於いて、天界の崇拝奉仕の準備が整ったことを同じように視界を妨げる煙によって暗示しています。つまり、天の大祭司であるキリストと、それに従う祭司団がそろったことを意味します。
そのため、召されるべき聖徒は一人として地上に残されておらず、今や、その権能が発揮される直前にあるのですが、地上では相変わらず『背教』した脱落聖徒らの地上支配が行われていて、多くの人々が生ける偶像である『野獣の像』を崇拝してしまい、その印である『666』の印を右手や額に受けて洗脳されてしまっていることでしょう。『666』とは、つまり完全なものを決してもたらさない偽物です。(黙示録13:15-18)

しかし、天の幕屋から現れ出た七人の天使らが、それぞれの鉢から『神の怒り』を注ぐと、偽キリストが治める世界の不完全さが次々に暴露されてゆくので、人々には悔い改める機会がさらに開かれることでしょう。
地上では大権持った頭目となり、今や神を自称して世界の王として振る舞う『不法の人』からすれば、それらの凶兆を打ち消し、人々には認めさせたくないことでしょうし、なんとしても目障りな信徒の集団には自分への崇拝を強要させるか、さもなければ処刑してしまいたいことでしょう。
そこで、彼は遂に『荒らす憎むべきもの』の『荒らす』、つまりこの世の滅びを招く決断に走ることになります。

そのことを、旧約の預言者エゼキエルは『マゴグの地のゴグ』の決断として描き出します。(エゼキエル38:1-)
『あなたはわが民イスラエルに攻め上り、雲のように地を覆う。ゴグよ、終りの日にわたしはあなたを、わが国に攻め来らせ、あなた(の敗北)を通して、わたしの聖なることを諸国民の目の前に表して、彼らにわたしを知らせる』。(エゼキエル38:18)

このゴグのイスラエル攻勢の結果についてはこのように書かれています。
『わたしはゴグに対し、すべての恐怖心を呼び寄せる。あらゆる者の剣は、その同朋に向けられる。わたしは疫病と流血とをもって彼を裁く。わたしはみなぎる雨と、雹と、火と、硫黄とを、彼とその軍隊および彼と共にいる多くの民の上に降らせる。そしてわたしはわたしの大いなることと、わたしの聖なることとを、多くの国民の目に示す。そして彼らはわたしがYHWHであることを思い知るであろう』。(エゼキエル38:22-23)

そしてこの大敗北が、ほかの預言者たちによっても以前から語られていたことに神YHWHは注意を向けさせてこう言われます。
『わたしが昔、わが僕イスラエルの預言者たちによって語ったのは、お前の事ではないか』。(エゼキエル38:17)

その通り。この世の終りに際して神が諸国民を徹底的に裁き、世界が神の憤りに飲まれることは、イザヤ、ミカ、エレミヤ、ヨエル、ゼパニヤなども揃って語るところでありました。
特にヨエル書では、神に反抗する人間の連合軍の大敗北を、かつてのユダ王エホシャファトの大勝利になぞらえています。

それは、エゼキエルの預言した前6世紀より250年ほど前に起った事件を題材にして、さらに終末をも予告した二重の預言で、預言者ヨエルはエホシャファト王の時に起った事が終末にも起きると語っているのです。

エホシャファト王は、YHWHに信頼を寄せる善王でありましたが、あるとき近隣諸国の連合した大軍勢に攻め込まれる事態が発生してしまったのです。(歴代第二20:1-3)
民も王も、対抗する力も策もなく、ただYHWHの前に謙るばかりでしたが、律法契約に忠節さを見せる者に忠節であるYHWHは、この善王の危機に際して、一人のレヴィ人に霊感を与え『この戦いでは、あなたがたは戦うに及ばない。ユダおよびエルサレムよ、あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられるYHWHの勝利を見なさい。恐れてはならない。おののいてはならない。明日、彼らの所に攻めて行け。YHWHはあなたがたと共におられるからである』と叫ばせます。(歴代第二20:17)

この神からの返答に信仰を働かせた王と民と共に、神殿合唱隊のレヴィ族が深い感謝を込め、例のないほどの大声を張り上げてYHWHを賛美して歌い出ました。(歴代第二20:18-19)
翌朝、ユダの軍隊は異例にも、そのレヴィ族合唱隊(おそらく288人)を軍の前に配置し、神への信仰を剣とも盾ともして進軍を始め、合唱隊が『YHWHを賛美せよ!その忠節な愛はとこしえに及ぶ!』と「賛美の詩篇」を歌い出すと、敵軍は混乱を起こして同士討ちを始めてしまい、エホシャファトの軍が敵軍を発見したときには、そこに生き残っている者を見なかったのでした。

ユダの人々は、敵の大軍勢から物資をはぎ取ってゆきましたが、一日では終わらず、二日でも終わらず、三日を要する大収穫となり、やっと四日目になって、その谷に国民が集合してYHWHへの感謝が捧げられるのでした。
それで、その場所は『祝福(ベラカ)の谷』と呼ばれ、神YHWHの民への善意を記念する場となったのです。

後の預言者ヨエルは終末に起るべきことを、このエホシャファトの勝利になぞらえて語り、『諸国民をふるい立たせ、エホシャファトの谷に上らせよ。わたしはそこに座して、周囲のすべての国民を裁く』と預言しています。(ヨエル3:12)
しかも、神はそれらの軍勢に加わるように諸国民を促しさえするというのです。
『諸国民の中で宣べ伝えよ。戦いの備えをさせ、勇士をふるい立たせ、兵士をことごとく近づかせて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたの鎌を槍に打ち替えよ。ひ弱な者にも「自分は勇士だ」と言わせよ。周囲のすべての国民よ、急ぎ来て、集まれ』。(ヨエル3:9-11)

この預言に表れているように、神は諸国民を一気に裁くために、そのすべての軍勢を煽ってさえいます。
その結末と言えば、同士討ちによる壊滅であり、それはほかの預言者たちも異口同音に述べるところで、やはりエゼキエル書もその一つです。
エゼキエルの終末預言の特徴は、世界の軍勢に働きかけて、終末の『神の民』となっている信徒の群れへの攻勢を行わせるところの、強大な権威の持ち主としての偽キリストに焦点を合わせ、そこではもはや『マゴグの地のゴグ』との別の呼び名を与えて、その素性の一端を明かしているのです。

エゼキエル書に描かれる『ゴグ』は、『「わたしは無防備の村々の地に上り、穏やかにして安らかに住む民、すべて石がきもなく、貫の木も門もない地に住む者どもを攻めよう」と言う。そしてお前はかつて廃虚であったが、今は人の住んでいる国、諸国民のもとから集められ、国の中心の山々に住み、家畜や財産を持っている民に対して手を挙げ、戦利品を奪い、ほしいままに略奪しようとする』。(エゼキエル38:11-12)
『かつて廃墟であった』とは、まさに『シオン』であり、そのときには信仰を抱いて集まってきた信徒たちによって賑わい、『家畜や財産』に恵まれていることでしょう。

この『マゴグの地のゴグ』に対する預言の言葉についていくつかの解釈がされていて、世界に終わりが臨んだときには、現実のイスラエルの国を北から諸国が攻め込んで来るとキリスト教界で広く信じられています。
その原因は、この一連の預言の中でYHWHはこの『ゴグ』とされる人物が『北の果てから来る』と記されているところにあるのですが、旧約聖書を調べると『北の果て』の『場所』といっても、それが必ずしも実際の方角を示すものとも言えません。
例れば、詩篇の第48には『高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都』とあり、王座を頂くシオン山上のエルサレムを『北の果て』にあるものとしていますが、北緯23度しかないエルサレムを『北の果て』というからには、これは地理上の方向や場所を指してはいません。(詩篇48:2)
古代での『北の果て』である北極は、全天がそこを中心として回るという天の最上の座を指して、古代人の深い畏敬を誘っていたものです。聖書がそこで言う『北の果て』が、メシアの「世界を統べ治める王の御座所」として詠われているのは明らかなことです。やはり『ゴグ』は偽メシアなのでしょう。そして『マゴグ』という北にある彼の故地は脱落聖徒らの集団を指すのでしょう。(詩篇45:6)

そこで、やはりエゼキエルがゴグが『北の果てから』攻めて来ると語ったとき、このような古代人の観点を考慮にいれないわけにはゆかないでしょう。
そうであれば、ゴグとは至上の権威の座に在ることを想定するべきことになり、それゆえにも、諸国の連合軍を集めて動かすことができるだけの立場が説明できます。
そして、世界人類を統治するほどの至高の座こそ、悪魔が切に求めていた地位でもあったのです。(イザヤ14:13-14)
終末に至り、悪魔サタンは偽キリストであるゴグという生きた偶像を介して、その人類連合への命令権を手中にしたと言えるでしょう。
まさしく、『マゴグの地のゴグ』とは、パウロが語った『神殿に座し自分を神として示す』絶大な指導者、つまり『不法の人』であり、この時に至れば、この世をまるごと神と敵対させて滅ぼすきっかけを作る『荒らす憎むべきもの』としての悪魔の代理の本性を発揮するでしょう。

そこで黙示録は、諸国の軍を集める指令の出所を明かしてこう述べています。
『また見ると、龍の口から、獣の口から、偽預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。
これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった。』(黙示録16:13-14)

確かに、ここには『ゴグ』、また『不法の人』の命令する姿は描かれていません。
しかし、『偽預言者』という単数で述べられる言葉の中に、すべての脱落聖徒らが含められているとすれば、その全体についてエゼキエルが『マゴグの地』と呼び『ゴグ』と二種類に分けていたと考えることはできるでしょう。つまり、脱落聖徒全体の集団を表す『マゴグの地』と、偽キリストを指す『ゴグ』であり、黙示録は『偽預言者』という一言にそれを集約しているのであり、そこでは誰が号令を下すかではなく、その意志の源と、それが悪魔の体制に広く一致して出される点に理解を向けています。

その世界を終わらせることになる攻撃の号令をゴグが下す前に、『龍』である悪魔と、今や並ぶものもない超大国となったキリスト教的国家、そして『偽預言者』である脱落聖徒の集団がそろってゴグを後押しすることになり、この世もろとも引き返すことが出来ない道に入ってゆくことでしょう。

さらに加えて、黙示録は有名な一言を加えます。
『それら三つの霊は、ヘブライ語でハルマゲドンという場所に王たちを集めた』。(黙示録16:16)

この『ハルマゲドン』という言葉は、俗に「世界の破滅」を表すものとして独り歩きを始めてしまっているようなところがありますが、この言葉そのものは場所を指し、戦いの性質を暗に表すもので、自然からの大災害で地球や人間の文明がまったく破壊されてしまうということではありません。
ここで『ハルマゲドン』とされる場所は、今のハイファの街に近いパレスチナの海岸沿いにある、カルメル山が地中海に落ち込むように見える切り立った難所があるために、道が非常に狭くなり軍隊の行進が阻まれるので、どうしてもそこを迂回する必要が生じて、五キロほど内陸の地点を通ることになりますが、その要衝となる場所を指します。
そこはエスドラエロンという平原を見渡す場所で、「メギド」と呼ばれる小山があります。『ハル』とは「山」でありますから、『ハルマゲドン』とは「メギドの山」と言う意味ではあります。

但し、それはただの小山以上の意味があります。そこの場所の地形から要塞が築かれ、古来から軍隊同士の決戦の地となって、「勝敗の決定的に分かれる戦いの場」という意味がこの『ハルマゲドン』の言葉に込められています。
まさしく、終末のこの世と神の王国との決戦も、勝敗のまったく分かれるものとなるのは目に見えるようですが、偽メシア『ゴグ』に惑わされた人々には、むしろ、現実世界を掌握している自分たち「地上の王国」に圧倒的な分があると思えることでしょう。

そして、やはりエゼキエル書でもゴグの軍勢の壊滅が描き出されています。
『あなたはわが民イスラエルに攻めのぼり、雲のように地を覆う。ゴグよ、終りの日にわたしはあなたを、わが国に攻めきたらせ、あなたを通して、わたしの聖なることを諸国民の目の前に表して、彼らにわたしを知らせる』。『わたしはゴグに対し、すべての恐れを呼びよせる。すべての人の剣はその仲間に向けられる』。(エゼキエル38:16.21)

この世の連合軍が同士討ちで壊滅することは、後の預言者ゼカリヤも繰り返し告げるところで『その日には、YHWHは彼らに恐慌を起こされるので、彼らはおのおのその隣り人を捕え、手を挙げて互いを攻める』と記しています。(ゼカリヤ14:13)

それは、あのエホシャファト王を大軍勢で攻めた諸国の連合軍の結末を思い起こさせるもので、やはり、その故事を終末の予告として語るヨエルはこう預言を続けています。
『鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。来て踏みつぶせ、酒ぶねは満ち搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい。
裁きの谷には無数の群衆が集まっている。YHWHの日が裁きの谷に近づく。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。
YHWHはシオンから雄叫びを上げ、エルサレムからその声を轟かす。天も地も震え動く。しかし、YHWHはその民には避難所、イスラエルの人々の要害である。』(ヨエル3(4):13-16)

エホシャファト王の戦わない勝利によって、運ぶのに三日を要する戦利品をもたらし、神はそうしてユダの国を祝福しましたが、エゼキエルもゴグの軍勢の壊滅についてこう預言しています。
『イスラエルの町々に住む者は出て来て、武器すなわち大盾、丸盾、弓、矢、投槍、および長槍などを燃やし、また焼き、七年の間これらで火に燃やす。彼らは野から木を取らず、森から木を切らず、武器で火を燃やし、自分をかすめた者をかすめ、自分の物を奪った者から奪うと、主なる神は言われる』。(エゼキエル39:9-10)
おそらくは、同様にシオンの民も戦わずに守られ、諸国民の残された物を活用することもあるのでしょう。

そして黙示録第14章では、キリストの初臨でユダヤの体制が二つに裁かれたように、終末に二つの収穫があることを次のように記します。『見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠を戴き、手には鋭い鎌を持っていた。すると、別の天使が神殿から出て来て「鎌を入れて刈り取ってください。地の収穫物は実り、刈り取るべき時がきました」と叫んで言った。雲の上に座している者は、その鎌を地に突き入れた。そして、地の収穫物が刈り取られた』。(黙示録14:14-15)

こうして終末の穀物の収穫が終わると、もう一人の鎌を手に持つ天使が現れ、『その鋭い鎌を地に入れて、地のぶどうの房を刈り集めなさい。ぶどうの実はすでに熟しているから』と叫ぶ声がありました。
『そこで、御使はその鎌を地に突き入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。
そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどの深さになり、一千六百スタディオン(約288km)にわたって広がった。』(黙示録14:18-20)

これら黙示録の相次いで行われる刈り取りは、小麦とブドウの収穫を表しているのでしょう。
パレスチナでは、夏の前に小麦の収穫は終わり、それから初夏にかけてブドウの摘み取りがあります。
『人の子のような者』が、小麦である『聖なる者たち』を集め終わると、次にはブドウの収穫時期となっています。黙示録はブドウをしぼり汁を『血』になぞらえ、終末のこの世に臨む小麦とブドウの二つの裁きの収穫を予告しているのです。それがつまり、是認と呪いの二つの収穫です。

このように聖書は、世界に起きる神の裁きという一大事に焦点を合わせて語り、神と人との最終的な対立の始まりに、つまりキリストの再臨でも『顕現』(エピファネイア)の始まりに当たって勃発する「ハルマゲドン」の戦いを知らせています。
それは神が王キリストをシオンに立て、実力行使を行わせる時の始まりとなるので、世界はたいへんな衝撃を受けることでしょう。
そのため、この世は無防備な信徒の群れに圧勝できると思い込んでいたにも関わらず、まったくの敗北を被り、かつてエルサレムの滅びについて語られた言葉『そのとき、人々は山に向かって、我々の上に倒れかかれと言い、また岡に向かって、我々に覆いかぶされと言い出す』との預言の引用は、黙示録の中でもう一度繰り返されます。

『天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはその場所から移されてしまった。
地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。
そして、山と岩とに向かって言った、「さあ、我々を覆って、御座にいます方の御顔と小羊の怒りとから匿ってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。その前に誰が立つことができようか」』(ルカ23:30/黙示録6:14-17)

もはや、世界はキリストの見えない来臨をその心の目ではっきりと『見る』ことになるでしょう。
つまり、自分たちの大敗北を通して『人の子が、天の雲と共に来るのを見る』ほかありません。それは強制的に見させられることで、刑の執行はすでに始まっているのですから、そのようにしてキリストの再臨を認めざるを得なくなることは、それだけ不信仰であったことになりますし、神を見出すことでは最悪の方法です。(マタイ26:64)

加えて、『偽キリスト』つまり『ゴグ』また『不法の人』にも最期が臨むことをパウロは『キリストはその顕現によって彼を無に帰させる』と述べています。つまりそれは創造物としての『魂』の喪失であり、永遠の無存在に去って行くことを意味します。おそらくは神に逆らって軍に加わった確信的な人々の死についても、復活の無い「永遠の死」を遂げるのでしょう。
それですから、終末の裁きと言うものを、誰であれ軽く考えたり、侮ったりすべきではありません。

では、これを読む皆さんが終末に直面するとしたら、それぞれにどう振る舞うのでしょうか。
もし、ここに書かれた情報がまるで的外れでなく、一定の真相が込められているとすれば、それは『人の心にも上らない』聖書の秘儀に触れたことになり、聖書が警告する「終末」という、短くも未曾有の大変化の起こる時期への心の準備になるところもあるでしょう。とは言え、それで悪魔の誘惑にうまく対処できるかどうかは別問題です。アダムも禁断の木の実を食べることの害は知っていたのですから、より必要なのは知識に勝るものと言えます。(テサロニケ第二2:8/マタイ25:41-42)

さて、『ハルマゲドン』の戦いの後でも、未曾有の大患難はそのままに続きます。もはや強大な政府も地上のメシアもなくなり、人間社会の支配機構としての権力である『天が巻物が巻かれるように消える』にしても、まだ地には多くの一般の人々が残されています。『天』で表される人間社会を治める権力機構が無力となった後、いったい世界はどんな姿を見せるのでしょうか。その中で信徒たちはどうなるのでしょうか。






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