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終末のイナゴと騎兵隊

2020.12.23 (Wed)


キリストの再臨によって『終わりの日』が到来すると、アダムの子孫である人類は『この世の裁き』に直面し、一連の格別な物事が次々に起ってゆくことを聖書は明かしています。旧約聖書の数々の預言や古代の出来事にも、新約聖書のイエス・キリストの言葉の数々にも『この世の終り』について焦点を合わせたものが随所に存在しているので、あの黙示録であってもそれら数々の終末の情報へと注意を促す「索引」のようにさえなっています。

さて、ここで『イナゴ』について述べるのは、やはり旧約の「預言者たち」の一つ、ヨエル預言書に書かれた、植物を食い尽くし、無数の群れをなして空を暗くするあの昆虫のイナゴを象徴とし、重要な予告となって後の使徒時代に一度成就した事柄と、それを通してさらに終末に起る事柄を予告しているところに注意を促すためです。

このヨエルの預言は、その第一の成就を記す使徒言行録なくしては神意を探れるものではありませんので、新約聖書を認めないユダヤ教には隠されたままですが、さらにもう一度の成就が終末にあるなら、それを知らせる黙示録の難しさのため、キリスト教界からも隠されたまま終わるのかも知れません。

『イナゴ』によって示された異象の意味を結論から言えば、『イナゴ』で表わされる「聖徒たちの働き」を表しています。
しかし、黙示録は、ヨエル書にイナゴと共に書かれたもう一つの要素である『軍馬』から、使徒時代には起っていない別の「軍馬」によって構成される『騎兵隊』の存在をも描き出しています。
ですが、その黙示録にある『二億』にも上る数の『騎兵隊』が何を指しているのかは、実際、今日のキリスト教界からも隠されたままに記述だけが存在してきました。

では、まず黙示録の第九章から「終末のイナゴ」について語るところを見てみましょう。
『第五のラッパ』が吹かれると、天から一つの星が舞い降り、地の下の『底知れぬ深み』にまで入ってゆき、牢獄の鍵を開けることになります。(黙示録9:1-3)

すると、かまどの濃い煙が立ち上って天を覆い、異様な姿の無数の蝗が現れては、すべての人々に苦痛を与えることになります。
黙示録9章はこう描きます。
『その煙の中からイナゴが地上に出て来たが、地のサソリが持っているような力が彼らに与えられた。
彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木を損なってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。彼らは、人間を殺すことはしないが、五か月の間苦しめることは許された。彼らの与える苦痛は、人がサソリに刺される時のような苦痛であった。その時には、人々は死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げて行く』。(黙示録9:3-6)

これら、終末のイナゴについては木々を損なう実際のものではなく『額に神の証印の無い人々だけを害する』とあります。
しかし、『人々を殺さず』とあるように、これらのイナゴにはサソリのように人々を害するにしても殺すまでには至りません。
これらのイナゴが、なぜすべての人に苦痛を与えるかと言えば、アダムの子孫である人々にはもれなく『罪』というものがあり、神の前には『罪人』であることを告発するからなのでしょう。
人間が、どれほど道義的に振る舞おうと、貪欲と争いから抜け出ることは出来ません。戦争はおろか犯罪も無くせず、隣人とさえ問題なく過ごす保証もないのですから、理想世界を描いてもけっしてそれを実現できない理由が自分自身の中に在るのです。そのように人間が自らの問題を取り除けないのであれば、どれほど社会を良くしようとしても、その努力が本当に実を結ぶには至りません。また、これを知らされるということは、人間社会の重苦しい限界を認めることにもなりますから、人間の叡智を信じたい人々や政治に邁進し日々努めている人々は、人間の本質の暴露に反発することもあるでしょう。

これらの激痛を与える「終末のイナゴ」の正体については『額に神の証印の無い人々だけを害する』という言葉に現れています。
なぜなら、これらのイナゴには、仮のものながら聖霊の注ぎによって『額に神の証印がある』と言え、キリストからの『義』を分かち与えられているので『鉄の胸当て』を着け、義なる良心を保っていると言えるでしょう。その『義』なくして『罪』あるどんな人間にも『この世』を糾弾する資格などないからです。ですから、イナゴたちは自分たち以外のすべての人を襲うことでしょう。(黙示録9:4・9/ローマ8:33)
また、これらのイナゴに『金の冠』があるのは、彼らがキリストと共なる王権の相続者であることを明かし、女のように長い頭髪は、キリストという夫を持つことになる婚約の身を指すのでしょう。

こう捉えると、これら世の真実を暴くイナゴが『聖徒』であるとの理解の扉は大きく開かれることになります。
その活動領域は第一世紀のいなごの範囲であったユダヤ体制を越えて、全世界に行き渡るものでしょう。

では、かまどの煙のように現れるイナゴを解き放つところの、地底の牢獄の鍵を開けることになる、地に降りた『星』とは、キリストなのでしょうか。
黙示録での『底知れぬ深み』の用例はいくつか有り、特に17章8節の『昔はいたが、今はいない、だが、やがて底知れぬ所から上って来る野獣』についての句は、『底知れぬ深み』が『昔』と『今』という時間の大きな隔たりを指していることを教えます。
黙示録に描かれるその暗く不気味な印象からは想像しにくいところですが、使徒時代が過ぎ去り、古代の聖霊降下が終わって後、今日まで千八百年ほどのキリスト不在の時期が続いて来たことからすれば、再び聖霊を注いで遠い過去から呼び出すかのように、新たな聖徒たちを任命することは再臨のキリスト以外に出来るものではありません。

では、『底知れぬ深みの鍵を開ける』天からの『星』が解き放つ『イナゴ』は、以前にも存在したことのあるのでしょうか。
まさしく、聖霊が降ったその日に、使徒ペテロが先頭に立って、聖霊によって異国の言葉を話している弟子たちの上に預言者ヨエルの言葉が成就していることを証していました。つまり、聖霊が老若男女、奴隷や下女にまで注がれるという預言であり、その預言書は『イナゴ』の害がイスラエルを襲うことについても述べるものであったのです。(使徒2:1-24/ヨエル1:2-4)
『それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。強大で数多い民がいて、山々の上を暗闇のように覆う』。『火は彼らの前を焼き、炎は彼らの後に燃える。彼らの来る前には、地はエデンの園のようであるが、その去った後は荒れ果てた野のようになる。これを逃れるものは一人もいない』。(ヨエル2:2-3)

イエスが去った後、聖霊を受けた弟子たちは、あのペンテコステの日以来、ユダヤ体制が、現れたメシアを退けてしまったことを暴露し始め、神は彼らに奇跡を行う賜物を送ってその業を支えられました。それはユダヤの宗教家らには痛みを与えるものとなりました。それは体制派がメシアを殺めたことを、残された弟子らによって聖霊の奇跡が行われるほどに、彼らの良心を苦しめるものとなり、その結果、神の是認から離れたユダヤ体制には破滅と荒廃に向かう以外の道は残されなかったと言えます。(使徒5:28)
ですから、第一世紀にイエスの後に残された弟子たちの活動は、ヨエルの予告したイナゴのように、ユダヤの体制を象徴的に食い尽くしていったということができます。(ヨエル2:7-11)

加えてヨエルは、イナゴの姿をこう描写します。
『その姿は馬のようで軍馬のように駆ける。山の頂を駆け巡って戦車のような響きを立て、わらを焼く炎のような音を立てる。これは戦いの備えをした強大な民のようだ』。(ヨエル2:4-5)

このヨエルの預言を後の黙示録が踏襲していることは、『これらのイナゴは、出陣の用意の整えられた馬によく似ている』と同じように述べているところに明らかです。(黙示録9:7)

つまり、第一世紀のキリストの死の後に聖霊によって現れ、その殺害の罪を暴露した聖徒たちの活動は、再臨のキリストにより『底知れぬ深み』という永い時間の隔たりをも越えて再び導き出されるということであり、終末にもう一度聖霊が注がれることを明かすものとなっています。

しかし、終末でのイナゴは人々に痛みを与える間の『五カ月』という、イナゴ本来の寿命を終えると、人々への痛みを与える業を止め、みな去ってしまうことも黙示録は示唆し、以後、これらのイナゴは黙示録に登場しません。(黙示録9:5/ナホム3:16-17)
これは聖徒たちが聖霊の言葉を終末に三年半語った後に、天界に召されて去ってゆく姿を、イナゴという現れては消えて行く昆虫に例えて示しているかのようです。(黙示録11:12)

しかし、黙示録では使徒たちの時代とは異なり、聖徒たちが去った後に、「イナゴに似た別の民」が、同じようにこの世を攻撃する姿を描いています。終末の聖徒たちである「イナゴ」が、『ライオンの歯を持ち』『さそりに似た尾があって』それがすべて『罪』ある人々に苦しみを与えたように、新たに現れる「イナゴに似た別の民」たちの姿も、それによく似て居るのです。

その新たな者たちについて黙示録のヨハネは『第六のラッパが吹かれた』後に何が起るかについてこう述べます。
『騎兵の数は二億であり、わたしはその数を聞いた。
わたしは幻の中で馬とそれに乗っている者たちを見たが、その様子はこうであった。彼らは、炎、紫、および硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭はライオンの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とを吐いていた。
その口から吐く火と煙と硫黄という三つの災いで人間の三分の一が殺された。』(黙示録9:16-18)

イナゴが去った後に突然現れるこれらの騎兵隊について、黙示録はどこからどのように現れるのかを示さず、ただ、「ユーフラテス河畔に囚われていた四人の使いが解かれた」ことだけを告げています。
これは『大いなるバビロン』からの解放を暗示していること、また去って行ったイナゴと密接な関係にあることが明らかではあります。

つまり、旧来の宗教から出て来る人々から、これら『二億』にも上る数の出所が示唆されていると言えるでしょう。
彼らの行動は、『人間の三分の一が殺された』という結果をもたらすというのです。
この『三分の一』が、社会を構成する「政治」、「経済」のほかの「宗教」を指すとすれば、バビロン河畔からの解放が有って後の事として、人々が宗教を責めるとすることには整合性があることになります。

かつて神を崇拝すると唱えるイスラエルの民にこう預言されていました。
『この民は、口でわたしに近づき唇でわたしを敬うが心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、人間の戒めを教え込んだからだ。それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねてこの民を驚かす。賢者の知恵は滅び聡明な者の分別は隠される。』(イザヤ29:13-14/マタイ15:9)
この言葉は聖霊の言葉により終末にも力を及ぼすことでしょう。
黙示録の際立った樹木、海の生き物と船、川と水の源、天の光明のそれぞれ『三分の一』が損なわれ、この世に以前から権威を持ってきた知恵も賢さも崩れています。もったいぶった宗教家たちの教えの無益さが暴かれ、むしろ、殺人の汚名を受けるばかりです。(黙示録8:4-12)
イナゴは誰をも殺しませんでしたが、次に現れる騎兵隊が『人間の三分の一が殺す』というのは、その『三分の一』に属する人々を断罪し、聖徒を実際に殺めさせた事を責めて、『血』の責任を問うことになるからでしょう。

これら騎兵の馬も、先に現れたイナゴに似て、ライオンの頭、ヘビのような尾を持ち、通り過ぎるときに人を害するところは同じです。つまり、その口から発せられる音信に人々が否定的に反応するなら、害を受けるのであり、イナゴと違って後の騎兵の攻撃には致死性があります。人類一般の『罪』を指摘する以上の、実際の『血の罪』、やはり聖徒殺害の応報を告げるからでしょう。

しかし、これらの馬の乗り手である「騎兵」そのものについてはその害を受けないのでしょう。なぜなら、彼らは『火のような赤、煙の紫、燃える硫黄の色の胸当てを着けている』のですが、これらが火と煙と硫黄とを表している以上『ゲヘナ』に対する防御を備えていること、つまり、滅びに犯されない保護を受けていることを表していることになり、これはイナゴとは異なる装備です。

しかも、騎兵の馬のライオンの口からも『火と煙と硫黄』が吐き出されているのであれば、その音信には『ゲヘナの裁き』が込められていることになり、永遠の滅びをもたらすこれは重大事に他なりません。聖徒殺害の罪を負う宗教界は、これらの騎兵隊による暴露の攻撃を逃れられないことでしょう。それでも、『大いなるバビロン』を実際に処刑するのは、これら騎兵隊が行うものではなく、彼らが行うのは旧来の宗教に対する罪の宣告であり、それによって『大いなるバビロン』が滅びに面する時に、『二億』もの騎兵隊の告発行動により、宗教体制自身の悪の大きさを恥や自責の念とを以って悟らされることでしょう。

こうして、古代に記されたヨエルの預言書から使徒言行録、そして黙示録へとイナゴを追ってゆくと、終末の聖徒たちと、その業を受け継ぐシオンに集まる信徒たちの活動について、使徒時代を鏡に映すようにして観察することが出来ます。
これは、終末の『北の王』の崩壊の後の信徒たち、つまり彼らが『騎兵隊』となってどう働くかを知らせる極めて重要な情報というべきでしょう。
聖徒たちが、まだ地上に居た間に、迫害を受け窮境に陥った彼らに親切を示して、聖霊の言葉への信仰を表した人々については、イエスが言われたように『まさしく言う、わたしの弟子だという理由でこれら小さな者の一人に冷たい水一杯でも飲ませる人は、必ずその報いを受けないことがない』のであり、また、キリストの右に羊として分けられることになるでしょう。(マタイ10:40-42・25:31-36)

しかし、聖徒たちに善意を示してキリストの側に立つ機会は、彼らが天界に去った後にも、なお開かれていると考える理由はいくつもありますが、この『騎兵隊』に加わることもその開かれた機会の一つとなることでしょう。

終末の『北の王』の恐ろしい脅しを信仰によって耐え抜いた「シオンの民」には、聖徒を葬り去った元凶である宗教体制全体『大いなるバビロン』を告発し、そのあまりに重い罪を暴露する活動を行うための期間が聖徒たちの三年半の世界宣教の後に訪れることを新旧の聖書は証していると言えます。

しかし、その期間はさほど長いものとはなりません。『大いなるバビロン』の滅びが近いからです。
その間に、キリスト教的な覇権国家と脱落聖徒らによる活動が活発化していることでしょう。
それが、神YHWHを無視した新たな宗教、旧来の宗教が聖霊の前に崩れ落ち、すっかり魅力も失せているところに、それになり代る、究極の偶像礼拝への謀略であり、宗教心を持ち続けながらも、かつての宗教に失望した世の人々を広く受け入れ、多くの宗教を一つにまとめ上げる「平和の宗教」となり、強制によって無神論でいた人々は肩身の狭い世界になることも予想されます。(テサロニケ第一5:3/第二2:4)

偽のメシアの統治に、多くの人々が理想的な社会の実現を目前にしているかのように錯覚し、人類の未来を輝かせるかのような宗教社会のユートピア、目に見える地上の「偽の神の国」への支持を常識のように推し進めるでしょう。脱落しているはずの元聖徒たちは悪魔からの霊力を受けてさえ、そのまま神に属していると信じ込む者もいるでしょう。しかし、最後にはイエスから『不法を働く者らよ』と断罪されてしまいます。(黙示録13:15/マタイ7:22-23)
シオンの民の『騎兵隊』の暴露の活動と、この脱落聖徒らによる新たな宗教の進展に挟まれ『大いなるバビロン』には、その最期を迎える時が刻々と近付いています。

ここまで物事が進むなら、世界はキリストの再臨の時期の『終わりの日』も、いよいよ『終局』に起こる『大患難』が勃発する門口まで来ていることでしょう。






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