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終末に先立って現れる『シオン』

2020.12.06 (Sun)


『シオン』とは、エルサレムの街を乗せている小山を指す呼び名です。
しかし、この言葉『シオン』には、ただの場所を表すばかりでない深い意味が聖書中に与えられています。
エルサレムの街はたいへんに古い起源を持つとされ、四千年ほど前のアブラハムの時代には『サレム』とだけ呼ばれて、やはりそこは人の住む場所として記録されています。
それから四百年を経て、アブラハムの子孫がエジプトで増えてイスラエル国民となり『約束の地』パレスチナに到着したときに、そこは『エルサレム』と呼ばれるカナン系エブス人の街となっていました。

イスラエル民族にパレスチナが与えられるに際して、神は彼らがカナン系の諸部族を追い払って入植するように命じていましたが、イスラエルはカナン人をすべて追い払うことには失敗して、あちこちにカナン人の街を残していたのですが、シオン山上にエルサレムの街を構えるエブス人についてもその残りのひとつとなっていました。

その原因には、エルサレムの街が勾配の急なシオンの山の上にあるために攻め難い要害にあったということがあります。
今日でこそ「エルサレム」と言えば、イスラエルの都とされて有名ではあるのですが、この街がイスラエルに属したのはモーセの後継者ヨシュアの入植の時代ではなく、三世紀以上後のダヴィド王まで待つことになりました。

イスラエルの全部族から王位に就くことを依頼されたダヴィドは、『約束の地』の中ほどに近いエルサレムの攻略に着手しました。しかし、シオン山の要害に阻まれ、エブス人からは『お前はここに来られない』と山上から罵倒されてしまいます。
それでもダヴィドは、取水用の井戸穴を探り出し、そこから市内に侵入してエルサレムを占領することに成功するのでした。

その後は、シオン山上の街を指して人々は『ダヴィドの街』と呼ぶようにもなり、イスラエルの首都となるばかりか、二代目の王ソロモンによって神WHWHの神殿が創建され、エルサレムは政治的にも宗教的にも民族の中心地の地位を得ます。
このエルサレムは急斜面のシオン山に守られ支えられる街であることから、やがて『シオン』という言葉はイスラエル民族にとって聖なる故地を意味するものとなってゆきます。

さて、キリスト後の第一世紀まで時代は下り、イエスを退けたユダヤでは西暦七十年、ローマ軍によるエルサレムと神殿の最後の破壊をもたらした『火のバプテスマ』の後から、ユダヤ人は次第にパレスチナを追われ、諸国に流民となってゆきましたが、この民族にとってのパレスチナ帰還願望が近代に「シオニズム」と呼ばれたのも、シオンの地にユダヤ人の首都を回復する悲願を表す呼び名であったのです。(詩篇137:1)

今日のように、パレスチナにユダヤ人の近代的な国家が存在するようになるとエルサレムが回復されたかのように見え、イザヤやエレミヤなどの旧約の預言者たち(ネイヴィーム)が予告したイスラエルの帰還が神の意志の通りに実現したと信じる人々も少なくありません。(エレミヤ31:4-6)
それらの人々は、神はエルサレムを再び繁栄させるという預言の言葉が、二十世紀になってから文字通りに地上のシオンとエルサレムに成就したと思うのでしょう。イスラエルという民族国家が離散を経て再び集合し存在するようになったからです。(ゼカリヤ1:17)

ですが、そのように信じるなら『新しい契約』を理解の外に押しやることになってしまいます。
つまり、律法契約を終わらせたメシア=キリストの仲介によって締結された別の契約があるのです。それはモーセ仲介の『律法契約』をも含めて成就する、より高次元で重要な、しかも聖霊の関わる「新たな契約」のことであり、それは旧約聖書にもはっきりと預言されていたものです。(エレミヤ31:31-33)

『新しい契約』の崇拝は、律法の動物の犠牲に代えて、キリストの完全な犠牲が永遠に捧げられ、律法の崇拝を完了させた上に成り立つ、より高度な『霊による崇拝』をもたらしました。それは『エルサレムでもないところで行われる』崇拝となるとイエスは明言されています。(ヨハネ4:21-23)
そのうえ、キリストの血は、信仰を働かせたユダヤ人から律法不履行の罪を取り除いて赦しを与え、キリストと共に『義』を得るようにさせ、それによって聖霊を介した崇拝が聖徒の集まりの中で行われる新しい次元を開いています。(ローマ8:33)
イエスが持っていたような奇跡を行う聖霊の崇拝は、それを持つ聖徒らがキリストと結びついた『兄弟』であることを証しするものとなり、彼らこそが『アブラハムの裔』、人々の罪を贖う「真実のイスラエル」であることを示したのです。

ですから、パウロは自分たち聖徒がユダヤ教徒とは異なり、かつてモーセを通し律法を与えられた山シナイではなく、キリストにより聖霊を授けられた場所である『シオンの山』に由来することを述べています。(ヘブライ12:18-24)
古代にはシナイ山の下に集まっていた民に、神は国家法となるべき律法を守らせるための強烈な恐ろしさを与えながら契約締結に臨まれました。(出エジプト20:18-20)
その一方でキリストの新しい契約では、シオンの山上のエルサレムにいた弟子たちには、キリストの完全な犠牲に基づいた天からの是認の内に、赦しの印としての聖霊が降っています。この脅しと赦しに於いて二つの契約には対照的なものがあります。キリストの教えは国民に対するような義務的な法律とはならず、自由の内に信仰を抱いた個人に感化をもたらすものとなりました。(ローマ8:14-16/ペテロ第一2:16)

パウロはまた、律法契約が多くの規則で成り立ち、民を縛って奴隷のようにしていた事と、新しい契約がそうした隷属的な定めの数々から解放されたものである事とを対照させ、イエスを受け入れず律法に留まったユダヤ教を奴隷女の『ハガル』に例え、新しい契約に属するキリスト教をその女主人の『サラ』に例えてもいます。奴隷ではなく自由人の『サラ』こそがアブラハムの正妻であり、律法から解かれた自由民である聖徒たち「真実のイスラエル」の母とも言えます。(ガラテア4:25-26)

実際、使徒パウロは『キリストがわたしたちを律法の咎めから買い取って釈放した』と断言し、使徒ペテロは異邦人を含めた聖徒たちについて『あなたがたも善を行い、またどんな事でも恐れないなら、サラの娘となる』と手紙に記しています。(ガラテア3:13/ペテロ第一3:6)
まさしく、彼らはイスラエルの血統によらず、『水と霊から生まれた』聖なるイスラエルの民であり、その一員である価値はもはや地上のエルサレムをどうこう言うものではありません。(ヨハネ3:5・4:21-24)

この観点に立って『シオン』を見ると、ただの地上の小山ではない、より意義深く抽象的な『シオン』というものが考えに入ってきます。
つまり地上の都市ではない、より高次で意義深いエルサレムを乗せる「抽象的なシオンの山」です。
やはり旧約聖書では抽象的な『シオン』について語られており、特に雄弁に語るのがイザヤ書と、同時代に書かれたミカ書です。

まず、イザヤ書に特徴的なのは『シオンの娘』という言葉、そしてその母親である『シオン』が擬人的に描かれていることです。
『シオンの娘』または『シオンの子ら』は、美しく装っていたことが描写されます。
その姿には『足首の飾り、額の飾り、三日月形の飾り、耳輪、腕輪、ベール、頭飾り、すね飾り、飾り帯、匂袋、護符、指輪、鼻輪、晴れ着、肩掛け、スカーフ、手提げ袋、紗の衣、亜麻布の肌着、ターバン、ストール』と持ち物に恵まれ、娘として栄えの中に恵まれて生活していた様が語られます。

しかし、やがてこの娘は高慢さを帯びてしまいます。
『シオンの娘らは高ぶり、首を伸ばして歩き、目で媚を送り、その行くときには気どって歩き、その足飾りをりんりんと鳴り響かす。』(イザヤ3:16-17)
これは、イスラエルが律法から離れた事を指します。ですから裁きを前にした時期の預言者エレミヤは『背信の子らよ、帰れ』との神の言葉を預言しました。
つまり、その『子ら』は律法契約で結ばれたはずの神YHWHから離れ、異教に流れてしまったからで、それは契約違反でしたから、神は罰する事を差し控えず、イスラエル民族はアッシリアとバビロニアに捕囚とされ、遠く『約束の地』から引き離されます。(エレミヤ3:14)

そのように神が『シオンの娘』を処罰したことについてイザヤは続けてこう語ります。
『芳香は悪臭となり、帯は縄となり、よく編んだ髪は禿となり、華やかな衣は荒布となり、美しい顔は焼き印ある顔となる』。(イザヤ3:24)
これは覇権国家によって征服され、民が捕囚とされる事を指すので、イザヤはさらに『あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れる。シオンの門は嘆き悲しみ、シオンは荒れ果てて、地に座わり込む』とも語っています。(イザヤ3:25-26)

エルサレムは人の住まない廃墟となり、その街を載せていたシオンの山は、まるで子らを取られた母親のようで、神殿も失って、夫に去られた寡婦のようにされてしまいました。
『人々は「あれが見捨てられた女、だれも顧みることのないシオンだ」と言う』と、捕囚の間の落ちぶれたエルサレムの廃墟が異邦人に卑しめられるさまをエレミヤは預言していました。(エレミヤ30:17)

しかし、やがて赦しの時期が到来することになります。イスラエル民族は依然として『契約の子ら』であり、メシアの到来を見る必要がありました。
エルサレムの滅びから五十年ほど経過する内に、バビロニアはキュロス大王の率いるメディアとペルシアの前に倒れ、「当時のメシア」であるキュロスの寛容政策によって諸国の民と神々がバビロンから故地に戻されていったのです。

そのため、寡婦となって身を落していた『シオン』の許には、思いがけず『子ら』が大勢帰って来ることになったのです。
『あなたを破壊した者は速やかに来たが、あなたを建てる者は更に速やかに来る。あなたを廃虚にした者はあなたから去ってゆく。
さあ 目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたの許に来る・・その時あなたは心の内に言うであろう、「だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子を持たない。わたしは捕われ、また追いやられた。誰がこれらの者を育てたのか。見なさい、わたしは独り残された。これらの者はどこから来たのか」と』。(イザヤ49:17-18)

それからしばらくすると、シオンの子らは神殿を再建し、母親シオンの夫である神YHWHを呼び戻すことになります。
それは西暦前515年、以前の神殿の破壊の起こった前586年から七十一年目のことであり、エレミヤが予告した通り七十年の空白の後に、契約の民は異国の王に仕える生活を終え、再び彼らの神YHWHに崇拝を捧げることになったのです。(ゼカリヤ8:3/エレミヤ25:11)
これらの見事な回復について『YHWHはこう言われる。お前たちの母親を追い出した時のわたしの離縁状はどこかあるのか。お前たちを売り渡した時の債権者は誰なのか。お前たちの罪によってお前たちは売り渡され、お前たちの背きのために母親は追い出されたのだ』とあります。つまり、子らが帰るその時にはイスラエル民族の罪が赦され、シオンには繁栄が戻ることもイザヤによって三百年も以前から預言され、それがこうして成就していたのです。(イザヤ50:1)

これらのイザヤ書の回復の言葉はユダヤ人によって「慰め」(ナハムー)の預言と呼ばれるものとなり、イザヤ書の第40章以降に語られていますが、そこには古代の出来事を通して、終末の時期に関する多くの事柄が含まれています。つまり、バビロン捕囚からの民の帰還は、終末にもう一度象徴的な意味で起こる事柄としても描かれているのです。

例えれば、イザヤと同時代の預言者ミカは、捕囚に身を落していた『シオンの娘』が豹変する姿を描いています。
そこでは『シオンの娘よ、産婦のように苦しんでうめけ。あなたは今、町を出て野に宿り、バビロンに行かなければならない。その所であなたは救われる。YHWHはその所であなたを敵の手から買い戻される』として、まずその捕囚と、そこからの請戻しを預言するのですが、『娘シオンよ!立って脱穀せよ。わたしはお前の角を鉄とし、お前のひづめを銅として、多くの国々を打ち砕かせる。お前は彼らの不正に得た富を、その奪った富をYHWHに、全世界の主に捧げるであろう』とも書かれ、シオンの娘が諸国を粉砕するほどの強大な権力を持つようになるとも知らせてもいるのです。(ミカ4:10・13)

これはキリストの王国の到来による『この世の終り』と征服を指しているのでしょう。(ゼパニヤ1:14/ダニエル2:44)
やはり、ミカはエルサレムの土台に向かって語り『エルサレムの娘の王権が、お前のもとに再び返って来る』とも告げています。(ミカ4:8)

ですから、旧約預言の『シオンの娘』や『子ら』とは、新約聖書に於けるキリストに属する聖徒、つまり『神の王国の相続者』であることを聖書全体が知らせているのです。(ローマ8:15-17)
そして「シオンの山」が、それらの『子ら』や『娘』の「母」となることを、その昔から預言者たち(ネイヴィーム)がずっと指し示していました。まさしく、こうしたところが聖書という書物の驚くべきところです。寿命の短い人間などがこれら悠久の秘儀を考案することなど到底できないからです。

では、さらなる謎としての、『終わりの日』に聖徒たちを生み出して母親となる「終末でのシオン」とは何者なのでしょうか。
この観点から新約聖書の中を探ると、ただならぬ身分の『子』を産む女が確かに見出されます。
それが、黙示録第12章の初めから現れる『女』であり、陣痛に苦しみながら、男児を出産します。(黙示録12:1-)
しかし、『初めからのヘビ』である悪魔は、その子が生まれたところで食い尽くそうと身構えていたのですが、その子はすぐに神の御許に保護されます。

生まれるその子は『鉄の杖をもってすべての国民を治めるべき者』とあり、『神の王国の相続者』であることが示唆されています。つまり『キリストと共なる相続人』のことです。(ローマ8:17)
黙示録のこの『男児』は、『娘』でもなく『多くの子ら』でもありませんが、ここにはかつて生まれた『独り子』イエスを亡き者にしようと動かされた『東方からの心霊術者(マギ)』と、ベツレヘムの二歳以下の男児を抹殺したヘロデ大王の故事が暗示されています。(マタイ2:1-16)
これはつまり、終末に聖徒たちが現れる初めの時期にも悪魔が彼らの登場を妨害しようとすることの警告と言えるでしょう。

他方、王国の子を生み出す母親について、黙示録にはこう描かれています。
『大いなる印が天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた』。(黙示録12:1)
聖徒を生み出すであろうこの女が、天空の光をまとい、また天の印として現れたからと言って天の領域のものと決め付けるわけにもゆきません。なぜなら、人間にとっての自然な上からの光はすべて天から注ぐからであり、太陽、月、星とは、そのすべてを指していますし、その幻が天に現れたとしても、それは映像を映し出す画面として天空の光を反映する女を見せる場として捉えることは可能です。まして黙示録での『赤子』は天の神のもとに逃げていますし、この『女』は地に来た悪魔の攻撃を受けてもいるのですから。(黙示録12:13)

しかし、より注目すべきは、黙示録のほかにイザヤ書も終末に輝く女であるシオンについて預言していることです。
『(女よ)*起きよ、光を放て。あなたの光が到来し、YHWHの栄光があなたの上に昇ったからだ。見よ、暗きは地を覆い、闇が国々を包む。だが、あなたの上にはYHWHが輝き出で、その栄光があなたの上に現れる』。(イザヤ60:1) *(動詞が女性形)
そして、この「女シオン」の許には多くの子らが四方から次々に集められて来るというのです。
『さあ目を上げて見まわせ。皆があなたのもとに集まって来る。息子たちは遠くから、娘たちは腕に抱かれて進んで来る・・それは海沿いの国々がわたしに向けて送るもの、タルシシュ*の船を先頭に金銀を持たせ、あなたの子らを遠くから運んで来る。あなたの神、YHWHの御名のため、イスラエルの聖なる方のために。主があなたに輝きを与えたからである。』(イザヤ60:4・9)*(スペイン)

こうして新旧の聖書はそれぞれに八百年も記録された時を隔てていながら、『シオンの娘』という聖徒たちと、その母となる女『シオン』の姿を描き出しているのです。

しかし、終末に聖霊が再び注ぎ出され、聖徒たちが再び現れるキリストの臨在の時が何時になるかは不明で、そのためにもイエスは『家の主人は、盗賊がいつ来るか分かっているなら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入ることなど許さない。あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子は来るのだ』と弟子たちに命じられています。(マタイ25:43-44)

ですから、終末のいつ聖徒たちが生み出され、再び聖霊を注がれるのかを知る者はありませんが、その以前に聖徒たちの母親は存在を始めていて、しかも『この世』の暗闇の中で光を放ち始めることを黙示録とイザヤ書とが教えているのです。
その『女』は、一家の者たちが起き上がって来る前から、かまどに火を入れ、朝食を用意する主婦のようでもあります。『終わりの日』の朝方、暗い中で働き始めるのです。

その女こそが『アブラハムの裔』を生み出す正妻『サラ』ですから、イザヤ書は『子を産まなかったうまずめよ、喜び歌え。産みの苦しみをしなかった者よ、声を放って歌いよばわれ。夫のない者の子は、嫁いだ者の子よりも多い」とYHWHは言われる』と、独り息子イサクだけをやっと生んだサラが、多くの子らに恵まれるという古代には起らなかった抽象的、霊的な意味での喜びを歌います。(イザヤ54:1)

イエスは盗人の例えに続けてこのようにも言われました。
『主人がその家の奴隷たちの上に立てて、時に応じて食物を備えさせる忠実な思慮深い奴隷は、いったい誰だろうか。
主人が戻ったとき、そのように努めているのを見られる奴隷は幸いだ』。(マタイ24:45-46)
この訓話はルカ福音書にも有りますが、そちらでは使徒ペテロがこの話に先立ってイエスこう質問しています。
『主よ、この例えはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、皆のためですか』。(ルカ12:41)

つまり、ペテロたち使徒が是認された聖なる者の立場を表すのであれば、イエスの不在の間に家の仲間の奴隷たちに定時の食事を備え続け、主人を共に待つ下僕たちが、聖徒であるか信徒であるかと質問していることになります。
しかし、イエスはペテロの問いには答えずに『忠実な思慮深い奴隷』について話しを始めました。

それが表すことは、聖徒であるか信徒であるかはそれが成就する時点で問題ではないということでしょう。なぜなら、キリストが再臨する以前には聖霊が再び注がれて聖徒たちが現れることはなく、『シオン』は『子』を生んでも集めてもいないからです。
しかし、「女シオン」という奴隷たちの集団は神の栄光を受けて輝き始めていることがイザヤ書と黙示録の記述の順から明らかです。

これらの聖書の言葉を総合してゆくと、終末に先立って活動を始める「主人の奴隷たちの集団」が形成され、この集団全体が聖徒たちを迎える母体『シオンの山』に相当することになり、そこに『子ら』が集められます。また、その以前にこの集団を世話して導くまとめ役の奴隷が居るということも分かります。
それらの者が『新しい契約』に属していることはないでしょうから、その『忠実な思慮深い奴隷』または『家令』(ルカ書では会計奴隷)も奇跡の聖霊で導かれるということはないはずです。(ルカ12:)

使徒ヨハネも言うように、メシアの栄光の以前には聖霊も無かったのですから、祭司でもレヴィ族でもなく後に十二使徒に含まれる漁師のアンデレやヨハネのように、聖霊はもちろん神からの任命も役職もないながら、自発的に神の意志を求めて活動を始める人々が終末にも現れ、後になってキリストの喜ばれる者となることは再臨の時にも有り得ることです。(ヨハネ7:39)

そのように仲間の奴隷たちを養うために努める『忠実な思慮深い奴隷』の働きを試みる者は一人だけではないかも知れません。
マタイ福音書では、『もしそれが悪い奴隷であって、自分の主人は帰りが遅いと心の中で思い、その奴隷仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その奴隷の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目に遭わせるであろう』ともあります。(マタイ24:48-51)

この意味は、本当に主人を待ち続けるのではなく、自分で勝手に時を前倒しして宴会を始めてしまい、主人の帰宅に無関心であるなら、それは悲惨な結果を招くということでしょう。
その『悪さ』は、主人の都合ではなく、自分の願望に従ったところに原因があります。

そこで、神への畏敬を持ち、キリストの再臨を待つ「信仰ある人々」は、神とキリストを中心とした思いを懐き続ける必要があります。そのような人々が現れないなら「女シオン」も登場せず、『忠実な思慮深い奴隷』も意味を成しませんし、終末さえ遠のくのかも知れません。
終末にキリストを主人とする『奴隷たち』となる人々の各自は「神は自分に何をしてくれるのか」ではなく、「自分は神に何ができるのか」を問う内心の動機がなくては、容易に神を無視した「ご利益信仰」に陥ってしまい、それは神を待つ姿勢とはならないでしょう。

はたして人は、神が自分に益を与えてくれるので崇拝するのでしょうか。
もし、そうなら、その人がどれほど恭しい態度を神に見せたとしても、実は神を自分の僕のようにしているのです。
あなたが神であったとしたら、そのような崇拝者に囲まれていたいと思うでしょうか。

いや、その利己性こそが『罪』となって創造界に不調和と苦しみをもたらし、神との関係を壊し、イエス・キリストを除き去った精神なのではありませんか。
では、そのように利己的ではないキリスト教、また宗教がどこにあるものでしょうか。
それは個人個人の心の奥にある良心と愛とに基く価値観によってはじめて見出され、あるいは形作られるものなのでしょう。

では、『シオン』という女はいつ現れるのでしょうか。
それは人間の側に投げかけられた問いのようです。
イエス自身がこう言われます。
『しかし、人の子が来るときに、はたして地上に信仰が見られるだろうか』。(ルカ18:8)
この言葉をキリスト教団体に所属している人々は怪訝に聞くことでしょう。自分たちの集団があるし、キリスト教界は世界一の信者を誇るのですから。
しかし、イエスの言葉には危うさが込められているのも事実です。
どれほど多くの教会や宗派があろうとも、イエスの求める『信仰』がそこにあるという保証はありません。

また『女』の現れは、ただ時間が経過するのを待てばよいのではないでしょう。
問題は、自分の願望を別にして、神の意志を探ろうとするだけの信仰を働かせる人がこの世にいるか、ということです。
神の意志は、人の思惑を遥かに超え『天が地より高いように』価値あるもので、それに気づける人には『全部の財産を売り払って買う』真珠商人の例えのように扱われるようなものなのですが、それを見出す人が今日いるのでしょうか。イエスが来られるときにそうしているなら、その人は幸いでしょう。(マタイ13:45-46)





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