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荒らす憎むべきもの

2020.11.30 (Mon)

この言葉『荒らす憎むべきもの』は、イエス・キリストが使徒たちの質問に答えて、神殿が破壊されてしまうユダヤ体制の終わりを語った一連の預言の中にあり、マタイとマルコが記録していますが、キリスト教界を見渡しても、創世記の『女の裔』から黙示録の『聖徒』を理解した明解な教えがされていないため、これがもたらすの害がどんなものかが明瞭ではありません。

イエスは受難の三日前に、エルサレム神殿を眺めるオリーヴ山で、37年後に到来するエルサレムの滅びと荒廃を予告し、その時期に起る様々な事、戦争の噂、軍隊の攻囲などを挙げて使徒たちの注意を促しました。つまり、ユダヤが『火のバプテスマ』を受ける患難についてであり、ユダヤ体制の終わりについてのイエスの預言が二重の成就を示唆している以上、ユダヤ体制の終わりは、延いては再臨、つまりこの世の終りの有り様を写す鏡像でもあります。ですから、これらの預言の言葉は今も生きていて「昔に済んだこと」にはなりません。

その預言の中でも、特にユダヤとエルサレムに居る者たちには、あるものを見たなら『山に逃げよ』とイエスは命じられていました。
ルカ福音書は「それ」が軍隊によるエルサレム攻囲であったことを告げています。実際にそれからエルサレムが何度も軍勢に攻囲される中で、イエスを信じた人々の群れが北東部の高地の街ペッラに逃れていたことを史料は記しています。その後、ティトゥスの率いるローマ軍の最後の攻囲によって、遂にエルサレムは神殿と共に最期を迎えます。(ルカ21:20-21/教会史3:5)

他方、マタイとマルコの福音書によれば、弟子たちがエルサレムを後にする契機の「それ」については、『預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たならば』『そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。畑にいる者は、上着を取りに戻るな』とイエスは語っていたとあります。
ルカ福音書との「それ」の異なりは、イエスの預言が、ユダヤ体制の終わりの日だけでなく、この世の終末についても述べていたことによるものなのでしょう。(マタイ24:15-18)

マタイとマルコで言われるところの『預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべきもの』という謎深い言葉については、『これを読む者は悟れ』と、二人の筆者によってそれぞれ添え書きされていますので、イエスが警告された『荒らす憎むべきもの』が何であるのか、聖書を知ろうと思う人なら無関心でいるわけにはゆきません。(マタイ24:15)

確かに、『荒らす憎むべきもの』については、ダニエル書の中で三回言及されています。特に終末には二つの覇権国家の対立があることを述べるその第11章ではこのように書かれています。
『彼(一人の王)は、腕を起こし(軍隊を派遣し)、要害(城)すなわち(神殿の)聖所を汚し、日毎の供え物を廃止し、荒廃をもたらす憎むべきものを立てる』。(ダニエル11:31)
このように、イエスが終末について語られた通り『荒らす憎むべきもの』はダニエル書に書かれているのですが、この言葉を理解するためには、まずダニエル書の終り近くに描かれている、終末の時期の世界の情勢を知っておく必要があります。

ダニエル書の第七章以降には、彼が夢と幻で見た四種類の獣が登場し、次々に現れては消えてゆくことを通し、歴史上の世界覇権の流れを表していることが分かります。これは分かり易く、新教系の教会でも教えられているところです。
つまり、ダニエルの夢に現れた『ライオン』が意味するものは、ダニエルの当時に世界覇権国となっていた新バビロニア帝国、その次の『熊』がキュロス大王のメディア・ペルシア帝国、それを倒すアレクサンドロス大王のマケドニア・ギリシア王国の『豹』、それからどんな動物にも例えようもなく強大なローマがあり、これらの獣たちの入れ替わりが表わすものを歴史に照らせば容易に「世界覇権の流れ」を表していると分かることで、これがダニエルのバビロニアの時代に予見されていたことは驚くべきことです。

ですから、有識者の中にはかえって明解な預言が信じられず、そこにある通りにダニエル書が西暦前6世紀の著作ではなく、ローマが世界覇権国となった後に書かれたもので、「予言」を装った歴史書であるとする人も少なくありません。
その人々にとって、それは「有り得ない」ことであり、本来「信仰」とは無縁の学者だからでしょう。また、教会の指導層の中にさえ「ダニエル書や黙示録は聖書とは言えない」と発言する人がいます。人に道徳を諭すような「敬虔な書」という次元を超えているからでしょう。

それでもダニエル書は、捕囚の生活やバビロニアの慣習、著者自身のバビロニアやメディア・ペルシアの支配の下での役職、また、同時期の預言者エゼキエルが際立った人物としてダニエルに言及していること、また、近代考古学が知る以前からバビロニア最後の王ベルシャッツァルが父のナボニドスとの共同統治者であったことを伝え、ナボニドスが自らの王権の正当性を装うためにネブカドネッツァルの妃の一人を娶っていたことなど、ダニエル書の内容には当時の具体的正確さ、それに加えて、ネブカドネッツァルの言葉や布告を含めて、聖書中で例外的に当時メソポタミアの国際語となっていたアラム語でこの書の前半部分が記されているところなど、まさに現場の息吹を伝えるものがあり、この書を出所の知れない偽書とすれば、それは浅はかなレッテル貼りと言うべきでしょう。まして、イエス・キリスト自身がこの書に言及された以上、神の言葉として敬う必要があるのは明らかです。

さて、『荒らす憎むべきもの』という言葉は、『荒廃させる』という事と『憎むべきもの』という二つの要素から出来ています。
まず、『憎むべきもの』または『忌むべきもの』という表現は旧約聖書のほかの箇所にも見られるもので、例えればモーセの律法の五巻の書の最後である「申命記」の7章26節には『あなたは忌むべきものを家に持ちこんで、それと同じようにあなた自身も呪われたものとなってはならない。あなたはそれを全く忌み嫌わなければならない』との掟があります。
この『忌むべきもの』(シクク-ツ)とは異邦人が崇拝する偶像を指していますから、偶像の神ではないYHWHとの律法契約にあったイスラエル人には、偶像を嫌悪して避けるべき務めがあったのです。

しかし、預言者エレミヤは、イスラエルが律法を守って来なかったことをとがめて、『彼らは憎むべき物(シクク-ツ)を、わが名をもって呼ばれる家(神殿)に据えて、そこを汚した』と訴える神の言葉を記しています。(エレミヤ32:34)
ですから、イエスが言われたように、神殿の『聖なるところに』『憎むべきものが立つのを見る』という状況は、かつて律法を守らず、神殿を異神の偶像で汚したイスラエルの歴史上にあった事なのです。

このような事態は、その後にも繰り返されました。
旧約最後の預言者マラキが語り終えて後、バプテストのヨハネまでの間の時代に、それがもう一度起っています。
これはキリストの到来する二世紀前のことでしたが、アレクサンドロス大王亡き後、マケドニア・ギリシアの王国は大きく四つに分裂し、その中でも二つの王国が強大となり、ユダヤを挟んで北と南で勢力を争いを繰り広げた時代の事でした。

それらの王国とは、北のセレウコス朝シリアと、南のプトレマイオス朝エジプトで、地図を見ると分かるように、イスラエルは今でもシリアとエジプトに挟まれています。
この二か国が強大になり、その間でユダヤは激しく揉まれ、何度も支配する国が入れ替わっていました。その後の歴史を簡単に言えば、ローマが強国となって東に支配権を伸ばして来たために、ようやくユダヤはこの闘争から逃れることになります。

この混乱の時期でも、特にユダヤを揺さ振ったのが、ユダヤから見て『北の王』である、シリアの王アンティオコス四世エピファネスでありました。
「エピファネス」とは「顕現者」という意味で、「神の現れ」の意味を含んでいましたが、実際、まるで自分が神でもあるかのように、支配地域の宗教や神々に迫害し、強制的にギリシア文化を押し付ける強引な王であったのです。

この王は、南の王の領域まで深く攻め込み、もう少しでプトレマイオス朝エジプトを征服してしまうところまで進んだのですが、それを許さなかったのが新興大国ローマであったのです。
あと少しでこのシリア王はエジプトをわがものに出来るところまで行ったところをローマに遮られてしまったものですから、エピファネスのくやしさは激しかったに違いなく、その帰路に立ち寄ったユダヤでは、その鬱憤が解き放たれます。

エピファネスは、なんと、ユダヤ人にユダヤ教禁止令を発布し、反対する者を容赦なく虐殺し、同調するユダヤ人には気前よく地位を与えます。そのうえに、やがては神YHWHの神殿にゼウスの祭壇と像を持ち込んだのでした。それは紀元前167年の事とされています。当時の出来事を記したマカベア記第一は聖書には含まれませんが、エピファネスの据えた偶像について、はっきりと『荒らす憎むべきもの』と記して、当時のユダヤ人がその言葉によって何を表していたかを今日に伝えています。(マカベア記第一1:54-63)

このように外国の王に崇拝を入れ替えられるということでは、イスラエルの長い歴史の中でも例を見ないことでありました。
敬虔なユダヤ人たちは、レヴィ族のマカベア家を頭にして北の王と戦いを始め、紆余曲折の後、かの名の知られた「マカベアのユダ」に率いられて遂に神殿を奪還し、自分たちの神YHWHに神殿を献納し直すことに成功しました。(マカベア記第一4:52-)
その後は、やがてローマの権力が伸びて来るまでの七十年ほどの間、ユダヤは独立した国家となることもできました。
さらにその後になってユダヤを治めたのが「ヘロデ大王」であり、その最晩年になるとイエスがベツレヘムで生まれることになります。さらにそれから三十三年後、そのイエスが受難を前にしてダニエル書の『荒らす憎むべきもの』に言及されたのです。
そこで、『荒らす憎むべきもの』とのイエスの言葉を聞いた当時のユダヤ人なら、それが「偶像」を指すことに気づいたはずです。マタイとマルコは、イエスのこの言葉を読むユダヤ人でない読者に『読む者は悟れ』と、ユダヤ人の観点に注意を促していることでしょう。

エピファネスによるこれらのすべての事が起こる以前に記されたダニエル書は、ユダヤを挟んだ南北の王国の勢力争いの様子や、北の王の横暴を二世紀も前から予告していましたから、イエスに至る時代を予見するだけでなく、さらなる将来をも見通した驚異の書といえます。
イエス・キリストが、終末について語る中で『預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たならば』と言われたのはこのこと、『北の王』によるかのような『偶像』、つまり『憎むべきもの』が『聖なる場所に立つ』ような事態の二度目の発生に注意を促していたということになります。
これは、使徒パウロの言葉、『彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の神殿に座して自分は神だと宣言する』という『不法の人』についての言葉を思い起こさせるものでもあります。(テサロニケ第二2:4)

やはり、ダニエル書第11章の『北の王』は、まさしく『この王は、その心のままに事を行ない、すべての神を越えて自分を高くし、自分を大いなる者とし、神々の神たる者にむかって驚くべき事を語り、憤りのやむ時まで栄える』と描写されています。(ダニエル11:36)
では、かつてのシリア王エピファネスに相当するダニエルの描く「終末の北の王」が、そのまま同じく自分を神として、終末のさらに『終局』(テロス)で滅びる『不法の人』であるのかと言えば、そう単純ではありません。

というのも、ダニエル書が知らせるところでは、終末の『北の王』は世の終わりの最終部分、つまりキリストが聖徒たちを伴い実際の権力を持って到来し、世界の人々を裁く決定的な場面までは存続できないのです。これは世の終わりも、その最後の場面となる『終局』で、つまり『キリストの顕現によって』最終的に『不法の人』が滅ぼされるというパウロの言葉と一致しません。(テサロニケ第二2:8)

他方で、ダニエル書の第十二章のはじめには『その時あなたの民は救われる。すなわち書に名を記された者は皆救われる。
また、地の塵の中に眠っている者の中から多くの者が目を覚ます。その中で永遠の生命に至る者もあり、また恥と限りなき恥辱を受ける者もある。賢い者は大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は星のようになって永遠にいたる』とあり、終末の聖徒の天への復活と、生ける聖徒の召集、つまり『女の裔』の完成、『天の王国』の設立が描かれていることが分かります。(ダニエル12:1-3)

ですが、『北の王』については、その直前で『彼(北の王)は遂にその終りに至り、彼を助ける者はいない』とあり、古代のエピファネス王に相当する終末の『北の王』は、古代と同じように神の崇拝を妨げるものの、自分自身が偶像そのもの『不法の人』となるのではなく、かつて神殿にゼウスの偶像を立てたように、終末の偶像『憎むべきもの』を立てる役割を果たした後に終わりを迎えてしまいます。しかし、この世はその後もしばらく存続し、それから『終局』を迎えることになるのです。(ダニエル11:45)

将来の『北の王』は、終末の聖徒らの活動である『日毎の供え物』を止めさせ、背教によって聖徒らの『聖所を汚す』ことをダニエルは暗示していますが、それは自分が起こした『腕』、つまり何らかの権力によって聖徒を妨害することが『彼から軍勢が起って(派遣して)、神殿と要害を汚し、日毎の捧げ物を取り除き・・』とあることから明らかです。『北の王』が興した権力、つまり聖徒を攻撃するために派遣された軍勢は『獣』であり、それは黙示録でも共通しています。(ダニエル7:23-25/黙示録11:7)

ですが、『北の王』がローマに征服を妨げられたさらに後、最後の最後で南の王の領土に大規模に広く侵攻しながら、何かの理由で不意に自分の終わりを迎えてしまうことをダニエル書は続けて予告するのですが、これは実際の歴史には起こらなかった記述であり、シリア王国の歴史と合わずに謎とされてきたところです。(ダニエル11:31・40)
つまり、ダニエル書による『北の王』の『南の王』への最終攻撃があってから、急に『北の王国』が終わってしまうというこの部分はいまだ一度も実現していないので、終末にだけ起こることを述べていると考えられるのです。(ダニエル11:40-)

それが証拠に、実際の歴史でのシリアの王国はエピファネスの後も百年間存続し、十人以上も王が次々に即位しているのですから、ダニエル書が記すようには、エピファネスの代で終わっていませんし、シリア王国はローマによって滅ぼされています。
ですから、エピファネスで『北の王』シリアが滅んでしまうように書かれたダニエル書は、古代のエピファネスを通して、将来の別の事態、つまり攻め込んでいながら崩壊してしまう「終末の北の王」について述べていると言えるのです。⇒「突如瓦解する北の王

その「終末の北の王」は、古代とは別の何かの偶像『荒らす憎むべきものを立てる』、つまり、自分自身ではない『不法の人』を神殿の神の座に据えるということになるのでしょう。
その『憎むべきもの』は、聖徒攻撃の『獣』と関係があることをダニエル書の上記の節は明かします。
一方で、『悪霊の働きによって存在する』という『不法の人』が脱落聖徒の主要な者であれば、ダニエルが言うように、『北の王』が『聖なる契約を捨てる者を顧み用いる』ときに、その『北の王』が据える『荒らす憎むべきもの』とはまさしく脱落聖徒、それも『偽キリスト』『不法の人』である理由が出てきます。(ダニエル11:32)


ダニエル書そのものは、エピファネスの代での『北の王』の没落と聖徒の招集の場面を最後にその記述を終えてしま受付のですが、終末についてのその後の情報は他の新旧の聖書にまだまだ絶えません。
そして、やはり立てられるその偶像が、命のない単なる彫像ではなく「生ける偶像」となることを黙示録が示唆しています。
特に『荒らす憎むべきもの』が一層高められるのが、『北の王』が崩れ去ったあとであることを示して黙示録はこう語ります。
『第二の獣(子羊のような)は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者をみな殺させた』。(黙示録13:15)
つまり、聖徒たちを殺した権力の集合体である『七つの頭を持つ野獣』が、『北の王』ではない別の強国、『子羊のような・・野獣』おそらくはキリスト教的な背景を持つ別の覇権国家の後押しを得て、その『七つの頭を持つ野獣』を偶像化させる様が黙示録で次のように語られています。『』。(黙示録13:11-18)

これらの情況を整理すると、『北の王』は、脱落聖徒のある者を擁護して押し立て、一方で軍勢を派遣して聖徒たちを殺させることで、かえって聖徒たちに試練を与えて清め、天への召集を促してしまい、その直後に『北の王』自身が何かの理由で存在を終えてしまってしまいます。『荒らす憎むべきもの』を立てた擁護者は、消え去る『北の王』から『子羊のような二本の角を持つ獣』、おそらく「終末の南の王」に入れ替わる理由が生じます。
おそらくはダニエル書が描く、将来の『北の王』が最後に『南の王』に大規模な進攻を行った直後に、『北の王』は自国の権力を維持できなくなるのでしょう。そのため、この王が起こした聖徒攻撃のための『野獣』または『腕』も、その後ろ盾を失うことになると言えます。(ダニエル11:31/黙示録13:7)

しかし、反宗教的な『北の王』ではないところの『子羊のような』非常に宗教的な別の覇権国家は、聖徒を滅ぼした『野獣』を『ものを言う』『獣の像』に仕立て、しかもそれは『息を吹き込まれ』「生ける偶像」とし、宗教の要素を加えてさらに強力な存在となるということです。これは『野獣』という権力と『偶像』の崇拝の合体を意味しないでしょうか。(黙示録13:11-14)
しかも、その偶像崇拝は脅しによる強制的な宗教にまで高められ、政治と宗教の頂点を極めることが示唆されています。これは悪魔が願ってやまない神の座と言えるでしょう。(イザヤ14:13-14)

まさしく、これが『自分は神だ』と唱える『不法の人』であれば、パウロが教えたように『神の神殿に座して、自分を神として公けにする』ことでしょう。この者に悪魔が霊力を与えて『偽の印』を行われるのであれば、いったいどれだけの人々が信じてしまうでしょうか。その人々に欠けているのは『真理への愛である』とパウロは言います。(テサロニケ第二2:4. 9-10)
そのときには、宗教を強く嫌う『北の王』はすでに無く、いまや「生ける偶像」の後ろ盾はキリスト教的な大国であり、もはやその宗教化を妨げる勢力はありません。むしろ、宗教を称揚し、崇拝しない者には殺害の脅し、また『売り買いをさせない』という制裁が広く施行され、その信仰者には『不法の人』の印として『すべての人々にその右の手かその額かに刻印を受けさせた』とあります。これは無信仰な『北の王』の正反対のような極端でしょう。共通するのは強制です。(黙示録13:16)

これは『右手』という「行動」の、『額』という「思考」の制限を与える暗喩と考えられ、洗脳行動の強制を意味することは濃厚です。(申命記6:5)
そして、その印は『666』であり、聖書中の完全数である「7」にはけっして達することのない偽物であるということでしょう。黙示録が明かすように『その数字は人間を指すものである』のなら、それは『不法の人』、もはや肉体では来ないはずのキリストの騙り者であると結論できます。(黙示録13:17)

その時までに、旧来の組織宗教である『大いなるバビロン』が信者の多くを失っているからといって、去っていった人々のすべてが、神YHWHに帰依するとは言えない理由がここにあります。実に「キリストの地上再臨」を心待ちにする「クリスチャン」は数知れず、また様々な宗教にも末世の大きな変化を教えるものがあり、ブッダの教えが弱まるという末法思想から、西方にあるという浄土の「阿弥陀如来」の現れに信仰を持つ仏教もまたそう言えるかも知れません。
そして、この状況に新たな崇拝が興されるなら、それは地球規模に及ぶ可能性がないとは言えません。

というのも、古い宗教組織を去った人々であっても、旧来の信仰信条を心から拭い去ることは容易ではなく、キリストが地上再臨していると信じれば、大半のキリスト教徒は『不法の人』への崇拝を喜んで受け容れてしまい兼ねません。悪魔が霊力を与えて幾らかの奇跡を行わせるなら、人間社会全体も惑わすに難しいこともないでしょう。そのうえ「三位一体説」を信じ込んでいるままなら、偽キリストを『神』とすることも当然となります。

しかも、終末にキリストが現れるという基本的な教えを持っているのは、キリスト教だけではありません。
まず、ユダヤ教がそうであり、ナザレのイエスをメシアとして認めなかったユダヤ教は、その後も二千年にわたり「約束のメシア」をいまだに待ち続けており、イエスの去った後にローマ軍に破壊されてしまった神殿の再建を行わずにいるのも、正統派ユダヤ教徒が「神殿を再建できるのはメシアのみ」との信条を崩していないことがあります。

それでも現代のユダヤ教徒には、神殿再建に前向きな人々が多く、すでに神殿祭儀に用いる器具類の再現はできています。その中には『契約の箱』も含まれていますが、その箱の上に古代にあったという奇跡の臨在光(シェキーナー)を魔力で照らして見せて、人を欺くことなど悪魔にとっては容易いことでしょう。現に人々は「UFO」を見たくらいで騒いでいるのですから。(レヴィ16:2/エレミヤ3:16)
それにしても、神殿を建てたからと言って、すでにイエス・キリストが『完全な犠牲を捧げて、神の右に座して』いる以上、地上の神殿で捧げる動物の犠牲に今さらどんな意味が残されているのでしょう。それはもちろんキリスト教のものとは言えません。(ヘブライ10:12)

神殿の再建については、キリスト教徒の中からも旧約の預言の成就としての実現を信じている多くの人々がいます。
実際、エゼキエル書の第40章以降には、建築可能に正確な寸法が記載され、細部まで再現可能な神殿の詳細が延々と書かれており、あたかも再建を誘っているかのようではあります。この神殿はいまだに実現していないので、ユダヤ人を中心に「第三神殿」とも呼ばれているものです。
では、そこに終末の偽メシアが肉体をもって現れるなら、どういうことが起こるでしょうか。使徒パウロは『不法の人』は『神の神殿に座して、自分を神として公けにする』と言っていなかったでしょうか。(テサロニケ第二2:4)

加えて、イスラム教でもイエス(イーサー)は偉大な預言者であり、終末のメシア(マシーフ)の到来が教えられています。
終末のマシーフはダマスコスに降臨し、その後はイーサーによって平和と正義が成就すると、イスラム教の口伝「ハディース」が説いています。
こうした諸宗教の信仰心が偽キリストの登場に影響を受ける可能性といえば、数種類の揮発油が充満する火気厳禁の環境に偽メシアという一つの火種を持ち込んで、すべてを引火させるほど危険なものと言えるでしょう。
はたして悪魔は、よこしまな先見によって終末の巨大宗教の種の数々を、長い年月の間に諸宗教のあちこちに予め播き散らして用意してきたのでしょうか。それを神の言葉も予告し、誘っているかのようなところがあることからすれば、終末の人間社会は神と悪魔の策略で激しく試されることになるでしょう。

今日、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という、反発しあう一神教同士が、偽キリストの下に宥和するとなれば、地上の紛争の多くの原因が取り除かれることになり、聖書が終末に予告しているような『人々が「平和だ、安全だ」と言っているそのときに、突如として滅びが彼らに臨む』という終末特有の状況を人類社会は自ら作ってしまう事にもなり兼ねません。(テサロニケ第一5:3)
しかも、終末のそのときまでに、争いあっていた二大強国の一方が崩壊しているのであれば、世界からは宗教も政治も争いの大きな原因が去っていることになり、大半の人々は偽りの平和の到来を受け入れてしまい、それは逆らうのも難しい世界的な潮流となることでしょう。
その形成された世論の中に分裂の薄れた世界は、一丸となってキリストの王国に抵抗するのに都合良い条件を揃えていることにもなるでしょう。(詩篇2:1-6)

しかし、『不法の人』という「生ける偶像」が、実は神にまったく逆らうものであって、イエスの言われた『荒廃をもたらすもの』となってこの世の滅びを招くのであれば、まさしく、その究極の偶像崇拝を見かけるようなことがあるなら、そこから一目散に離れ、『666』の印ある「偽キリストの崇拝者」とならない決意が必要になるに違いありません。新約聖書の中で使徒たちまでもが偶像崇拝を避けるよう訓戒を続ける理由には、肉体で来るはずのないキリストへの警告を含んでいるのでしょう。最後の偶像崇拝は極めて巧妙に誘惑を仕掛けて来るだろうからです。(ルカ17:23-24)
その究極の偶像崇拝のもたらす害は、人々を一人でもキリストと聖徒による天界の神殿から地上に目を逸させ、『背教』に巻き込んで『神の王国』の支配に入らせないことにあります。

しかし、それが悪魔の誘惑を用いた神の裁きであるなら、神は一人一人の決定を神は強制しないばかりか、終末の偶像崇拝を誘惑物として用いることでしょう。つまり「エデンのヘビ」のようにです。
ですから、こうしてダニエル書と黙示録が緊密な暗示を繰り返して補い合うのも、『秘められ、封印された』預言の数々が、あたかもジグゾー・パズルのピースをまき散したかのように、聖書がそのまま読んで分かるものとはされなかった神の意図を知らせているかのようです。人を裁くために、それらは何時でも誰にでも教えられるものではないということでしょう。まさしく『耳のある者は聴け』と繰り返しイエスが言われた通り、『彼らには知ることが許されていない』ということです。

これら後の時代と終末とに起こることを知らせた天使は、最後にダニエルにこう言っています。
『ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者らが調べて右往左往し、そうして(雑多な)知識が横行する』。(ダニエル12:4)
実際、これら書かれた事柄は秘められてきたと言うべきでしょう。意味を探ろうとした人々からは不統一で混乱し、さして教訓にもならない解説ばかりを聞かされてきたものです。神が秘めたのであればそれも当然のことでしょう。

ですがもし、ここに示した理解が隠された言葉の真意に近付くものであるなら、それだけ終末が近付いているということなのかも知れません。
そうなれば、終末に面する人にとって聖書の終末預言はただ事では済まず、興味本位で読んでみるだけのものとはならないでしょう。『荒らす憎むべきもの』についてマタイもマルコも『読む者は悟れ』と但し書きを添えている以上、その意味を捉えるには探求心を必要とするに違いなく、「ご利益信仰」の程度で満足している人々には、いつまでも鍵をかけられた理解となるのでしょう。「自分は正しい宗教を実践している」などと油断していれば、裁かれている意識がないのですから格好の餌食になるばかりです。

使徒パウロは『神の言葉は生きていて力を及ぼし、どんな諸刃の剣よりも鋭く刺し分け・・思いと心とを見分ける』と書いています。この句に込められた意味は、同じ聖書を知りながら、人はそれぞれ別の内面を行動によって公に表すことになるとの警告でもあります。(ヘブライ4:12)
では、わたしたちが終末に入るとしたら、それぞれどのような行動をとるでしょうか。誘惑者は悪魔ですから、様々な事情や欲に訴えて一人一人を揺さぶって来ないとは言えません。





⇒ 「ダニエル書第11章 歴史照合



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