FC2ブログ

聖徒をねたむ『大いなるバビロン』

2020.11.22 (Sun)


この「バビロン」というのは、イスラエル民族に大きな影響を与えたメソポタミア南部に存在していた古代の大都市のことで、またかつて存在した一つの国の名前でもありました。歴史上に有名な大王であるネブカドネッツァル2世によって隆盛したときの新バビロニア帝国は、世界覇権国家にのし上がるに際して、ユダ王国の首都エルサレムをその神YHWHの神殿もろともに破壊し、民を捕囚として自国の首都バビロンとその近郊に連れ去っていました。こうしてモーセ以来続いた契約の民は「バビロン捕囚」に身を落とすことになったのです。

その災難は、イスラエル民族が律法契約を守らず、異教さえ崇拝していたことの酬いでしたが、神は預言者たちを通し、度重なる警告を与えていたのです。しかし遂に彼らの神YHWHはこの民を罰することを定め、ユダ王国もバビロンに滅ぼされ、ダヴィド以来の王統は途絶え、神殿も破壊されて内部の什器もバビロンに移され、ここに於いてイスラエルの国としての独立性も神YHWHの祭儀も絶えるに至りました。これはモーセの時以来七百年以上の間に無かった民族の危機でありました。

しかし、栄華を誇ったバビロニア帝国も、その後に興るメディアとペルシアの帝国のキュロス大王に倒されるに及んでイスラエルは解放され、エルサレム神殿も預言されていた通りに、故国に戻ったユダヤ人らによって破壊されてから七十年後に再建されることになりました。
以後のイスラエルやエルサレムにとってのバビロンとは、YHWHの崇拝を妨げ、ダヴィドの王統を倒した存在と言えます。
ダヴィド王朝のユダ王国を終わらせたばかりでなく、周辺のほかの国々も支配下に置いたネブカドネッツァルは、王都バビロンを拡張し、広大な市域は高く堅固な城壁に守られ、市の中央を流れる大河ユーフラテスにより繁栄を極め、当時には非常に洗練された大都会であったと伝えられています。

預言者のエゼキエルやダニエルも『約束の地』パレスチナから引き離され、このバビロンとその周辺に捕囚民となっての生活を余儀なくされていましたが、その境遇で記されたこの二人の名を冠した書が聖書の中に収められています。
特にダニエル書の中では、ほかならぬ大王ネブカドネッツァル自身の『この大いなるバビロンは、わたしの大いなる力をもって建てた王城であって、わが威光を輝かすものではないか』との自慢の言葉が記録されています。(ダニエル4:30)

実際、当時のバビロン市は建造物の壮大さ、多様さ、新奇さ、市域の広さに於いて際立っており、二重に巡らされた分厚い城壁と水深ある大河の流れとによる防備は、いかなる軍勢の攻略も不可能に見せ、城壁内にも広い耕作地を持ち、20年の攻囲にも耐えられるとも言われたそうです。

ですから、ネブカドネッツァルが豪語した『この大いなるバビロン』が、その言葉を記したダニエルが生きている間に、たった一夜の内に、しかもほぼ無傷でペルシアのキュロス大王に征服されるなどとは当時のだれも思いもしなかったでしょう。実際、キュロス王自身がバビロン市を初めて目にしたとき「いったい誰がこのような街を征服できようか」と述べた言葉が史料に残っています。

しかし、西暦前539年10月5日の日曜日の夜、乱痴気騒ぎの徹夜祭に浮かれるバビロンの市内には、ユーフラテスの川床を歩いて侵入してきたメディアとペルシアを中心とする軍勢にその夜の内にあっけなく征服されてしまいます。
ペルシアの将軍キュロスは、ユーフラテスの上流から川の流れを変えてしまい、市内の川の水位は兵士らの膝くらいになっていたと歴史家クセノフォンが伝えています。⇒ 「指名されたメシア・キュロス

驚くべきことですが、このバビロン陥落が起る二世紀も前に、預言者イザヤはキュロス大王のその名を予知しつつ、彼がバビロンを攻略し、イスラエルを解放してエルサレム神殿の再建の基礎が置かれることを前もって知らせていたのです。
『わたし(神)は、水の淵に向かって「乾け」と言い、お前(バビロン)の大河に「わたしは干上がらせる」と言う。キュロスに向かっては「わたしの牧者わたしの望みを成就させる者」と言う。エルサレムについては、「再建される」と言い、神殿については「基礎が置かれる」と言う。』(イザヤ44:27-28)
実際、キュロスはバビロンを征服するばかりか、勅令を発布してエルサレム神殿の再建を命じてもいるのです。(エズラ1:1-3)

また、ユーフラテスの水位を減らす作戦でキュロスが勝利することについては、それが実現する50年も前に、神は預言者エレミヤにも次のように語らせていました。
『わたしはバビロンの海を干上がらせ、泉を涸らす』。『バビロンの勇士たちは戦うことを放棄し砦に座り込む。彼らの力は萎え、女のようになる。バビロンの家屋は焼かれ、かんぬきは砕かれる。伝令は走って次の伝令に伝え、使者は次の使者へ取り次ぎ、街が隅々まで占領されたとバビロンの王に知らせる。渡し場は次々と奪われ、沼地の葦舟も火を点けられて兵士らは狼狽する。』(エレミヤ50:38・51:30-32)

また、このようなバビロン陥落が、言わばエルサレムへの復讐であったことを聖書は語っています。
『「バビロンの王ネブカドネッツァルはわたしを食い尽し、わたしを滅ぼし、わたしを空の器のようにし、龍のようにわたしを飲み込み、わたしのうまい物でその腹を満たし、わたしを洗いざらいにした。わたしとわたしの肉親に降り掛かった暴虐は、バビロンに降り掛かる」とシオンに住む者は言わなければならない。「わたしの血はカルデヤに住む者に降り掛かる」とエルサレムは言わなければならない』。(エレミヤ51:34-35)

しかも、そのバビロニア帝国の終りがどれほど急速に訪れるかについて、神はさらに詳しく預言者エレミヤを通して示させてもいたのです。
エルサレムが滅ぼされる七年前の事、ネブカドネッツァルへの恭順を示すためにバビロンに向かうユダ王の一行に含まれる役人の一人に、預言者エレミヤはバビロンの滅びを預言した書き付けを託し、ユーフラテス河畔に着いたなら、その預言を読み上げ、その書き付けを石に結わえ付けて川面に投げ込み『バビロンはこのように沈んで、二度と上がってこない。わたしがこれに災を下すからである』と言うようにと命じていたのでした。(エレミヤ51:64)

鉄壁の防御を誇る大都市が敢無く陥落してしまう意外な結末も、イスラエルの神YHWHが名指しで予定したペルシアのキュロスを通して実現させたことであり、イザヤはこうも預言しています。
『わが僕ヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなた(キュロス)の名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。』(イザヤ43:4)
そのため、神YHWHはキュロスを確かに『油注がれた者』つまり『メシアであるキュロス』と、彼が生まれるはるか以前からその名の通りに呼んでいるのです。(イザヤ45:1)

彼がメシアと呼ばれたことは、もちろんイエス・キリストが二人居たとか、キリストがイエスとなる前にも一度現れていたとか言う意味ではありません。
帝王ネブカドネッツァルが豪語した『大いなるバビロン』という大都市は、やはり誰にでも征服できるようなものではありませんでしたから、それを陥落させたキュロスという人物は、常人を超えた、言わば神懸り的な英傑であったというべきでしょう。その意味で彼はやはり神の使命を帯びたメシアであり、覆し難いものを覆し、建て難いものを建てた稀有の王であったのです。⇒ 「キュロスの円筒印章

さて、『大いなるバビロン』と言えば、それを誇ったネブカドネッツァルの古代を遠く離れ、この世の終りについて知らせる黙示録の中にも『大いなるバビロン』と称する終末の何者かが現れているのですが、この謎めいた未来の『大いなるバビロン』について黙示録はこう描写しています。
『わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚す数々の名で覆われ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。
この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、その額には、一つの名が記されていた。それは奥義であって「大いなるバビロン、淫婦らと地の憎むべき者らとの母」というものであった』。(黙示録17:3-5)

古代の大都市『大いなるバビロン』と同じ名で呼ばれる終末の『大娼婦』とは一体何者なのでしょう。
黙示録の筆記者である使徒ヨハネが見たこの幻には、単なる空想の産物とは言えないところが多くあります。特に古代のバビロンと対照して見るなら、この『大いなるバビロン』について黙示録が次々と明かす事柄が、旧約聖書の記述と深い関係を持つものであり、イザヤやエレミヤのかつての言葉が、遥か遠い将来の終末に再び成就する二重の預言であったことを指し示すものとなってくるので、かつて古代に起こり、歴史に刻まれている事柄が、次に「もう一度起こる」と証しすることで将来の人々の信仰を促しているのです。

この『大いなるバビロン』についての記述は黙示録の第14章から第18章にかけて四度現れ、そのほかにも第17章と第19章では『大娼婦』とされ二度現れています。これは黙示録の中でも目立つ存在であることは言うまでもないことで、確かに徒ならぬ扱いを受けています。
それはイスラエルの歴史の中でのバビロニアによるエルサレム神殿破壊と民の捕囚という大きな災厄、また、そこからの帰還と神殿の再建という大きな出来事が旧約聖書中でも際立っていることに対応するところの、終末にも起こる類似した大事件を暗示するかのようです。
やはり黙示録は、旧約の故事の重要性をもう一度終末の時期に呼び戻し、さらに大規模な成就を予告させるということにおいて恐るべき「神の書」と言うべきものです。

そこで、実際の都市バビロンが今は過ぎ去って無くなっている事実からしても、黙示録の『大いなるバビロン』が何を指しているかについては、過ぎ去った歴史だけでは終わらない非常に大きな意味が終末にもあることになります。では、それは何でしょうか。また、古代都市バビロンの陥落は、終末の『大いなるバビロン』と何か類似するのでしょうか。

まず、分かることは、世の終わりに現れる『大いなるバビロン』は『大娼婦』であって、この娼婦の相手の顧客は『地の王たち』であり、また『地の貿易商ら』がこの女の贅沢のために大儲けをしているとの情報が黙示録の第18章に記されています。この女がなぜ娼婦と呼ばれるかと言えば、政治にも金銭にもすり寄って、『この世のもの』となってしまったからでしょう。確かにキリスト教界は、キリストへの貞潔さなど325年のニケアー会議の時から捨ててしまい、『神の王国』より世の権力者との関係を選び取ってきたのです。(ヨハネ15:19-20)

しかし、なんと言っても『大いなるバビロン』の邪悪さといえば、『この女が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔いしれている』ということが挙げられます。つまり『聖徒たち』の犠牲の死を祝しているということでしょう。(黙示録17:6)

この『大娼婦』に関わる聖徒の死に関する血の罪について、明確に黙示録は二度記しており、そのほかにも『(神は)ご自分の僕たちの流した血の復讐を、彼女(娼婦)に遂げられた』ともありますから、古代のエルサレムを滅ぼしたバビロンとの歴史上の暗示を見せつつ、終末の『大いなるバビロン』がエルサレムの特に神殿に相当する『聖なる者ら』への悪行の酬いを受けることになる定めを強調しているのです。(黙示録18:24)

しかし、黙示録でもダニエル書でも『聖徒の民』を滅ぼすのは、いずれも『野獣』であって『女』ではないはずです。(ダニエル8:23-24/黙示録11:7)
それでも、黙示録での「聖徒を滅ぼす野獣」の上にこの大娼婦が座っていることが、この女の役割を示唆していると言えるでしょう。(黙示録17:3)

つまり、権力を持つ『野獣』というものが聖徒を攻撃した直接の下手人であるにしても、大娼婦がその野獣の上に乗るという関係からすれば、野獣の聖徒殺害について、より高いところからそれを導いた姿を見せているといえるでしょう。(箴言28:15)
これは『野獣』に勝った聖徒への罪の大きさを指し示しており、勝利の美酒であるかのように『その血に酔っている』からには、聖徒の滅びによって願いを遂げたというべき描写でしょう。
その関係は、現れたメシアを謀略によってローマの権力に渡して処刑させたユダヤの宗教家らの姿に重なるものがあります。宗教家らの罪がローマ総督に勝って遥かに重いことは、イエスが当時に総督に任命されていただけのビラトゥスに言われた通りです。(ヨハネ19:11)

そこで聖徒らの死をそこまで喜ぶこの大娼婦とは何者なのかについて知る糸口があります。
聖霊を介して聖徒が語るその言葉は、人間を超える発言であり『どんな反対者も、対抗も反論もできないような言葉と知恵をわたしがあなたがたに授ける』とイエスが言われた以上、それを聞く『王や高官』また『諸国民への証し』となると予告されましたが、それが神からの音信となる以上は、宗教関係者たちがそれに反応しないということが考えられるでしょうか。(ルカ21:15)

むしろ、聖徒の語るところが非の打ち所もないものであるほどに、それまでの宗教は面目を失うに違いなく、イエスに論争を挑んで皆が論破されてしまったユダヤ宗教体制各派のように、もはや聖徒たちを殺害する以外に自分たちの存在する意義を保てなくなるであろうことは目に見えています。それはキリストが三年半にわたる宣教の結果として、多くの群衆に歓呼してエルサレムに迎えるのを苦々しく眺めるしかなかったユダヤの宗教指導層の姿に現れたものでした。(ルカ19:36-40)

確かに、ユダヤ宗教体制がローマ総督ピラトゥスに訴えて、ローマの権力によってイエスを処刑させましたから、終末の宗教体制や組織が同様の反応を見せるとしても不思議はないでしょう。もし、彼らがかつてのユダヤの宗教家の失敗から学ばないとすれば、ナザレのイエスをメシアとは見分けなかったように、終末にも聖霊の言葉に抗い、メシアの兄弟たちを陥れようとする危険は現実のものとなってしまうことでしょう。
そこで『大娼婦』の正体に見えてくるものがあります。
ユダヤの宗教家らがローマの権力を利用してイエスを殺害したように、終末の聖徒たちを殺める宗教体制が『聖徒の血に酔う』理由がないとは言えません。

この娼婦が『王たちと淫行を犯し』権力に擦り寄っていれば、聖霊が『神の王国』の到来を告げるときに、権力者と共にそれに反対し、聖徒たちは政権に反逆し、国家転覆を画策していると主張して法で裁かせ、警察や軍事力を使わせて聖徒たちを聖霊の言葉もろともに葬り去る役割を担うのに、既存の「宗教」はそれを買ってまで出てくるであろうことは、宗教界の的外れな正義感と闘争性に既に見えていると言って過言ではないでしょう。
実際、ユダヤの宗教家らは「権力の敵」としてイエスを訴え、『わたしたちには皇帝のほかに王はいません』などと言ってはローマの権力にすり寄り、メシアの王権まで否定してしまったのでした。(ヨハネ19:12-15)
しかし、彼らがイエスを訴えたローマのその同じ権力により、彼らは四十年を経ずに破滅させられることになります。つまり、ユダヤが受けた『火のバプテスマ』による滅びです。

終末でも同じように、黙示録は『多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁き』があり、『(神は)ご自分の僕たちの流した血の復讐を彼女になさった』。また『ひとりの力強い御使が、大きな臼のような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され全く姿を消してしまう」』とも予告していますが、これらの言葉は、古代に実在した都市バビロンが水面に消えるというエレミヤの預言と合致していますから、かつての事跡が将来の終末に向けてもう一度語っていることは明白です。黙示録では、神の聖なる僕たちに『大娼婦』が行った悪事は『天に達し』、神の憤りを免れないことも予告されているのですが、それとエルサレムへの復讐という点では古代と重なるものがあります。(黙示録17:1・19:2・18:5)

終末において、聖徒を除き去るという悪事を行うことにより、どの宗教や宗派が『大娼婦』となるかが決まることでしょう。しかし、『聖なる者』はその犠牲によって逆に清められ、『わたしはあなたがたを純潔な処女としてキリストに差し出し、一人の夫と婚約させた』と語ったパウロの言葉が、遂に天界での『子羊の結婚』として成し遂げられ、そうして『神の王国』は完成を見ることでしょう。そうなれば、天に揃ったエデンで語られた『女の裔』には、以後「ヘビの裔」の頭を打ち砕くばかりです。遂に天界に確立されたキリストたちの権威を攻撃することは誰にもできないからです。(コリント第二11:2/黙示録19:7/創世記3:15)

その間に地で勝ち誇る『大いなるバビロン』には処罰が臨む以外に道は残されていません。
古代のバビロンが、川の流れを変えられて水位が下がったことが一夜で陥落することになったように、黙示録の『大いなるバビロン』についても、聖徒らが地上を去った後の場面でユーフラテスの水が涸れてしまったことを描写しています。しかもそれは、『日の出の方角からの王たち』、つまりバビロンの東方に位置していたメディアとペルシアの王たちの率いる軍勢に相当する権力を呼び覚ますことになるとも黙示録は語っているのです。(黙示録16:12・17:16)

聖徒を除き去る悪行は、それが卑劣であるほどに、聖徒らの宣教によって受けるバビロンの被害の大きさを物語っているとも言えます。
聖霊の奇跡の言葉は、旧来の宗教がどれほど当てにならないものかを明かしてしまうのであれば、そのため、大量の信者が水の流れを変えられたように、バビロンから去ってゆくことが示唆されているでしょう。確かに黙示録は『あなたが見た水、あの淫婦が座っている所は、さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民である』と明かしている通り、世界的範囲の人々が転向してしまうことが示唆されています。(黙示録17:15)
その中には、聖徒の業を受け継ぎ、旧来の宗教の暗い理解を暴露してしまう二億の『騎兵隊』となる人々も含まれることでしょう。多くの信者を失った後の宗教団体はどれほど弱くなることでしょうか。(黙示録9:16-19)

その弱体化は、『大いなるバビロン』への神の裁きが近付いた印ともなります。
神は、『彼女がしたとおりに彼女に返し、その仕業に応じて二倍に報復し、彼女が混ぜものを入れた杯の中に、その倍の量を入れてやれ』と言われます。
終末に『大いなるバビロン』に含まれてしまう宗教は、間近に来ている『神の王国』を知らせる聖徒たちが、地上の国家の転覆を謀って、反逆していると訴えるのであれば、その宗教はその主張と同時に自らを『この世のもの』としたことにならざるを得ません。そこで彼らは諸国家の権力の上に乗ることになり、その立場は確定されます。対照的に、聖徒たちは迫害によって試され、キリストへの貞潔さが立証されてゆくことになり、娼婦と処女の両者の違いはもはや埋めようもないほどに差がついてしまうことでしょう。

ですから、聖徒が地を去って後、『彼女は倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そこは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣となった』と黙示録は宣告しますが、聖徒を告発することをもって、まさしくその宗教は『倒れた』と言われるに値します。
ですが、そこに属していた人々にとっては重要な救済の言葉も発せられます。
神は『わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪に与らないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ』と言われるからです。(黙示録18:2-6)

この『大いなるバビロン』から離れるように命じられている『わたしの民』と神が呼びかけられる人々が誰かと言えば、もはや天に去った聖徒たちのことではないことは明らかですから、大娼婦への裁きを身に受けないために、そこから出る人々、つまり、その時まで様々な宗教や宗派に属しているであろう人々でさえ、「神の民」とされる機会が依然として開かれているということになるでしょう。

ですが、旧来の宗教団体に属する人々がどれほど聖霊で語らせる神の側に立つのかは、その時にならないことには分からないことです。
もちろん、聖霊の証しに神の意志を洞察し、自分のそれまでの信条を撤回できるほど謙虚な宗教家や信者がいないということにはならないでしょう。しかし、それは例外的に高潔な人に限られそうで、既得権益にひたって生きる大半の宗教関係者にそれは期待できそうにありません。
信者にしても、たとえ多くの人々が言い包められ宗派に囚われているに過ぎないとしても、思うことの習慣は容易に変えられるものではありません。人の考え方の傾向は特に宗教によって形作られ、年月を経て固まってゆくものです。それには本人でさえ気付けない後遺症のようなものが残るものです。
実際、キリストが現れたときのユダヤ人の多くがそうなりました。

イエスの教えに転向した彼らであっても、千年以上続いたモーセの律法からくる生活習慣を良いつもりで従い続け、『割礼』や『安息日』を、また食事制限をキリストの弟子であっても守り続けていたのです。イスラエル民族と律法との千数百年の永い関わりからすれば、「まず、律法は守らなくては」という常識的な敬虔さが彼らに在っても当然であったと言えるでしょう。(ローマ14:2.5/使徒21:20)
その一方で、キリストの教えに転向してきた諸国民は、律法に捕われず白紙の上に鮮やかにキリスト教を描くことができ、ユダヤ人が割って入らない限り、キリストやそれに続くパウロが説くような革新的な教えをより良く取り入れることができました。(ローマ9:30-31/ガラテア3:1-3)

このようなイスラエルと諸国民の宗教上の逆転が起こることをイエスは『後の者が先になり、先の者は後になる』と例えを用いて言われていましたが、やはりユダヤ人でイエスを信じた人々でさえも、律法の習慣を超えてパウロが説いた新たな「キリスト教」には着いて行くのに困難を感じ、パウロを避けてもいたのです。(マタイ20:1-16/ヘブライ5:12/使徒21:21-24)

思い返せば、ユダヤの神との長い歴史は、旧約聖書の深い意味を新しいキリストの教えの中に見出さない限りは必ずしも益とはならなかったのであり、将来の終末の聖霊の発言がやはり革新的であればこそ、同じことがキリスト教界に起きないとは言えないことでしょう。使徒時代が終わり、聖霊注がれた聖徒がおよそ第二世紀の終りには居なくなって以来、千八百年が経とうとしているので、その間に蓄積された「キリスト教の常識」も積もり積もって多くの「クリスチャン」にまとわり着いています。その中には「天国と地獄」、「三位一体説」などの聖書に無い教えが形作っている「常識」があることでしょう。

かつてユダヤの宗教家らは、ナザレ人イエスが自分たちの安息日などの常識的規則を守らないことにつまずき、『この人は神からの人ではない。安息日を守らないからだ』と結論していたのですが、同様にキリスト教界での旧態依然とした中世的な教えを頑固に唱え続けるなら、終末にはどういうことになるでしょうか。

いまだ終末が到来していない段階では、どのような宗教や宗派、また信者が「聖霊の言葉」に反対するのかは分かることではありませんが、いずれにしても、メシアの初臨でイエスに反対したユダヤの人々のように心を頑なにして、その同じ道に入ってしまわないよう、古代の彼らを反面教師として自らを省みるべきでしょう。

やはり、人の心がどうかを見る神に対して重要なことは、人の内面の暖かさや柔らかさなのでしょう。
宗教家のように聖書やキリスト教の知識を増やすことそのものが、その人に神の是認をもたらすわけではないのです。
また、聖霊の言葉を前にして、古い教えに固執し頑なであることに何の正しさも残りません。







トラックバックURL
http://irenaeus.blog.fc2.com/tb.php/289-1c2301e9
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top