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終末に起こる『背教』

2020.11.16 (Mon)

「背教」という言葉を聞くと、キリスト教から離れた人について、または間違ったキリスト教とされる様々な「異端」の宗派が思い浮かぶことでしょう。
しかし、ここで聖書が警告する『背教』と呼ばれるものは、それらの「正統的キリスト教からの逸脱や棄教」とは次元が異なるほどにまったく別のものです。その『背教』は、終末になって出現する特定のものであり、世界の人々を危険にさらす恐るべきものであることを聖書は教えているのです。この観点を持たず、どこかの宗派を「背教している」などと言っていれば一向にこの『背教』の真意を捉えることはないでしょう。

さて、『終わりの日』となるキリストの再臨を迎える時期が聖徒の現れと試練の日々となり、そこで『新しい契約』から脱落してしまう者らがあるとすれば、その脱落した「元聖徒ら」はその後どうするのでしょうか。そこに聖書が警告する『背教』の姿と、それが広がる誘因とがあります。

「ミナの例え話」には書かれていないのですが、よく似たマタイ福音書にある「タラントの例え話」には結末があって、このように描かれています。
『この役に立たない下僕を外の闇に追い出してしまえ。そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするだろう』。(マタイ25:30)
この『泣き叫んだり、歯ぎしりしたりする』とは、ローマ軍士官の深い信仰の表明にイエスが感嘆したときに、神の是認が異邦人に向かう一方でユダヤ人が除外されるとイエスが語られたその結末でもありました。(マタイ8:5-13)
永く律法契約に在ったイスラエル民族が、現れたメシアに不信仰であったので捨てられ、『新しい契約』に異邦人が補充されるということを予告した中の言葉であったのです。(ローマ11:24/エフェソス2:19/ペテロ第一2:10)

ユダヤ人であれ異邦人であれ、聖霊を注がれ聖徒の立場を得たものの、『新しい契約』を全うせずにいるとすれば、その契約に入れなかったユダヤ人が『籾殻』として焼き捨てられたように、タラントの例えの悪い下僕もまた神の是認の外に放り出されることを指すのでしょう。つまり、契約違反者として『天の王国』への召しからは除かれるということです。(マタイ13:47-50)
聖徒で生き残っている中で是認された者たちが裁きを通過して、一斉に天に召されるとき、契約に違反していた者らは、なお地上に残されるという結末により、取り消されない不名誉を刈り取ることになるでしょう。(テサロニケ第一4:17)
ですから共観福音書の終末預言で『ひとりは連れて行かれ。ひとりは捨てられる』という事にならないよう『見張っているように』また『用意のできているように』とイエスは訓戒しています。これは彼らが聖霊を活用してキリストの証しを行っているべきことを言うのでしょう。(マタイ24:40-41/ルカ17:33-35)

他方で、そうしない聖徒らは妥協して変節し、『この世』のものとなってしまうのでしょうか。(ヨハネ第一5:19)
そのようにした脱落聖徒が何をするかといえば、結果的には皆が『神の王国』に反対する行いを始めるのでしょう。
しかし『背教』そのものは、聖徒の油注ぎの早い時期から始まることを聖書は暗示しているので、この世と対立する『新しい契約』を重荷と見做す者らが、自分たちの行動を正当化しようとすれば、あるいは忠節を保つ聖徒の仲間を『この世』に売り渡すような事もないとも言えません。
やはりイエスは、弟子たちに終末に起こることを警告して『あなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互いに裏切り、憎み合うであろう』と警告していました。また『不法が増すので、多くの者らの愛は冷える』とも言われましたが、これは一般社会の世相が荒むことを述べているのではありません。(マタイ24:9-12)
また、パウロも手紙で『終わりの日に・・崇拝の外見を見せながら、内実の無い者となる。こうした者らからは離れよ』とも警告しているのですが、これも外部の人について言っているわけではないのです。これは、聖徒でありながら、あからさまに清さを捨てる者も出たなら、けっして近づかないようにと言っていると捉えるべきでしょう。(テモテ第二3:5)

イエスはあるとき、『その日には、多くの者がわたしに向かって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力ある業を行ったではありませんか』と言うであろう』とも語られています。これらの奇跡の業は聖霊注がれた者が行うものであり、この者らも以前は聖徒であったことが考えられます。
しかしイエスは彼らにこう答えることになります。『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ行ってしまえ』。(マタイ7:22-23)
このように拒絶された者らは『不法を働く者ども』であり、けっして忠節とは言えず『新しい契約』を全うするとは思われません。

この『不法』(アノミアス)という言葉は、イエスだけでなく使徒パウロによっても用いられており、テサロニケへの第二の手紙に『背教』と関連付けられています。

パウロの語るところからすれば、『背教』とは終末が来るときに起こるもので、今日に至るまでの「正統的なキリスト教」から宗派や人々が逸脱して分派するというような「異端」と呼ばれるのようなものを指すのではありません。
つまり、これまでに見られたキリスト教の歴史上のどんな宗派の分裂も、様々な誤まりの教えの発生ですらもここで言う『背教』に含まれず、この終末に起こるという『背教』に比べればさほどのこともなく、致命的な罪にもならないでしょう。この『背教』は、天界で聖徒らが揃うことを妨げ、『神の王国』の設立を阻もうとする『不法』であるのです。

その極めて恐ろしく危険な『背教』が終末に起こることを明確に告げるのは使徒パウロであり、彼はテサロニケの弟子たちにこう書いています。
『まず、神に対する背教が起こり、不法の者、つまり滅びの子が出現しなければ終わりは来ない』。(テサロニケ第二2:3)

ここでパウロの言う『背教』(アポスタシア)は、キリストの再臨と彼らの天への招集の時期に関連して『終わり』に起こる事なのであり、けっして初期キリスト教がローマ帝国の国教とされて、その道を外れた過去の変節を言っているのではありません。それどころのものではないのです。

それが証拠に、パウロはこの句については以下のように前置きしてから『背教』の真相を語りだしています。
『さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの臨在と、わたしたちがその許に集められる事について、あなたがたにお願いしたい。霊によるとか、また言葉によるとか、あるいはわたしたちから出たとされる手紙によって、主の日は今来ていると触れまわる者があっても、動揺したり、慌てたりしてはいけない』。(テサロニケ第二2:1-2)
パウロがこの手紙を書いた西暦55年頃に、早くも弟子たちの間には、聖霊が「キリストの再臨が起こっている」と語ったとか、使徒たちからの手紙があったとかいう噂が立っていたので、パウロがその噂が根拠のないものと正し、また彼に与えられた終末への知識も伝えている中で、『まず、神に対する背教が起こり、不法の者、つまり滅びの子が出現する』と言っているのです。

パウロはここで『背教』を語りながら、『不法の人』という何者かについて言及しています。それは『滅びの子』でもあることも知らせています。それが『背教』の源となることを彼は明かしているのです。
では、この『背教』とはどんなものを指すのでしょうか。また出現するという『不法の人』また『滅びの子』とは、いったいどんな者なのでしょうか。

パウロが言う終末に起こる『背教』がどんなものかを探る手がかりが、この『不法の人』(ホ アントローポス テース アノミアス)また『滅びの子』(ホ ヒュイオス アポーレイアス)という言葉に残されています。
というのも、ほかならぬイエス自身が『滅びの子』という語をある人物を指してこう用いていたのです。
『わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたから戴いた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした。』(ヨハネ17:12)
これらの祈りの言葉が語られた場面は、最後の晩餐を使徒たちと過ごした後のことで、イスカリオテのユダ、つまりキリストを裏切る十二人の一人は、すでに自らの師を銀貨30枚で敵に売り渡すために、一行から離れて別行動をとっていたのです。

イエスは地上での公生涯の間、一緒にいた使徒らを守り続けて、ついに最後の晩となったときに、彼らはその晩餐で師が離れてゆくこと、また『聖霊』という『助け手』が与えられることなどを知らされるに至っています。(ヨハネ14:16-18)
しかし、イエスは、その十二人の中の『滅びの子(ホ ヒュイオス アポーレイアス)だけが滅びた』と言われました。ユダ・イスカリオテをほかにして誰がこれに当てはまるでしょうか。
そこから、終末の再臨の時期に、十二使徒からの脱落者ユダ・イスカリオテに相当する何者かが現れる事態の発生に注意が向くことになります。
この件を念頭に置きながら、聖書の中を捜してゆくと、それらしい記述が無いわけではありません。

その箇所は、まずダニエル書の中にいくつか見出されます。
ダニエル書は、終末についての情報を、幻や夢、また天使からの話として聞いた事柄をまとめた書で、バビロン捕囚となった知恵者ダニエルによって書かれました。
この書には、歴史上の強国の盛衰と覇権国家の流れがいくつかの比喩を用いて予告されているだけでなく、特に注目するべきことに、終末の時期についての貴重な情報も含められています。イエスもダニエル書に言及して初臨のエルサレムの滅び、またそれに重ねて再臨で起こる事柄を『荒らす憎むべきもの』の現れとして重要な情報を語っている以上、ダニエル書がわけの分からないオカルトのような書でないことはますます明らかです。(マタイ24:15)

そのダニエル書には、終末の聖徒の民が『違背』(ペシャ)によって害を被ることが数回書かれているのです。
その第八章にはこうあります。
『その群衆は常供の犠牲と共にその角に渡された、それは違背(ペシャ)のためであった。そして彼(角)は真理を地に投げ捨て、これらすべてを行って大いに栄えた』。(ダニエル8:12)

この文脈を見ると『天の軍』つまり『聖徒の民』を攻撃して滅ぼす『角』という権力が、彼らを常供(日毎)の犠牲と共に絶えさせることが書かれています。(ダニエル8:24)
そして、その原因を作ったのが『違背』(ペシャ)であり、これは「犯罪」とも訳せます。敷衍すればユダ・イスカリオテがイエスをユダヤ体制派に売り渡したような犯罪、『不法な行い』と似た構図を作っている様が見えます。
つまり、終末にはユダ・イスカリオテのような裏切りが起り、聖徒たちの全体に決定的な危害が及ぶということが類推できるのです。まさしくイエスは『そのとき、多くの人がつまずき、また互いに裏切り、憎み合うであろう』と警告されていなかったでしょうか。その裏切りは一人によるものではなく、聖徒たちの中を二分するほどになるのでしょう。

一方、契約に忠節でキリストと結ばれた状態を保つ聖徒たちについては全員が逮捕されるのはなく、また皆が殉教の死を遂げるのではありませんが、キリストと同じく迫害を受けることは定められています。(黙示録13:10)
彼らの地上での聖霊による宣教活動は、かつての神殿におけるレヴィ族祭司たちの『常供の犠牲』つまり日毎の奉仕の対型と見れば、『その群衆は常供の犠牲と共にその角に渡された』というダニエルの言葉が、聖霊による宣教活動の中断と彼らの捕縛と捉えることは的外れとはいえないものがあります。しかも、彼らの受難は黙示録の記述とも一致するのです。(黙示録11:7)

こうして、終末の『背教』というものの全体像に見えるものがあります。
つまり、選ばれ聖霊を注がれながら迫害に耐えられず契約から堕ちてしまう「元聖徒ら」が何を行うかということであり、ダニエル書は迫害だけでなく誘惑と甘言を仕掛ける強大な権力者がいることも暗示しています。それは終末の強大な覇権国家であり、軍国主義で同時に反宗教でもあることをダニエルは記しています。(ダニエル11:32-35・36-38)
その誘惑にかかって契約から脱落する聖徒たちは、それでも奇跡の力を失うわけではないようで、彼らに助力する霊者が現れることをパウロはこう述べています。
『不法の者が来るのはサタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、異兆と、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを滅ぶべき者どもに対して行う』。(テサロニケ第二2:9-10)
また、彼らがキリストの裁きを前にして、『わたしたちは、あなたの名によって力ある業を数多く行ったではありませんか』と言うとイエスは予告していたのです。

聖霊から邪霊への移行が間断なく行われるためか、脱落聖徒らは自分の持つ霊力の源の区別さえできないのでしょう。
こうしたことは、本当に自分が何をしているかを吟味すべき「見張っている』べきことと言うほかありません。
このような例はすでにパウロの時代から起こっていたらしく、パウロは『不法の秘密はすでに働いている』と書いており、使徒ヨハネも『すべての霊を信じてしまわないで、それらの霊が神から出たものかどうかを試せ。多くの偽預言者が世に出てきているからだ』と警告しています。これら使徒たちの言葉から、すでに使徒の時代から聖徒の周辺では悪霊の邪魔が入ろうとしていたことがわかります。
加えてパウロは、『今はこの者を抑えているものがあり、それは、定められた時にこの者(不法の人)が現れるためである』とも述べています。つまり、当時には『不法』も抑制されていたのですが、終末にはそうならないということでしょう。(テサロニケ第二2:7/ヨハネ第一4:1)

こうして脱落聖徒らが依然として霊力を持ち続け、終末ともなれば、一度は聖霊を注がれた人々をも惑わして『背教』に引き込み、さらには裏切りというユダ・イスカリオテの役割をも負うという姿が浮かび上がってきます。これは終末の『女の裔』である聖徒たちが終末に再登場することに対する悪魔の側からの最大の攻撃と言うべきものです。(ダニエル11:35)
しかも、それら脱落聖徒の中でも傑出した者が『不法の人』、また『偽キリスト』となってイエスの「地上再臨」を装い兼ねないところまでがパウロの言葉から視野に入ってきます。イエスが何度も繰り返し『「あそこに居る」と言われても出て行くな』との警告しただけの危険もそこに見えています。

悪魔サタンの狙いについては旧約聖書から暴露されており、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲の頂きに上り、いと高き者のようになる』という神に成り代わるという究極的な野望であるのです。(イザヤ14:13-14)
それを成就させる機会が『不法の人』を通して、また『偽キリスト』を自らの偶像として世界の人々をひれ伏させることにより到来するとなれば、悪魔はそれを躊躇しないでしょう。
パウロは『不法の人』についてこう指摘しています。
『彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の神殿に座して自分は神だと宣言する』(テサロニケ第二2:4)

こうして脱落聖徒と悪魔らの利害が一致し始め、『契約を離れた者ら』を利用する悪魔は、聖徒らが天に揃うことを妨げようとしながら、自らの強欲を遂げるべく終末での大暴れを始めることでしょう。
黙示録はこう述べます。
『兄弟たちは、小羊の血と彼らの証しの言葉とによって、彼(悪魔)に打ち勝ち、死に至るまでもその魂を惜しまなかった。それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちは災いである。悪魔が自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもっておまえたちのところに下って来たからである』。(黙示録12:11-12)
この意味するところは、聖徒らが忠節に証しを終えた後の事であり、その時に至れば、悪魔は地に強い影響力を用い始めるということでしょう。そしてそこには脱落聖徒が残されていることになります。

やはり黙示録は、忠節に活動する聖徒を表すであろう『二人の証人』という預言者らがイエスと同じく地上で三年半、つまり1260日の活動を行うことを記しています。(黙示録11:3)
その活動の後、忠節な彼らは天に召されます。しかし、地上での神の業は進展を続け、聖徒らの去って行った後も神の活動は絶えることがないのです。次いで世界の諸国から、新たに『神の民』と呼ばれる人々が現れることを聖書は語ります。それも『大群衆』であり、聖徒らの活動は増幅されることになるでしょう。それは聖徒たちの聖霊の言葉に信仰を働かせた人々の集団の活動、世界を覆う大宣教となるでしょう。(ゼカリヤ2:11/黙示録7:9-17)

イエスは祈りの中で聖徒ばかりでなく、この人々のことを予見しこう神に願っています。
『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは父よ、あなたがわたしのうちにあられ、わたしがあなたのうちにあるように、皆の者が一つとなるためです。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにあらせるためであり、それによって、あなたがわたしをお遣わしになったことを、世が信じるようになるためです』。(ヨハネ17:20-21)

この人々が、聖徒ではないながら、彼らの言葉に信仰を働かせた人々を指していることはイエスの言葉から疑いようがありません。
その人々が、キリストが神と結びついているように、聖徒らと一つの民となることにより、終末に信徒でなる『神の民』が現れるのであり、ゼカリヤの預言はその日のありさまをこう予告しています。
『万軍のYHWHは、こう仰せられる、その日には、諸国の言語を話す民の中から十人の者が、一人のユダヤ人の衣のすそをつかまえて、「あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいることを聞いたから」と言うであろう』。(ゼカリヤ8:23)
それは終末の聖徒たちの活動が実を結んだ証拠、地上を受け継ぐために信仰によって救われる人々の登場であるのです。(黙示録21:1-4)

さらにこの人々は、その信仰を心に抱くだけでなく、聖徒たちへの熱烈な支持を行動で表すことが黙示録に記されています。
彼らは、聖徒の去った後に、その業を受け継ぎ、『この世』を糾弾し始めるのですが、黙示録は第9章の中で、キリストによって導き出される無数のイナゴを用いて聖徒の活動を、それが終わるに続いて騎兵隊の現れによってイナゴの業が継続されることを描き出しています。

かつて、イエスが去った後に弟子たちがヨエルのイナゴの預言を成就して聖霊を受け、ユダヤ体制派を糾弾して悩ましたように、再び現れたイナゴである聖徒を亡き者とした『この世』の勢力に対しては信徒たちも黙ってはいません。聖徒たちの犠牲は無駄にならず、その音信に無数の賛同の声が湧き上がるのです。

特に、その罪が重いのが『大いなるバビロン』が属するであろう世界の『三分の一』に相当する部分であり、それに向かって聖霊の言葉に信仰を持った人々である「信徒」らが、その悪行を暴くという、神の側に立った断罪の声を上げることを黙示録は明らかにしています。彼らの数は『二億』という膨大な数字に象徴されているように、『この世』も無視できない勢力となることでしょう。(黙示録17:1-6・9:16)

もちろん、この人々は『偽キリスト』の『背教』にも惑わされることなく、『この世』の側に着いた脱落聖徒らに迎合することも有り得ません。むしろ、聖徒を葬った『この世』の勢力とそれを売り渡した者らの悪をあばき、神の王国とキリストの見えない臨御を強力に支持することでしょう。(黙示録7:9-17)

では、信徒の大集団が告発するところの、世の『三分の一』また『大いなるバビロン』とは何を意味するのでしょうか。





⇒「背教と不法の人

⇒「小麦と毒麦の例え 不法の人の現れる時



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