FC2ブログ

聖徒の試練 ミナとタラント

2020.11.09 (Mon)


キリストが犠牲となって地から去り、やがて聖なる者らも聖霊と共に歴史の舞台から消え、『この世』は相変わらず悪と苦しみの横行する空しい世界としてその後も千八百年あまり存続してきました。(ヘブライ2:8)
しかし、聖書に『光は闇の中で輝いている。そして、闇はこれに打ち勝ってはいない』と、今なお伝えるように、キリストと聖なる者らの活動は昔の物語として終わってしまったわけではありません。(ヨハネ1:5)

終末に至って聖霊の注ぎが起り、『聖なる者ら』が再び選び出されるとなれば、それがいつであれ世界は大変革を招くほかありません。エデンの園で予告されたヘビとその裔、また女とその裔と間の強烈な敵意は、伏流水のように世界の歴史の奥底に存在し続けてきたのであり、それは世に対しては聖書の中にだけ書き留められてきました。その間に神の教えは新約聖書を加えてユダヤ人のものだけではなくなり、いつしか世界で読まれるまでに広められ、いまや並ぶべき書物がないまでに流布され、イエス・キリストの名は世界中に広く知れ渡りました。

そして、来るべき「終末」という特別な時期ともなれば、人類を巡る両者の対立が、キリストの初臨に勝って世界中を巻き込み、史上なかった規模で世界を覆う時となり、この争いを免れることは誰にも許されないことでしょう。これから起る決定的な闘いは、『この世』という神から離れ落ちた人間社会の終りと再出発を前にして、いよいよ大きな山場を迎えることになります。

さて、創世記のはじめで予告された『女の裔』が何者であるのかの謎は、すでに新約聖書によって明らかにされています。
それは『地のあらゆる氏族が自らを祝福する』というアブラハムの子孫であり、モーセの律法契約が目指した『祭司の王国、聖なる国民』の到来でしたが、律法が生み出したのは、唯一その掟をことごとく成就したイエス・キリストただ一人だけであったのです。

しかし、イエスは『新しい契約』によってメシアへの信仰を働かせたイスラエルの残りの人々と、異邦人から補充された人々を『聖霊』によって、血統だけによらない「真のイスラエル」として生み出し、彼らを『兄弟』、つまりキリストに同じく『神の子』とし、そうしてアダムの罪を赦された民を地上に出現させ始めたのでした。そして、彼らは『聖なる者』、『聖徒』と呼ばれるに至ったのです。

その人々はキリストの犠牲を人類全体に先立って適用されたことにより『天に登録された初子たちの集会(エクレシア)』と呼ばれていますし、律法制度でレヴィ族が『初子』つまり長子の部族として祭司職に任じられたことも、聖霊を注がれた彼らが『初穂としての霊を持つ』とされることも共に彼らが神に選び取られた格別の人々であることを示しています。(ヘブライ12:23/民数記3:40/ローマ8:23)

『聖霊』を注がれて『異言』という習得したことのない言語で神を賛美する奇跡の賜物をはじめとして、その『翻訳』、また神の『知識』や『知恵』、そして『預言』や『癒し』に至る様々な能力を表して、自らが『新しい契約』に属する『聖なる者』であることを示した人々は、第二世紀の終り頃から存在がはっきりと資料に残されなくなり、第四世紀にまとめられたエウセビオスの「教会史」では、キリスト教の第一世代である使徒たちについて『彼らは、自分たちと共に働く神の霊と、自分たちを介して成し遂げられるキリストの奇跡を行う力を使って、天の王国の知識を全世界に宣べ伝えた』とあり、また第二世紀の中頃については『当時はまだ神の賜物によって多くの不思議な業が様々な教会で行われていた』とも記されています。
つまりこのエウセビオスの書が著された第四世紀には『聖霊』を注がれた人々は過去のものとなっていたのです。(教会史3:24・5:3[エウセビオス「教会史」上講談社学術文庫)

そして今日に見られる諸教会の基礎が据えられたのも、ローマ皇帝がキリスト教に介入を始めた同じ第四世紀のことで、それ以前の『聖霊』が導いていたキリスト教とは異なる教えに変化し始めました。
しかし、きわめて重要な事に、イエスはご自身の再臨の時に、つまり『終わりの日』にも聖霊で語る弟子がいることを示されているのです。それが『聖霊』で語る弟子たちの預言であるのですが、もちろん、神のこの世への介入が起るときに、超自然の事柄が起きないと考えることは聖書を知る者にはあり得ないことです。(ミカ7:15-16)

そして聖徒が終末に現れるなら、『新しい契約』はキリストの再臨の起る『終わりの日』に再び締結されるだけの『効力を持つ』ことになります。(ダニエル9:27)
この点は、旧約聖書にも多くの関連する句が存在しており、特にダニエル書では、その第八章で歴史上の世界覇権の移り変わりを描いたうえで、『彼らの国の終りの時になり、罪びとの罪が満ちるに及んでひとりの王が起る。その顔は猛悪で、彼は曖昧な言い回しをよく理解し、その勢力は盛んであって、恐ろしい破壊をなし、その行うところは成功し、力ある人々を倒し、聖徒である民をも滅ぼす』としています。(ダニエル8:23-24)
つまり、『聖なる民』は迫害に遭って滅ぼされるというのです。それもこの受難については一度ばかり語られたことではありません。(ダニエル7:21)
これは、メシアが『彼はさげすまれ、わたしたちは彼をさほどの者とは思わなかった。』と軽視され処刑に至ることを予告した預言者イザヤのように、ダニエルはその『兄弟たち』、つまり『聖徒たち』の受難をも予告していたのです。(イザヤ53:3-4)

加えて、聖書最終巻である黙示録にも、終末に『二人の証人』が登場しており、キリストのように三年半『1260日の間預言させた』その後に、やはり『底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す』とあります。(黙示録11:3-7/箴言28:15)
この『二人の証人』が誰かについては、『地に住む人々は、彼ら(の死)を喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。この二人の預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである』と補足されているので、彼らは『この世』の罪を暴く者で、人々を悩ませる預言を語っていたことから、ユダヤ体制の悪を暴いたイエスのような存在、つまり『わたしの業を』『より大きく行う』とされたキリストの弟子らであると結論付けることは聖書の内的調和からして的外れではないでしょう。
『二人』というのは、法的証人としての複数の証言者によらなければ重大事案は裁けなかった律法の概念に触れているのでしょう。それだけ終末の証人たちの言葉が重い知らせであるということです。(ヨハネ14:12/民数記35:30)

かつて、イエスがユダヤ一国の中で行われた証しの業と裁きを、終末の聖なる弟子たちが世界規模で行うと見るべき理由は、『より大きな業を行う』と言われた上記の句ばかりでなく、旧約の預言書の中で神YHWHが世界を裁く時が到来することが何度も明らかにされているところに十分な根拠を見出せます。例を挙げれば、預言者エレミヤはこう言っています。
『叫びは地の果にまで響きわたる。YHWHが国々と争い、すべての肉なる者を裁き、悪人を剣に渡すからであるとYHWHは言われる。万軍のYHWHはこう仰せられる、見よ、国から国へ災いが出て行く。大きな嵐が地の果から起こる。』(エレミヤ25:31-32)

また、イザヤはこう言います。
『諸々の国よ、近づいて聞け。諸々の民よ、耳を傾けよ。地とそれに満ちるもの、世界とそれから出るすべてのものよ、聞け。YHWHはすべての国に向かって怒り、そのすべての軍勢に向かって憤り、彼らをことごとく滅ぼし、彼らを屠られた。』(イザヤ34:1-2)

預言者ゼパニヤの言葉も激烈さでは劣りません。
『YHWHは言われる、「それゆえ、あなたがたはわたしが立って証言する日を待て。わたしの決意は諸国民をよせ集め、諸々の国を集めて、我が憤り、我が激しい怒りをことごとくその上に注ぐことであって、全地は、ねたむ我が怒りの火に焼き滅ぼされるからである。』(ゼパニヤ3:8)

こうした預言の言葉は聖書に広く見られ、新約聖書にも見出されます。
『その時には、世の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来る。』(マタイ24:21)

『人々は、この世界に何が起こるかをおののき、恐ろしさのあまり気を失うだろう。森羅万象が揺り動かされるからである。』(ルカ21:25-26)

『地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らもみなが洞窟や山の岩かげに身を隠した。そして、山と岩に向かって言った。「私たちの上に覆いかぶさって、玉座におられる方の顔と小羊の怒りから、私たちを匿ってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。誰がその前に立つことができようか』(黙示録6:15-17)

『この世』というものが、実は悪魔の策略によって人類が否応なく陥っている苦しみの世界であるという実情を知らずにいる人なら、聖書やキリスト教というのは、ひとえに人に穏やかで敬虔な振舞いをさせるものだと思っているような人々もいて、以上のような神と世界が対決する激烈な預言の言葉は「聖書」らしくなく、耳を疑うような内容と思えるかも知れません。

しかし、上記のように激しい預言の言葉が聖書に再三に記されている以上、美しく柔和な言葉を聖書から拾い読みしてありがたがっていても、それが神の言葉の趣旨となるわけでも、また聖書やキリスト教の本質に触れたことにもなりません。それは「その人が望むキリスト教」であって、やはりユダヤの宗教家らに彼らの願ったようなメシアは到来せず、今日までも待ち続けている姿に重なってしまうのではないでしょうか。

実際のところ「人の幸福」とは、個人が「天国の至福を味わうこと」なのでしょうか。それとも人類全体の幸福は対症療法ではなく根本治療なくして到来しないというべきでしょうか。
聖書を通して見える神の意志は、悪魔が据えたものを根こそぎにすることであり、キリストが命をかけた闘いを地上で行い、ついに忠節を尽くしたのも、人々に真実の幸福をもたらすためではなかったのでしょうか。それこそがエデンで語られた『女の裔』、また『アブラハムの裔』の役割ではありませんか。
その益にあずかるはずの『地のあらゆる氏族』がそれを否定してよいわけもありません。(創世記22:15-18)

『聖なる者たち』はキリストの兄弟、また同労者となって終末にも任命を受け、神の代弁者として聖霊に導かれて語るので『この世』からの様々な攻撃の矢面に立つことになります。彼らこそは、天界でキリスト共になる『栄光ある者たち』であって、『天使をも裁く者となり』、『その最も小さい者さえ』『女から生まれた中で最も偉大な』バプテストのヨハネに勝ると言われる通りです。(ペテロ第二2:10/コリント第一6:3/ルカ7:28)

イエスがかつて弟子たちにて言われた言葉、『「下僕は主人に勝らない」と、私が言った言葉を思い出せ。人々がわたしを迫害したのなら、あなたがたをも迫害するのだ。』との言葉の通りに『キリストと共になる者ら』は、やはり同じく『女の裔』としてかかとを砕かれなくてはなりません。キリストが磔刑に処せられたように、彼らも『自分の(磔刑の)木を荷って後に続く』覚悟が要ります。(ヨハネ15:20/創世記3:15)
しかし、それを通して彼らはキリストとまったく結ばれた者らとなり、地上の試みは、彼らをイエスを『隅の頭石として』その上に神殿となるよう積み上げられるに相応しく試され研磨された石とさせるのであり、試みを通過してこそ彼らの天の立場は確定し、欠くことのできない一員となるのです。しかし、その試練はイエスがそうであったように簡単なものではありません。(マタイ21:42/ペテロ第一2:5)

彼らの試練が終わる時、『新しい契約』を最後まで保って亡くなった聖徒らと、忠節の内に生き残っている聖徒らとが天界に召されるに際し、キリストはまず聖徒らを復活させる権威を行使するでしょう。『父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える』とは『新しい契約』の仲介者であるキリストが、その契約に属した者の誰を復活させるかを選ぶ権限を持っていることを明らかにしています。(ヨハネ5:21)
ですから『天の王国は、海におろして、あらゆる種類の魚を採る網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、それから座って、良いものは器に入れ、悪いものは外へ捨てる。世の終りにもそのようになるであろう』という「引き網の例え」の意味はこの観点から明らかになります。

そのためにイエスは『墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善を行った者らは命を受けるために生き返り、悪を行った人々は裁きを受けるために生き返って、それぞれに出てくる時が来るだろう』という復活に関する句についても、神の行う復活の業と、キリストの行う二つの復活の業があることを示唆しています。『新しい契約』を全うした聖徒らは、『終わりの日』に『神の王国』を建てるために復活を受けますが、黙示録はこの復活を『第一の復活』と呼んでこう記しています。『第一の復活を受ける者は幸いな者であり、また聖なる者である。この人たちに第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間支配する。』(黙示録20:6)

また、黙示録は『それ以外の死者は、千年の期間が終るまで生き帰らなかった』とも述べます。つまり、これは『聖徒』としての復活をしない、あらゆる時代の世界の人々の復活を指しており、「第二の復活」とも言えます。
それですから契約を守らなかった聖徒らについては『第一の復活』は受けられないでしょう。なぜならイエスがそれを望まない者となっているからで、彼らは一般の人々と共に千年後に肉の人として生き返ることでしょう。そうであれば、それは復活とはいえ彼らにとって愚かさと恥辱を表すことが避けられないことになります。(マタイ25:1-13)

また、終末に幾らかの忠節な聖徒たちが、『第一の復活』の時期まで生き残ることも知らされています。
『生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは決してない。』とパウロが述べた通り、最後まで生き残った聖徒らは、第一の復活が行われたすぐ後から、『雲の内にあって』つまり人に見られることなく天に召されることになるとされています。もちろんこれは新教系の「クリスチャン」が「携挙」と呼んでいるものとは意味が違います。(テサロニケ第一4:15-17)

ですから、この時点になっても天への召しがない聖徒は、『新しい契約』に忠節でなかったのであり、おそらくはその自覚もあることでしょう。何かのことで『この世』からの圧力に屈してしまっているのです。
『自分の魂を救おうとするものはそれを失い、それを失うものは得るのである。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、一人は取り去られ、他の一人は残される。ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、一人は取り去られ、他の一人は残される』との句は、まさに彼らが契約を守らないことの結果を警告して語られたものという以外にありません。(ルカ17:33-36)

契約を守らない事には、世の側に立ってしまうばかりでなく、聖霊を受けながら何もしないという不忠節も起こるのでしょう。
イエスは、自らを『王権を確かなものとするために旅立つ高位者』に見立てた「ミナの例え」を使徒たちに語っていました。(ルカ19:11-27)
ミナというのは金額の単位で、1ミナは今日の80~100万円ほどになります。
さて、ルカの記すミナの例えでは、この主人は王権を獲得するために旅に出るので、この主人は王とも成れる立場の皇太子か有力貴族ですが、主人と奴隷たちのほかに、その主人の王権獲得を望まない『市民たち』という第三の者らが幾らか顔を出し、ミナの例えを具体的に明らかにしています。

この当時の王権と言えば、ユダヤを治めるヘロデ家の息子たちが王になるに際し、皇帝の裁可を仰ぎにローマに赴き、そこで任命を受ける必要がありましたから、場合によってはローマに長く逗留させられることにもなりました。
しかも、うまく皇帝から王権を授かるのに成功したからと言って、そのまま王位に就けるとは限りません。たとえ信任状や認証指輪などを持って帰国しても、自国の中の対立勢力を自分でねじ伏せ、王位に就くことを実力で勝ち取る必要があったのです。

そのような主人は、まず自国を留守にして『王権を確かなものとするために旅立つ』必要があったので、家の下僕らにそれぞれ1ミナを託して、それで各自が商売をして1ミナを増やすように命じてから出発しました。その後から、その国のある市民らは使節を送り、この主人が王となることを望んでいないと権威者に申し立てました。

それから主人が王権を授けられて帰国すると、下僕らの商売の結果を報告させます。
ある下僕は1ミナを10ミナに増やしましたので、主人はその者に十の街の支配権を与えます。同じように5ミナに増やした者には五つの街を与えます。
しかし、ある下僕は1ミナを1ミナのまま持っていました。それは商売に失敗したわけでもなく、なんと、1ミナを布に包んでそのままにしておいたのでした。

その理由は、主人が『自分ではまいていない場所から刈り取ろうとする厳しい方』なので、『恐ろしくなって』何もしないでいたというのです。
主人は、それなら両替商にでも預けるだけでもその利息と一緒にもらえたのに、それさえしなかったことを責めます。
そしてその下僕の1ミナを取り上げて10ミナに増やした者に与えるようにと命じ、それから主人を王として望まなかった市民を打ち殺させるのでした。

この一連の例え話は、この例えによく似たマタイにある「タラントの例え話」と共に、イエスが地上の生涯を終える数日まえに話されたもので、まさにイエスが『神の王国』の王権を確かなものとするために天の神のもとに旅立とうとしていた時期でありました。
そこで弟子たちにはミナに当たる何か貴重なものが与えられ、主人であるイエスが再び到着するときに、弟子たちはミナをそれぞれどう運用したかを報告することが求められることがこの例えで示されています。

下僕の内の一人が託された財産をまったく使わず、利息を得るために預けもしなかったその理由は『恐ろしかった』という告白から明らかで、主人の財産の運用で失敗する怖さでもなかったことは『両替商にでも預けていればよかったのだ』という主人の指摘からも分かります。
この託されたものを布に包んでしまっておいた下僕は怠惰であったのでもないでしょう。財産を増やすという主人の意向を知りながら、怖くてそうしなかったのです。

ここに託された財産が何であるかを知る糸口があります。
それは、運用するならその身に危険が及び兼ねないもの、公にすることさえ恐れを招き兼ねない何物かです。
これをキリストが残した聖徒たちの務めと照らし合わせるときに、それが『聖霊の賜物』であり、特に終末では奇跡の言葉を語らせると共に、それは『この世』との対立を招くほかありません。神の創造の意図から堕ちたその世界の『罪』を糾弾し、新たな支配体制である『神の王国』に道を開けるべきことを聖霊は宣言するに違いなく、それも論駁不能である完璧な言葉であれば、人々は聞かなかったことにはできないでしょう。まさしくイエスが言われたように『世はあなたがたを憎む』のです。(ヨハネ15:19)

イエスは弟子らに『招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない』とも『狭い戸口から入るように努めよ。入ろうとしても入れない人は多いのだ』とも言われました。これは後の『わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、それぞれ体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない』との使徒パウロの訓戒とも一致します。(マタイ22:14/ルカ13:24/コリント第二5:10)

この厳しさは、彼らの受けることになる『キリストと共なる凱旋行列』に加わる栄光にふさわしい勇敢さを示すよう促すものでしょう。つまり『この世』に対する勝利の行進です。(コリント第二2:14/コロサイ2:15)
しかし、イエスは『わたしは平安をあなたがたに残し、わたしの平安を与える。わたしはそれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。恐れおののくな』とも言われ、獣刑に処せられたことも石打の死刑にも遭ったことのあるパウロも、『神は忠節な方であり、あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時にそれに耐えられるように逃れ道も備えて下さる』と書いています。(コリント第一10:13)

初期キリスト教徒の殉教伝説を集めた聖人伝は、中世期に欧州で脚色されたものではありますが、それらの言葉の端々に迫害に散っていったかつての聖人たちには、拷問や処刑に在っても平静を保つ様々な超自然的な助けがあった様子がおぼろげに伝えられています。いずれは肉体を解くべき彼らは、その痛みも免れたのかも知れません。
おそらくは、聖霊の奇跡の賜物からして、彼らの決意を最後まで貫かせる心の平穏さを神が与えられないということはなかったことでしょう。

そうして、ふさわしく整形された石の数々として聖徒たちの忠節が『隅の親石』であるキリストの上に積み上げられ、ついに天の神殿が建立されて、キリストたちは地への王権を手中にすることになります。
それからは、『神殿への復讐』がなされる時であり、もはやイエスは自らと兄弟たちを葬った『この世』と戦う大王としての厳貌に変わり、黙示録が描くように王冠を頭に載せ、炎のように燃え立つ両眼、口から諸刃の長剣が突き出した姿となってすべての聖徒たちを率い、いよいよ『この世』の征服へと乗り進まれることでしょう。さて、その王権を望まなかった市民らはどうなるでしょうか。(エレミヤ51:11/黙示録1:12-18/ローマ16:20)

こうして砕かれたかかとは癒され、次にはヘビの頭が砕かれなくてはなりません。地上で誰をも裁かれなかったイエスは、今や王権を得て世界を自らのものとされる時を迎えるのであり、人々は自分の目で見ることができないながら、どれほど疑い深い人であってもキリストの再臨を認めざるを得なくなる時が来るでしょう。





トラックバックURL
http://irenaeus.blog.fc2.com/tb.php/287-5c2daa50
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top