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キリストの再臨とこの世の裁き

2020.11.08 (Sun)


地上に現れたイエスは「初臨のキリスト」と呼ばれることがあります。
それは、福音書の中でイエス自身が何度も予告されていたように、天に去った後のいつの日にか戻って来られることを告げていたので、キリストの帰還を後の人々が「再臨」と呼ぶようになった前後の対照からきたものです。
「再臨」という言葉は聖書にはありませんが、イエスは確かに『人の子が来るとき、果たして地上に信仰が見られるであろうか』または『人の子の来る時は、ノアの日のようになる』とも語られました。これらは明らかにキリストが再び来られる後の時代のことを指していることは疑問の余地がありません。しかも、それはいつになるか分からないので、『見張り続けるように』とも言われのです。(ルカ18:8/マタイ24:37.42)

また、パウロが『生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが・・彼らと共に雲の中で引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるようになる』と書いていたので、教会によっては、いつの日にか自分たち信者が天に挙げられてイエスに会い、そのまま天で過ごすものと信じてもいます。
ほかにも、弟子たちがイエスの天に昇ってゆく最後の姿を目撃した使徒言行録の場面では、イエスが見えなくなった空をいつまでも眺めている使徒たちに、二人の天使が現れて『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上られたのをあなたがたが見たのと同じ有様で、また来られる』と言ったと書かれているところから、再びイエスが天から、その場所であったエルサレム東側にあるオリーヴ山に降って来られるものと信じてやまない人々も少なくないようです。
それに加えて、その時には今ユダヤ教徒であるイスラエルの人々が、降臨されるイエスを実際に見て悔い改めて回心し、キリスト教に大量改宗することを心待ちにしている「キリスト教徒」も少なくありません。

このように、さまざまな「クリスチャン」と称する人々が、それぞれにイエスが再び来られると言われた言葉を受け止めているのですが、ひとつの共通点があります。それは、キリストの再臨の記述に必ずと言って良いほど伴う『雲』という一言への配慮がみられないことです。

「雲」と言えば、登山をする人々やパイロットたちにとってはたいへん厄介なものです。視界を妨げるからです。
旧約聖書には、エジプトを後にしたイスラエルを追撃するエジプトの戦車と騎馬の部隊の前に雲の柱が立ちはだかり、イスラエルを紅海の対岸に渡させる時間を与えるものとなった故事が有り、また、崇拝の天幕と什器が完成し、祭司たちが準備を整えたところで、天幕には雲が充満して、祭儀を開始することがしばらくできなくなりました。それはソロモン神殿の最初の時にも起ったことでありました。

新約聖書でも、あるときイエスが山の中で輝きはじめて変貌され、その幻の中に共に現れたモーセとエリヤと会話している場面が終わろうとするその時、使徒たちの前に再び普段のイエスの姿に戻るところで、やはり雲が使徒らの視界を妨げて場面を転換しています。(マタイ17:5/ルカ9:34)

これらの前例から終りの日に『雲と共に来る』または『雲に乗って来る』と言われるイエスの再臨を考えるとすれば、その戻られる姿が見えるものかに疑問符を付けるものとなるでしょう。

加えて、イエスは『終わりの日』の預言、つまり終末預言の中では、ご自身の次の来臨は『稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来る』と言われてもいます。(マタイ24:27/ルカ17:24)
これは、肉体をまとったイエスを広く人々が同時に見られる到来となるという意味ではなく、その直前の文脈で、イエスは偽キリストの登場があることを警告して『人々が「見よ、彼は荒野にいる」と言っても、出て行くな』また「見よ、奥の間にいる」と言っても、信じるな」』との言葉との対照を言い表しているというべきでしょう。これはイエスが地上のどこかの場所に居るものではないという意味以外に捉えられません。『しばらくすれば、もはや世はわたしを見ない』とのイエス自身の言葉を加えるなら、キリスト再臨が不可視であるとの理解は動かし難いというべきでしょう。(マタイ24:26/ルカ17:23/ヨハネ14:19)

さらに、この点を強く支持するのは、キリストの再臨が『裁き』でもある点です。
今日、イエス・キリストほど名の知れた人物もないほどです。イスラム教徒でもイエスは偉大な預言者「イーサー」と呼ばれ、やはり終わりの時に再び現れるものとされています。意外にもイエスはイスラム教徒からも敬われる偉人なのです。
世界一般でのキリストのイメージといえば、長髪に白衣をまとった姿にすっかりと定着してもいるので、それらしい人物が同じようにして現れるなら、自然とイエス・キリストだと思えるほどになっているほどです。『偽キリスト』を演じることはそう難しいことではなさそうです。しかし、古代ユダヤでのキリストの最初の現れでは事前のイメージなど無いことでしたから、ユダヤ体制もメシアとは外見で分からずに裁かれたというべきでしょう。

ですが、キリストが『この世の裁き』のために再臨されるのであれば、それと分かる姿でこの世に現れるものでしょうか。
もし、そうするなら、人々はキリストの前に自分の内心を思うままさらけ出すことはしないでしょう。むしろ救われたいがために「敬虔なクリスチャン」を装うのでありませんか。
かつて、キリストの最初の現れ、つまり「初臨」の際には、旧約の預言にあったメシアの故郷とされるベツレヘムからは来られなかったので、ユダヤ人にはナザレ村から来た大工の息子をメシアとして受け入れるには、どうしても聖書の知識を超えるイエスへの信仰が求められました。そのとき、神は律法を守る業ではなく、御子への信仰によって人を救う『義』を与えようとされたからです。(フィリピ3:9)

確かにイエスは復活を受けたあとに弟子たちに現れ、食事さえしています。
しかし、その復活でイエスが再び人間となられたわけではありません。それが証拠に旧約聖書には天使たちが食事をしている場面が一度ならず有り、そのことは『キリストは肉において死に渡され、霊において生かされた』という使徒ペテロの言葉を否定できるものではありませんし、再びキリストが肉をもって現れるなら、その犠牲は、またアダムのための贖いはどういうことになったのでしょうか。(創世記18・19章/ペテロ第一3:18)
やはり『「最初の人アダムは生きる魂となった」とあるように、また最後のアダムは命を与える霊となった』と述べるパウロも、やはりペテロに同じくイエスは霊者となったことを教えています。(コリント第一15:45)

そして、キリストの再臨が『この世の裁き』のためであるなら、世界の人々が自分がどのような者であるのか、その内面が明らかにされねば『裁き』の意味をなしません。
そこで、神もキリストも裁きの前には決して『顕現』はしない、つまり圧倒的な現れ方はしない理由があることになり、それはユダヤ体制の裁きでも、またエデンで禁断の木を監視しなかったところにも一致します。神は人の決定を見守られていました。

では、キリストの再臨が『雲』によって衆目には隠されたものであるとするなら、キリストの圧倒的な現れではなく、まずは受け入れるも拒絶するも可能な一定の範囲での神の証しを人々は見聞きすることになるでしょう。
キリストの終末預言の中には、まさしくそのようなものが有るのです。
それがつまり、イエスが終末に起る事として語られた、弟子たちが為政者らの前に引き出され、彼らがそこで聖霊の語らせるままに語るという新約聖書に繰り返し現れる終末預言の事態の発生です。(マタイ10:17-18/マルコ13:9/ルカ21:12-14)

そのときには『すべての反対者も論駁できないような言葉と知恵が授けられる』ので『予め何と言おうかと思い悩む必要はない』また、『話す練習はしなくて良い』とまでイエスは言われているのです。(ルカ21:15/マルコ13:11)
これは世界的な注目を浴びるものとなるのでしょう。ですから『それは彼ら(為政者)と諸国民とに対する証しのためとなる』ともイエスは言われます。つまり人間の能力を超えた神の行う世界宣教とも言えるものです。(マタイ10:18)
ですが、それらの弟子たちはキリストご自身ではありませんから、世界は彼らの証しを受け入れるも退けるも強制されるほどのことにはなりません。ですから、そこで求められるのが「信仰」と言えます。

その弟子たちの聖霊に導かれる言葉が具体的にどんな文言となるのかは、当然ながら今は皆目わかりませんが、それが人間の『罪』を知らせ、『神の王国』の到来を知らせるものとなることは『この世』と『キリストの支配』の対立性からして明らかでしょう。ですから聖徒たちは『王や高官の前に引き出される』のであり、そうして宗教家らと論争するよりも重い現実的争点に立つ理由があります。『神の王国』は到来する現実の支配であるからです。
そこで人々は、『この世』という現状の体制と『神の王国』という新たで理想的な社会との選択で分かれるであろうことは今からでも容易に想像できます。

もちろん、世の政治家たちがその立場を喜んで譲るとは思えませんし、それは詩編第二に『地の諸国の王は一団となって立ち構え、諸国の高官も共に謀り、YHWHとその油注がれた者とに逆らって言う。「我らは彼らのかせを壊し、彼らのくびきを解き捨てよう」』と言うと予告されている通りのことになるでしょう。
『この世』には複雑に絡んだ無数の「既得権益」というものが張り巡らされてもいるのですが、世の中は体制的に古い利権構造を変えたがりません。一部の富裕な人々が得をするピラミッドがすでに存在しているからで、新しく廉直なシステムを嫌います。それに対して『神の王国』ほど革新的で新しく公正なものも無いでしょう。
そこで問われるのは、利己心か利他心かということにならざるを得なくなります。
すべての政治家や既得権益者がキリストの支配を拒むというわけではないにしても、それはよほど高潔な人、僅かな人数ではないでしょうか。
聖霊の言葉に世界は揺さぶられることを、使徒パウロは旧約聖書のハガイの預言を引用して、神はシナイ山を激しく揺さぶったように、再び天地を激しく揺さぶると述べ、『あなたがたは語っている方を拒んではならない』と警告しています。(ハガイ2:6-7/ヘブライ12:25-27)


これらの事が起る時には『聖霊』が再び注がれているに違いなく、その時代にも『聖なる者』が再び現れていることの証拠というほかありません。それこそがキリストの再臨の決定的な証拠であり、『終わりの日』は間違いなく始まっていることになります。
そのとき、キリストの二度目の来臨が、信仰ある人々にとって必ずしも祝福になるとは限りません。それはマラキの預言が警告していた初臨のユダヤと同じです。
やはり、終末の再臨が『この世の裁き』でもあることをイエスは次のように語っています。

『人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。それからすべての国の民がその前に集められ、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
そして、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぐように」』(マタイ25:31-34)
しかし、左側に分けられた人々には『呪われた者どもよ、わたしから離れて、悪魔とその使いらに用意された永遠の火に入ってしまえ』と言われるのです。(マタイ25:41)

このように人々を分けるものが何であるのかを明かして、イエスはこう言われました。
『あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、渇いていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかった』。
そこで、彼らもまた答えて言う、「主よ、いつ、あなたが空腹であり、渇いておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか」』
『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者の一人にしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。

これら呪われた人々とは逆に、キリストの是認に入った人々にはこう言われます。
『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、わたしにしたのだ』。

ここに『この世の裁き』の条件が示されています。それは「キリストの兄弟」、つまり『聖なる者』への態度によるのです。
また、それは『人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒涜はけっして赦されない』と言われた通りであり、あらゆる人は、聖霊の言葉によって二つに分けられることをイエスは明らかにされているのです。(マタイ12:31)

そして、これらの言葉からも、イエスの再臨はやはり目に見えないものであることが明らかになります。どちらの人々もイエスの兄弟への振舞いが自分へのイエス本人からの酬いになるとは思っていなかったのですから。しかもイエスは地上にご自分を捜さないようにと言われるのです。
やはり、『この世の裁き』に於いて世界を分けるものは『聖霊の言葉』であり『聖なる者たち』への人々の反応であるのです。これこそは、人が到底できないような『聖霊』を用いた神の裁きなのでしょう。

では、そのとき人々はどう反応するのでしょうか。
『この世』とそこから得られる利益に執着し続けることは大きな罠になるでしょう。『この世』は『神の王国』と折り合えるものではないからです。そして人は『聖徒』でない限り、誰もが『この世』に属し、アダムの『罪』の内に生きています。
特に政治に携わる人々、大企業の経営者、聖徒らを捕縛する役割を負うような警官や軍人にも葛藤は避けられないことが考えられます。更に難しいと思われるのが宗教関係者となることでしょう。
神やキリストの顕現を見るならまだしも、人間である聖徒らの『聖霊』の発言を前にして、それまで教えてきたこと、また信じてきたことを訂正するだけの潔さがあるでしょうか。
あるいは、かつてイエスに神の印を感じ取り、その許を訪ねたユダヤ最高会議議員でパリサイ派であったニコデモのように廉直な宗教人も終末に現れるかも知れません。またイエスの処刑を担当したローマ軍の百卒長が信仰を言い表したようなことがあるかも知れませんが、そう多く望めないようではあります。(ルカ23:47)

キリストの初臨を迎えたユダヤからして、神の裁きに臨む誰にでも言えることは、自分の利益や権威に凝り固まっていないこと、自分の利益や体裁ではなく真実を求め、人々への共感や同情心に豊かであることは神の目に不変の価値あることでしょう。
しかし、「自己義認」というものは避けるべきものです。「自分は正しいのだから、時には悪を行うことも許される」というのは神の前には通用しないことに違いなく、それこそはユダヤの宗教家らがメシアに対して行った決定的な悪でありました。彼らの「正しさ」には自分の都合や願望が混じっていたところで、イエスへの神の証しを見ても神の義には服せなかったのでしょう。

結局のところ、ユダヤの宗教家らの優れた聖書の知恵や表面上の清さ、正しさは、かえって彼らに罠となったのです。
聖書やキリスト教の知識でさえ『持っているものまでが、取り上げられる』というイエスの警告の言葉はまだ終わっていないというべきで、その裁きでは、その人の思想も信条も関わりなく、もちろん「クリスチャン」であるかどうかにも関わりなくすべての人に臨むことでしょう。
まことに『人は人の外の姿かたちを見るが、YHWHはその心を見る』と言われる通りです。(サムエル第一16:7)

では、各人は終末に至って聖霊の言葉を聞くときに、どう判断し行動するのでしょうか?
その聞く事に純真な価値観を持てるなら幸いなことで、人は誰もが自らの心を常に省みるべきではありませんか。
キリストの初臨を受けて試されたユダヤ体制が、終末の再臨の裁きの時期に生きる人々への重い教訓となって聖書に記されていますが、これは歴史にも刻まれた動かし難い事実なのです。





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