FC2ブログ

聖徒と信徒の違い

2020.11.06 (Fri)


新約聖書を注意深く読んでいると、特にイエスの後の使徒たちの時代以後の手紙文の中で『聖なる者』や『聖徒』と呼ばれる人々が登場することに気付くことがあるでしょう。例えれば『キリストと結ばれて神聖なものとされ、聖なる者となるため召された人々と、・・すべての人たちへ』というように、これらパウロの手紙の宛先となったのはそれぞれ誰のことでしょうか。(コリント第一1:2/コロサイ1:12)

キリスト教会では、ほとんど例外なく『聖なる者』という呼び名も、ただ同じ信者を表す別名というくらいに解釈されているのですが、しかし聖書を良く読み込むと、キリストの犠牲が最初に適用され『聖霊』を注がれた者らが、『聖なる者』また『聖徒』と呼ばれることに気付けるものです。
つまり、あのペンテコステの日をはじめとして、奇跡の賜物を受けた弟子たちのことです。もちろん今日には、あのような人たちは存在していません。(エフェソス1:18/コリント第一14章)
天に召される『聖徒』と、地を受け継ぐ『信徒』との違いがあると聞くと、「それは不公平だ、神は信じる者を差別しない」と反論する「クリスチャン」もいることでしょう。ですが、それは「アブラハムの裔と契約を結んだ神は不公平に人を差別した」と言うことになってしまいます。

やはり、ほとんどのキリスト教会がそうであるように、信徒と聖徒の違いに気付けないとすれば、キリストの信仰者はみなが天にゆくものとされることにもなってしまいます。確かに、天でキリストと共になるという内容が新約聖書のあちこちに出てくるので、信者がみな天にゆくものと思えるのかも知れません。(ヨハネ14:3)
しかし、『復活』が死者に残された希望であることもまた聖書の述べるところで、実際イエスがラザロのような人物を生き返らせているので、人間の生きる希望が天と地のどちらにあるのか、教会の教えでは混乱を感じている人もいることでしょう。

そうした教会の教えでは、「地上に人が生きるのも、天に招く人を選別するための試みである」ともされます。しかし、それにしては神がアダムとエヴァを地上に創造して『たいへん良い』と満足されたのはなぜでしょう。人は天に生きるように創られたのでしょうか。(創世記1:31/詩編115:16)
しかも、福音書でラザロの姉妹であるマルタは、四日前に亡くなった兄が『終わりの日の復活の時に生き返ることは知っています』と当時のユダヤ人一般の信じるところをイエスに語っていましたし、ユダヤ人は地上への復活を信じるので死者には土葬を施してもきたのです。(ヨハネ11:24)

そこで、キリスト教を本当に知ろうと願うなら、神の人間についてのご意志が何であるのか、地上に復活させるのか、天に召すのかを曖昧なままにはできません。
では、真相はどうなのでしょうか。

さてパウロは、キリストが弟子たちを導いた『新しい契約』の意義を説いて、『召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐため』としています。
つまり『天の王国』をキリストと共に受けることです。
それですから彼らの『市民権は天に有り』、キリストによって『世から選び出された』ため、聖霊を受けたときから『この世』のものではありません。そのためにも彼らは、キリストと共に『この世』という地上の人間社会を裁く立場に就くことができるのです。(ヘブライ2:11・9:15/ガラテア6:16/フィリピ3:20/ヨハネ15:19/コリント第一6:2)

また使徒ペテロも、聖霊を注がれた彼らが地上に在っては『寄留者』であり、『霊によって聖なる者とされ』、『血の注ぎを受けるために選ばれた者たち』であり、『天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、絶えない財産を相続する者』であること、また『神は・・イエス・キリストの復活を通して、新たに生まれさせ、さらに生ける希望を与えてくださった』とも述べています。つまり、選ばれた者たちは、キリストの復活した天への命を共に受け始めているというのです。(ペテロ第一1:1-4)

また、パウロは『わたしたちは罪に定められない』と述べ、彼らがアダムからの『罪』を赦された状態に入ったことを教えてもいます。『霊に導かれる者は神の子である』ので、キリストの犠牲の贖いが最初に受けられるので、彼らは『人類の初穂』でもあるのです。(ローマ8:33・14/ヤコブ1:14)
つまり、彼らは『新しい契約』に入ることで、前述のようにキリストと結びついた近親者、共に『神の子』、キリストの『兄弟』となり、真実の『アブラハムの裔』、『神のイスラエル』に含まれたのです。(創世記22:18/ガラテア6:16)

もともと、モーセの律法の目的は『聖なる国民、祭司の王国』をアブラハムの子孫であるイスラエル民族から導き出すことにありました。(出エジプト19:22)
しかし、イスラエルは不信仰を示して律法契約を守れず、バビロン捕囚を招いてしまいました。そこにおいて神は血統上のイスラエルとの関わりを律法契約と共に断念しています。(ヘブライ7:7-13)
それでも、預言者は『新しい契約』が結ばれる日を知らせ、それはキリストによって到来することになり、律法の目的であった『聖なる国民』がそこから実現したのでした。それが『聖徒』です。(エレミヤ31:31-33)

これらキリストの『新しい契約』に入った『聖なる者』については、聖霊が注がれ『罪』から清められ「贖われた状態」に入りましたが、いずれは彼らは祭司のように用いられ、天から地上のすべての人々を同じ『罪』のない状態に到達させるのが神の目的であり、そのことは律法の『贖罪の日』の祭礼の手順にも表れていた通りです。

大祭司キリストに次ぐ祭司たちとなる『聖なる者たち』についても、共に天界の神殿を構成し、天からの彼ら祭司団の働きによって人々が贖われるということ、それこそ彼らが天に招集される目的であるのです。祭司が汚れていては『罪』ある民を清める資格がないことを律法の規定が示していたように、天の祭司団も『罪』から清められた者でなくてはなりません。(テモテ第一6:13)
そこで『新しい契約』は、キリストと共に天界の祭司となる人々を、すでに地上にいる間から『罪を赦された者』つまり『聖なる者』と認め、『聖霊』を注がれてキリストの業を行う権威を授けていたのです。(コリント第一6:11)

しかし、『多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求される』とあるように、『聖なる者』となりキリストと共なる格別の立場に就いたからには、当然ながらより重い責任が生じます。(ルカ12:48)
そこでやはり、『聖なる者たち』が清めに入った状態にあるのは条件付きのもので、『新しい契約』によるその『罪の赦し』も仮のものです。彼らは地上にいる限りは、まだ完全な道徳性に到達しているわけではありません。もし、完全となっていれば、そのまま肉の体のままで永遠に生きることでしょう。

ですから、新約聖書に道徳的な行いを求める記述があるのは、『聖なる者たち』がキリストとの関係に相応しく歩んで『契約』を全うするよう勧告しているからです。依然として「アダムの罪」が彼らに働きはするものの、そこを『新しい契約』がキリストの『義』を仮に適用することで、彼らも『義』とされるのであり、失敗することはあるにしても、自ら悪業に走るなら、それは与えられたものを踏みつけることになり、『契約』を守っているとは言えなくなります。
彼らは『召されたその召しにふさわしく歩むように』しなければなりませんし、『汚れを大目に見るのではなく、聖化によって召された』のです。(テサロニケ第一4:7)

新約聖書が道徳的であるようにと命じ『不義な者には王国を受け継ぐことがない』と言うのも、彼らが『神の霊によって義とされた』からであり、モーセの律法のように守って『義』を勝ち得るものではなく、愛と良心に動かされて自分を汚さないことを意味します。(コリント第一6:9-11)
清さを守ることは、何かの規則を守れば良いということではなく神と人への気遣いによる『心の律法』によるので、使徒パウロであっても『ひたすら後のものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばしつつ、目標を目ざしてひた走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞を得ようと努めている』と語っているのです。(エフェソス4:1)

やはり「契約」というものは常に不確定な事柄について結ばれるものであり、確かにキリストの義は成し遂げられたものであっても、聖徒の一人一人が契約に忠節を尽くして守り通し、ついに義を得るか否かについては、彼らが地上で実証しなければならない各人の務めです。(テサロニケ第二1:4-5)
ですから、イエスは『自分の(磔刑の)木を担ってわたしに続け』と言われたのであり、『狭い戸口から入るように努めなさい。事実、入ろうとしても、入れない人が多いのだ』との厳しい言葉の数々は、キリストの『兄弟』とされる者に求められる条件であり、キリストの道を共にしなければなりません。
ペテロもこう言います。『あなたがたは、実に、そのような道に召されたのだ。キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと模範を残されたのだ』。(ペテロ第一2:21)

彼らにも時に過ちを犯すことがあることについては『互いに罪を告白し合い、また、癒されるようにお互のために祈りなさい』とも書かれているように、自らが『罪』ある身であっても『聖』とされた事についての責務を各自が果たしてゆく必要があるのです。(ヤコブ5:16)
しかし、そのように自らの中にある『罪』との格闘を続けることにより、彼らには人々が負っている『罪』の克服が如何に難しいことであるかを実感する機会ともなり、それは彼らが天界から人類を扱うときに、深い哀れみと共感を働かせる資質として定着することでしょう。この点でも地上に来られ、人となられたキリストは模範者であり『主ご自身が試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができる』とあります。(ヘブライ2:17)

そのため、大祭司キリストとその従属の祭司である『聖なる者たち』が『神の王国』を構成し、人々を治めて贖罪を行う新たな時代が来たなら、『この世』のままに、争い満ち、人生を空しく過ごさねばならない今日とは対照的な世界の到来を期待することができます。
聖書の最終巻となっている「ヨハネ黙示録」は、『この世の終わり』とそれに続く『神の王国』について描写されている書ですが、『神の王国』は『この世』を終わらせて、一千年の間、生ける人々を顧みることを知らせています。(黙示録20:6)

『天の王国』が千年続くことについて述べるのは黙示録だけである理由から、第五世紀まで活動したカトリックの最も傑出した指導者とされる「聖アウグスティヌス」以来、「千年支配」は文字通りのものではないとされて教理から外され、無視されてもきたのですが、その同じ黙示録は『この預言の巻物から何かを取り去る者がいれば、命の木から・・・その者の分を取り去るで」あろう』と警告していたのです。(黙示録22:19)
聖書を読み続けていると分かることですが、謎めいた言葉の続く黙示録も新旧の聖書と非常に多くの関連を持っており、人間の知恵を超える不思議な調和が確かに見られます。誰かが黙示録は意味の分からない怪書だと言うなら、その人は聖書全巻にさほど通じていないだけのことでしょう。
しかも、その「千年王国」の幸福については、イザヤ書がその光景をいくらか描き出してもいるのです。

『天の王国』が『この世』を終わらせて登場する以上、その支配する地上の社会は当然ながら現状とは大きく異なるものです。
イザヤの預言書の第65章では、『わたしは新しい天と新しい地を創造する』という神の預言を語り、『以前のありさまは思い起こされることも、心に上ることもない』という新時代の幸福を説いています。
その命の長さは『樹木のように』なり、『彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる』とあります。それは古代のイスラエルではぶどう園の持ち主が、雇人を使って栽培させ、その益は持ち主が得るかつてのありさまと異なることを強調しています。つまり、搾取を受ける今日のような空しい労働はなく『彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない』『自分の手で作った物を存分に楽しむ』とあるように、人々はその働きから有意義な益を受ける事が知らされています。『彼らは無駄に労することない』ともあるのです。

そこには『わずか数日で死ぬ嬰児、自分の寿命を満たさない老人は、もはやその中にいない』とあり、突発的な不幸で亡くなることもないようです。『生まれた子を死の恐怖に渡すこともない』とある通りです。
むしろ『彼らはYHWHに選ばれた者の子孫であり、祝福された一族としてみなが共に居る』ともあります。千年に及ぶその期間に入ることを許された人々は、そこから生まれる子らが世代を重ねて増えることを述べているのでしょう。

このように変わるのは人間社会ばかりではなく、アダムの『罪』を犯して以来、『呪われた地』も変化を遂げるのでしょう。
これを述べるのは同じイザヤ書でも第11章にある預言で、こう書かれています。
『狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く』。
『わたしの聖なる山では何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地はYHWHを知る知識で満たされる』。このような自然界の調和は『エデンの園』以来見られなかったことに違いなく、弱肉強食が当然の世界観は拭い去られることでしょう。

アダムが『罪』を負った後に、神は『地はあなたのために呪われたものとなった』と言われましたが、彼が耕す地面からは雑草が生じ、それもイバラやアザミなど、棘のある植物が繁茂するようになったことを創世記は記します。それは耕作を苦しいものとし、ときには、洪水や旱魃、嵐や地震など、自然災害もあ人の生活を脅かすものとなっていったことでしょう。
それらの『呪い』の解かれた地上がどれほど心地よく、また美しい姿に変わるものでしょうか。おそらくは現在からは想像もつかないほどの世界が待っていることでしょう。

しかし、その社会での人そのものがアダムの堕罪前の状態に完全に戻ったかと言えば、そうは言えません。
なぜなら、イザヤ第65章には『百歳で死ぬ者も若死にする者とされ、百歳で死ぬ者も呪われた罪人と見做される』の一句が存在しています。
つまり、これは『永遠の命』にまでは到達していない中間的な人の状況を指していると言えます。「千年王国」とは『贖罪』、つまり『罪』の赦しが地上で進んでゆく期間であるからです。

聖書は別の箇所で『もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない』人の最終的な将来を告げているので、その千年期の後には『死も墓も火の池に投げ込まれ』、永遠に存在しなくなる時の到来を知らせているのです。(黙示録21:4/20:14)
これはつまり、アダムとエヴァには許されなかった『永遠の命の木』から取って食べることになった人々への祝福を告げるのであり、その人々はキリストのように『義』の完全性に到達し、そうして神と共にいつまでも永久に歩むという、本来の人間創造の目的が達成され、そのときには神の創造が完全な成就を見ているということでしょう。

そこに至る「千年王国」には、生きる人々を『罪』から清め、無垢であったアダムと同様の状態にまで高める働きがあると言えます。それは、その千年の間は、あのヘビである悪魔が人間社会に影響を及ぼせない状態にされることが預言されていることと一致します。『またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所の鍵と大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。
彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、あの年を経たヘビを捕えて千年の間つなぎ留め、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印してしまい、千年の期間が終るまで諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた』とある通りです。(黙示録20:1-3)
その間は、今日のように争いで混乱した社会を見ることなく、人々はキリストの『義』を仮承認された状態にあり、なお子孫を生み出しながら生きるということでしょう。

千年が終わった後に悪魔が解き放たれるというのは、『贖罪』された地上の人々が堕罪前のアダムと同じ『罪』のない状態に復帰したうえでエデンと同じ意味で試されると考えるなら、様々な点で辻褄が合ってきます。つまり創造の神からすれば、悪魔とはいえ他の被造物の試金石として用いることは可能です。
聖書にはこうあります。
『神は、すべてのものを自らの目的のために創造された。邪悪な者をさえ悪しき日のために』。またこうもあります。『邪悪なる者は義なる者の代価、不信実に振舞う者は廉直な者に取って代わる』。(箴言16:4/21:18)
つまり、悪魔は初めから悪者ではなく、自由意志の結果として自ら悪の道に入ってすべての悪の父となったにせよ、創造の神は、悪となった者をさえ用いて、あらゆる自由意志の持ち主である『神の象りに創られた』者のすべてを誘惑させ、善を望む者を一層清めて『義』を与えることができるのです。(エフェソス5:9)

ですから、イエス・キリストであってもその例外とはならず、地上で誘惑を何度も退け、遂に倫理の完全性に到達されたのであり、悪魔は、イエスを磔刑に処させて攻撃したつもりでいて、かえってキリストをまったき『義』へと磨き上げてしまったと言えます。そしてキリストの試された完全な義は、善を望む者すべての『義』の根拠となり、あらゆる人々に『義』をもたらす基礎となりました。(ヘブライ2:10/ローマ5:19)

同じように『聖なる者』に聖霊を注がれることで選ばれた弟子たちも、地上でキリストのように悪魔からの攻撃に耐え、イエスの道にしっかりと付き従うことにより、『義』とされて天の祭司職を受けることになります。彼らの働きにより『義』は人類に広げられます。
こうして、すべての自由意志の持ち主は、神と共に生きるべき存在となることでしょう。そうして神の創造は終わることになり、その意志は天にも地にも行き渡ることでしょう。(マタイ6:10)

「千年王国」はその序章であり、『この世の終り』を逃れ、地を受ける人々には依然として『義』の完全性には到達しないので、何らかの故意の罪をわざわざ犯して離れ落ちる人がいないとは言えないものの、ほとんどの人々が、天からの支配と贖罪の祭儀を受けることで今日の社会では到底得られない幸福を味わうことでしょう。
地上は信じられないほどに変化し、それは以前の時代に亡くなっていた無数の人々の驚きを誘い、それだけでも復活してくるであろう各時代の人々への印となることに不足はないでしょう。

「千年王国」が終わると、以前の世で亡くなったあらゆる人々の復活が起り、『罪の酬いは死である』と書かれているように、一度死を経た人が生き返る場合、その『罪』は消えています。(ローマ6:23/伝道の書9:5-6)
また『神の業は完全』であるので、復活に際してわざわざ人を『罪』ある状態に神は創らないからであり、また、すでに『罪』のない状態で生き返る人々もその自由意志を試される必要があるからで、そこで悪魔が再び用いられる理由もあると言えます。(黙示録20:12-14/申命記32:4)

このように、キリストと聖霊によって結びついた聖徒たちの役割は、天界の祭司団として地上の人々から『罪』を除き、創造されたままの無垢の状態に清めることであり、それはまさしく古代にアブラハムに約束された子孫、『地のあらゆる氏族が自らを祝福する』民、真のイスラエルとなります。(申命記18:18)
この句で、人々が『自らを祝福する』と能動的に述べられるのは、贖罪を受ける人々がただ受け身ではないことを表すと言えます。
なぜなら、その人は『信仰』を表すことが求められているからであり、それも終わりの日に生きる人々には「千年王国」が到来する前にそうしている必要があります。

これまで解説してきたように、キリスト教での『信仰する』とは、ただ神の存在を信じるというものとはなりません。
それは人が自らの置かれた『罪』ある現状を認めて『悔い』、そこにキリストの犠牲による『贖い』が必要であることを認めて乞い願い、贖いを備えたキリストに信仰を働かせることも欠くことができません。
それに加えて信じるべきものがあります。
それが『聖霊』の働きであり、こうして『神と子と聖霊』への信仰が求められることになり、それは『この世』が終わる時代に於いて、つまり「千年王国」の前に人々に求められることになるのです。

「千年王国」が近づくと、再び『聖霊』が神の証しを行うときが来ます。キリストが再び『聖なる者たち』を集め、最終的な祭司団の天への召集を行うからです。これが新教系の教会員によって、模範的なクリスチャンが天に招かれるという「携挙」と勘違いされているものですが、神の救いは「善人」のためのものではありません。キリストは『世を裁くためではなく、救うために来た』のであり、『罪人を招くために来た』と言われなかったでしょうか。
終わりの日に『聖霊』の証しを受け入れ、どのような人であれ、そのときに『信仰』を働かせる人を、キリストは「千年王国」に招く意志を語られているのです。(ヨハネ3:16)

その『信仰』は、自分の益のための「ご利益信仰」であってはならず、神を含むあらゆる他者とのつながり、つまり『変わらぬ愛』からのものでなくてはなりません。そこに高慢な自己義認の余地はないでしょう。
創造界がいまのように乱れ、悪と苦しみの場となった原因が利己心に発していることは永遠に忘れるべきでないことです。神は永遠に生きたい人に命を授けるわけではけっしてありません。ただ善良で従順であればその人を生かすわけでもありません。神と共に生きる人は、神と人とどのように生きてゆくべきかをわきまえているべきであり、それを願い求めることはアダムのようにではなく、その人自身が誘惑を退けて『変わらぬ愛』(ヘセド)を選び取る心の底からの決定にかかっているのです。






トラックバックURL
http://irenaeus.blog.fc2.com/tb.php/285-2728e294
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top