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キリストの赦しによる聖霊の到来

2020.10.27 (Tue)


聖書で語られる『霊』また『聖霊』とは、どんなものの事を指すのでしょうか。
実は、『霊』と『聖霊』には意味深い違いがあります。
何がその違いを生んだかといえば、イエス・キリストの犠牲の死を通した『罪の赦し』、つまり贖罪によってその大きな意味の違いを生じさせることになったのです。

特に『聖霊』は、キリストが犠牲の死を捧げて天に去った後に、弟子たちを『助けるもの』となり、また『真理をあまねく教える』ものともなり、それが新約聖書を成立させる原動力となったと言って過言ではありません。
そればかりか、『聖霊』は選ばれた民である「真のイスラエル」を生み出すものともなってゆきました。
では、『霊』と『聖霊』とはそれぞれ何かについて聖書に耳を傾けましょう。

キリスト最後の受難の日に、ユダヤ人宗教家たちから極悪人として裁くようナザレの人イエスを引き渡されたローマ総督のピラトゥスでしたが、イエスに何の罪状も認められないので、彼は何度もイエスの釈放を試みます。しかし、宗教家に扇動されていた群衆があまりに騒ぎ立てるので、ユダヤ一国の騒擾になってしまうことを恐れた総督は、僕に水盤を用意させ、見守る人々の前で手を洗ってこう言いました。
『この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい』。すると群衆は『その血の責任は、我らと我らの子孫の上にかかってもよい』と言います。しかし、本当にそれでよいのでしょうか?(マタイ27:24-25)
もはや、ユダヤの体制はイエス殺害を目論んだことにおいて、引き返すことのできない道に踏み込んでしまったのです。

この数日前のこと、イエスはご自身の刑死が近いことを悟り、宗教家らに向かって『この神殿を壊してみよ!そうすれば、わたしは三日で立て直す』と挑発していたのです。
それに対して彼らは『この神殿は46年も掛かって建てられたのに、それを三日で建てると言うのか!』と当たり前のことを言って、イエスの言葉の背後に込められた二つの象徴的な事柄を悟りませんでした。(ヨハネ2:19-20)
つまり、『神殿』というのは、イエスご自身の体のことを指して言われたのであり、それから『三日で建て直す』とは死んでも三日後に復活することの例えであったのです。
イエスの復活の後になって弟子たちはそれに気づいたのですが、いきり立つ宗教家には大言壮語の大法螺吹きとしか思えません。そのため、彼らはますますイエスへの殺意を固めてゆくのでしたが、それこそイエスの意図したところであったのです。この『建て直す』との言葉はイエスを訴える口実ともされます。(マタイ26:59-62)

こうして「三日目に復活する」という予告は反対者らにも忘れ難いものとなりましたので、イエスを磔刑で殺害させた後には、その墓を自分たちの神殿衛兵らに見張らせることにするのですが、それはイエスの弟子らが遺骸をほかの場所に移して復活を演出しないように守らせるためであったのです。しかし、この策は裏目に出てしまいます。

金曜日に亡くなったイエスは、大安息日であった『無酵母パンの祭り』の初日に当たる土曜の丸一日を墓の中に遺体のまま横たえられていましたが、日曜日の早朝になると神殿の傭兵たちが見守っている眼前に天使が現れ、本当にイエスに復活が起こってしまい、墓の前に立て掛けてあった大きな蓋の石も動かされていたのです。
傭兵たちは輝く天使を見て真っ青になって死んだようになっているばかりでしたが、しばらくして、自分たちを遣わした宗教家たちに見た通りに報告します。

すると宗教家は、これを揉み消しにかかります。
『夜中に弟子どもが死体を盗んで行ったと言え』と命じて兵士らには多くの口止め料を払い、総督からは役職怠慢を咎められないようにしておくと請け合ったのです。これは明らかに故意の罪というほかありません。(マタイ28:1-15)
それですから、ユダヤの宗教家らは、自分たちが天に逆らう行いをしていたことは否応なく知ったことになり、その場で悔いるには彼らの心は頑なに過ぎたのでしょう。ですが、噂は市中に広まってしまい、彼らの面目は情報を統制することで保たれるありさまです。

こうしてユダヤの民は、ナザレ人イエスを巡って二つに裁かれていたと言えます。
このことは、早くもバプテストのヨハネがイエスの来られる以前に指摘していたことでした。
『わたしは水でバプテスマを施す・・しかし、わたしの後から来られる方はあなたがたに聖霊と火とでバプテスマを施すであろう』。(マタイ3:11)
この句は、多くの「クリスチャン」にとっては、あのペンテコステの日にイエスの弟子たちに聖霊が火のように与えられた事を指すものと勘違いされています。しかし、それは違います。
バプテストのヨハネは続けてこう述べていたのです。

『(その方は)手に箕を持って、脱穀場を隅々まで掃き出し、麦は集めて倉に入れ、殻は消えることのない火で焼き払われるだろう』。(マタイ3:12)
ここには、麦の穀粒と籾殻という二種類の収穫物へのそれぞれに違った処置が描かれています。
有用な麦粒は倉に納められるのですが、その一方の籾殻は火で焼かれています。殻は使い道が何もないからです。

これらのヨハネの言葉は、やはりメシアの現れによってユダヤが裁かれることを述べています。
それを更に裏付けるのが『斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて火に投げ込まれるのだ』という同じ文脈で言い加えられた言葉です。(マタイ3:10)
この警告を受けたのは『パリサイ人らとサドカイ人らと』であり、ヨハネは彼らを『まむしの子孫よ!』と呼んで水のバプテスマを受けさせませんでした。悔い改めには程遠かったからでしょう。やはり、彼らはナザレ人イエスに対してそれなりの行動をとったのです。(ルカ7:30)
しかし、このヨハネの言葉は、ユダヤ人の中から『聖霊のバプテスマ』を施される『小麦』に当たる人々も出ることを教えています。

聖書で言う『霊』とは、創世記の初めのところから登場しており、神の創造に於いて働いています。(創世記1:2/詩編13:6)
また、アダムの鼻孔から神が吹き入れられたのも『霊(ルーアハ)』であり、その結果として『人は生きた魂(ネフェシュ)になった』と書かれています。漢字では「霊魂」と一つの意味にされがちですが、ヘブライ語では『霊』と『魂』とでは意味が随分違います。(詩編88:10)
ヘブライ語の『霊(ルーアハ)』には「風」という意味もあります。ですから、『霊』とは人を呼吸のように、人を生かしているものでもあり、人が死ぬと『その霊は神のもとに帰る』ともあります。(伝道12:7)
もちろん、人間には死後に意識がないことを聖書が教えるのですから、死後に神のもとに帰るのは人の意識ではありません。『帰る』というのは象徴表現であり、人を生かしていた神に属するものである『霊』がその人から離れたという以上のものにはなりません。旧約聖書の詩編には『息吹(ルーアハ)を取り上げられれば、彼らは息絶えて元の塵に返る』とある通りです。(詩編104:29)

同じく『霊』は、預言者たちに霊感を与え、神からの意志を伝え、また幻を見させる働きも行ってきました。(ペテロ第二1:21/出エジプト31:1-5/エゼキエル11:24)
イエスはこの『霊』について説明し『風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない』と言われます。つまり、肉体で地の上に住む人間には捉えられないということでしょう。(ヨハネ3:8・12)
また、『わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろうか』とも言われました。
ですから、聖書の言う『霊』とは物質的なものではなく、天的で見えないながら地上でも働いているもの、例えるなら機器によってさまざまに働く電力のようなものなのでしょう。(コリント第一12:7-11)
それは現に、生きる物の中でも働いてそれぞれを生かしているもので、人にとっては、ある時には『霊に燃え』、ある時には『抑制される』べきものともなるのが聖書の言う『霊』というものです。(使徒18:25/箴言25:28)

では、『聖霊のバプテスマ』のような『聖なる霊』とそれら普段から働く『霊』とは同じものでしょうか。
これは非常に重要な点です。
というのも、使徒ヨハネがイエスの復活後に与えられる『霊』について、福音書にこのように書いているからです。
『イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだなかったからである。』(ヨハネ7:39)
このキリストの受ける『栄光』とは、死に至るまで試されたことから得た『義』の完全性を言うのであり、その義認が霊者としてのイエスの復活の時に与えられ、更に後の弟子たちへの義認の分配に至ったことを指すのでしょう。(テモテ第一3:16)

もちろん、キリストの犠牲による義は、あらゆる人の贖罪の代価となるのですが、まず贖罪を行う祭司たちが清められねばなりません。それは律法に定められたレヴィ族でも、清めの基準に達していなければ崇拝に携われなかったことが予型として表していたことです。(ヨハネ第一2:2/出エジプト30:21/レヴィ22:4)
また、受難の前の晩、イエス自身も『わたしが去って行かなければ、あなたがたの助けは来ない』。また『わたしは父にお願いしよう。そうすれば父は別に助けを送って、それはいつまでもあなたがたと共にいるようにして下さる。それは真理の霊だ。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにあるのだから。』と言われています。(ヨハネ16:7・14:16-17)

イエスは地上を去る前に、弟子たちにはその『霊』が与えられ、それがずっと彼らの内に在って助けを与えることを約束し、『わたしはけっしてあなたがたを見捨てない』とも言われるのでした。(ヨハネ14:18)
ですから、キリストが天に去った後に降る『霊』は、それまでになかった特別のもの、「世が受けることのない霊」、弟子たちにだけ働く助け、つまり『聖霊』であることが明らかです。

そして、イエスが復活した日から50日目の朝に、新約聖書の使徒言行録は大きな出来事があったことを記しているのです。
それは律法に定められた『週の祭り』の朝であり、『無酵母パンの祭り』の二日目から50日を数えて日を定めることから「ペンテコステの祭り」とも呼ばれます。
その日が訪れるまで、イエスの弟子たちはユダヤの人々を恐れて、エルサレムの街の一角に潜んでいましたが、一方で、街には祭りを祝うために外地のユダヤ人がにぎやかに集まって宿泊していました。
その朝になると、突然に大風の吹き付けるような轟音が響き渡ったので、祭りに来ていた人々は何事かと、その音のするところに集まってきました。

彼らが目にしたものは、120人ほどのイエスの弟子たちが、様々な言語で神を讃えている姿であり、彼らの頭の上には『火の舌のようなものが見えた』とあります。
普段を外国で過ごしているユダヤ人や改宗した異邦人は、イエスの弟子たちが自分の住んでいる国の言葉が様々に話されていることを見て大いに驚きました。

すると、使徒ペテロがほかの使徒らと共に彼らに相対して、これが旧約のヨエルの預言の成就であることを聞くすべての人に知らせます。
『その後わたしはわが霊をあらゆる肉なる者に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしは下僕や下女にもわが霊を注ぐ。』(ヨエル2:28-29)

これはイスラエル人であればすべての人に霊が注がれて奇跡の業に預かるという意味の預言ではなく、レヴィ族であるか、宗教家であるかに関わらず、どんな立場の人であっても霊が注がれることが起こるということであり、実際にこの日に聖霊を受けたイエスの弟子らは皆が平民でありました。迫害を恐れて街の一角に潜んでいた弟子たちは、『聖霊』が注がれると大きな力を受けて公に堂々と語り出し、その後の宣教への長い道のりに足を踏み出したのです。イエスがこう予告していた通りです。
『聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の絶え果てるところまでもが、わたしの証人となるだろう』。(使徒1:8)

そして、彼らがイエスこそメシアであり、復活したことを証し始めることにより、宗教家らはますます窮地に立たされてゆきます。
その日以来、弟子たちは霊によってキリストが行っていた業を受け継ぎ始めていました。
使徒ペテロには非常に際立った癒しの奇跡が伴うようになり、彼が通る道には、その影がかかるようにと重病人が横たえられたのですが、その人々も『一人残らず癒された』と自らも医師であったルカが使徒言行録に記しています。(使徒5:1-16)

このようなイエスの業の継承については、イエス自身が使徒たちとの別れの晩に語っていたことでもありました。
『わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからだ。』(ヨハネ14:12)
また、受け継ぐ業は癒しばかりではありません。『父のもとから出る真理の霊が来るとき、そのものがわたしについて証しを行うであろう。それからはあなたがたも証しをするのだ。初めからわたしと一緒にいたのだから。』(ヨハネ15:26-27)

こうして使徒たちを中心とした弟子たちは聖霊を注がれてキリストの業を行って『アブラハムの裔』をユダヤ人から更に集めてゆきますが、やがて聖霊は、ユダヤ人ばかりでなく諸国民にも注がれることが起きるのでした。
それはイスラエルの神を深く信仰していたユダヤ駐在のローマ軍の士官コルネリウスとその親族友人らが、集まって使徒ペテロを迎えるところで起こっています。(使徒10:37-46)
ペテロがイエスの宣教活動と死と復活について話していると、その場で異邦人である彼らに聖霊が注がれたのでした。
それを目撃したユダヤ人の弟子たちも、後から伝え聞いたユダヤ人も、その事はたいへんに信じ難いことに思えました。なぜなら、神への崇拝も契約もそれまでは常にイスラエル民族と共にあったからで、イエスの宣教活動もパレスチナに限られていたのですから、アブラハムの子孫であるユダヤ人が驚き惑うのも不自然なことではありません。

後に使徒パウロは聖霊の諸国民への注ぎ出しについて、その理由がイスラエルの中から現れた聖なる民が不足していたことによるものであると明らかにしています。つまり、メシア信仰に達して『律法契約』から『新しい契約』へと移ってくるユダヤ人の数が不十分であったというのです。
そこでパウロは『接木』を例えに語り、本来の植えられたオリーヴの木の実りが少ないので、異邦人といういわば『野生のオリーブの枝が切り取られ、もとのオリーヴの枝に継がれた』というのです。(ローマ11:17)
パウロはまた『イスラエルから出た者がみなイスラエルなのではない』とまで述べています。(ローマ9:6)
これは『祭司の王国、聖なる国民』の数を満たすための処置であって、こうして神の王国を構成する本当の意味での『アブラハムの裔』、「真のイスラエル」を信仰ある異邦人からも集めて完成させる目的があってのことなのです。

ですから、イエスの活動も使徒たちの活動も、共に『アブラハムの裔』を集め出すための宣教活動であったことが明らかです。
そして、この人々に奇跡を行わせる『聖霊』が注がれたことによって、その民の一員とされたことが示されたのです。
この事は新約聖書に中に何度も明確に書かれていて、エフェソス人への手紙には『あなたがたもまたキリストにおいて真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、それを信仰したことで、約束された聖霊で証印を押された。この聖霊は、わたしたちが王国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光を讃えることになる。』とあります。

またコリント人への第二の手紙にも『わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは神である。神はまた、わたしたちに証印を押し、保証としてわたしたちの心に霊を与えてくださった』ともあります。『聖霊』は選ばれた者に押された『証印』であり、任命の油注ぎであったのです。(エフェソス1:13-14/コリント第二1:21-22)

ここにイエスが語られた『水と霊から生まれた』人々が誰であるかが明らかにされています。(ヨハネ3:5)
それは「クリスチャン」とは言えません。それを遥かに超えて、「奇跡の賜物」を持った格別な人々であり、キリストと共に信仰によって『神の子』に選ばれた『聖なる者たち』であったのです。(ペテロ第一1:2)
彼らに注がれた『聖霊』は奇跡を行うので、その人たちは自分がその者だと言い張る必要がありません。神の証しがその業に見えたからです。ですからパウロは『霊に導かれる者は神の子である』と明言しています。(ローマ8:14)

このようなわけで、『聖霊』というものは今日の諸教会で教えられるような神自身の位格の一つであるわけもなく、むしろ『神から授かる賜物』であり、『キリストを通して注ぎ出される』ものであることは聖書に明らかです。(コリント第一6:19/テトス3:6)
つまり『聖霊』とは神から発するもので、キリストに従属している格別な清い力であり、それを持つ者は『神の子』として相応しくアダムからの『罪』を赦免された清い状態になくてはなりません。
それゆえにも、『聖霊』を注がれた者は『聖なる者』、つまり『聖徒』と聖書で呼ばれており、単なる信者でも単なるユダヤ人でもない本当の意味での『イスラエル』、『アブラハムの裔』を指しているのです。(コリント第一1:2)
しかし、彼らは「キリストの得た義」が仮に彼らにも適用された状態であり、まだ、キリストと同じ完全性に達してはいません。彼らの『義』の仮承認は『新しい契約』に基づいて与えられたもので、彼らは地上で試みに遭い、最後までの忠節を示してその契約を全うする必要があります。

こうしてエデンで語られた『女の裔』が『霊から生み出され』、あのペンテコステの日に初めて世界に現れることになりました。つまり、『女の裔』とはキリスト独りではなかったのです。モーセの律法に示されたように、彼の子孫から『祭司の王国、聖なる国民』が現れるのです。キリストはただ一人律法を全て満たして、その民を生み出すきっかけとなられました。つまり『救いの創始者』となられたのであり、ご自分の犠牲によって『義』の土台を人類の中に据えたのです。

ですから、イエス・キリストがそれらの『兄弟たち』の中にあって主要な創始者であることには変わりません。
それでパウロは『約束はアブラハムと彼の子孫とに対してなされた。それは「多くの者」を指すかのように「子孫たちに」とは言われず一人を指して「あなたの子孫に」と言っている。これはキリストのことである。』としています。つまり聖書中では便宜的に『女の裔』の全体を代表してキリスト一人を語るところがあることを教えています。(ガラテア3:16)

では、『女の裔』が一人ではないのであれば、そのかかとが砕かれるということは、その受難がイエスの磔刑では終わっていなかったことを表すのでしょうか。また、『ヘビの頭を砕く』というのも、キリストが一人で行うことではなかったのでしょうか。
この点を考える前に、『聖霊と火とでバプテスマを施す』とのイエスの働きのもう一方に残された『火のバプテスマ』がどのようにユダヤ人に臨んだかを見ておきましょう。つまり、メシア信仰を抱かなかった『籾殻』に当たるユダヤ人たちがどう焼かれる酬いを受けたかという事です。









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