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俗なる「世」と聖なる「安息」

2020.10.19 (Mon)


ノアの大洪水によって一度人間の世界は更新されましたが、その後はノアの三人の息子セム、ハム、ヤペトから再び人類は増え始め、人間社会が再び出来上がってゆきました。

創世記では、箱船が漂着した現在のトルコにあるアララト山から、人々の集団が一つの言語を話すままに『東に向かって旅をして、やがてシナルの地に平原を見つけて定住するようになった』とあります。(創世記11:1-2)
その場所は、今日「メソポタミア」と呼ばれている土地の南部で、大河チグリスとユーフラテスとが流れる広大な場所であり、考古学が最も古い文明を見出した場所でもあります。

そこで、大河からの水を引いて灌漑農耕が行われ始めたのですが、その地の収穫量は非常に大きく、人々には様々な業種に携わることが可能になり、良質な粘土は無尽蔵にありましたのでレンガを用いて建物を造り、文字を粘土板に刻んで文書とすることもできました。
これは、今日「シュメール文明」と呼ばれ「楔形文字」で知られています。文字を持った最初の文明とされ、取引のための大麦の単位「シェケル」が現れましたが、この名称は現代のイスラエル国の同名の通貨に依然その痕跡を残しています。

この文明は、長い時代をかけて徐々に進歩したというよりは、現代と共通する文化社会が突然に現れたと考えられています。あるいは大洪水前の文化が何らかの仕方で伝えられたのかも知れません。
この人々は、早速に青銅を用いて農具から武器までを製造し、その地方にいくらでもある粘土で様々な器を焼いて作れました。
車輪も考案してロバの引く荷車ばかりか、戦車まで造られていたことが出土するレリーフに描かれています。
ですから、この人々は戦争を行ったことも明らかで、重装槍兵の密集隊形も描かれています。これは後代ギリシアの戦法「ファランクス」に似た戦法もすでにこの文明期に有ったことを物語っています。

そして、創世記は強大な権力者、ハムの孫に当たる『ニムロデ』なる人物に触れてこう述べます。
『クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。
彼はYHWHの前に力ある狩猟者であった。これから「YHWHの前に力ある狩猟者ニムロデのようだ」という慣用句が起った。』(創世記10:8-9)
この権力者は元は猟師であり、農耕者ではなく、やがて街々を襲って征服し、さらに自らも北方に向かって街々を建てて行った様子が創世記に記されています。(創世記10:10-12)

こうして人間社会は、支配者と被支配層とに分かれ、社会は人の上下に人を置くものとなってゆきますが、これは遅かれ早かれ現れるべき「この世の定め」というべきでしょう。そこから奴隷制や様々な搾取が始まる以外にありません。
古代も現代も、支配の動機には貪欲や虚栄心などがあることでしょうけれども、被支配者の方にも支配されなくてはならない理由があります。

それが誰にも宿っている利己心の存在であり、人間は互いの貪欲に対処しなければならず、そのためには有無を言わさぬ強大な力、つまり「権力」によって保護される必要があります。それが警察力であり軍事力でもあるのですが、その力は圧倒的でなくては社会秩序を守ることができません。民の性質が悪ければ悪いほどに、それらすべてを組み伏せてしまうほどの強力な暴力を持つ者、それが統治者の必要条件であることは歴史が常に証明してきたことです。
ニムロデのように、神の前に力あると言われるほど強権であることは、良くも悪くも古代社会を安定させたことでしょう。
『罪』ある人間とは、互いが危険な存在であるという悲しい現実がそこにあります。個人的いさかいから国の間の戦争まで、人の貪欲は衝突せずには済みません。人は『罪』ある限り争い続ける存在です。(ヤコブ4:1-3)

こうして今日まで続く人間社会がスタートを切ったのですが、創世記は別の事柄に注意を向けます。
人々は、『さあ、街と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そして我らは名を上げて、全地の表に散るのを免れよう』と言ったとあるのです。(創世記11:4)
メソポタミアの都市文明の考古学も明かす特徴がここに見られます。
それは城壁で囲まれた街々がいくつも造られ、それぞれに実際に大きな塔を持っていたことです。それらは「ジッグラト」と今日呼ばれる塔やその土台の廃墟にも明らかです。

「バベルの塔」という言葉は有名ですが、聖書に触れたヨーロッパの画家たちに題材を提供してきたことがその背景にあります。
ですが、聖書中に「バベルの塔」という言葉はありません。
遥かな古代に、摩天楼のように高い超絶的な建造物があったという話は魅力的ではありますし、それが神への挑戦だとか、大洪水からの避難場所だとも解釈されてきましたが、この『塔』がそのようなものではなかったことは、都市毎に塔が有ったところに示唆されています。
また、『頂を天に届かせよう』というのと『我らは名を上げて』という言葉には、それらの背後に説明されていない事柄が含まれています。

まず、それぞれの塔のふもとには、神をまつる小さな祠があり、それが時代を経るに従い大きくなって社となり、やがて神殿へと発展しているという発掘調査の結果に見るべき意味があります。
つまり、それらの「塔」は崇拝に関係していたことが明らかであり、それは「神への挑戦」とは言えません。
そこで『頂を天に届かせよう』というのは、神々の領域に到達し、呼び込むことを目的としていたと捉えるのも的外れなことではないでしょう。しかも、『バベル』という創世記のヘブライ語は、シュメール語の「バブ・イル」から来たものであることが知られており、その意味は「神の門」というものです。つまり、神との接点であり、交霊術な意味があります。

それからもう一つの句『我らは名を上げて、全地の表に散るのを免れよう』という句の意味は非常に分かり難いものです。
なぜ、彼らが名を上げることで、神の意志であるところの、人々が地上に増え広がることを免れるのかが分かりません。
この句の『名を上げて』と訳されているヘブライ語動詞「ナーセー」に「造る」という意味もあることからすれば、『我らは名を造って、全地の表に散るのを免れよう』とも訳すこともできます。

つまり、「大義名分を得る」または「名目を造る」とも解釈でき、それでゆくと、シナルの平原に収穫量の非常に大きい肥沃な場所に灌漑農耕を始めて、分業集団生活の快適さを味わった人々が、地の全面に広がるようにとの創造の神の命に反し続けてそこに定住する許しを得るために、神々の領域に通じる場を設けて宥めようとの意志がそれらの塔の建設に込められていたという背景を示唆するものと成り得るのです。実際、当時のメソポタミアからの出土品には、様々な便利品から芸術性あふれる装飾品まであり、人々がどれほど生活を楽しんでいたかを伺わせているのです。
そして「その神々」はそれを許したことでしょう。創造神ではなかったからであり、かえって人間から「神」として崇拝されることを喜んだに違いありません。大洪水後の堕天使らは拘禁され、もはや人間界に降れませんでしたから、後には自分の偶像を代わりに崇めさせるようになったとしても不思議はありません。聖書が一貫して偶像礼拝を禁じる背景がここにも見えます。

そこで、シナルの民の様子を目にした創造の神は、彼らが一か所に集まって都市生活を謳歌し、地上の全面に散ってゆくつもりがないのを憂慮すると、創造神らしい一手を打ちます。
それが言語分散という奇策であり、それによって意思の疎通を妨げられた人々は世界各地に住み分けを行わざるを得なくなり、多様な人種や文化が生まれる元にもなったといえます。
この言語分散の神意は、同時に人間全体を覆う世界支配、超絶的な一つの権力をも打ち砕いて分割されることにもなり、その効力は今日に至るまで強力に作用し続けています。独裁国家の現状に見るように、だれにも『罪』がある以上、恣意的に振る舞う一つの支配権が世界全体を治めることは人類を益さず、むしろ世界の福祉に強い危機さえ招くことでしょう。
国境線が引かれ、国と国とが争うことは避けられないにしても、度を越した圧政が世界を覆うことはまだ避けられています。もし、強大な圧政が世界のすべてを支配していたなら、イスラエルのような宗教国家は存在できなかったでしょう。

さて、こうしてメソポタミアで人間社会の原型が築かれて後に各地に伝播するに従い、どこの場所でも生きる上での苦痛が避けられなくなります。つまり、それが『この世』につきものの『空しさ』です。
戦争や騒擾などの社会悪に加えて、自然災害や不作なども襲い掛かるでしょうし、食糧が充足していてさえ、人々は力ある者らの貪欲の犠牲にされ貧窮を忍ばざるを得ないのが「この世の常」となっています。それが「搾取」というものの結果であり、古代の帝国から今日のブラック企業まで、それは社会のあらゆる場所で陰に陽に起こっている現実です。
しかし、律法を与えた神は『同胞であれ、あなたの地で町の中にいる異国の寄留者であれ、貧しく苦しんでいる雇い人を虐げてはならない』と命じ、『賃金はその日のうちに、日の沈む前に支払わなければならない。彼は貧しく、その賃金をに向かって魂を伸ばしているからである』とも言われ、搾取を禁じ、貧しさを配慮するよう要求されています。(申命記24:14-15)

経済学でも”人類の歴史の大部分において、人は底知れず貧しい状態にあった”と歴史上の経済規模を推定して結論する学者もいますが、その論を待つまでもなく、人間社会は僅かな富裕層と大多数の貧しさを味わう人々へと分ける力が働いているのは今日でも現実に起きていることです。しかも、世界の富をほんの一握りの人々が所有し、残りの数パーセントの富を大多数の人々が奪い合っているというアンバランスも、今日いよいよその傾向を強めているというこの事は、『この世』というものに神の意志も摂理も働いていない明確な証拠というべきでしょう。この貪欲と不公正の横行する世界が、アダムの『罪』が人類にもたらした悲惨な酬いという以外にありません。

後のイエス・キリストが、『あなたのご意志が天におけると同じように地にも行われますように』と神に祈るべきことを教え、『今日、この日のためのパンをお与えください』とも祈るように人々に教えたところでは、『この世』が多くの人々にとって生活しやすい場にはならないことを含めています。
また、イエスは弟子たちに『あなたがたにとって貧しい者は常にいる』とも語られ、弟子たちが援助すべき貧しい人々を『この世』がずっと将来まで作り続けることを前提として語られています。
こうした『この世』が人に要求する生き方というものは、必然的に生きるために夢中で働き、僅かな利益を貪って争い合うことになるのです。
もちろん、これは創造の神が人間に意図したものではありません。神はむしろ『人を自らの象り』として創られたのであり、人は本来、神の栄光を反映させる存在であるべきなのです。

この世の生活様式が招く生き方は隷属であり、ソロモンが語るように『空しく風をつかむようなもの』であり、想いが俗世の些末な事柄や卑近な物事に向かうことも避けられません。
命が掛かっているのだからと、「生きるための行いは尊い」と誰かが主張しようとも、やはり生涯の結論として「空しいものは空しい」以上にはなりません。
神はアダムとエヴァをエデン、『楽しみの園』に置かれたのであり、『顔に汗してパンを食べ、ついに地面に帰る』という生き方に入ったのは『罪』を負った後のことです。
「懸命に働けばそれだけ多くの益がある」という神話が社会のあちこちで信じられていますが、これは実社会で、不労所得の方が遥かに多くの利益をもたらしている現実から勤労者の目を背けさせる「呪文」のようなものでしょう。富ある者はますます富んでゆき、貧しい者は富む機会がますますなくなります。貧しいということは、富んでいることよりも「高くつく」と言われる通りです。ソロモンが『富んだ者には友人が多い』と述べた背景には、このことが込められているのでしょう。(箴言14:20/ヤコブ2:2-4)

しかし、この不公正には幾らかの善処はできても人間が解決できるような問題ではありません。
例えれば、ソビエト連邦という大きな社会実験の結末を挙げることも的外れではないでしょう。
それ以前のロシア帝国は、永く大半の人々が「農奴」の身分にあり、わずか2%の貴族層が豊かな生活を享受していたと言われます。
元来は、この巨大な不公正を正すという大志を標榜した社会主義への転換が結果として残したものといえば、やはりソビエト社会の2%に当たる特権富裕層「ノーメンクラトゥーラ」であったというのは大きな皮肉です。結局のところ、人々が入れ替わっただけであり、無数の血が流され民が飢えに倒れていった酬いがこれであったのです。
その結末をもたらしたのは、やはり人間自身に巣食う利己心、つまり『罪』でしょう。人自身の問題が解決されないのに、社会問題の解決もあり得ないということです。

『罪』ある以上、人は自ら貧困も争いもない社会を作ることができません。
むしろ人間社会は、その『罪』の不倫理性によって互いを害さないように、法律を定め、権力によってそれを施行しないでは居られず、人と人との間には法と権力によって垣が巡らされ、力に支配されなくては生きてゆけず、互いの貪欲の中で生きるために労役から逃れられません。これが『この世』であり、『罪』ある限り人はけっして自力で争い合うこの世界から出られません。
世界的な名声を誇る知者たちが「どうして戦争がなくならないか」を額を寄せて論議するまでもなく、答えはすでに新約聖書のヤコブ書にあったのです。
『あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、貪るが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして悪い求め方をするからだ。』(ヤコブ4:1-3)

もちろんすべての「欲」が悪いのではなく、他者を押しのける「貪欲」、『悪い求め方』に問題があるのです。
これが「倫理問題」というものであり、「人が神を含む他者とどのように生きてゆくべきかをわきまえていない」ところに問題があるのです。生き方をわきまえない者が永遠の命を得てよいわけもありません。

それで、人は空しい『この世』から出ることができません。それこそは神に任命されたキリストが扱うべき難題だからです。
しかし、神は空しい『この世』に生きている人々が俗世にまみれたままになって、まったく本来の栄光を忘れないようにモーセの律法に中に一つの習慣を守るよう命じていました。
それが『安息日』の取り決めであり、これは十戒の第四戒に挙げられているので、偽証や殺人や姦淫を犯すべからずの前に位置するほどに重視されるべきものと言えます。しかも十戒の中で最も長い文となってもいるのです。(出エジプト20:8-11)

さて、モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの数百万の大集団には、何もない荒野に在って、毎朝『マナ』と呼ばれる奇跡の食物が天から降ることで生命を支えられていました。それも数か月や数年の間ではなく、彼らが荒野を巡った四十年もの間、神は彼らにこの食物を与えて彼らの大群衆をずっと養ったのです。
ですから、イエスが『明日を飢えると患うな、天の鳥を見よ・・野のユリを見よ』と言われた背後には、これほどの神の供給力が有ってのことだったのです。(マタイ6:25-29)

毎朝人々は自分の必要に応じてマナを集めるのですが、『多く取った者にも多過ぎず、少なく取った者にも少な過ぎなかった』とあります。こうして彼らは、生きてゆくのに煩うことから解放されていました。何もない荒野に居たにも関わらずです。(出エジプト16:18)
しかし、七日に一度はマナの降らない日がありました。その前日に二日分が必ず降ったのです。マナを集めない日が『安息日』であり、人は生業を行ってはならない、その場所に留まれとも命じられていたのです。人々は家族と安楽に過ごすことができたでしょう。

このことから、人は俗な生活にまったく没頭してしまわずに生きてゆけるよう神は取り計らわれること、また、人が俗と聖とを見分け、極端な競争社会に巻き込まれ、まったく奴隷環境に陥り、「エジプトからの道」を引き返してしまわないことを知るべきであったのです。イスラエルはエジプトを出て自由の民となったからです。

その自由を表すものが『安息日』であり、これが後の世にキリスト教を介して週に一度の休日をとる習慣として広まりました。
しかし、元々の『安息日』の律法から、イスラエルの間では、ただ『仕事をしてはならない』という命令が重視される傾向があり、それは今日のユダヤ教徒が細心の注意を払って仕事と思える作業をしないようにと、交通機関がストップし、台所で新たな火をつけないようにし、エレベーターのボタンさえ押さないようにその日だけは各階停止になるといった厳格さが神の意志であるかのようにされ兼ねないものともなってきました。
やはり、キリストの時代の律法学者らは、『安息日』を守るために律法より厳しい規則を39種類も考案し、それらには更に無数の付則が有って、それらが書かれたタルムードを読んでいるだけで頭が痛くなるほどです。

キリスト教の中でも、宗派によってはユダヤ教徒に同じく土曜日が本来の『安息日』であるのだからと、日曜日を休む一般社会との軋轢を避けるために、わざわざ自前の会社や学校を設立してまで土曜安息を貫くところもあります。
ですが、それらが『安息』の神意かと言えば、あまり自由であるようには見えません。実際、「安息日には、平日よりも気を遣う」との現代ユダヤ人の本音がそのことを端的に表していることでしょう。

一方で、十戒の『安息日』の項では『安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ』と命じられています。イスラエルが捕囚の憂き目に遭ったのも『安息日を汚した』ことが重い原因であったと神は言われました。(出エジプト20:8/エゼキエル20:16)
『聖なるものとする』事と、『なんの仕事もしてはならない』事との関係は十戒からは特に読み取れるところはないので、「日曜日には教会に行くこと」がその休みを聖なるものにすると単純に捉えられ兼ねないところがあります。

ですが、『この世』の隷属からしばし離れるという観点から『安息日』を見るなら、それは『マナ』の供給者であった神に頼り、この世の「俗な生き方」が本来の人が歩むべき道ではないのであり、この世の隷属状態から抜け出せず、仕事だけのあくせくとした生き方に埋没して、人間に本来備わっている『神の象り』、つまり「聖なる姿」をまるで忘れてしまうことのないようにとの教訓を読み取ることができるのです。

人は「生きるために生きる」のではない想いに在って生活する、つまり、殺伐としたこの世のありさまのままに生きれば、その人は外も中もすっかり悪魔が導いたこの世界の精神に染まってしまうところを、『安息日』は人としての尊厳をもって生きるよう促しているのです。それが『安息日を聖なるものとせよ』との戒めの本意なのでしょう。その真髄はマタイ福音書第五章以降に記されたキリストの言葉「山上の垂訓」に見事に語られている、晴れやかな自由、信仰により煩いから離れた思いの状態に表れています。そこでイエスは『あなたが思い煩ったからと言って、自分の寿命を1キュビトでも加えられるだろうか』と言われるのです。(マタイ6:27)

一方で、古代シュメール以来続いてきた『この世』は、都市生活の交換制度の煩雑さに追われる生活、卑近な物事の流行など、俗な事柄を人々に強いてきています。
その点で、都市に住まず、家畜を放牧して暮らすアブラハムに話しかけた方は聖なる神であり、遊牧生活がもたらす自由と深い思惟を巡らせるアブラハムの環境は、創造者が『荒野の神』として現れた理由を示唆するものと言えます。

後代に使徒パウロは『アブラハムは真の土台を持つ都市を待ち望んだのであり、その建設者は神である』と記しました。アブラハムはニムロデの諸都市の内のウル近郊から『約束の地』パレスチナに向かいましたが、彼自身には『足の幅ほどの地も与えられなかった』ともあります。それでも、アブラハムにはニムロデの俗なるバベルではない、気高い都市『新しいエルサレム』を待ち望むべき神の約束があったのです。(ヘブライ11:10/黙示録21:1-2)

これはまさに、現代に生きるわたしたちも望むべき新たな文明、『神の王国』といえるでしょう。
それは永く続いた『この世』の空しい労役の果てに訪れるキリストによる解放であり、聖なる神を『父』と呼ばれるイエスが、自らを指して『人の子は安息日の主なのだ』と言われた通り、『神の王国』は人々が思い描いても果たされる事のなかった、いやそれ以上の優れた社会の現れとなるでしょう。(マタイ12:8)

一方で、この世の俗を離れて生きることは、毎週休暇を取る事とは別の問題ですし、「安息を聖なるものとする」のは人にとって毎日表すべき特質なのであって、もちろん、どの曜日を休むかということでも、何が禁じられた仕事なのかを区別することでもありません。『この世』に埋没して空しい人生で終わる必要などありません。
むしろ『マナ』を与えた神の全能性に頼り、自分を生かしているのが自分だけであるかのようにせず、不信仰にあくせくと生きるのを止め、自らの理念や愛を捨ててまで『この世の奴隷』とならないことを「安息」が指すのであれば、その人は神に頼ることで「俗」を離れ『安息日を聖なるものとする』ことができるのです。

『この世』とは、そこまで人を追い込んで奴隷にしようとする脅しがあちこちに潜んでいる汚れた場というべきです。
懸命に働いても暮らし向きが一向に改善しないとすれば、それはおそらく『この世』の巧妙な仕掛けに捕らえられ、隷属させられている危険性が小さくないかも知れません。しかし、神に頼り『安息』の自由を求める道は開かれているのです。(マタイ4:4)

場合によっては、隷属させようとの謀略が思い掛けず「宗教」という方向から仕掛けられる事もあり得ないことではなく、人の心を支配しようとすることに於いて、宗教ほど奴隷化に効果を上げるものもありません。
いずれにせよ、『神の象り』汚すような悪魔的で理不尽な要求がされるとき、その人はその手を止め「安息の聖」を守ることができることでしょうか。その各人が、その手を休めるだけの決意が神への信仰に応じたものとなるにしても、いくらかでも隷属から離れる事はその人にとって「聖なる安息」と言えましょう。
人は『エジプトに戻る』べきではなく、モーセによってエジプト脱出を行わせた全能の神は、いずれキリストを用いて隷属の『この世』からの人類の出立を導かれることでしょう。(申命記17:16)





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