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メシア=キリストの現れ

2020.10.12 (Mon)


時は西暦29年、パレスチナは北部をローマ帝国の傀儡であるヘロデ王家の支配を受け、南部のユダヤは総督を戴くローマ直轄領とされていました。(ルカ3:1-3)

しかし、この年になると永い神の沈黙が破られることになります。
ユダの荒野に古代の預言者を思わせる姿の者が現れ、ユダヤの民に『悔い改めのバプテスマ』を施し始めたのです。
バプテスマとは「物を浸すこと」を意味しますが、それは洗い清めの意味も持ちます。
その預言者風の人物は、約束の地を南北に流れるヨルダン川で、水の中に人を浸す儀礼をユダヤ人に行い始めたのですが、こうしてイスラエルの人々は、旧約聖書最後の預言者マラキ以来ついに新たな預言者の現れを目にしました。(マタイ3:1-6)

この時代のユダヤ人には『悔い改め』を必要とする、律法契約についての罪の意識があったのです。
『捕囚』から戻って、神殿も再建し崇拝も再開できたのですが、十戒の石板を入れた律法契約の証しである『契約の箱』は遂に戻らなかったのです。そのため、イスラエルと神との契約は不安定なものとなっていました。
やはり、神は契約にあったはずの民に向けて多くの糾弾の言葉を旧約聖書に中で語っていたのです。
そこで預言者の姿をした者が、ヨルダン川で人々に『悔い改めの水のバプテスマ』を施し始めると、多くのユダヤ人が神との関係の修復を求めてバプテスマを受けようと集まって来るのでした。

その荒野に現れた預言者は、神殿に仕える祭司の息子で名をヨハネと言いましたので「バプテストのヨハネ」と呼ばれるようになります。
一方でユダヤ人は、旧約聖書が告げながら四百年にもわたって預言者が現れなかったので、荒野に現れたヨハネが『約束のメシア』ではないかと色めき立ちます。
しかし、当のヨハネはそれを否定して『わたしは水であなた方にバプテスマを施すが、わたしの後に来られる方は聖霊と火とであなた方にバプテスマを施すであろう。』と話し、自分がメシアの前に登場する使者であり、民の心を整える役割を持っていることを知らせます。

しばらくすると、そこにイエスという30歳ほどで北部のガリラヤ地方の田舎、ナザレ村出身の大工の長男が訪ねてきます。
そしてヨハネから水のバプテスマを受けることを申し出ました。
この人物がただならぬ方であることを察知したヨハネは、『わたしの方こそあなたからバプテスマを施していただく必要があるものです』と言うのですが、彼は『今はそうしてもらいたい。それが義に適う事を果たすものだから。』と言われ、ヨハネから水のバプテスマを受けられました。

すると、『聖霊が鳩の形をとってイエスの上に留まり、また天から声があって「これはわたしの子、わたしの認める者である」と語られた』とあります。(マタイ3:16-17)
ここに於いて、遂に『約束のメシア』、『神の独り子』が歴史の舞台に登場したのでした。
天からの声が告げるように、この人は神の子であり、神の最初の被造物であることを示す『初子』であり、天使がそうであるように、神と同じく霊の存在者であったものを、神が人間社会に遣わすに当たり、レヴィ族の血を引く処女マリアの胎に移され、その夫となったユダ族でダヴィドの王統の血筋に当たるヨセフの子として世に来られたのであり、神が自ら創造した唯一の存在であるために『神の独り子』とも呼ばれています。

旧約聖書では、メシアのこの素性ははっきりとは明かされていませんでしたが、ユダヤ人には旧約聖書の中に神以外に創造に参加している『知恵』(ホクマー)と呼ばれる何者かが描かれていることに気付いてはいたのですが、それを彼らは「ホクマーの謎」としてはいました。
ですが、新約聖書を記した使徒たちはこう明かしています。
『御子は、見えない神の姿であり、すべての創造に先立つ初子である』『御子は万物よりも先におられ、万物は御子によって創られた』。(コロサイ1:15・17)
『神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』(ヨハネ3:16)
人類の救い主となるこの人が、アダムの子孫であることはなく、「人」以上の存在者である必要があったのです。
神の創造の意志は尽くこの存在者によって実現したからでしょう。この方が天界に在ったときには『神の言葉』とも呼ばれていました。
『こうして言葉は肉となってわたしたちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子の栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』(ヨハネ1:14)

バプテスマを受けたイエスは霊に導かれて荒野に入り、そこで40日40夜の断食を経てから悪魔の誘惑を三度退け、いよいよその活動を始めることになります。
この前後に、バプテストを通してメシアの到来に気付いた二人の平民が居ました。
この二人はガリラヤの湖の漁師仲間であり、一人はアンデレ、もう一人の若者はゼベダイの子のヨハネと言いました。
この二人は平民でありながら、神の意志に深い関心を寄せ、四百年の神の沈黙にも関わらずメシアの現れを心待ちにしていたのでしょう。バプテストが現れると、彼らはその弟子となっていたのでメシアの現れにいち早く気付いたのです。

二人の内のアンデレは、自分の兄弟シモンのところに行くと『わたしたちはメシアを見つけた!』と喜び、このシモンもイエスの宿に連れてゆきます。
そこでイエスは、このシモンに「岩」というあだ名を付けて、以後その名で彼を呼ぶのでした。
この「岩」とはアラム語で「キーファ」、ギリシア語で「ペトロス」、つまり、これがキリストと後に「使徒ペテロ」とされる漁師の最初の出会いであったのです。

そしてイエスは『神の王国は近づいた』とイスラエルの中で宣明し始め、あらゆる病気を癒し、悪霊に憑依されている人々を解放して『約束の地』パレスチナを巡り、ユダヤの人に希望の音信を伝え始めます。その伝道の主題である『神の王国』とは、偉大な王メシアの世界支配であり、ローマとヘロデ家に支配されていた多くのユダヤ人の希望でもあったのです。

キリストの教えが『福音』と呼ばれるのも、その教えに幸福な知らせが込められているからです。彼らは律法契約不履行の罪から解かれる道が開かれようとしていたのであり、いまや『新しい契約』が始まろうとしていたのです。
旧約聖書のエレミヤの預言書はこう予告していました。『見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る』。『この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだようなものではない』。『来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、とYHWHは言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの想いの中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』(エレミヤ31:31-33)

このように『新しい契約』は律法契約のような多くの法律で成り立つようなものとはなりません。
それは『心に記される』もの、つまり『愛』を教えるものとなることが示唆されていましたが、そこに於いて神の崇拝は大きな変革を遂げようとしていたのです。

そして奇跡を行う人、ナザレから来られた方イエスの噂はすぐに広まり、多くの人々がその許へと集まってくるのでした。
しかし、癒しを受けてイエスがメシアであることを信じた人々に、イエスはそのことを語らないように言われます。それはイエスがメシアであることを、ユダヤ人の一人一人にそれぞれの信仰によって見出すことを求められたということを意味します。


旧約聖書の預言では、メシアは北部ガリラヤのナザレなどではなく、エルサレムに近いベツレヘムから現れることになっていました。(ミカ5:2)
まずそこで、イエスを神から遣わされた人として認めたくないユダヤ人には、そうする逃げ道が与えられました。
ですから、メシアはイスラエルの血統にある者すべてに自動的に与えられたのではありません。(マタイ3:9)
メシアをそれと見分けることは『信仰』という「心の目」で各自が行うことを神は求めたのであり、それによって人は、その心がどのようなものであるかを示すことになったのです。

しかし、イエスはダヴィドの王統を継承する両親を持ち、その家系はベツレヘム由来でありましたので、ローマ帝国が人口調査を行い、ユダヤの民がそれぞれ故郷で登録するよう条例が出された折に、その父となるヨセフと既にイエスを身籠っていたマリアとが連れ立ってベツレヘムに宿泊していたまさにそのときイエスが生まれていました。
その後、ユダヤを支配していたエドム人のヘロデ大王は、メシアがベツレヘムで生まれたとの悪霊からの情報を、東方から来た占星術者らから知らされ、自分の王権の危機を感じてベツレヘムの二歳以下の男児を抹殺させるという暴挙に出ました。しかし、その晩に父親のヨセフに天使が急を告げたので、彼はマリアとイエスを連れてエジプトに難を逃れるのでした。(マタイ2:13-18)

ほどなくヘロデ大王が崩御した事を聞いたヨセフはパレスチナに戻るのですが、王位を継いだヘロデ・アルケラオスがユダヤ人虐殺を行ったことも耳に入れていたらしく、その暴君を恐れてベツレヘムのある南部のユダヤではなく、北部ガリラヤの目立たないナザレ村に住んで大工を営み、そこでイエスは弟たち妹たちと共に成長してゆきました。(マタイ2:19-23)
これらの一連の事情があって、メシアとしての活動を始めたイエスは『ナザレ人』とも呼ばれていましたから、旧約の預言の言葉通りにメシアは必ずベツレヘムから来ると信じた人々には、聖書の文字通りにメシアを迎えるのではなく、信仰によって見分ける必要が生じ、これは彼らにとって予想外の「罠」ともなったのです。(ヨハネ7:48-52)


一方で、イエスが『わたしが父の名によって行っている業が、わたしについて証しをしている』と言われたように、奇跡の業を行わせた神は、イエスがメシアであることを証し続けました。
『神を信じない者は、神が御子についてなさった証しを信じず、神を偽り者にしているのである』ともあるように、神が当時のユダヤ人に求めたものは、律法を厳密に守ることではなく、メシアへの信仰であったのです。(ヨハネ第一5:10)

しかし、ナザレ人イエスの現れに対し、ユダヤは宗教指導者らを中心にメシアとして受け入れることを拒絶し、魔術を行い『民を惑わす』騙り者としてローマ総督に処刑させてしまいます。
特に、律法に細かい無数の規則を付け加えていた『律法学者』と、それに盲従する『パリサイ派』、それに神殿の崇拝を取り仕切っていた『祭司長派』らは、ナザレ人イエスが自分たちの規則に従わず、かえって自分たちの傲慢さが暴露されるのを聞いて、イエスに強く反対し、激しい敵意を燃やすようになりました。
その動機といえば、自分たちは優越感に浸っても、民が癒されることに喜べない利己心にあり、神の奇跡に価値観を持てない不信仰の結果です。まさしく、彼らは『神を偽りもの』としていたと言うほかありません。

イエスを殺害しようとしていた彼らに向かって、イエスは『あなたがたはその父である悪魔からのものだ』と語り、『ヘビよ!マムシの裔よ!』ともイエスは言われました。また、バプテストのヨハネも『マムシの裔よ!』と呼んで、宗教家らにはバプテスマを受けさせませんでした。(ヨハネ8:44/マタイ23:33/ルカ7:30)
ですから、ここに『ヘビの裔』が『女の裔』の『かかとを砕く』ということの意味がはっきりと見えています。言うまでもなく、メシア殺害がそれでありました。しかし、イエスは復活を受けることになるので、致命傷とはなりません。

『ヘビの裔』とされた彼らには、逆に「律法を守っている」という強い自負があり、それができない人は異邦人であろうと、同胞のユダヤ人であろうと見下し、また避けてもいました。
ですが、イエスは同胞の下層民に寄り添い、彼らを蔑視しません。むしろ『義人ではなく罪人を招くために来た』とさえ言われるのです。(マルコ2:16-17)
そこが律法を守ることによって『義』を得ようと努める「ユダヤ教」と、一重にメシアの救いに『信仰』を働かせる「キリスト教」の分かれ目ともなります。(フィリピ3:9)

それはかつてエレミヤが『この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだようなものではない』と預言した言葉にも表れています。(エレミヤ31:31)
さらに、後代のキリストの使徒パウロもこう述べています。
『イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しなかった。イスラエルは信仰によってではなく、行いによって義を得るかのように考えたからである』。(ローマ9:31-32)

では『律法』は、何のために与えられたのでしょうか。イスラエルはそれを守る事で神の格別な選民『王なる祭司、聖なる国民』とされるはずではなかったのでしょうか。(出エジプト19:5-6)
この問いについて、元はパリサイ派で律法を熟知したパウロはこう答えます。
『では、律法とはいったいなぜ与えられたのか。律法とは違犯を明らかにするために付け加えられたものであり、約束を与えられたあの子孫が来られるときまでのものである』。(ガラテア3:19)
『すべて律法の述べるところは、律法下にいる人々に向けられたものである。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するためである。なぜなら、律法を行うことでは誰も神の前に義とされないのであり、律法によっては、ただ罪の自覚が生じるだけなのだ。』(ローマ3:19-20)

つまり、神はかつてイスラエル民族が増えて国家となるに際し、神の意に沿う法律を与えて、必要とされた国家の秩序を民に備え、同時に神の崇拝方法も定めましたが、その国家の法律、『モーセの律法』を通して、同時に『違犯を明らかにする』、つまりアダム由来の『罪』のために、イスラエルであっても神の求める基準に届かない事を通して、すべての人に『違犯』があることをはっきりと示し、そうしてあらゆる人が有罪であることに於いて『すべての人の口がふさがれ』『神の裁きに服す』必要があるという厳しい現実に目を向けされるという目的があったというのです。この『罪』また『違犯』を赦すのが、メシア=キリストに与えられた大きな役割なのです。

それですから「ユダヤ教」を超える「キリスト教」では、もはや律法を守る務めからは解かれ、イスラエルに『義』をもたらすべき役割を律法が終え、「行いの業」ではなく「メシアへの信仰」によって神の前に『義』を得る道がイエスによって拓かれようとしていました。
そこで使徒パウロはこう述べます。
『人は律法の行いではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる』。(ガラテア2:16)

その一方で、イエスは『わたしが律法や預言者を廃止するために来たと思ってはならない。』また『これらの最も小さな掟を一つでも破り、そのように人に教える者は、天の王国で最も小さい者と呼ばれるであろう。』と言われました。(マタイ5:17・19)
それでは、イエスはその弟子たちに律法を守り続けるよう教えたということなのでしょうか。
イエスは同じ段落でこのようにも教えていたのです。『わたしは律法を廃止するためではなく、完成するために来た。律法のすべての文字の一点一画が成就しないよりは、天地が滅び去る方が先である。』(マタイ5:17-18)

これらのイエスの言葉と、使徒パウロの『キリストは律法の終わりである』との記述とは、まるで矛盾しているかのようです。(ローマ10:4)
しかし、新約聖書でユダヤ人に宛てて書かれた「ヘブライ人への手紙」には、この事情を示唆する言葉が次のように書かれています。
『イエスは死の苦しみのゆえに「栄光と栄誉の冠を授けられた」。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのだ。神は多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされた』。(ヘブライ2:9-10)
ですから、キリストの犠牲を『罪の無い』、完全に確かなものと宣言したことに於いて、律法は不滅でなくてはならず、『すべての文字の一点一画』も揺るぎないものであるべきなのです。
この理由で、もはや人が律法を守る真似をして優越感に浸るようなことをすれば、それはキリストの犠牲の価値を卑しめるのであり、むしろ、誰にも巣食う『罪』を悔いて一重にキリストの贖いに頼るべきなのです。

これはイエスがアダムの子孫のために犠牲の死を遂げられることにより、もとよりアダムの子孫ではなく『罪のない方』であったイエスが、さらにモーセの律法をただ一人全うされてすべての言葉を成就し、そうして死に至るまで試され、遂に神の前に義の完全さに到達されたことを指し示しています。ですから、マリアがヨセフと結婚する前に聖霊によってイエスを身籠る、つまりアダムの子孫ではなくして誕生するための「処女懐胎」は単なる伝説では済みません。()

そのため新約聖書はイエスを『最後のアダム』とし、『一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得る』と述べます。アダムの罪はイエスの忠節によって置き換えられ、そうして、アダムに代わってイエスが人類の『とこしえの父』となり、その子孫に永遠の命を与えることになるのです。(コリント第一15:45/イザヤ9:6)
イエスはアダムの子孫のために『罪の酬い』を自らの身の上に受けることで犠牲の死を遂げられ、そうして『罪の贖い(あがない)』、アダムの子孫の赦しを備えたのです。(ローマ5:18)

この人類全体への『罪の贖い』は、旧約聖書と律法契約に留まるユダヤ教にはない、キリスト教だけの教えとなりました。
『女の裔』という神の奥義の開示はキリストの現れという大きな節目を迎えて、更に進展しようとしていたのです。





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