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神の人類救出の手段 『女の裔』

2020.10.08 (Thu)



アダムとエヴァが『罪』に陥ったことが明らかになったとき、神は二人の子孫への救いの手立てを早速に講じ、その場で直ちに予告されました。

それが『女の裔』と呼ばれるものでしたが、この創世記の場面では謎の言葉でしかありません。
『わたしはお前と女の間に、お前の子孫と女の子孫の間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く』。(創世記3:15)

これらは、神がヘビに向かって宣告した処置の言葉です。
分かりやすい創世記の文章の中で、この句ほど意味の分からない言葉もないほどですが、実は、この一言の中に長く続く後の聖書の全容が込められているのです。

まず、神はヘビと女との間を敵対関係とします。そしてヘビの子孫と女の子孫についてもそのようです。
もちろん『彼は』というのは女ではなく『女の子孫』を指していますが、その女の子孫、つまり「裔」(すえ)はヘビの頭を砕いて致命傷を与えることになり、ヘビの方もその裔のかかとを砕くことになると言われるのです。

これは象徴的な劇として語られた隠喩です。
ヘビがただのヘビを指していないように、女とその裔もエヴァとその息子を指すということでもありません。
この句は、その後の永い歴史を通して起こるところの、人類にとって最重要な物事の推移を一言で語っていたことが後の聖書の記述を通して徐々に明らかにされてゆくのです。

特にヘビで表される悪魔に致命傷を加える『女の裔』とは何者なのか。
また、悪魔もその何者かに傷を負わせることは何を指しているのか。
そして、これらの事の結末は何を意味しているのか。

これらがまるで推理小説でもあるかのように、聖書の中で辿られてゆき、次第に明らかにされながら多くの文章が書き連ねられてゆきます。
その結果、二千ページにもなる聖書ですが、その全巻を貫通する背骨のような『女の裔』の理解は後に『奥義』(ミュステーリオン)と呼ばれ、絶えることなく聖書の各書によって伝え継がれることになります。

ここでは、この『女の裔』を追って聖書の全体を短くまとめて以下に説明します。
もちろん、わずかな文ですべての重要な物事を説明できるわけではありませんが、聖書の概要を大掴みにすることは、まず聖書の全体像を把握することになり、聖書の各部分の背景を知り、理解を深めることに於いてたいへん有益です。

アダムとエヴァは、エデンの園を追われた後での自給自足の生活の中で息子たちと娘たちの親となりました。
息子には、カイン、アベル、エツの名が創世記に挙げられ、その他に娘らがいたことも記されています。
これらの子らからこの世の基礎が置かれて地に広がり、特にカインは最初の町を作ったとされます。

失楽園後に社会が広が類と共に多様な職業に携わる人々が現れはじめます。
その一方で、人間たちに巣食う『罪』の影響から悪事も横行するようになり、それは創造の神の目に許し難いまでになってしましました。

それを煽っていたのが、悪魔の誘惑に屈した堕天使らであり、彼らは人間の娘たちの美しいので、化肉して人々の間で生活し、好む娘を娶っていたことを聖書は告げています。(創世記6:1-2)
これが罪である事については、新約聖書にも『自分たちの持ち場を守ろうとせず、その居るべき所を捨て去った天使たち』について書かれている通りです。(ユダ6)

この人間と堕天使の交配から生まれ出た子らは、やはり普通の人間とはならず、異様に大きな体を持った人、「ネフィリム」と呼ばれ権力者となり、その父親たちと共に社会を大いに乱すものとなっていました。
そこで神は、全地を覆い尽くす大洪水を起こす決意を固め、ただ義人ノアとその家族8人には巨大な船を建造させ、地上の動物をつがいにして乗船させ、その災いを通過させます。

地上に来ていた堕天使らは、大洪水を逃れて天に戻りますが、元の立場に就くことは許されず、以後は『定めない永い時にわたり拘禁されたまま、暗やみの中に閉じ込められた』状態に留置され、化肉して人間社会に生活することはできなくされています。(ペテロ第二2:4)

それでも心霊術で人に意志を伝えたり、様々な幻を見せたり、不思議を行っては人々に影響を及ぼすことがあります。聖書が一貫して心霊術を禁じ、これらの堕天使らと通じることを戒めているのには、このようなわけがあるのです。(申命記18:10-11/ペテロ第一3:18-20)

大洪水が終わると、ノアと三人の息子とその嫁たちから再び人間社会が広がってゆき、やがて人々はメソポタミア南部の大平原で灌漑農耕を行って定住するようになります。いくつもの城市を建設され、俗世という『この世のありさま』が形成される中で、人々は堕天使らとのつながりを求めて高い塔を建てるようになってゆきました。(創世記11:1-4)
そこからは、やがて神殿と偶像とが現れ始めます。その偶像崇拝は創造の神へのものではないのです。(コリント第一10:20)
その教えでは「死後の世界」が教えられ、これら堕天使は死者を装う『悪霊』と化し、エデンのヘビの言った『あなたがたは死ぬことはない』という偽りの宗教がこうして広まってゆきます。またそれらの『悪霊』は「神」となって人々からの敬意と崇拝も望み、多様な神々を興すことにもなります。

その一方で、ノアから12代目の人アブラムは、父の代から俗世を離れた遊牧民であったと考えられますが、この人に神は語りかけ、彼の子孫に『乳と蜜の流れる地』を所有させるので、そこに移住するように求めます。(創世記12:1-3/出エジプト3:8)
彼には子が無かったのですが、この神の言葉を信じ、自分の妻サライと兄の子ロトを伴って、大河ユーフラテスを渡り、神が約束された地パレスチナで天幕生活を続けます。

妻のサライは石女で、ずっと子に恵まれずにいたので、アブラムは甥のロトに神の約束を継がせるつもりでしたが、神は高齢の妻がアブラムに男子を産むので、夫婦はそれぞれアブラハムとサラと名乗るように言われます。その翌年、奇跡的な出産が起こり、老夫婦はイサクという独り子を得ることになりました。その子が生まれるまでの間に、神はアブラハムと交渉する理由を何度か語られていました。彼との契約には『地の諸国民がアブラハムの子孫によって祝福を得る』という神の目的が関わっていたのです。ここにエデンで語られた『女の裔』の奥義についての遠い将来に起こる結末が暗示されています。(創世記12:1-3・18:18・22:18)

ですが、しばらく幸福に過ごすアブラハムに、神はその独り子イサクを犠牲として捧げることを突然に求めます。
アブラハムはそれまでの神との交友から、そのイサクが奇跡の子であること、また、このイサクを通して神が世界の人類の祝福となる子孫をもたらすという意志を神が持っていることを理解しています。ですから後代の新約聖書に『「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたので、彼は、神が死人の中からでもよみがえらせるだろうと信じていた』と書かれている通りに彼は神の善意を疑いません。(ヘブライ11:18-19)
イサクを捧げることを厭わないアブラハムが短刀をイサクに向けたところで、神は彼を止め、それまで契約であったアブラハムの子孫との事柄が、これほどの彼の忠節さを通して、神が自らを指して誓う『約束』へと変わり、それは覆されることのない事とされたのでした。(ヘブライ6:13)

実に、神も人類のために、自らの『独り子』のような天の存在者を犠牲としていつの日にか捧げようとしていましたので、神はアブラハムを『我が友』と呼ぶようになります。それは互いのために最も貴重なものを差し出しあう仲間として、神と人というほどにかけ離れた存在でありながら、ついにそれを超えた友情に達したからです。
こうして『女の裔』の行方は、アブラハムの子孫に確定されることになりました。

その独り息子イサクからエサウとヤコブが生まれ、それぞれエドム民族とイスラエル民族の祖となりますが、このイスラエルから『女の裔』を生み出す約束が受け継がれることになってゆきます。
アブラハムの孫であるヤコブは別名イスラエルとも呼ばれるようになり、その12人の息子たちからイスラエル12部族が構成され、彼らはエジプトで四百年を過ごす間に一国家に匹敵する人数に増えてゆきました。
しかし、エジプトのファラオは彼らの増加に脅威を感じ、イスラエルを奴隷として酷使していました。そこに登場するのが預言者モーセであったのです。

彼はイスラエルを自力で救い出そうとして一度失敗し、エジプトから逃れてシナイ半島奥地で遊牧生活をしていたケニ人のレウエルの保護を受け、その長女の婿となって子らにも恵まれ、八十の高齢となって、そのまま生涯を終えるかに思われたところ、シナイのホレブの山麓で神からイスラエルを救出するための召命をモーセは受けるのでした。
このときに神は自ら[יהוה]と名乗られ、諸国の神々の中にあって明確に識別できるようにされました。しかし、キリストの後の世代が過ぎ去ってから、これが何と読まれたのか、今に至るまで諸説はあっても分からなくなっています。(本書では、この神名を相当する英字「YHWH」で記します)

さて、神YHWHの命を受けたモーセは、兄のアロンの助けを得てエジプトに乗り込みファラオの前に立つと、三日の間でもイスラエルを国外に出し、その神を崇拝させるよう要求しますが、労働力を失いたくないファラオはそれを認めません。モーセとアロンは十度ファラオの前に立ち、要求を繰り返しては神YHWHの奇跡の災いを下してゆきます。しかし、ファラオは頑なで、エジプトは神の災いを受けて荒廃してゆき、遂に第十の災いによって、エジプトは人も獣もその長子を一晩の内に失うことになり、皇太子を失ったファラオは遂にイスラエルをまったく解放することに同意します。
ですがファラオはすぐに心変わりし、イスラエルを追撃して紅海の岸辺に追い込みますが、神は海の水を二つに分け、イスラエルを対岸に逃し、追ってきたエジプト軍の上に海水を戻して沈めてしまいました。

こうしてエジプトの苦役を後にしたイスラエルはホレブの山裾に集合し、アブラハムの子孫として『約束の地』を受け継ぐ前に、モーセを仲介者として神との契約関係に入ります。
それが『律法契約』であり、イスラエルに国家としての秩序を与え、神YHWHを崇拝するために613箇条の法律を与えられます。その最初の十か条は、特に神自ら二枚の岩に刻み込んでモーセに手渡したので「十戒」と呼ばれ、律法契約の『証し』となり、金で覆われた『契約の箱』に収められるものとなります。

そして、この契約には次のような到達目標があることを神は明らかにされています。
『もし、あなたがたがわたしの声に聞き従い、この契約を守るならば、あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる』(出エジプト19:5-6)
ここにも『アブラハムの裔』また『女の裔』の働きが暗示されています。地の諸国民に祝福を得させるところの神の祭司としての働きを行う民が、このイスラエルとの契約の中から現れるということであり、それはヘビの影響を終わらせ、人間を神に立ち返らせる民、格別な「神の選民」となるのです。

そして律法は不定の後代に、モーセのように偉大な預言者が到来することも告げてこう記されていました。
『わたしは、その口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じるすべてのことを彼らに告げるであろう。もしそれに聞き従わない者があるならば、わたしはその者に言い開きを求める。』(申命記18:17-18)
それから後、イスラエルには度々に将来に到来するという『偉大な預言者』についての情報を徐々に知らされることになり、やがて民はその人物を『約束のメシア』と呼ぶようになります。

やがて、イスラエルの国家は首都をエルサレムに置いて王制を採るようになり、特にユダ族からのダヴィドの王統は定めない時に至るものとされ、その子孫から世界を統べ治める偉大な王が現れることが神によって定められます。そこで『メシア』には世界の王ともなることが知らされます。
『メシア』とは古代の習慣として、王や祭司などの重要な役職に任命されるに当たり、頭に香油を注がれる儀礼からきた言葉で、「油注がれた者」つまり「任命された者」を意味し、ギリシア語では「クリストス」となります。つまりキリストのことです。

しかし、イスラエル民族全体としては、この契約を大半の期間に於いて守らずに過ごします。神は預言者たちを何人も遣わして正そうとしますが、彼らは神の前に罪を重ねて、遂に『約束の地』から追われ、世界覇権国となったアッシリアとバビロニアに征服されたうえに強制移住の「捕囚」と呼ばれる時期を余儀なくされ、次の覇権国家ペルシア帝国に解放されるまで異国で過ごすという処罰を受けます。
特に、エルサレムに建立されていた神YHWHの神殿が破壊されてからは、律法をその通りに行うことは出来なくなりました。律法の三分の一ほどは崇拝に関する法律であったからです。

しかし、ペルシアがアッシリアとバビロニアの後にその領域を支配するようになると、その新しい帝国では諸国の捕囚民を解放する政策がとられ、特にエルサレムには神殿を再建するようにとの勅令までもが下されます。
こうして、神殿が破壊されてから70年目にエルサレム神殿が再建され、これは「第二神殿」とも呼ばれ、翌春からは律法に従った崇拝が再開される運びとなったのです。
この帰還事業が12部族でもユダ族が中心となって行われたことから、以後この民族は「ユダヤ人」とも呼ばれ、彼らの間ではヘブライ語のほかにペルシアの公用語となったアラム語がよく話されるようになります。

その後のユダヤ人は、律法を守ることに注意を集中するようになりましたが、それによって以前とは逆の極端に傾くことを許してしまいました。
つまり、律法を守ろうとするあまりに、律法より厳しく細かい無数の規則を作って、それらが守られれば律法も当然守ったことになると思い込んだのです。しかし、これは律法に込められた神の意図を捻じ曲げてしまう事になりました。
それらの規則を考え出したのが新約聖書にも登場する『律法学者』であり、その細則に熱心に従おうとしたのが『パリサイ派』の人々でしたが、これら人々は後に現れるキリストと真正面から衝突することになるのです。

旧約聖書の最後の預言書であるマラキは、『約束のメシア』をユダヤ人がどれほど渇望していても、それが必ずしも祝福とならないことを警告してこう語ります。
『だが、彼の来る日に誰が立っていられようか。彼の現れるとき誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の洗剤のようだ。』(マラキ3:2)

そして、このマラキ書を最後に旧約聖書は二度と書き加えられなくなり、キリストの時代までの四百年ほどの沈黙に入ります。












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