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『罪』という死の原因

2020.10.05 (Mon)

聖書によれば、『死は罪の酬い』であり、人が死んでゆく原因は『罪』とされます。
しかし、ここで言う『罪』とは、日常で見聞きする犯罪を指すのではありません。
それは、だれの心の中にもある「悪に向かい兼ねない危険性」を指すものです。(ローマ6:23・7:20-21)

人類世界はこの悪への傾向から逃れられず、様々な害を自ら受けてきました。
実際、社会に生きる限り、誰もこの害を受けずに済むことは期待できません。

不義や不正、強制や暴力、搾取や強奪、詐欺や罠、窃盗や横領、果ては騒擾や戦争などの社会悪さえもたらしている人間の性向そのもの
それがここで言う『罪』です。

確かに、人は隣人と問題を起こさずに生きてゆくことは易しいことではありません。
人は互いに、生まれながらにそのような倫理的な問題を起こすものであるので、こうした悪、つまり不道徳性があるにしても、それは当然の事と考えます。
そこで、人々は自分を守るために厳重に鍵をかけ、パスワードを複雑にし、監視カメラを設置してあらゆる人を警戒しています。
残念なことではありますが、人は人にとって危険があるのです。

聖書は、この危険をもたらすことになった悪の始まりを知らせています。
それは早くも、創世記の始まり近くで起こったことでありました。
創世記の初めの部分は一見すると、創造神話の世界を眺めるかのようですが、実は、人間に巣食う悪の原因を語ることでは、人の実態に沿っているところに注目すべきものがあります。

神が地上の創造の業の仕上げに人間を造り、地上を治めさせることにしましたが、人間はほかの生き物とは異なって、神自身の『象り』に似せて造られたとあります。(創世記1:26-27)
人間は英知を持つことで特異な存在であるばかりでなく、神と意思を通わせることができます。
実際、神を意識し、祈りや儀式を行うような存在は、人間のほかに挙げることができません。

創世記での最初の人はアダムであり、後に妻であるエヴァが与えられました。
アダムはそれまでひとりで過ごしていたので、エヴァを見て『これこそ、遂にわたしの骨の骨、わたしの肉の肉』と言っては、伴侶を得たことを大いに喜びました。ふたりは協力関係に入り、子孫を増やす役割も与えられましたが、その以前に二人で過ごすことそのものだけでも幸福感をもたらしたことでしょう。(創世記2:20-23)

ふたりは『エデン』と呼ばれる園に住まうようにされましたが、そのエデンの名には「楽しみ」という意味があるので、そこは文字通り「楽園」であったことでしょう。
このように神には人を楽しませる意図があり、いくらかの仕事を与えたものの、支配しようとするのでもなく、崇拝させ平伏するよう求めたとの記述もありません。
むしろ、神は自らの創造物である生き物をアダムのところに連れてきては、彼がそれを何と呼ぶかを試し、何であれアダムの言うその通りの名が与えられたと創世記は伝えています。(創世記2:19)
つまり、神は人の独立した想いを楽しまれたのであり、人に対する深い善意もそこから読み取れます。

しかし、アダムにはひとつの禁止事項が同時に与えられていました。
それがよく知られた「禁断の木の実」ですが、『園のあらゆる木から満ち足りるまで食べるがよい、だが、善悪の知る木については食べてはならない。あなたがそれから食べる日に必ず死ぬからだ』と言われたとあります。(創世記2:16-17)
創世記をよく読むと、この禁令に関わる木は二本あったことがわかります。それらは『善悪を知る木』と『永遠の命の木』と呼ばれています。
しかも、その二本がどちらも『園の真ん中に・・生えさせた』とあるのです。(創世記2:9)

ここにひとつの不思議があります。食べてほしくない木を神はなぜ園の真ん中に生えさせたのでしょうか。それが人の命を奪う危険かあるのなら、隅の端によけるか、最初からそのような木など創ることもないでしょう。

アダムが死にたいなどと思うわけもなく、その禁令を守っていたのは当然のことでしょう。
しかし、この禁断の木がアダムに大きな試練をもたらす時がきます。
彼の深く愛するエヴァが食べてしまっていたのです。

エヴァは一人で居たときに、ヘビに話しかけられていました。
そのヘビは、禁断の木の実を食べても死なないと請け合い、むしろ神のようになれるとも言ったというのです。(創世記3:4-5)
それを聞いたエヴァの目には、その実が食べるに良く見えるようになり、ただおいしそうだという思いから、もいで食べてしまったのです。
しかし、すぐに死ぬようなこともなく、ヘビの言葉をますます信じてしまったことでしょう。もちろんヘビには発声器官がなく、人の言葉を話せるわけもありません。これはどういうことでしょうか。

エヴァはアダムと一緒になったときに、その実を彼にも差し出します。
アダムは驚愕したことでしょう。しかし、創世記は事実だけを淡々と述べ、その場面の細かな描写はありません。
しかし、後世の新約聖書には『アダムは欺かれなかったが、女はまったく欺かれて背いた』とあります。(テモテ第一2:14)
ですから、エヴァから禁断の木の実を差し出されたアダムは、エヴァが禁を犯して死の道に入ってしまったことを悟ったことでしょう。

そこでヘビは狙った通りの試練をアダムに課すことに成功したといえます。
つまり、神をとるか、妻をとるかという二者択一の厳しい試みです。ヘビはアダムに禁令を破らせる可能性を探り、その妻への愛着に注目していたことでしょう。それが神への愛にまさるものともなり得ると読んだということです。
これはアダムにとって、ただ禁令を守っていたときには無かった恐ろしいほどの道徳的な選択を不意に迫られたことを意味します。

もちろんこの誘惑を仕掛けたのは、ただのヘビではありません。
これら創世記のはじめに書かれたヘビの素性を、聖書最終巻の黙示録が『初めからのヘビで悪魔、またサタンと呼ばれる者』と記し、その悪魔がヘビが話しているかのように装わせた張本人であることを暴露しているのです。(黙示録12:9)

しかし、この『悪魔』も初めから悪いものとして創造されたわけではありません。
以前には『ケルブ』と呼ばれる種類の天使であったことを旧約聖書のエゼキエル書が『わたしはお前を翼を広げて覆う事を行うケルブとして造った』また『お前が創造された日から、お前の歩みは無垢であったが、ついに不正がお前の中に見いだされるようになった』とも明らかにしています。(エゼキエル28:14-15)

その変節の原因は『お前の心は美しさのゆえに高慢となり、栄華のゆえに知恵を堕落させた』とされ、この優れた天使の中に利己心が芽生え、遂に神のようになることを望むに至ったことを聖書は教えます。
やはり旧約聖書の預言のイザヤ書では、『お前は心に思った。「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登っていと高き者のようになろう」』との悪魔の野望が暴かれています。(エゼキエル28:17/イザヤ14:13-14)

こうして創造界には「他者を支配したい」という利己心が入り込み、そのために創造物を神から引き離して自分の側につけることをもくろむ悪の元凶が現れたことを聖書は知らせています。
この悪の元凶は「反抗する者」との意味で『サタン』とも呼ばれるようになり、その目的を遂げるために創造物に神を中傷するので「中傷者」(ディアボロ)を意味する『悪魔』とも呼ばれるようになったのです。

そしてエヴァを通してアダムの神への忠節を揺さぶった悪魔は、思惑通りにアダムに禁断の木の実を食べさせることに成功します。
その後、神に言い開きを求められたアダムは『あなたがわたしと一緒に過ごすようにと与えてくださった女です、その女が木から取ってくれたので私は食べました』と言っています。まるで神がエヴァを与えたのが原因であるかのように、また「一緒に過ごすようにと」神が命じたので共に禁令を破ったかのようです。
つまり、アダムとしてはエヴァとずっと共に居たいという願望があり、その欲が神への忠節を退けさせる選択をもたらしたという実情がここに見えています。(創世記3:12)

ですが、これはアダムとエヴァだけで済む事にはなりません。
最初の人間夫婦が陥った問題は生命に関わることであり、彼らから生まれるあらゆる人間の命には制限が課されることになりました。
それは、禁断の『善悪を知るの木』と共に生え出ていたもう一本の木が『永遠の命の木』と呼ばれていたところに見えています。
もし、神の創造の意図と異なる者らが永遠に存在し続けるとしたら、神の意志は永久に実現しないことになり、それはすべての創造物の幸福にもなりません。それは今日の悪にあふれる世界を見る通りです。

神はふたりが『永遠の命の木』からも取って食べることがないようにと、初めての強制力、つまり権力の行使として燃えて回転し続ける剣と二人のケルブを配置してその木を守らせ、アダムとエヴァはエデンの園から追放され、地面を苦労して耕し、自ら命を支えるという今日まで続く『この世』の労役と、妊娠と出産の苦しみが与えられるに至るのでした。そして老化を経て『土に帰る』のです。(創世記3:16-19)

ですから「死」とは、人が生命を失って創造された世界を去ることであり、創造の逆の過程を辿るかのように『土に帰る』ことを意味します。創造の意図から外れたものが永久に存在するなら、神の創造の業はいつまでも成功しないことになります。
この点で人の場合でも、何か作った物が作り手の意図に反したり、誰かに危害を与えるとしたら、それを作った人には作り直すなり処分するなりの権利や責任が生じるように、世界の作り手としての神も同様の処置を取られるのは道理に適ったことでしょう。

アダムもエヴァも禁令を破ったことは、自分の欲を神に勝るものとしたことに於いて、一度限りに引き返せない道に入っていました。彼らは悪魔と同様に、創造者を敬わず、心の中で神の地位から引きずり下ろし、自分が神でもあるかのように振る舞っていたからです。
神をさえ押し退けるのであれば、『罪』はあらゆる他者も自分の下に押し退けようとするに違いなく、一本の木の禁令は倫理という問題の本質を突いていたと言えます。そこに悪というものが凝縮されていたとも言えるでしょう。

そして、その利己的は道をすでに悪魔が歩んでいましたが、彼らも同じ道に入ることにより、その子孫すべても不道徳に売り渡してしまいました。
新約聖書のローマ人への手紙の中で使徒パウロはこう述べます。
『一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に及んだ。』(ローマ5:12)

聖書が述べるところの『罪』とは、この利己心から発した悪を言うのであり、個人の一つ一つの犯罪を指すものではなく、人類全体が背負っている世界を覆う大きな不道徳性を言うのです。
ですが、その子孫については父祖アダムのように自分からはっきりと神に背を向けたわけではありません。
後代、新約聖書の中で使徒パウロは『アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった』と書いている通り、未だ本当に神を知った上で、試練を受けても忠節を守るかどうかは分かっていません。(ローマ5:14)

そこで神は、早くもエデンの園に於いて、アダムの子孫を救出する手立てを講じました。
それは聖書全巻を貫く一つの大きな主題を形作るものとなり、聖書そのものの存在意義がそこにあると言っても過言でないほどの主要な意味をもつものとなってゆきます。






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