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誰が世を指弾できるものか キリスト教的非キリスト教

2020.06.15 (Mon)

広くキリスト教のものとされる特徴がパリサイ的であることについて



人間の存在は儚いものであるという認識は、キリスト教に限らず広く世界に見られる人類普遍のものであることは、いまさら言うまでもないことです。
様々な宗教は、この人間存在の危うさ空しさを仮定的あるいは心理的に回避する方策となっています。

殊に聖書教では、自分を存在させた創造神との関係を捏造してでも、この逃れ難い難問をどうにかしようとする基本的な姿勢がほとんどに宗派に共通していると言えるでしょう。これはある人々、特に「なにかと、きちんとしていたい人」にとっては最大利益となっています。ですが、これは罠にもなるものです。

「ノアの大洪水」や「ソドムとゴモラの滅び」のような「義人の救い」の捉え方でゆくと、誰も滅ぼされようなどと思わないので、「自分が義人である」とすることで他ならぬ神に取り入ろうとする傾向が避けられないでしょう。

そのように、自らを「義人」に仕立てるために努め、教理や道徳を誇り、あるいは宗派間の比較の結果に各自が安堵するという、却って危うい土台の上に信者を安住させるという「信仰」が、それぞれのキリスト教団体の在り方を決定付けているというべきでしょう。

それぞれの教団が、恰も「ノアの箱舟」であり、その宗派の信者であれば神に是認されていて、神の裁きがあろうとも滅ぼされることがなく、あるいは天国、あるいは楽園に入れるという、救いに選ばれた者の安心に浸らせ、心理上のモルヒネのように作用して、信者本人の実態を忘れるという夢心地に誘うのが「キリスト教」というものです、と言えば、あらゆるキリスト教団体から批難轟轟となりそうではありますが、やはり、そのように観えるものです。実際、わたしの知るところでの「宗教信者」様方には精神的に異様なほど依存症的に惰弱な部分が共通してあります。それでいて、いや、そのせいか頑固で視野が狭いのです。

実際の教えの結果として、この世の終りが来ても自分たちだけが天に取り去られ、あるいはシェルターに保護される妄想を掻き立て、また自分たちのために食料貯蔵している宗派などは、部外者がそれをどう感じるかをわきまえ、また自らの懐く動機に何か異様さを感じないとすれば、そのキリスト教は無い方が良いように見えます。

「聖書の教えなるぞ!」と言いつつ、その誉められたものでもないその人の考え行っている事の実態を振り返ることが無いとすれば、聖書の記述を導いた神に向かって自分たちの異様な行動の責をすべて負わせていることになりますが、キリストが言われた『その実によって』偽預言者を見分けるということでは、二歩も三歩も引いて眺める必要がありそうです。
まして、それぞれに異なる教理や信条を言い立てながら、それぞれ自分が正しいとするのであれば、これはいったいどういうことなのでしょうか。神はどこかの宗派にだけ味方し、他には敵対するのでしょうか。

その教団の信者ご本人にとっては救われるという「福音」なのでしょうけれども、その教えは外の人々にとっては「災難」を意味する以外なく、その原因と言えば「その宗派を信じなかった」からというところで、「自分の神様は了見が狭い」と教えていることにもなるでしょう。
その神様から是認されるために自分はすべき事を行っていると思えば、他の人々にいろいろと指図もしたくなることでしょうし、それが隣人愛だとも思うでしょう。しかし、それはどこが「隣人愛」でしょうか。人格無視のありがた迷惑、余計なお世話です。

この人たちもそれなりに、「信仰によって義とされる」や「滅びに至る道は広く、そこを通る者が多い」などの聖書の句を挙げては、宗派の正義を立てたつもりでしょうけれども、「たとえ自分の隣に居る不信者が滅びようとも、自分は救われる」と思うその心の在り方が本当にキリストの精神に倣うものかどうか考えたことはお有りでしょうか。
それでもなお「そう聖書に書いてあるのだ」というなら、「その利己的精神の原因は神なのだ」と言っているのです。

こうして「キリスト教」の看板の下に、「非キリスト教」が教えられ、なんと広く信者を集めて来たことでしょうか。自分の救いに近視眼になり、それがどんな醜態をさらしているかに気付かないからでしょう。それでは日本のクリスチャンの少なさは却って神の恵みということになります。


気付けば恥ずかしい大いなる誤解
その誤謬の大元には、『罪』というものの観方があるでしょう。
端的に言って、『聖徒』と『信徒』の区別を悟って来なかった結果、聖書の言う『罪』がどんなものかも分からなくなってしまったのです。

これはキリスト教徒というものを新旧の聖書全体から捉えず、把握しないところからくる大いなる誤解です。
それは「イスラエル」というアブラハムの裔*である者に約束された類い稀な神の選民としての恩寵が、聖書を読んだだけで自分に向けられたものだと思うところで、恥ずべき勘違いをしているのであり、その選民とされた人々さえ、世界すべての人々の救いのために備えられているのに、神が救うのは信者の自分たちだと思い込むところで、広く人々を現在の思想信条に関わらず救おうとする神意を無視して、正義を自分で決め付け、その利己性を聖書の記述の仕業にするという、驚くべき破廉恥をやってのけていることになります。*(創世記22:18)

その傲慢さは、自分の最大利益の永遠の命が関わっていると妄想するために著しく頑迷で、神意が何かを探るまでもなく、「救い」欲しさに、自分は正義だと言い張るばかりで、ほかの意見は間違いに違いなく、あるいは悪魔の教えであるから耳を傾けてはならないとまでに強固に塗り固められているほどです。

しかし、もともと人間の真相との整合性もない教えであれば、あちこち誤謬からの齟齬も出てきて、そのため教理や教団の正しさの維持のために信者に無理を押し付けもしなければならず、人のための宗教ではなく、すっかり信者の無理な支えなくして成り立たない偶像のような宗教団体にもなりましょう。おかしな教えのために信者に強引に支持を要求し、奴隷化でもしなければ教団がもたない宗派が林立し、それぞれに信者は喜んでそうするかどうかの違いばかりです。

そこで、神の意志の真相を幾らかでも知るときに、それがどれほど恥ずかしい態度であるかが分かろうというものなのですが、もはや利己主義もそこまで進んでしまうと、いまさら後戻りも難しいのでしょう。
それが「キリスト教」という看板を掲げて人々を集め、主流派を成しているというところは、もはや誰に変えられる趨勢でもないようです。
唯一、変革の希望があるとするなら、よほどの事、人間技を超えるような証しを備えた教え、つまり聖霊の言葉の到来を待つ以外にないのでしょう。(使徒4:16)

それにしても、日本という特に宗教に熱心でもなく、非キリスト教の土壌は、利己的で強圧的な「キリスト教」からの、つまり実際には汚れた潔癖症の脅威をほとんど受けずに済むという大きな利点があるものです。


これはキリスト教徒ばかりでもない事ですが、「自分は救われる」と思うからには、社会一般の周囲が悪く、自分はそれよりは清く優れていると喜んで思い込んだか、または、以前から高慢な性質を持っていた人にとって誘惑となる教えに捕えられたということでしょう。(ルカ18:9-14)

しかし、この世のすべての人はこの世から出たつもりでいて、どんなに聖人君子を気取り、どんなに修行を積もうと、やはりこの世を超越できるわけもなく、却って自分だけ気持の中で無駄に偉くなるばかりです。

さて、その人がこの世を糾弾できたものでしょうか。
果たして、人間の不倫理性は誰にあっても変わるところがあるでしょうか。
あるいは、神が嫌われる人間の悪行もあるはずだから、それを避けるのは求められている行いだという詭弁を耳にしたこともありますが、隣人のためと云うならともかくも、神に嫌われない為とは何と独善的でキリストの犠牲を備えた神意を侮った見方、自分の矮小な正義に神を同調させる愚を曝す非キリスト教的思考なのでしょう。神は好き嫌いが激しいからと、その人は行いで神を宥めることができるのでしょうか。

いや、この世の悪がどれほど自分に関係なく酷く見えたにせよ、やはり、この世の悪はどれも我々人間の内から出て形作られたものです。そのような「罪の種」はどんな人間の中に実在しているのであり、この世を形作っているのは、他ならぬ我々人間ではありませんか。人間の悪行や不義理を悪魔のせいにするのは、妄想の中で責任回避しているだけのことで見苦しい言い訳です。
実にその悪は、我々一人一人の内に存在しており、ある人には思いもよらないほど極端な悪として社会に現れてはいても、誰にせよ、それは自分と無縁だと決め付けるなら、人の『罪』、つまり不倫理性を正直に省み、キリスト教の神髄たるイエスの犠牲の価値の大きさ「6000万デナリウス」*を越える巨額さに慄き、隣人を咎めるのを止めるという本来のキリスト教の動機も得られないことでしょう。*(マタイ18:24)『一万タラントン』ソロモンでも十年かけて払えない金の量

もちろん、何でも赦せというのではありません。
それゆえ、人間社会からは警察力と軍事力を無くすことは不可能ですし、人間に『罪』があるままなら、戦争はおろか、犯罪さえ無くすこともけっしてできません。
この『罪』の表れのすべては、神の前に人類全員の連座制の処罰に服すべきところを、キリストというゆるしを与えられたのですから、どうして誰かがこの世から出た者のようにこの世の悪の全体を糾弾できるものでしょうか。
その人は、いつ神の側に立てたのですか。ご自分が「この世のものではない」とは、たいしたものです。人間ではないかのように御立派です。(ヨハネ第一5:19)

『世の者ではない』とは、キリストの兄弟、その犠牲をいち早く『初穂』として適用され、仮に『罪』を赦され『神の子』とされた聖徒、真実のイスラエルという選民だけができることであり、そのような格別の人に神の証しが無いわけもなく、奇跡の業を為す聖霊なくしては誰もがただの人に過ぎません。(ローマ8:1・9・14)
どんなに自分に聖霊は有ると唱えても、なんの証しがあるでしょうか。反対している他の宗派もそう言うでしょう。どなたも皆さん「ただの人」、「この世の構成員」であることに何の変わりがあるでしょうか。この世は皆がアダムの子孫であり、奇跡の聖霊を持つ聖徒でなければ誰もが「裁かれる前の罪人」であることに変わりはありません。

キリスト教界で広く教えられてきた「信者の救い」とは、これらの事の視界を奪って、恐ろしいほどに自覚のない人々を大量生産してこなかったでしょうか。律法がメシア到来によってユダヤ人の中から高慢な性格を焙り出す罠ともなっていたように、終末のキリストの再来の時にキリスト教徒の中で繰り返されるのでしょうか。

どこであれ、キリスト教の宗派が「信者だけの救い」を唱えた段階で、そこで既に神ともキリストとも何の関わりもないでしょう。
わたしの知るところからすれば、「クリスチャン」とは、自己愛の激しい思い込みに生きる人のことを言うのであり、神を独占するところでは辺りかまわぬ自己中心性が強く、それでいて神依存が生活全般に些細であるほど良いと勘違いしている人を指す言葉であると思えます。

惰弱なためか、神の象りとして与えられた自由をむしろ捨て、教えを垂れる偉ぶった教師が頼り甲斐のありそうに見えてしまい、自分を奴隷として投げ出して安心する人々とも言えましょう。その先生方の内心の望みは「支配」や「金」であり、これはまさしく成就しております。
一方の信者はそれほどまでして救われたいらしいのですが、その動機は恐怖と判断拒否ではないのでしょうか。結果として、救いを望みながら、ますます死への奴隷となっています。到底、神に近付いたとは言えません。むしろ不信者の自然で晴朗な心の方によほどの希望が見えるほどです。

キリスト教とはすべての人、現状の思想信条に関わりなく、あらゆる人に向けられた『罪』からの救済と、創造されたままの栄光ある人間へと回復させようとの偉大な救いへの神の意志に深い価値を見出し、それに協働しようとする大志を意味するのであって、自分たちの救いに汲々とし、狭い宗派を箱舟に見立てて安心しているような些末なものではないのです。

と、このように書いたところで、どんなクリスチャン様が気付くでもないのでしょうけれども
やはり、書かざるを得ないものです。












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| 2020.06.20 15:58 | 編集
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