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羊と山羊に分ける

2020.05.09 (Sat)


羊と山羊とを分けるキリスト
マタイ25:31-46



メシアの初臨を迎えたユダヤ律法体制は、『小麦』と『籾殻』とに分けられる裁きを受けることになりましたが、マタイ福音書の第24章からは、『籾殻が焼かれる』エルサレムと神殿の滅びをイエスは預言し、それを通してキリストが再び到来される「この世の終り」の時期に起る幾つかの裁きを預言した言葉が続いています。第25章の中には、「十人の乙女の例え」、「タラントの例え」があって、それらの最後にこの「羊と山羊の例え」が語られています。

この中ではイエスがご自分の使いたちを引き連れ、栄光の座に就き、この世の人々を一人一人裁く有様を語られました。
それは丁度、羊飼いが群れから羊を選んで山羊から分けるかのようであると言われ、羊を右に、山羊を左にすると言われます。

羊は山羊と異なり、冬の夜間には屋根の下に入れておく必要があるとのことで、実際の羊飼いが夜が近付く中で群れを分ける姿をイエスは例えに用いられたのでしょう。

しかし、この例え話で分けられるのは外見は同じ人間なのです。
ですが、羊とされる人々には是認と祝福があり、山羊とされた人々には否認と処断が言い渡されるからには、これはこの世の終りでのキリストの裁きを意味するという恐るべき分かれ目です。

「十人の乙女の例え」にしても「タラントの例え」にしても、共に『聖なる者ら』の中に起る分離が警告されていました。つまり『新しい契約』を守るか否かという、天でキリストと共になる者らの選びに関わる事柄への例えであったのですが、この「羊と山羊の例え」については、『すべての国民をその前に集めて・・選り分け、羊を右に、山羊を左におく』と語られた以上、それは世界の全ての人の関係する選別であることを示しているところが異なります。

そこで、これらの左右に分けられる根拠が何かが気にならないわけもありません。
キリストは羊として右側に分けられた人々には、ご自分が困ったときに助けてくれたので、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている王国を受け継ぎなさい』と是認の愛顧を示されます。

しかし、山羊とされて左側に類別された人々には逆のことが語られます。
『あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、渇いていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに衣を着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを訪ねてはくれなかった』(マタイ25:42-43)
しかし、これはこの左側の人々には思い当たりのないことです。この人たちは何時イエスに親切を示さなかったのか分かりません。
ですから『主よ、いつ、あなたが空腹であり、渇いておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』との反論はこの人々からすれば当然のことに思えるのでしょう。

この心当たりの無さは、右側の羊とされた人々にしても同様であることが語られています。
では、この選別はどのように起きていたのでしょうか。

そこでキリストは、その理由を明かされてこう言われます。
『わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人に行ったことは、すなわち、わたしに行ったのだ』また『これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのだ。彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入る』(マタイ25:40・45-46)

こうして、この世の終わりに於いて世界の裁きが行われ、人はそれぞれに両極端な結末を迎えることになることをこの例えは語っています。


◆イスラエルの兄弟関係
この裁きを分ける重要な点は、キリストが『わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人に行ったことは、すなわち、わたしに行ったのだ』と言われる「キリストの兄弟たち」とはどのような人かということになるのは明らかです。

この例えを解明しようと試みる人々の中には、羊になる人も、山羊になる人も、どちらもそれを気づかないのであるから、『わたしの兄弟』とキリストが言われるのは、誰とも知れない身近の困窮者なのであり、親切心に富み行動をとった人は評価され、そうしなかった人は裁かれるとの解釈を唱えることもあります。

確かに、真実の愛や親切は利己的打算を伴うものではありません。そのようなものは、つまるところ利己心の表れでしかないからです。その動機をさえ見抜くキリストの裁きは、それぞれに裁かれた人々の意識の無さに表されているというのは、大いにあり得ることでしょう。

しかし、聖書を見渡すとキリストの兄弟たちがどのような人々であるのかは、実は明らかにされているのです。

まず、アブラハムの嫡流の子孫であるイスラエル人は、ヤコブの12人の子らから国民へと発展したので、部族に関わらず互いを『兄弟』と呼びました。そこにはアブラハムへの神の約束を相続する仲間という観点や、日頃から律法を守る者同士という結束意識もあってのことです。

ですが、彼らイスラエルは民族としてメシアであられるナザレのイエスを受け入れず、却ってローマの権力に渡して処刑させてしまいました。
結果として、神の恩寵は血統のイスラエル=ユダヤ人から去ってゆき、聖霊を注がれた僅かなユダヤ人らだけでなく、やがて多くの異邦諸国からも聖霊注がれる人々も含まれる複合の民族、血統によらない『神のイスラエル』という新たな『共同相続人たち、つまりキリストと共同の相続人』の民が現れるに至りました。(ローマ8:16-17)

かつて、キリストまではユダヤの神殿の境内でも中心を成す聖所の建物の中には、非イスラエル人の立ち入りが許されておらず、聖所の建物の周囲には1メートル30センチほどの高さの石の壁が巡らされていて、ところどころにはギリシア語とラテン語で「いかなる異邦人もこの聖所への入ることは許されない」と書かれていたことが知られており、この石の仕切りは「ソーレグ」と呼ばれていたそうです。その禁を破って中に入ろうとする者は殺してよいとされていたことをユダヤ人の歴史家ヨセフスが伝えています。(戦記V:193)

それほどまでに、ユダヤ教は民族の宗教であったので、互いを兄弟と呼ぶときには誇りをもってそうしていたことでしょう。
当時は、ローマ皇帝までが代理人を遣わしてユダヤの神YHWHに犠牲を捧げ、そのソーレグの外で犠牲の煙が上がるのも待つほどにユダヤ教は皇帝さえ尊ぶところであり、壮麗に仕上がったヘロデ大王によって増改築された真新しい神殿は帝国内の名所でもあったのです。

しかし、イエス・キリストの現れについては、バプテストのヨハネが警告していたように、『聖霊と火とのバプテスマ』が近付くことでもあったのです。(マタイ3:11)
つまり、聖霊を注がれるユダヤ人は小麦として『倉に納められ』、他方の『籾殻』のような人々は『火で燃やされる』という血統のイスラエルに対する裁きです。

その結果、聖霊を注がれた人々による新しい兄弟関係が存在することになりました。
ですから使徒パウロが非ユダヤ人の聖霊注がれた人々に向かって『あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近しいものとなった。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての石壁を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄した』と手紙に書いたのはそのためです。(エフェソス2:13-15)



◆キリストの兄弟たちとは
パウロは「ヘブライ人への手紙」をも書いたと思われますが、使徒の時代には、ユダヤ人のイエスの信者らが、異邦人の仲間を「兄弟」と呼びかけるのに幾らか抵抗があったことについてこう書かれています。
『実に、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない』。(ヘブル2:11)

キリストと共にアブラハムの遺産を相続する兄弟たちが肉の血統に関わりなく、信仰によって集め出されたのであれば、やはり彼らもキリストの受けた試練を共にしなければなりません。パウロも『キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるから、キリストと共同の相続人である』と言う通りです。

福音書はそれぞれに、この世の終りにイエスが再び『雲に乗って来られる』ときに、弟子たちの中から聖霊を注がれてこの世の為政者の前に引き出されて、『だれも論駁できない』言葉を語ることを預言しています。
もちろん、それは人間の知恵を超えた内容であるので、その言葉によって為政者である『彼らと諸国民への証し』が行われるとも書かれています。(マタイ10:18)

ですから、それは天地を揺るがすような論争を世界に着き付けることになるのでしょう。(ハガイ2:6-7)
そこで聖霊を注がれたキリストの兄弟たちは、猛烈な反対の矢面に立つことは避けられません。
彼らについてイエスは『わたしの平安を与える』と言われますので、迫害に遭ってもその心には静けさと人々を救うという高潔な大志とがあることでしょう。(ヨハネ14:27)

古代には、十二使徒を始め多くの弟子たちが迫害に遭っていました。特にパウロの活動の記録を見ると、彼が獄につながれたときの様子を知ることができるのですが、獄中のパウロを世話しようとする仲間が、彼を訪ねることが許されていて、今日の監房とは違っていた様が分かります。特にローマでの軟禁生活では、遠く離れた土地の人々までもが必要物や助け手を送っていました。

しかし、キリストが再び来られる終末では、キリストご自身は『雲に乗って』または『雲と共に来る』ため人の目にとまることがありません。
ですから、キリストが栄光の座に就かれるとしても、人々は地上のキリストの兄弟たち、つまり聖霊の言葉を伝えて政治家たちの前に立つ聖なる弟子たち、真実のイスラエルに属する者たちにどう振る舞うかに於いて、人々はただ善良であることを示すというよりは、キリストをどう迎えるかを示すことになると言えるでしょう。

それは単に隣人愛の発露という以上に、キリストに対する信仰が関わることは否定できません。
その「信仰」とは、見えるキリストを待ち望むことではなく、現に見えているであろう『異兆となる人々』をその語る言葉のゆえに受け容れることであるので、自分がいつキリストご自身に親切を行ったのかを問うのでしょう。ですから、ほとんどの場合に聖徒たちとの直接的な関わりを持つことを言うことにはならないでしょう。

その人々は、この空しい生活を強いる『この世』が、聖霊の降下によっていよいよ近付いた『神の王国』に道を譲るべきことに得心するばかりでなく、信仰を置き、その到来を切実に願うことでしょう。
そうであればこそ、イエスはこうも言われていたのです。
『わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、まさしく言うが、決してその報いからもれることがない』。(マタイ10:42)

その右に集められる人は、自分にできることを惜しまず、聖霊の言葉への信仰のゆえに、それを語る聖徒たちを支持し、それぞれの行動を起こすのでしょう。それは信仰が人を動かす行いであって、ただ心の中に秘めているものではないでしょう。『行いを別にした信仰は死んだもの』だからです。(ヤコブ2:19-20)






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