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地獄とは異なるゲヘナ

2020.05.07 (Thu)
ゲヘナの裁きを逃れられようか
マタイ23:33


イエスはユダヤの反対する宗教家に向かってこのように激しい言葉を浴びせていました。そこにエデンの蛇の一党への『女の裔』キリストとしての戦いがあります。(創世記3:15)
そこでイエスは確かに悪魔の子孫を糾弾していたのです。
『蛇よ、まむしの子らよ、どうして地獄の裁きを逃れることができようか』(マタイ23:33)

これはもう、このまま読めば、ご自身を亡き者にしようとしている宗教指導者らにイエスは地獄行きを宣告していると思えます。神から遣わされたメシアを殺害しようなどと企む者らであれば、死んだ後に火の燃え盛る地獄に落とされる処罰も当然と思えることでしょう。

キリスト教では、カトリックでもプロテスタントでも「地獄」とは、死ぬまでキリストを信じなかった者が永遠に火の責苦を受ける場所とされ、それがキリスト教の常識のようになっています。

ですが、この部分の原語はギリシア語の概念で見ると、一度入ったなら二度と出てくることのできない「タルタロス」ではなく「ゲヘナ」という言葉が用いられています。この「ゲヘナ」は元々ギリシア語ではなく、ヘブライ語の「ゲーヒンノム」という言葉の発音をギリシア語に置き換えた、言わば外来語でありました。この語「ゲヘナ」は共感福音書はもちろん、旧約聖書をギリシア語に翻訳した聖書である「七十人訳」(セプチュアギンタ)と呼ばれるギリシア語旧約聖書の中でも用いられています。

つまり、ユダヤ人たちは、ギリシア語での二度と出てこられない地の深い「冥府」や「地獄」のようなものを意味する単語「タルタロス」を用いることを避けて、「ゲヘナ」というギリシア人には耳新しい、何か異なるものを知らせようとしていたことになるのです。
しかし、「ゲヘナ」という言葉に聞き覚えが無いとすれば、それは多くの翻訳聖書がこの原語の音訳を用いずに「地獄」と訳しているからでしょう。

今日広く流布している日本語訳聖書では、やはり『地獄』としているものが少なくありません。古くは1633年に公刊されたジェームズ王欽定訳聖書からして「地獄」[hell]と訳していましたから、それも無理からぬところもありましょう。しかし、当時の英語「ヘル」には、火の燃える場所としての意味はなく、単に地下を表していたとのことですから、翻訳された聖書を今日読むにも、そのまま鵜呑みにはできないものです。

それでもこの欽定訳聖書を元に明治20年に日本語に翻訳された「舊新約聖書」(文語訳聖書)では、その影響なく『ゲヘナの裁き』と訳しています。そこは、江戸時代から長く来日していたヘボン博士をはじめとする翻訳委員の良識に敬意を払うべきところと言えましょう。
この「ゲヘナ」という言葉が太宰治のような小説家に用いられていたのも、この「文語訳聖書」の影響なのでしょう。

さらに非常に古い聖書、西暦五世紀に完成したウルガタと呼ばれるラテン語訳では「ゲヘンナエ」[gehennae]とされていて、やはり「地獄」[inferos]とはしていません。これはカトリックの重要な聖書なので、それなら間違いなく「地獄」とありそうなものですが、この古い聖書は違ったのです。

今日の日本語訳の状況はというと、口語訳や新共同訳が「地獄」としていますが、新改訳や岩波書店の委員会訳聖書ではこの「ゲヘナ」が用いられています。
では翻訳に於いて「地獄」が「ゲヘナ」に変わると、読者にとって何がどう違ってくるのでしょうか。
そこでマタイ福音書のこの句の『地獄』を『ゲヘナ』に入れ替えるとこうなります。
『蛇よ、まむしの子らよ、どうしてゲヘナの裁きを逃れることができようか』。

では、地獄ではない『ゲヘナ』とは何を指しているのでしょうか?

「地獄」という言葉が示すものと言えば、激しい刑罰が加えられる恐ろしい死後の世界というのが主要な宗教に共通したものでしょう。仏教には元々「地獄」は無かったとのことですが、民間信仰が混じってしまったようです。
この「地獄」は、人間が普遍的に思い描くもののようで、世界にごく自然に知られているものです。
人というものは、やはり自分の悪いところを痛感して生活しているのでしょう。
悪い行いは、いつか必ず酬いを受けるという、漠然とした不安は誰にでも有りそうなことではありませんか。

そこでやはり聖書中にも「地獄」という言葉があれば、「ああ、やはり」と多くの人が納得してしまうところでしょう。
しかし、その「地獄」と書かれている部分の原語「ゲヘナ」が別のものを指していたとなれば、これはキリスト教を見直すほどの一大事となり兼ねません。もし、聖書に「地獄」というものが無いとすれば、「キリスト教の常識」はどういうことになるのでしょうか?

そして、やはり「地獄」と「ゲヘナ」との違いは以下に見るように、たいへん大きなものなのです。


◆街のゴミ処理場
聖なる都エルサレムといえども、人が生活している以上、ゴミが出ないわけもありません。
ヨシアという王の治世中、それまで異教の崇拝が行われていた場所がエルサレムの傍にあったのですが、その崇拝というのは、元々のパレスチナの住民のカナン人、またアモリ人らの神バアルの求めに従い、嬰児を火の中に投げ入れて犠牲にするというおぞましいものであったことを旧約聖書が伝えています。(列王第二16:3)

残酷な風習であるのに、その影響はなかなか消えないばかりか、近隣のモアブ人やアンモン人の神々の崇拝にまで入り込み、果てはイスラエルの民までがつられて、なんと神殿のあるエルサレムのすぐ傍で、子供たちを生贄にする別の崇拝を行っていたというのです。(歴代第二28:3/エゼキエル23:37)
それではイスラエルも律法契約を守ったと言えず、その報いに、後にはバビロンなどに捕囚にされたことも、それも止むを得なかったというべきでしょう。(エレミヤ32:30-35)

このバアル崇拝は、地中海沿いのフェニキア人の間で特に盛んでしたから、彼らの植民都市であるカルタゴなどを通してほかの国々にも伝わっていました。やはり、かの有名なカルタゴの猛将ハンニバルにも、その名の最後にバアルが居ます。それはフェニキアの王女でイスラエル王に嫁ぎ、多くの災いをもたらしたイゼベルにも、その名にバアルが含まれています。バアルとは「主」を意味するそうです。

実際、この神とイスラエルの神との対立があったことは旧約聖書からよく分かります。
こうした恐ろしい異教に囲まれたイスラエルには、モーセによって紅海を割って導き出され、百雷轟くシナイ山で律法を賜ったという誇り高いはずの神YHWHの崇拝があったのですが、それは常に忌むべき神々の影響に曝されてのことでありました。

特に、その戦いの先頭に立った預言者にエリヤが挙げられ、続いてエリシャ、またエフー王も列王記にその活躍の姿を伝えています。しかし、イスラエルからこうした異教はなかなか払拭されなかったことを旧約聖書は語っています。

そして遂にユダの王ヨシアが、それらの異教を一層しようと決然と立ち上がり、国民の中から多くの偶像を廃棄し、エルサレムの傍にあった異教崇拝の場所を公共ゴミ処理場にするという処置を行ったのでした。(列王第二23:10)

ユダヤ教の教師(ラビ)たちによれば、その後もキリストが現れた時代まで、そのエルサレム南西側の谷はゴミ捨て場であり続け、ゲー ヒンノムと呼ばれていたとされます。つまり「ヒンノムの谷」という意味で、これがギリシア語で書かれた新約聖書の『ゲヘナ』の正体です。

その地名『ゲヘナ』は、新約聖書ばかりでなく、ギリシア語に訳された旧約聖書(セプチュアギンタ)に於いても、キリストの現れる二百年以上も前からやはり「地獄」ではなく『ゲヘナ』として用いられていました。
確かにゴミ処理が適性に行われていませんと、不衛生から疫病の発生源ともなり兼ねません。そこで常時着火し易い硫黄が大量に散布されて、ゴミの間で常に火が燃えているようにされていたとのことです。

ですから、イエスが『蛆は絶えず、火は消えない』と言われた場所は地獄ではなく、エルサレムのゴミ捨て場のことであり、言葉の上辺で似通っていたところに誤解の原因があったのことになります。やはり、聖書は当時の事情を知らずに読むなら、あちこちで意味の取違いを起こす危険があるものです。(マルコ9:47)

古来アブラハムの時代から、人には死後に復活があることを聖書は教えてきました。
それは、人は死ぬと地中の死者の世界に行くと教えたメソポタミアの伝統的宗教とは異質であったと言えます。
ですから、古来ユダヤ人は土葬を専らとしてきた様が聖書に記録されています。(創世記25:9/列王第二13:21-22/ヨハネ11:44)

しかし、ヒンノムの谷に遺棄される死体もあったことを中世のユダヤ教のラビが語っています。 (ラビ・ダヴィード・キムヒ1160–1235)
捨てられるものには動物の死骸だけでなく、時に処刑された重罪人の死体も含まれたとのことで、この点はイエスの言われた『ゲヘナの裁き』が何であるかに理解の光を投じるものとなっています。

それはつまり、復活が望まれないような処置であることから、永遠の命に価しない者とされる処罰を意味していると理解することで、イスラエルの教えの一貫性の内にそれが何を意味していたかをはっきりと知ることができるのです。

ですから、メシアであられるイエスに激しく反対していたユダヤ教の教師らは、ゲヘナに捨てられるかのように永遠の命に価しない者として裁かれることがそこで宣告されていたのであり、永遠の火の責苦の地獄に囚われること言っていたわけではありません。


◆「死後の無意識」が聖書の教え
多くの「クリスチャン」には意外に思われるかも知れませんが、イスラエルの死後の見方には死後に霊魂だけが行く「死後の世界」が本来無かったことは余り知られていないことではあります。
しかし、イスラエルとその他の民族が抱く見方とが異なっていたのであれば、人は死後どうなると教えられていたかを把握しておかなければキリスト教というものを本当には理解できません。

旧約聖書には『生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久に関わることがない。』とあり、死後に人は意識さえ持たないことが教えられているのです。意識が無いのでしたら、何の苦しみを受けることもありません。(伝道9:5-6)

また、復活が死者に関する希望であることは、聖書の様々な箇所に書かれている通りです。アブラハムはイサクを犠牲として捧げようとしたときに『神が死人の中から人を生き返らせる力があると信じていた』とされ、聖書には奇跡によって蘇生した例が九つ記されていて、その一つがイエス自身の復活です。

ですから、『もしキリストの復活がなかったと言うなら、わたしたちの宣教は空しく、あなたがたの信仰もまた空しい』とパウロが書いたのも、イエスが『死人の中からの初子』と呼ばれるのも、キリストの復活にすべての人の命の希望が懸かっている以上当然のことであったと言えます。(コロサイ1:18/コリント第一13:14)
聖書の教える「死」とは、無意識で、世界に何の関わりもなく、復活を受けるまでどこにも存在していないことになります。

ですが、この世では死者の霊魂を呼び出してその意志を尋ねたりする交霊術がずっと行われてきましたし、不思議を好む人たちや故人を慕う人から人気を博してもいるのはどう説明がつくのでしょう。
キリスト教に於いてさえも、カトリックなどで死後の世界に居る故人の境遇を改善するために、祈りや善行を行うことができると教えられてきました。まさに、あのルターが強く反対を唱えたのは、死者の罪を軽くできるという贖宥状が買えるとされて人々から金銭が集められていたところにあったのです。

これらは「死後の世界に死者が居る」という教えの上に成り立つものですが、聖書そのものは、人は死によって意識なく、復活を待つばかりなのですから、死後の存在を教え、また連絡を取るなら、それは神からのものではなく、別の源から発するものと言う以外になくなります。まして、死者の境遇を金銭でどうにかできるというのは、随分とおかしなことではありませんか。

この点で、確かに聖書は旧約の律法からして心霊術を重罪に定めていましたし、死者を装う「悪霊」という元は天使であった者らが居ることを教え、また、心霊術で故人が実際に呼び出されている場面までありますが、これは故人の現れではありません。(サムエル第一28:11-15)
それは今日でも同じ事で、聖書は霊媒が故人ではなく、悪霊と意思を通わせていることを暴露しています。
こうなると、死後の霊魂について教えるものは、エデンの園で蛇が『あなた方はけっして死ぬようなことにはならない』とエヴァを騙した言葉のままに、その手下である悪霊らが死んだ人々を装っていると警戒すべき理由があるのです。(創世記3:4)

また、悪霊らは死者ばかりか、恐るべきことに『神』までを装い、それが多用な宗教を興す原因ともなっています。
旧約の時代から、悪霊が神を装うことについて『彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それは彼らがかつて知らなかった神々』と明らかにしていましたが、新約聖書にも『人々が供える物は悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである』と述べられていて、異教の神々はただの空想の産物ではなく、背後には幾らかの不思議を行う力を持つ、霊の存在があることを示しています。

こうして、死後の世界があると教える宗教には、悪魔とその配下にある元は天使であった堕落者らの関わりがあり、それは例えキリスト教との名前を掲げる宗教であっても、その罠となっている危険があります。死後の世界を説くことによって、神が人に伝えようとしている真理が曇らされ、いつの間にか、キリストを離れて自分たちの「ご利益」を願う利己的な精神を教えられているということが起っているからです。


◆『蛇の子孫』の意味
ゲヘナというものが、地獄ではなくゴミ処理場を指していたのであれば、イエスが激しく反対するユダヤ教の教師らに『蛇よ、まむしの子らよ、どうしてあなたがたがゲヘナの裁きを逃れることができようか』と言われたときに、それは火の燃える地獄で永遠に責め苦に遭うということを意味していたのではないことが明らかです。聖書は人には死後の世界がないことを教えるからです。

それは、ゴミ処理場に遺体が捨てられることを指していたのであり、それが意味するのは、復活が望まれないように永遠の命から遠ざけられるという意味です。

創世記には、アダムらに罪を犯させた蛇である悪魔に向かって『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に敵意を置く。彼はおまえの頭を砕き、おまえは彼のかかと砕く』と神が予告される謎のような場面があります。(創世記3:15)

この女の子孫がキリストであり、悪魔の子孫がキリストのかかとに傷を負わせるものの、女の子孫であるキリストは蛇である悪魔の頭を砕くことで滅びに至らせることがここに予告されています。
驚くべきことですが、この一言に中に聖書の全体が要約されているほどに、聖書の書かれた理由が込められています。
実に、この蛇に致命傷を与える『女の子孫』が誰であるかを巡って聖書は書き進むことになり、遂にメシアつまりキリストへと導かれてゆきます。
そうして悪魔である『蛇』によってもたらされた創造界の乱れは、キリストを指す『女の子孫』によって正されます。それには悪魔とその『子孫』である者たちの滅びが求められています。なぜなら、それらの者らは悔いて改めることが無いことを示すからです。

キリストがご自分の死を三日後にしていた中で、既に祭司長派らはイエス殺害を準備していましたから、今や『女の子孫』のかかとは砕かれようとしていました。イエスが彼らを『蛇よ、まむしの子らよ』と呼んだのはまさしくその通りであったのです。(ヨハネ8:44)

聖書は、『人間には一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている』と述べる一方で、『二度死ぬ』という比喩もあります。これは人は『正しい者も、正しくない者も必ず復活しようとしている』ことについても書いています。(ヘブル9:27/ユダ12/使徒24:15)

これらを総合すると『ゲヘナの裁き』とは復活してさえ悔いることなく永遠の滅びに処されることであると言えます。
そのため黙示録には悪魔は最終的に『火の湖に投げ込まれる』とあり、そこにはその手下も投げ込まれるだけでなく、最後には『死』や『墓』までも投げ込まれるというのですから、これは永遠の命の到来を予告していることになります。

そのうえで、黙示録は『火の湖』のことをはっきりと『これは、第二の死を表している』と書いているのです。
つまり、復活しても裁きで悔いず、遂に永遠の消滅に渡されるということであり、確かに神にはそれを執行する権限があります。なぜなら神が創造者であられるからです。(黙示録20:10・13-15)




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