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多くの人が東から西からきて

2020.02.20 (Thu)

多くの人が東から西からきて
マタイ8:5-13 ルカ7:1-10・13:28-29


◆異邦人の偉大な信仰
イエスが居を構えたガリラヤの海に面するカペルナウムには、癒しの奇跡の噂を聞いた人々が常々来訪していました。
そこに、非イスラエル人であっても、つまり異邦人であり、ユダヤ教徒に求められる『割礼』を受けていないため、まったく神の恩恵から隔てられていると見做されていた『諸国民』からも癒しを行って欲しいという願いが有って不思議はありません。(創世記17:12-14)

実際、イエスは何故か忍んでイスラエルの境界の外に出たことがあり、異邦人から癒しを熱望されることがあったのです。
そこはガリラヤからそう遠くない南フェニキアの商業都市テュロスでありました。イエスはこの異邦への来訪を誰にも知られまいとはしていたのですが、西暦32年の春を過ぎたこの頃、もはや奇跡を行う人イエスの名声は近隣の異国にも知れ渡っていたということでしょう。
当地に住むギリシア系の一人の母親がイエスが来ていることを知ると、その一行の許を訪ねて、自分の娘から悪霊を追い出して欲しいと切に懇願し始めたのです。(マルコ7:26)

しかし、イエスはこう言われます。
『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところの他には遣わされていないのだ』(マタイ15:24)
これは、旧約聖書に到来を約束されたメシアとしての働きが『アブラハムの裔』の召し出しにあり、まずパレスチナのイスラエル民族の中から招くべきであったことを表していますし、奇跡の業もその民族の間でメシア信仰を惹き起こすことが目的であったのです。
ですからイエスの伝道は、ただ信者を増やそうとしていたのではありません。もし、そうでなければ、キリストは宣教範囲をパレスチナに限ることもなかったことでしょう。

しかし、その母親は何とかイエスの癒しを娘に得ようとして諦めません。マタイでは弟子たちがこの母親を去らせてくれるようにイエスに訴えています。というのも、その母親がずっとイエスの一行を追って叫びながらついてくるからです。(マタイ15:23)

メシアはイスラエルに遣わされていましたから、イエスは弟子たちにも『異邦人の道に入ることなく、サマリアにも寄らないように』と言って彼らをイスラエルの町々に派遣してもいたのです。(マタイ10:5)

そこで、イエスはおそらくは当時の言い習わしであった一言の例えを用いてその母親を諭します。
『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。』
こう言ってイエスは異邦人の母親に諦めさせようとしたのです。(マルコ7:27)

しかし、その母親は負けていません。
『主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も子供たちのパンくずはもらうのでございます。』
ここに於いてイエスの心は大きく動くことになります。
『おお!女よ、あなたの信仰は偉大だ。あなたの願いの通りになるように。』『そこまで言うなら、帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった。』(マタイ15:28/マルコ7:29)

これは南フェニキアに住む異邦人の母親の信仰の勝利というべきものでしょう。ギリシア人でありながらイスラエルのための奇跡を得て、大切な一人娘を悪霊の憑依から救うことになったのです。この女はイスラエルにだけ与えられていた格別な神の恩寵を知った上で、神の恵みを願い求めるところでは怯みもしませんでしたが、それほどまでにイエスに注がれる恵みの偉大さを信じればこそ大胆に求め続けたということでしょう。
こうして、信仰の人アブラハムの子孫でなくとも、信仰に於いて劣らない者が居ること、それをこのギリシア女は示したと言えます。


◆あるローマ士官のメシア信仰
さて、この一年ほど前のこと、イエスがガリラヤ湖畔のカペルナウムに滞在していたときに、土地の年長者らが、あるローマ軍の士官で百人隊長である人の仲立ちとなってイエスの許を訪れていました。
彼らの言うところでは、その士官の奴隷の一人が重い中風の病を患ってもはや望みのない状態にあり、士官にとって大切なこの奴隷を生き長らえさせて欲しいとの申し出がされているとのこと、その士官は奇跡を行う人イエスに信仰をおき、自分が異邦人であることに配慮してユダヤの年長者らを仲介に依頼したのですが、年長者たちはその士官を擁護して言いました。『彼は願いを叶えて差し上げるに相応しい方です。我々の国民を愛し、わたしどもに会堂までも建ててくれたのですから』。(ルカ7:4-5)

本来、ユダヤ教の習慣によれば、無割礼の異邦人と交友したり、一つの屋根の下に入ることは身に汚れを一定期間負うことになると見做されていました。
こうした定めによってイスラエル人の宗教環境が周囲の異教から保護され、それまでの千年以上も前のモーセの律法体制と習慣が保たれていたのです。特にユダヤ人は安息日を守るために行えない事柄を異邦人の奴隷に命じてもいましたが、そのように、ユダヤ人の異邦人に対する見方には、清くない者という感覚が付いて回っていました。
もちろん、メシアには律法を成就する務めがある以上、間違いなく律法の下にあるユダヤ教徒で、パリサイ派の口頭伝承は別にしても、清さを守るべき律法には服す立場にあります。(ガラテア4:4)
そこで、このローマ士官もユダヤ教を尊重し、このようにユダヤ年長者らの仲介を経ていたのです。

イエスは年長者らと共にその士官の家に向かったのですが、近くまで来たところで士官は友人(ルカ書)をイエスのところに送りこう言わせます。
『主よ、御足労には及びません。わたくしはあなたさまを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではございません。』
これはつまり、イエスがその身を汚すために自分の家に入っていただく必要もありませんと謙遜しているのです。
更に自らイエスを訪ねずユダヤ人を仲立ちにした理由を述べて、『それですから、わたくし如きなぞお迎えに参上する値打ちさえないと思っておりました』と申し添えた上で、『ただ、お言葉を下さい』と言うのです。

そして、その唐突な願いの意味についてこう説明します。
『わたくしも権威の下に服している者でありますが、わたくしの下にも兵卒がおりまして、ひとりの者に「行け」と言えば行き、ほかの者に「来い」と言えば来ますし、また、僕に「これをせよ」と言えば、それをしてくれるのです。』
つまり、イエスには家に入るまでもなく、上官のように命令を下してもらえさえすれば、奇跡も起こって奴隷も癒されると信じているのです。それはイエスの癒しの力に対する強い確信がなければ、またユダヤ人が律法の下にあることへの深い敬意がなければ言えるようなことではありません。ルカによれば、その名も知られない士官はイエスに会わずにその奇跡が起こると信じているのですから。

これにはイエスも大いに感じ入った様子で、ついて来たユダヤ人らにこう言われます。
『よく聞きなさい。わたしはイスラエルの中にも、これほどの信仰を見たことがない。
なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天の王国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着くが、この国の子らは外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするだろう』(マタイ8:10-12)

これは異邦人によって示された強い信仰が血統のイスラエルの民にも勝ることがあるという著しい例として示されます。
肉のイスラエルの、体制としてはナザレ人イエスをメシアとして迎えることなく、不信仰のうちに退けようとしていた姿と、このローマ軍士官の示した敬意と信仰とは対照的です。
そのように、イスラエル民族が退けられるとのイエスの言葉は何度か繰り返されていたことが、同じマタイの後の第21章でも、『神の王国はあなたがたから取り上げられ、その実を結ぶ民に与えられることになる』と記されていることから窺えます。



◆イスラエルに接木される信仰深い諸国民
イエスの『アブラハムの裔』を集めるための宣教の業は、やがて後の使徒時代に入ると、不信仰なユダヤを見限り諸国民へと向かい、何と無割礼の異邦人からも『アブラハムの裔』が聖霊降下を通して集められるという事態に立ち至ります。依然、ユダヤ人からメシア信仰に至る人々がなくなったわけではありませんが、神の選びはアブラハムの血統に依存しない段階に入っていったのです。(ローマ9:7/使徒10:45)

後に使徒パウロがそのことに言及し、『彼ら(イスラエル)の失敗が異邦人の富となる』としています。つまり、『アブラハムの裔』が十分に集まらないことによる害として、イスラエルに対する神のご意志が果たされないことのないよう、非イスラエル人から補充されることを説明し、それを『接木』に例え、その処置を『奥義』とも呼んでいます。(ローマ11:17・25)
つまり、本来なら定まった数を血統のイスラエルが満たすべきところが足りなかったために、人類を祝福する神の選民イスラエルに異邦人も選ばれることを『枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブである』異邦の信者たちが『接木された』と言うのです。その原因には『信仰』の有無があります。(ローマ11:20)

そのようにして、偉大な信仰の人であったアブラハムの真の子孫とされるに相応しい異邦人が加わり、『イスラエル』と呼ばれるところの、神のご意志に従い『神の王国』を構成して『地のすべての氏族が祝福を得る』ための貴重な役割を負う民が揃い、『こうしてイスラエル全体が救われる』、つまり『イスラエル』という民の数が満ちて、神のご意志を行うという本来の務めを果たせる状態に入ったのは、信仰深い異邦人の加入が有ったればこそなのです。(創世記18:18/ローマ11:25-26)

その一方で、血統上はイスラエルに在りながら、不信仰によって除外された多くのユダヤ人がいましたが、彼らには聖霊が注がれることもなく、神の是認から離されて『外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりする』かのような酬いを刈り取ることになりました。
特に、イエスを退けてから37年後に、エルサレムと神殿はローマ軍によってまったく破壊され尽くし、ユダヤの宗教家らが守ろうとしたモーセの律法体制は神殿を失うことで崩壊してしまいました。律法の三分の一は神殿祭祀に関する条項でありましたから、以後のユダヤ人には律法をすべて履行するということが不可能となって今日にまで及んでいるのです。

しかし、イエスの弟子たちには、キリストの犠牲を通して聖霊が注がれ、彼らは『わたしの誉れを宣べさせるため、わたしが自分のために造った民である』と神に認められるに至りました。彼らこそが真実のイスラエルであり、使徒ペテロは『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗闇から驚くべき光に招き入れて下さった方の御業を、あなたがたが宣べ伝えるためである。』と当時のキリスト教徒たちに述べ、また、異邦人である彼らについて『あなたがたは、以前は神の民でなかったが、今は神の民であり、以前は憐れみを受けたことのない者であったが、今は憐れみを受けた者となっている。』とも言うのです。(ペテロ第一2:10/創世記18:18)

こうして、異邦人の偉大な信仰は『アブラハムの裔』に含まれることによって大きな酬いを得、また、それによってイスラエルという神の選民も不足のために脱落してしまうことなく、神の御前、キリストの許に揃えられることになっていったのです。

こうして、律法を厳密に守って「行いの義」を得ようとするユダヤの体制は、メシアの現れを通して「行い」ではなく「信仰」を試されました。
旧約聖書の最後を締め括るマラキの預言書は、メシアの現れについて次のように警告していた通りです。
『その来る日には、だれが耐え得よう。その現れる時には、だれが立ち得よう。彼は金を吹分ける者の火のようであり、洗濯人の洗剤のようだ。』(マラキ3:2)

実際、このマラキの言葉はユダヤの宗教家らに恐れられていましたから、ラビの中には、これを「メシアの患難」と呼んで、それから逃れるための迷信を唱える者さえいました。(ラビ・ベン・パズィ /タルムード:シャヴァット編)
ですが、律法重視の彼らは、そのメシアを前にして信仰に於いては異邦人に達しない姿を曝すことになったのです。

使徒パウロは『人は、律法の業ではなく、キリストへの信仰によって義とされる』と繰り返し記しています。(ローマ3:28/ガラテア2:16)
それについては割礼を受けた者も無割礼の者も関係ありません。(ローマ3:30)
そのように『信仰』というものを通して、神が選びの民を集められたことは、後のキリスト教からすればもっともなことでしたが、律法遵守のユダヤ教からすれば余りにも意外なことであったのです。しかも、そのときに新約聖書は書き始められてもいなかったのですし、旧約聖書で培われた知識からすれば、ユダヤ教徒の反応は常識的なことであったのです。
そこで人の心を鋭く選別する神の超越的知恵を思い知らされます。

そして、いつの日にか、信者の救いばかりを請け負う「キリスト教の常識」も通用しないような事態が起らないとも限りません。メシアが終末に臨御されるのであれば、意外な事態が再び起こらないものでしょうか。

やはり、長い不在からメシアが戻られるとき、マラキの警告は再び意味をもつことでしょう。
では、バプテスマを受けて、どこかの宗派や教会に属していることが、そのまま『救い』となるでしょうか。
神が信者を贔屓するのであれば、自信に満ちた信者のパリサイ人はなぜ退けられたのでしょうか。

バプテスマを受けたからと安心しているような「信仰」がメシアの再来に耐え得るかどうか、これは重い問いとなるでしょう。
不変の神は人の外面ではなく、その内面をご覧になるからです。(サムエル第一16:7)






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