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わたしと共に集めない者は

2020.01.18 (Sat)


わたしと共に集めない者は散らしている
マタイ12:30/ルカ11:23



この言葉はマタイとルカに記され、群衆を挟んでイエスと宗教家らとが鋭く対立している場面で語られました。
イエスはそこで『わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている』と言われます。

この論争の要点は、イエスの行う「奇跡の業」をどう見做すか、というところにありました。
イエスの癒しの業の奇跡は、御子への神の証しであったことを福音書は明言しています。
『神を信じない者は神を偽り者としている。神が御子についてせられたその証しを信じていないからである。』(ヨハネ第一5:10)
まさしく、ユダヤの宗教家らは奇跡を行い人々を癒すナザレからの人イエスを誹謗していたのです。
そして、この言葉が語られた場面で、イエスは奇跡の業を行われた事と、ご自身が『集める』という事を関連させて語られるのでした。

また、その一方でイエスはご自分に従って来ない者についてさえ『わたしたちに敵していない者は、わたしたちに味方している』と逆の事を別の機会で言われています。

では、これらの「敵味方」の基準はどんなところにあるのでしょうか。
またイエスの行われる『集める』とはどのような事を意味するのでしょうか。

まず語られた場面を確認しましょう。
マタイもルカも、事の発端は口を利けない人がイエスの許に連れて来られたところから始まっています。
その人が話すことのできない理由として、『悪霊に憑かれているためであった』ことをどちらの福音書も告げていますが、マタイの方では、加えてその人は目も見えなかったことも記しています。

イエスはすぐに悪霊をその人から追い出したので、その人が目が見え、口が利けるようになったのを群衆は驚き惑い、『正気を失うほどに驚いた』とマタイは記しています。
それで群衆はイエスについて『この人がダヴィデの子なのではないか』と言い出していました。それは単なる預言者を超える『エッサイの根』、つまりは『約束のメシア』ではないかと思うほどに驚嘆させられる奇跡の業を見たからです。

しかし、これこそはイエスをナザレ村出身の騙り者に過ぎないと見做すパリサイ人らにとってまったく受け入れ難いことで、何としても人々にイエスをメシアとされることは避けなければなりません。
なにしろ、イエスは自分たちの教えや習慣に反して行動するだけでなく、彼らの誤りや不正をはっきりと暴くことまでを公けに語るからです。それは宗教を正しく実践しているはずの彼らをその土台から覆すことになり兼ねません。

そこで彼らは『この男が悪霊を追い出すのも、悪霊どもの棟梁ベエルゼブールを使っているのだ』と言い出します。
ベエルゼブールとは、ユダヤ人が嫌うカナン人の神バアルの一種バアル・ゼブブをヘブライ語のゼブールにもじって、「糞の神」と呼び、悪霊の首長である悪魔を揶揄した蔑称でありました。それには「蝿の主人」というニュアンスもあるそうですか、これはひどい中傷の言葉です。つまり、イエスは悪魔の霊力を使う魔術師だと言うのですから。

イエスの奇跡の業に対するこのように下劣な反論はこれが最初のことではないらしく、それ以前の場面に相当するマタイ福音書の第9章にも同じ発言が見られ、宗教家らの中傷の執拗さが窺えます。
そのためかイエスが使徒たちに悪霊を追い出す権限を与えた後、彼らに語って、『弟子が師のようになり、僕が主人のようになればそれで十分なことだ。家の主人がベルゼブールと言われるのなら、その家族の者はどれほど悪く言われようか』と予め告げています。(マタイ9:32-34/10:25)

しかし、様々に働く奇跡の業こそは、イエスが『父の業』と呼んたものであったのです。
つまりイエスがメシアであることを証しする父なる神の印なのです。ですからイエスはこう言っています。
『たとえわたしを信じなくても、その業については信じよ。そうすれば父がわたしと共におられ、わたしが父と共にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。』(ヨハネ10:38)

しかし、ユダヤの熱心な宗教家はそうしませんでしたので、イエスは結果として次のように言わざるを得ませんでした。
『もし、わたしが他の誰もしなかったような業を彼らの間で行わなかったなら、彼らは罪を犯さないで済んだ。しかし事実、彼らはわたしもわたしの父をも見た上で、憎んだのだ。』(ヨハネ15:24)

もちろん、イエスは彼らのベエルゼブールの発言をはっきりと否定されていました。
『どんな国でも内輪で争えば荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも内輪で争えば成り立って行かない。
サタンがサタンを追い出せばそれは内輪もめだ。そんなことではどうしてその国が成り立って行くだろうか。』



◆悪霊とは何者か
新約聖書には、再三にわたり『悪霊を追い出す』場面が描かれていますが、この「悪霊」というのは堕落した天使らのことであり、聖書には『罪を犯した天使らは、暗闇の縄で縛られタルタロスに投げ入れられた』とされています。(ペテロ第二2:4)

「タルタロス」というギリシア人の概念は、『墓』を表す「ハデース」の二倍も深い地中にあるところで、ギリシア神話での裁かれた悪い神々が幽閉されている場所を表します。ペテロがこの言葉を用いて手紙に脱落天使のことを書いたのも、伝えようとする内容に非常に合致していたと言えましょう。
といいますのも、ギリシア人の考えでは、『墓』である「ハデース」からは帰還することができるのに対して、一度「タルタロス」に落ちたなら、そこは誰であれ二度と戻って来られない場所とされます。それは悪霊たちに待ち受けるものが滅び以外にないことと良く合致しています。(マルコ1:24)

その堕落した天使らは『縛られ』、つまりノアの日から今日まで人間の社会に直接に現れることは許されていませんが、幻影を見せたり、人に乗り移る、つまり憑依することで影響を与えることについては今でも可能で、曖昧な仕方で様々に人々と関わろうとします。(創世記6:1-8)

聖書を見ると、この者らが人に憑くと、精神を損ねたり、身体機能を損なったり、癲癇を患ったり、異様な怪力を持って暴れたり、自傷したり、場合によっては死者を装って話をしたり、前世を吹聴したり、予言さえ行うこともあることを聖書は記しています。

しかし、これらを行う霊は邪悪なものでありますから、モーセの律法でも心霊術や交霊を禁じ、それらの霊と関わることを重罪としていました。
それでも、イスラエルにさえ多くの悪霊が跋扈していた様が聖書の各所に明らかです。
悪霊らはイエスを見ると、予定された時より早く、自分たちを責め苦に合わせるために来られたのではないかと恐れていました。しかし、イエスがなさった処置は、彼らの憑依から人々を解放し、人が『罪』の赦しに与る祝福を体験させることにあったのです。

もちろん、悪霊の取り憑きは諸国民の間でも見られたことで、イエスの許に娘から悪霊を追い出して欲しいと熱心に求めてきた南フェニキアのギリシア人の女の例が福音書に記されていますし、墓を住処としていたガダラ人の例もあります。
また、後の使徒たちの宣教活動は何度か悪霊の妨害を受けています。イエスの業を聖霊を通して受け継いだ彼らも、多くの悪霊を祓ってもいます。(マタイ15:22/マルコ7:26)

さて、イエスの行う神の業を悪魔のものと主張するパリサイ人に向け、イエスは更に論点を加えていました。
『もし、わたしがベルゼブールによって悪霊を追い出すのなら、あなたがたの子らはいったい誰によってそれを追い出すのか。そこで、彼ら自身がまさにあなたがたを裁く者となるだろう。』(ルカ11:19)

ここでイエスは、パリサイ人の子らが悪霊を追い出すことについて述べていますが、これは当時のユダヤの習慣について指摘されているものです。
当時のユダヤでは、祭司長派の関係者の息子たちが「巡回祓魔師」の仕事を行って、パレステチナばかりでなく、異邦に寄留する外地のユダヤ人のところまで悪霊を追い出す業を行って旅行していた様子が新約聖書にも記されています。彼らの働きにより霊の束縛から解放された人々も少なくなかったのでしょう。(使徒19:14)

ですから『あなたがたの子らはいったい誰によってそれを追い出すのか』とイエスに問いかけられた宗教家らは答えに詰まったはずです。そして『彼ら自身(息子たち)がまさにあなたがたを裁くことになる』と言われれば返す言葉もありません。

そしてイエスはこう言われます。
『まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。』(マタイ12:29)
『強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。』(ルカ11:21-22)

どちらも、悪霊を追い出す権力の方が悪霊よりも強大であることを証ししています。
ですから、イエスを通して働く力は邪悪な霊力を凌駕するほどに強いからこそ撃退できるに違いないのです。
それはまことにありがたく、力に於いて霊者にはとてもかなわない人間には心強いものです。

そこでイエスはこう言い添えられます。
『わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、もう既に神の王国があなたがたのところに到来しているのだ。』
ここでイエスが言及された『神の指』と聞けば、ユダヤ人であればモーセとアロンが出エジプトのときに頑固なファラオに示した奇跡について、エジプトの多神教の祭司らがそれらの奇跡を真似できなくなったときに『これは神の指です!』と叫んだ場面を思い浮かべていたことでしょう。(出埃8:19)

モーセたちに働いた霊力が、はっきりと異邦の諸神に勝る力を示してイスラエルの神の介入を教えたのであれば、パリサイ人らの前に奇跡を行うイエスを通し、やはり神は同じ力を示して、今や物事に介入されているのであり、そこにはメシアの王国の力が実現していることになるのです。

ですが、当時の宗教家らはそれが認められません。
彼らの長く培った常識と、彼らの傲慢さが邪魔をして、目の前に示されている神の力という印、悪霊をも駆逐する強大なイエスの権威をどうしても神からのものと認めることができません。



◆キリストの敵とは誰か
そこで、イエスは極めて重い警告の言葉を述べられることになります。
『わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている』。

つまり、イエスが悪霊を追い出している業を誹謗していたこのパリサイ人のような者は、奇跡の業を見ては『この人がダヴィデの子ではないか』と言い出している群衆の間にメシア信仰が育つことを阻害しているのであり、それは『アブラハムの裔』、真実のイスラエルを集めるために活動するキリストを妨害する敵であるということです。

その『集める』という言葉に、イエス・キリストの宣教が、ただ信者を得ることを目的としていなかった事が表されています。
もし、イエスが『地のすべての諸族が自らを祝福する』という『アブラハムの裔』を集めていなかったなら、その宣教をパレスチナに限る必要もなく、頑迷な同族のユダヤ教徒に殺害されてまでその地で活動する理由もなかったことでしょう。当時、すでにユダヤ教が宣教を外地に広げていたように、よほど諸国民の土地で宣教した方が成果も上がったことは、使徒時代に多くの異邦人がメシア信仰に入ってきたことからも明らかです。

ですから、イエスの行う業を悪しざまに言うことは、人類の希望となる『神の王国』の民を、古来神殿祭祀を行って『約束の地』に住むイスラエルから集める神の意志を妨げようとしていたのであり、それこそは神への悪行であったのです。
ユダヤの律法体制派はイエスに反対して、メシアと認めないだけでなく、彼ら宗教家を告発する鋭い言葉と、民を癒す奇跡の業を嫌って、この方をローマの権力に処刑させてしまい、メシアの許に信仰を表すアブラハムの裔を集めることには協力などしなかったばかりか追い散らしていたのです。これを神の敵と言わずして何というべきでしょうか。

イエスは不信仰な歩みを止めないエルサレムを最後に眺めて『ああ、エルサレムよ、エルサレムよ、預言者たちを殺し、遣わされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それなのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられている。』と言われます。(マタイ23:37-38 )
ユダヤは、その一国としてメシアを戴く『神の王国』となることをはっきりと拒んだのです。

その代償は軽いものでは済みませんでした。
バプテストのヨハネが警告していた通りに、メシア信仰を懐いた人々には聖霊が降りましたが、ほとんどのユダヤ人には『火のバプテスマ』が降り注ぎ、エルサレムはローマ軍の攻撃によって灰塵に帰し、神殿もまったく破壊されてモーセの律法全体を履行することが以後不可能となりました。ヨハネの『籾殻は火で焼かれる』の言葉がそうして成就を見たのです。(マタイ3:11-12)
それが起ったのは、イエスの予告の通り、メシアを退けた世代が存命であった37年後のことでありました。(マタイ24:34)



◆決して許されない罪とは
そして、聖霊という神からの証しに人がどのように反応するかが善悪を最終的に分けることをイエスは明言されるに至ります。

『人には、その犯すあらゆる罪も、神を汚す言葉もすべて赦される。
だが、聖霊を汚す言葉は赦されることがない。
また、人の子に言い逆らう者は赦される。
しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることがない。』(マタイ12:31-32)

聖書もキリスト教も、人々に感化や規則を与えて「敬虔なる聖人君子にならせるもの」と日頃教えられ「取り澄ましたようなクリスチャン」なら、『あらゆる罪も・・赦される』というイエスの言葉に戸惑いを感じることでしょう。
しかし、人の様々な悪行に勝って『聖霊を汚す』という仕業こそが遥かに悪であり、その他の様々な悪行よりも罪とされるべきものであるとイエスは教えられているのです。
神をけなす事でさえ『聖霊を汚す』ほどの罪にはならないのです。その人には何か誤解があったからでしょう。
しかし、『聖霊』による明確な奇跡は、そこに神を見ることであり、その証しは誤解のしようがありません。例え善良な外見を持つ人でも『聖霊』の働きを否定するのは故意の罪であり、人の犯す悪行の中でも決定的なものとなるのです。

もとより全知全能の神は、人の倫理的な状態がよくないことはご存じであるからこそキリストの犠牲を人々に与えて『罪』を赦すことを意図されたのですから、人々に『罪』が無いかのように善良さの仮面を着けさせて振る舞わせることを主要な目的とされる道理など神にはありません。キリストの教えに動かされるとは、その人の優越感にではなく、利他心に動機がなくてはなりません。

もちろん、神は悪を憎むとはいえ、『罪』ある人にキリストの犠牲を与えたのは『罪を赦し』『贖罪』を行うためでありますから、個人が行った悪行を一つ一つ挙げて裁くわけもありません。人間に悪があるからこそ、神はキリストの死を備えられ、進んで赦そうとの固い意志を持ち続けてこられたのです。まさしくイエスが『義人のためではなく、罪人のために来た』と言われた通りです。

そこで神は、各個人が道徳的に見えるか否かよりも本質的な事柄を人に問われます。
それは、その人が「自分の中にある『罪』をどう見るか」という事であり、謙虚に自らの『罪』という、何かと悪い方に向かってしまう自分の傾向を認められる人は、キリストの犠牲に頼る以外に『罪』を逃れる方法がないと観念し、そこで神の手立てであるキリストへの信仰が起こされます。

他方で、人が自分の道徳性や善良な振る舞いに自信を持ち、それで神に自分を赦すよう要求するとしたら、それは恐るべき傲慢というべきで、人々を勝手に差別し、優越感に浸る利己主義者として悪魔の側に立つことになるでしょう。この点を「義人」のヨブはどれほどの損失を払って学んだことでしょうか。(ヨブ35:6-7)

あれほど模範者のように見えた使徒パウロですら『わたしは自分の生み出していることに納得できない。なぜなら、わたしは自分の欲する[善い]事は行わず、かえって自分の憎む事をしているのだ』と自らの内にある悪への傾向である『罪』を嘆いていたのです。(ローマ7:15)

ですから、パウロが言うように『人は業ではなく信仰によって生きる』のであり、その人の道徳性や善良な振る舞いがその人に救いをもたらすわけではないのです。(ローマ1:17)
そして、聖霊は人が信仰を懐くよう与えられる神の力の印であり、それを見る人はそこで神との出会いを迎えることになり、どのように反応するかが大きな分かれ目となります。神の御前に自分の義を誇るか、あるいは謙虚にキリストの犠牲に信仰を働かせるかという選択です。

ですから、聖霊が働く時に、それを誹謗することは『人々の前で天の王国を閉ざす。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない』。という決定的な損失を自他にもたらすほどの悪事となります。(マタイ23:13)

そこで聖霊の働きを誹謗中傷することがどれほど神に逆らうことであるかは明らかです。自分自身が信仰を懐かないばかりか、信じようとする人までを邪魔するからです。それは延いては『天の王国』の設立を阻もうとすることにもなるのです。全人類を救うべき神の選民『アブラハムの裔』が揃わないようにすることだからです。それは決して軽い罪にはなりません。


◆敵していない者は味方している
その一方で、イエスは『敵していない者は味方している』と語られている場面もあります。

それは使徒のヨハネが、自分たちに従って来ない者がイエスの名によって悪霊を人から追い出しているのを見て、それを止めさせようとしたことを報告した場面のことですが、イエスは『彼らを留めてはならない』と言われます。(マルコ9:38/ルカ9:49-50)
ヨハネとしてはイエスの行われる強力な業が、その名を用いると他のユダヤ人にも行えることに嫉妬を覚えたことでしょう。

しかし、イエスはこう言われます。
『わたしの名を使って力ある業を行って、そのすぐ後にわたしを悪しざまには言えまい。』(マルコ9:38-40)
つまり、イエスに従って来ない者といえども、神からの強い力がイエスを通して働くことを自らが行う奇跡によって認めないわけにゆきません。そうなれば、その人もイエスが神からの人であることを信じていて、また証ししていることになり、その名はイスラエルの諸部族の中で告げ知らされているのです。

そこには『もしわたしが父の業を行っていないなら、わたしを信じなくてよい。しかし、もし行っているなら、たとえわたしを信じなくても、その業は信じよ』とまで神の業を高めた主イエスの謙虚さと一致する思いが感じられます。(ヨハネ10:37-38)
イエスの『父の業』はイエスを証して、その名に信仰を置くようアブラハムの子孫であるイスラエルの人々に促すものであり、その業を使徒以外の誰が行おうと、それは『集める』ことになっていたからでしょう。

他方で、後に使徒パウロが異邦人のエフェソス市で行った奇跡の聖霊の業は、医師でもあったルカでさえ『尋常でないほどの力がパウロの手によってなされた』と書いていますが、そこに巡回除霊に来ていた祭司長の息子らが、『パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。この人から出て行け』と除霊の効果を試したところ、却って悪霊から『イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ』と言われてしまったうえ、その霊に憑かれた人にひどく暴行されて傷を負ったまま逃げ出すという事件が起こっています。(使徒19:11-16)

この正反対に見える事柄も、カエサレアのコルネリオ以来『アブラハムの裔』が異邦人からも選ばれる時期に入っていたこの当時、異邦のエフェソスでユダヤ教とキリスト教の宣教が競合していた状況では、もはやユダヤ教徒の誰であれイエスの業を行うことが『集める』ことにはならなかったという変化に沿っていることを見出せます。あのペンテコステの日以来、聖霊の注ぎはイエスのエクレシアに限られ、キリスト教はユダヤ教を脱皮し、別の歩みを始めていたと言えるからです。
このようにイエスの言われた『まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入れるだろうか』との言葉の通りに、聖霊は悪霊を縛るほど強力であることが使徒を通してキリスト教に示されていたのです。

福音書に描かれたメシアの行われた『父の業』、つまり聖霊による信仰を呼び起こす印について、イエスはご自分が処刑に渡される前の晩に『わたしを信じる者はわたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからだ』と使徒たちに告げられました。(ヨハネ14:12)
使徒ペテロは、聖霊が注ぎ出された日に『イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです』。と宣言し、その日の内に三千人の信者が加わり、やがてその人々にも聖霊が注がれてより多くの人々がイエスの業に預かり始めています。それもイエスが天に戻られたことにより、その犠牲が神の前に受け入れられた事の結果でしょう。(使徒2:33/4:30-31)

これら聖霊の奇跡の業を俯瞰するなら、それが神からの証しであり、それによって人々の心に信仰がおこされ、その信仰によって人々が真実の『アブラハムの裔』として集められていたことがはっきりと見えます。
使徒ヨハネはこう書いています。
『神の子を信じる人は自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっているのです』。(ヨハネ第一5:10)

聖霊を注がれた人々は、天界の大祭司イエスと共なる『印となるべき人々』であり、特に終わりに日には、全世界に対して神からの印を再び見せることになるでしょう。そのことにより、終末の人々の中からも信仰を懐いて『天の王国』の支配と贖罪に入る人々をより分けることになります。(ゼカリヤ3:8/マタイ25:40)
そのようにして、この世から聖霊の奇跡に信仰を働かせて『天の王国』を迎える人々が現れ、地上での救いに入ることでしょう。
終末に聖霊による神の印を見せるために再び選ばれる弟子たち『聖徒』の役割は、それに信仰を働かせて地上に生きる人々を呼び出すことでもあるのです。

そのためにも、まず彼ら『アブラハムの裔』が集められなくてはなりません。
そして、その業は世界が裁かれる終末の時期に再開され、再びキリストの奇跡の業を行う弟子たちが現れることをイエスは繰り返し予告しているのです。





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