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小麦と毒麦の例え

2019.12.11 (Wed)

小麦と毒麦の例え
マタイ13:24-30



 マタイ13章24節を以って始まる「小麦と毒麦の例え」は、マタイ福音書にだけ存在し、「種まき人の例え」の解釈を述べた後にこの例えを語られると、すぐに「からしの木」と「パン種」の例えに移り、その後で群衆は解散させられましたから、この解き明かしの時にまで残ったのは僅かな弟子たちだけであったことになります。
しかし、イエスが解き明かしが語られてもなお、この例え話の黙示が解かれたとも言えない難解さが残ります。これは理解すべき相手や時が絞られた終末への秘儀の関わることが暗示される奥深い例えであるのでしょう。

 これらの例えの話された順からすると、「種まき人の例え」で撒かれた四種類の種の中でも、実を結ぶ「良い種」に相当する人々の中から更に選別が進むことを警告していると捉えることが可能で、実際、そのように観ると様々な陳述がそれぞれに焦点を結び始めて内容が鮮明になってくるようなところがあります。

 さて、ユダヤ人を念頭に置いて初めにはヘブライ語で書かれたと伝えられるマタイ福音書では、『神の王国』についてほとんどの箇所で『天の王国』と呼びますが、この「小麦と毒麦の例え話」の主題もやはり『天の王国』です。
 マタイ福音書が「王国」をそのように天のものとした背景には、ユダヤ人の間に浸透していた期待、つまり、来るべきメシアが治める世界を統べ治める覇権大国イスラエルの宿願に対して、ナザレのイエスの説かれる『王国はそのようなものでない』つまり、地上で争い合う世俗国家ではないことをユダヤ人に強調しようとして『天の王国』としたのでしょう。(ヨハネ18:36)

エルサレムに神殿が在った使徒たちの時代に至るまで、イスラエルの男子は、贖罪の日に神殿の聖所の中庭で、贖罪の儀式の終わりに民の贖罪が大祭司から告げられたその時、今では発音が不明となっている神YHWHの御名が語られるや跪拝して『その王国の栄光の御名が定めない時にまで褒め称えられますように』と答唱することを習慣としていたことがタルムードのヨマー篇に記されています。

ですから、イエスの御傍の十二人でさえも、主イエスが地上を去ることなく父祖ダヴィデ王の座を回復し、イスラエルが一つとなってローマ帝国さえも駆逐する強国を築くことを期待していた姿が福音書に散見されるのも、当時のユダヤ人の聖書理解の実情からすれば無理からぬところがあるでしょう。


では、その例え話に耳を傾けてみましょう。
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「天の王国は、このような例えのようだ。
人は自分の畑の中に良い種を撒いた。

しかし、人々の眠っている間に、この人に敵対する者が来て、小麦の間に毒麦(ジザニオン)の種を撒いて去っていった。

草が芽生えて、実ると、そのとき毒麦も現われた。

家の僕らが主人に近づき「ご主人さまが畑にお撒きになったのは良い種ではありませんでしたか?どうして毒麦があるのでしょう?」と訊く。

主人曰く「それは敵対する者がしたことだ」。すると僕らは「私共が行って抜きましょうか?」と言うと
「いや、毒麦を引き抜く際に、小麦も一緒に抜きかねない」。「収穫まで両方とも成長させておき、その時になったら刈る者には、まず毒麦を集め焼くために束ねさせ、次いで小麦を収穫の蔵に納めるために集めさせよう」。

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 以上が例え話であり
 群集を解散させると、イエスは弟子たちの要請にしたがって、その意味するところを語られます。
 
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良い種を撒くのは人の子、つまりキリストである。
畑とは世界であり、良い種は王国の子らであり、毒麦とは邪悪な者の子らであり、それらを撒いたのは悪魔で、収穫は世の秩序の終わる時で、刈る者は天使である。

それで、毒麦が取り集められて火で焼き尽くされるように、世の秩序[アイオーン]の終わり(終焉[シュンテレイア])もそうなる。
人の子は、天使らを遣わして、人をつまずかせる者と不法[アノミアン]を行わせる者らを自らの王国から集め出し、炉の火に投げ込ませるであろう。そこでその者らは泣き悲しみ歯軋りするのである。

それから、義なる者たちは彼らの父の王国で太陽のように輝きわたるであろう。

耳のある者は聴くがよい。
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畑の持ち主に敵意を抱く者が毒草の種を撒き足すようないやがらせが、実際に古代には行われていたとのことで、ローマ法では処罰の対象であったとされます。おそらくは何かの怨みから、他人の収穫を邪魔する行為に及ぶ者がいたのでしょう。
ですが、この毒麦を食すと死亡に至ることもあるというのですから、その分別は命に関わり、ただ雑草を撒かれたということでは済まないほどの敵意が感じられます。

食すことのできないこの中東の毒麦ジザニオンは、実を結んで穂が出るようになるまでは小麦によく似ており、そればかりか小麦と共に根を伸ばして絡み合えば、毒麦だけを選んで抜き去ることは難しいとのことです。
そこが撒いた悪人の狙いでもあるのでしょう。毒麦に混じって小麦も抜いてしまえば畑で予定していた収穫量を減らしてしまえます。

そこで、この例えの中の主人は合理的に判断し、そのままにしておきなさいと命じました。
成長する間、農夫であっても小麦か毒麦かの区別がつかなかったのであれば、多少養分を毒麦に吸い取られていたとしても、収穫の時期になってしまえば、遠慮なくどちらをもバッサリと刈り取ろうが引き抜こうが支障はないでしょう。
穫り入れの時期になれば穂の外見から双方の見分けがつくので、小麦は蔵に納め、食料にならない毒麦の方は竈で煮炊きの火にでも供すればよいわけです。


◆『聖なる者たち』に課せられるもの

さて、イエスは地上の宣教によって良い小麦の収穫を期待しましたが、それは「天の王国」に集められる『アブラハムの裔』の人々のことを語っているのであり、ただ信者を増やそうと宣教を行われていたわけではありません。そのためにキリストの宣教はパレスチナの中だけに限られていたのです。ユダヤ人こそが『契約の子ら』であり、『新しい契約』へと移されるべき正統な権利を持ったアブラハムの嫡流であったのです。(使徒3:24-25)


ですから、キリストに先立って遣わされたバプテストのヨハネが、『わたしの後に来られる方はあなたがたに聖霊と火とでバプテスマを施すであろう』とユダヤ人に向かって予告し、『麦は蔵へ、籾殻の方は消すことのできない火で焼く』と言ったように、現れたキリストは、信仰を働かせたユダヤ人には聖霊を与え、その一方で、頑なに信じず処刑させるまでにしたユダヤ律法体制の方は、後の西暦七十年にエルサレムと神殿と共にローマ軍の攻撃により、完膚なきまでに打ち破られさせて焼かせ、やがてユダヤ人はパレスチナを後に流浪の民となってゆきました。

当時のユダヤに現れて、イスラエルの地で宣教されたキリストが集めていらしたのは『アブラハムの子ら』、つまりご自分と共に相続する王国を構成することになる『聖なる者たち』であり、真実のイスラエルの同朋、『兄弟たち』であったのです。(ローマ8:17・29/ペテロ第一2:4-5)

やがて、イスラエルのイエスへの不信仰により、『聖徒』らは諸国民からも選ばれ始めますが、それはイスラエルの信仰の薄さによる収穫の不足がもたらした補充であり、パウロはそれを『接木』に例えています。そうして使徒以降の宣教は世界へと広がりを見せてゆきました。(ローマ11:17-18)
ですから、この例えは『新しい契約』に与る聖なる者について述べるもので、ただ単に「クリスチャン」の中に区別が生じることなどと考えていれば、いつまでもこの例えの本旨はつかめないでしょう。

この小麦と毒麦の例えの意味を結論から言い表せば、「聖なる者たちの中の分離」を表していると言えます。(使徒20:29-30)
イエスの当時のユダヤがキリストを巡って麦と籾殻に分けられたように、キリスト後に集められた『アブラハムの子ら』、キリストと共なる『聖徒』の一人として一度は選ばれ集められても更なる試みがあり、聖霊を注がれるだけで彼らの立場が確定したわけではないのです。(ルカ13:24)
彼ら『聖徒』は聖霊を注がれてはじめて「キリストの契約」に参与し、イエスと共に王また祭司となるはずの人々ですが、「契約」というものは何事でも不確定な事柄について結ばれるものです。(ペテロ第二3:17)

イエスが御傍の弟子たちに『狭い戸口から入るように努めなさい。まさしく、入ろうとしても入れない人は多い』と言われたのも、『わたしたちの主イエス・キリストが再び来られる時まで、汚点なく、非難されないように戒めを守りなさい』とのパウロの言葉も、キリストを仲介者として聖霊を受けた弟子らが神との契約関係に入り、仮承認された『義』、また『有罪宣告の無い』倫理的状態を、自らの不信仰や不道徳な行いの不忠節によって傷つけ、『主と結ばれた状態』から離れ落ちることのないよう教えています。

ですから、『ひとたび、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊に預かる者となり、また、神の優れたみ言葉と来るべき世の力とを味わった者たちが、その後に落伍したなら、それは神の御子を自ら磔刑にして、もう一度晒しものにするのであり、二度と悔改めに立ち帰ることはできない。』という言葉は、聖霊を受け、その奇跡の賜物を与えられた『聖徒』が忠節でなくなれば、神との契約関係にあるので、信徒が不行跡を悔い、赦されるようにはゆきません。(ヘブル6:4-6)

このことは、イエスも次のように警告されていた通りです。
『わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の王国に入るわけではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのだ。その日には多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力ある業を行ったではありませんか」と言う。そのとき、わたしは彼らにはっきりと言う「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」。』(マタイ7:21-23)

まさしく預言を行い、悪霊を祓い、イエスの名によって奇跡の賜物を用いて強力な業を行えるのは聖霊注がれた聖徒をおいて他に考えられません。しかも、イエスを主と呼んでいるのです。彼らはキリストの業を聖霊によって委ねられたのであり、その同じ者が道を踏み外し、不法を行うようであって良いでしょうか。

やはり『多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求される』と言われる以上、キリストと結ばれた『聖なる者たち』には輝かしい栄光と共に重い責任も求められていることは明らかです。
彼らは『自分の磔刑の柱を荷って』主に続き、『体を殺しても、魂を滅ぼせない』ような人間を恐れることがあってはならないとイエスは言われるのです。(マタイ10章)

そこで、聖霊を注がれ、ひとたび契約に入った弟子たちには落伍する恐れがあり、契約の相手に忠節を最後まで尽くすには『狭い門から入るよう懸命に努める』必要が確かにあったのです。(ルカ13:24)


◆弟子たちに注がれた聖霊

例え話の中の主人は、毒麦をそのまま小麦と共に成長させておくようにと働き人たちに命じています。そして『収穫は世の終りの時』であることをイエスは解き明かしています。
そこで、小麦と毒麦とは主人であるキリストが宣教を始めてから以後の歴史をずっと間断なく一続きの成長を続け、遂に世の終末になって二種類の麦、つまり『王国の子ら』と『邪悪な子ら』の選別が行われるものと考えられてきました。
そのような解釈の歴史は古く、カトリック教理の基礎を据えたと言われる西欧キリスト教最大の指導者(教父)「聖アウグスティヌス」も、二種類の麦の生育はキリストが現れてからずっと続いてこの世に終わりの収穫に至るという解釈を、その著「神の国」で展開しています。⇒「神の国」ノート

しかし、カトリックのこの時代以降、聖人伝説は残ってはいても、何が「聖なる者」と「信じる者」とを分けていたのか、また『新しい契約』とはどのようなものかは不明瞭なものとなっていました。そもそも『聖霊』の奇跡を見なくなって時代が進んだ頃からは『聖霊』がどのようなものなのかも分からず、「奇跡」と言えばオカルトめいた超常現象を指すようなことになってしまいました。つまり、悪霊の働きを聖霊の奇跡と思い込むようなまでに変化してしまったのです。

歴史上、特にアウグスティヌスのような異なる宗教、マニ教から転向してきた初期指導者や、哲学者から転向し「キリスト教は最高の哲学である」との見解を持ち続け、哲学者の黒い服装のままキリスト教指導者を務めたユスティノスのような世代に入ると、キリスト教はますます『聖霊』の実体を見失っています。こうした指導者たちは、元より聖霊に関して部外者であったのですが、聖徒に語られた聖書の言葉を聖霊を持たない自分に当てはめて考えることが避けられなかったことでしょう。

確かに、キリスト教初期の歴史を編纂したエウセビオスのような記録者が知らせるように、聖霊を注がれた奇跡を行う人々が第二世紀を境に減少し、次第に居なくなってしまったからです。その過程で聖霊ある人々に語られた聖書の言葉を聖霊を持たない人々が自らに語られた言葉と思い込むであろう危険性は非常に高かったことが容易に想像できます。
見る事がなくなった『聖霊』がどれほどのものかを知らず、その知恵も受けることもなくなり、異教や哲学からキリスト教を捉えようとするヨーロッパキリスト教の端緒がそこにあります。

聖霊の注ぎが止んだのは、第二世紀の半ば頃であったようにエウセビオスの「教会史」やほかの歴史資料が教えています。
例えれば「教会史」の中でエウセビオスは第二世紀初めの人物を列挙した後”当時はまだ神の霊による多くの奇跡的な力が彼らを介して働いたので、大勢の人々が、皆初めて聴いただけでも、その魂に世界の創造者への敬虔な念を抱いた”。また第二世紀中葉に現れた新たなキリスト教の派閥について”当時はまだ神の賜物によって多くの不思議な業が様々のエクレシアで行われていた”とも伝えています。(教会史V3/Ⅲ37)

キリスト教徒の集まりでは聖霊の業である『異言』と呼ばれる、習ったこともない言語で神を讃えたり、それを『翻訳』する賜物や、来るべきことや人の秘密を言い当てる『予言』、新たな教理を授ける『教え』など、今日では考えられないような聖霊の賜物が、彼らの集まりの中で多様に働いていたことをコリント第一の手紙などがよく描いていますが、当時のような集まりが、聖徒たちの持つ霊の賜物によって運営されていて、それが第二世紀までも存続していたことを史料は今日に伝えています。(コリント第一14章)

そうしてキリストは天から聖霊を用いて初期の弟子たちを導き、聖霊を介した教えはイエスご自身の言葉と共にやがて新約聖書にまとめられ、キリスト教が確立されます。ですから聖霊の導きなくキリスト教が大きく拡大することも、旧約聖書に書かれた許多の事柄に意味を与える新約聖書も書かれなかったことでしょう。実に新約聖書とは、初期の弟子たちによるイエスの言葉と聖霊からの教えの集大成ということができます。その最後を飾るのが使徒ヨハネの諸書であり、終末を語る「黙示録」が全体を締め括っています。

キリスト教という新約聖書の教えが出来上がるにつれ『聖霊の注ぎ』が行われなくなったことは、第四世紀のエウセビオスが聖霊の賜物を過去の事として書いている通りで、アウグスティヌスの時代は更に遅く第五世紀にかかっています。以後のキリスト教指導者たちが、聖霊について見たことがなく、どんなものかも知らず、自分の中にあるものと解釈し三位一体のひとつの位格に奉ってしまう素地はこの時代に出来上がっていたというべきでしょう。
ですが、この聖霊の天への引き揚げは、キリストの予告された再来と関わるものです。
再来されるからには不在の時期があるに違いないからなのですが、再来を考えなくなれば、自ずと不在も意識しないで済んでしまいます。こうして聖霊のないキリスト教界は導きを失い迷走を始めます。

キリストは弟子たちへの聖霊を介した指導、「監臨」を終え、地に対して不在となり、終末の再来「臨在」まで時を待たれる状態に入っています。それが証拠に、キリスト教の教えは聖霊を失って混乱し、そこに各地の異教やギリシア哲学が入り込んで、初期のものとはまるで異なる「キリスト教」が正統とされ、ローマ国教化によって地歩を得ました。今日のほぼすべてのキリスト教は、その延長線上にあります。


◆終末に現れる『背教』

では、そうしたキリスト教の逸脱そのものが、この例えの『毒麦』に相当するのか、といえば、そうではない理由があります。
それは『主の日』、つまり終末が何時になるのかということをパウロが論じているテサロニケへの手紙の中で、彼は終末到来の印をひとつ挙げているのです。
彼は『わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちが御許に集められる事とについて』と前置きし、『主の日は既に来てしまったかのように言う者がいる』しかし『まず背教が起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れなければ終わりは来ない』と書いています。(テサロニケ第二2章)

ですから、今日のキリスト教がどれほど初期のものと違うにしても、それはパウロが言う終末の印としての『背教』とは言えません。彼が唱えるこの『背教』とは遥かに重大で本質的な悪を指しており、『聖霊に逆らう』また『聖霊を冒涜する』ほどの恐るべきもの、『けっして赦されない』決定的な邪悪を指しており、これについては旧約のダニエル書も終わりの日の前に起る『背き』として警告しているものであり、それは『思慮深い者らの中のある者ですら、終りの時まで自分を練り清め、白くするため』の試練から脱落させるほどの強力な惑わしの『巧言』に応じてしまう事態があることを記しています。(ダニエル11:35)

これは『契約を離れる』罪であり、聖霊のない今日のキリスト教界とは関わりのないことです。もとより『新しい契約』に参与していませんし、聖霊の証拠もないからです。

そこで「小麦の間に悪魔が撒く毒麦」についての洞察が深まることになります。
『小麦』が『王国の子ら』であるというのは、『新しい契約』に預かり、その契約を地上の生活で全うし、天界に召されてキリストを頭石として神殿となる、つまり『神の王国』の一員となり、全人類を贖罪する天の祭司、また地を支配する王となることを意味するのです。
これは悪魔が何としても阻止すべきもので、そうしないと自分が裁かれ滅びを被ることになります。

そこで悪魔には、神がイエスを介して聖霊を注いだ人々の間に背教の誘惑を仕掛け、聖徒でありながら不忠節となって『契約を離れる』者たちを『毒麦』として生え出させることを目的に『撒く』理由があるのです。
聖霊を注がれた者たちが各々試練を克服するか否かはしばらく時が経って結果が分かるところは、『毒麦』が成長するまで『小麦』と見分けがつかないほど外見が似ているというところで、この例えは見事にその事情を描いていると言えましょう。

しかし、終末での聖徒の裁きも進行してゆくに従い、毒麦の姿も露わになってくるでしょう。『毒麦』はやがて天使らの手によって刈り取られるときに選別され、火にゆだねられることになるわけです。


◆小麦が撒かれ毒麦も撒かれる

ですから『小麦が撒かれ』、つまり聖霊を注がれる『聖なる者ら』が現れてこそ『毒麦』も撒かれるので、『小麦』つまり『聖徒たち』が存在しない状態、つまり聖霊の注ぎの無い時代については「小麦と毒麦の例え」を考慮に入れる必要がありません。
福音書が揃って証しているように、終末には聖霊によって語り為政者らの前に引き出される弟子たちが存在することになりますが、そのような人々を今日どこに見ることができるでしょうか。
確かに、そのような弟子たちを通して『諸国民への証し』は依然として行われていないのですから、今日では『毒麦』はおろか『小麦』さえ撒かれてはいないのです。
それはキリストの再来『臨在』が起り、再び聖霊の注ぎが起ることを待たねばなりません。

しかし、今日までのキリスト教界はこの見解を持たずに来ました。
その理由といえば、西暦二世紀に聖霊の降下が止み、キリスト教徒にとってさえ『聖霊』がどのようなものなのかが分からなくなってしまったことがやはり大きな原因でしょう。

時代が進むにつれ、『聖霊』を知らない世代が進み、「キリストの不在」という見方が薄らぎ、『聖霊』を注がれた人々に向けて書かれた聖書を後の世代の人々が読むときに、聖霊は自分たちにもあると思い込んで解釈しますから、格別な『聖なる者』また『聖徒』という考えがなく、信者は誰もが「クリスチャン」と一括りに考えることになります。
その弊害として、ここで取り上げている「小麦と毒麦の例え」についても、「収穫の時までどちらも生育するままにしておく」というところを、キリストが現れてから終末まで歴史上ずっと続くものと捉えることになります。

しかしこの解釈では、種の撒かれた『畑』に相当する『世界』の中での誰が『小麦』であるかに誤解があり、「良いクリスチャン」と「悪いクリスチャン」とが居て、良い方は『天国』という倉に納められるものの、悪い方は『火で焼かれる』つまり地獄に堕ちる、というような平板な理解に終わってしまいます。
その誤解が進んで「携挙」などの概念を作り、聖徒の天への召しを誤解し「良いクリスチャンの選別の時が来る」ともされていますし、あるいは、この『小麦』の選別によって、本当に正しいキリスト教の宗派が明らかにされるとも教えられ、キリスト教団体の正当化に利用もされているのでしょう。

ですが、それらの教えには共通して『聖なる者たち』が何故集められるのかについての理解は無く、ただ良いキリスト教徒を天に召し、天国の至福に入れるためというところが目的の精々です。そこにアブラハムに約束された『地のすべての氏族が祝福を得る』という人類全体に向けた利他的で大志ある精神は、個人のご利益にこっそりと置き換えられてさえいるのです。

それでは、キリストの語られた言葉の奥深さや広大さを、浅薄な利己心を煽る材料にしていることになってしまいます。
ならば、キリスト教界はキリスト教の神髄である『神の王国』の重みのどれほどかを理解していないことになり、その点では悪魔の方が遥かにその価値を熟知していて、『毒麦を撒いて』まで妨害しようと『小麦』が撒かれる時を密かに狙っているというべきでしょう。

しかし、『小麦』が収穫されて出来上がる『神の王国』こそが、すべてのアダムの子孫にとって唯一の希望であり、神との絆を回復し永遠の命に至るただ一筋の道となるのです。そこで毒麦を撒いた悪魔の目論見は、終末にバッサリと刈り取られ業火に焼かれて絶え果てなくてはなりません。
終末には、誰もその策略に乗るようなことがないよう目覚めている必要が生じ、それがこのように例えとして事前に知らされていたのです。
この警告に違わず、その『毒麦』の毒気にさらされて、脱落聖徒ばかりでなく多くの被害者が出ることをも聖書は暗示しているのですが、これも終末に起きるとされているもので、それが新約聖書で繰り返し『不法』と呼ばれているものです。

さて、その毒はどう人を損なうのでしょうか。









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キリストの例え話 第二巻 解説全18話

1 .幼子のようにならなければ
2 .二人か三人が集まるところには
3 .赦さなかった僕の例え
4 .ペテロに託された鍵
5 .大勢が東からも西からも来て
6 .羊の囲いの例え
7 .悪い耕作人の例え
8 .盛大な婚宴の例え
9 .魂を殺すことのできない者どもを恐れるな
10.ミナとタラントの例え
11.座って費用を計算し
12.駱駝が針の穴を抜けるようなもの
13.小麦と毒麦の例え
14.十人の乙女の例え
15.羊と山羊とを分けるキリスト
16.不正な管理人の例え
17.成長する種の例え
18.道であり、真理であり、命である





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