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放蕩息子の例え

2019.12.07 (Sat)


放蕩息子の例え
(ルカ15:11-32)



ルカ15章に含まれる幾つかの例えの中でもこの「放蕩息子の例え」は、
神に帰依するまでに悪行を重ねていた人であっても、キリストへの信仰によって許多の罪への赦しが与えられることに於いて、神の憐れみの深さを教えることでは福音書の中でも読む人の心に訴えるところの大きい名場面でもあります。
確かに、イエスは『人はあらゆる罪も冒涜も許される』と語られました。それほどまでにキリストの犠牲は人々を赦す価値があるからです。

それに加えてこの例え話では、自分が神に是認されていると考える当時のユダヤの人々が、社会一般の道徳的生活に達することのできない人々を蔑んで、宗教での階級差別をしていた道徳上の不公正を暴いてもいます。これは今日どこの宗教や社会でも起こっていることでしょう。

さて、『病む人にこそ医者が必要』また、『わたしは、義人を招くためではなく、罪人を招くために来た』と語られるイエスの許に、ユダヤ社会では評価の低い階層にある収税人や娼婦たちが集まっていたのも自然なことでありました。キリストは『裁くのではなく救うために来た』と言われる通りです。これらがパリサイ人に向けて語られた言葉であるからには、イエスと彼らとの違いがあったことは言うまでもないことです。


これら収税人や娼婦というような人々は、宗教家らからは汚れた罪人とされ、ユダヤ教を教える会堂に入ることさえ許されていませんでした。彼らが聖なる物事に近づこうと思っても、その職業や生活習慣そのものが悪とされて相手にされず、実際に収税人などは税率以上を人々に強要しては迷惑も与えていたと伝えられます。エリコの収税人ザアカイが、イエスに『わたしが誰かからゆすり取っていましたら四倍にして返します』と述べた背景も収税人という職業がどんなものであったかを物語っているわけです。(ルカ3:13/19:8)

収税人と言えば、港に商人の船が着くと積荷に不当な税金を掛け、砂漠を越えてきたキャラバンにもたかり付いて私腹を肥やし、ときには困窮した人々をさえ脅して、払えないなら貸し付けたことにして取り立てて回るというギャングのような悪辣さであったと云われます。
ですから、収税人であったマタイがイエスの一行の金庫番をしなかったのにはその背景があってのことでしょう。
そのように彼らは周囲から『罪人』と見做され、人々から避けられていましたから、話し相手といえば同業者くらいであったといわれます。彼らも同じユダヤ人でありながら、その行いのために父祖伝来の聖なる契約とは無関係とされ遠ざけられていました。

しかし、イエスは彼らが近づくことを妨げず、彼らが抱くイエスへの信仰を認め、食事さえ共にし、神に関わる話をして聞かせるのでした。
それは、ユダヤ教の会堂で聖書の朗読を聴くことさえできない彼らにとっては、まことにありがたい機会となっていたでしょう。
ですが、一般のユダヤ人からすれば、あの奇跡を行う人、ナザレのイエスが本当に神からの人であるにしては、その周囲に集うのが『罪人』たちであることが非常に不釣り合いに見えたのです。


◆清さを誇る人々
やはり、当時の宗教家らはイエスの寛容さが気に入らず『この人は罪人たちを招いて食事を一緒にする』と批判します。(マタイ15:1-)

宗教家らは、旧約聖書を熟知し、モーセの律法にある613もの掟は暗記しているほどであるばかりか、当時にはそれらの決まりを生活の中でどのように守るべきかを定めた自分たちの規則を無数に作ってもいたのです。
その事をイエスがどう評価なさっていたかについては、イエスの弟子たちが手を洗わないで食事を始めた場面にも表れています。

それは、ただ「食事の前には手を洗いましょう」という常識が弟子たちに欠けていたということではありません。
「モーセの律法の掟を間違いなく守るため」という名目を掲げたユダヤの宗教指導者、特に律法学者ら(タナイーム)とパリサイ派の人々は、律法の定めよりも厳格な規則を守ろうとしていたので、その規則は律法の613の規定を遥かにしのぐ無数の決まり事を生み出していました。
それらは元々モーセの律法と共に口頭で人から人へと代々伝えられてきた「口頭伝承」(ミシュナー)であったと彼らは主張し始めたのですが、その伝承の真偽を含めていろいろと無理がありました。

彼らが自分たちで定めたそれら多くの決まり事を知っていても、そのように生活できる人々は多くはなく、儀式上の清めなどにはある程度の経済的余裕が必要で、この当時のユダヤ教徒で自分がモーセの律法を守っていて神に是認されていると思い安心している人々は、同時に上流のステータスを誇ってもいたと伝えられています。
その一方で律法と口頭伝承についてよく知らない人々を彼らは大いに見下して「地の民」(アム ハアレツ)と蔑称で呼んでいましたが、その態度はイエスの追随者を含んで『律法を知らないこの群衆は、呪われている』と言い放った場面がヨハネ福音書に記録されていることからも明白です。(ヨハネ7:49)

その彼らが食事について決めたことと言えば、まず手に巻き付けた経札の紐を解き外し、それから指先から肘までを水で洗い清めなくてはならないということでした。これは衛生上の問題ではなくて、儀式的な自己満足となっていたのです。
加えて、「食前の祈り無しにはどんなものも食べてはならない」という規則もありましたが、これもやはり律法には無い律法学者の付け加えであり、この習慣に負けないようにとキリスト教徒も食事の祈りを習慣化したのでしょう。(タルムード/ベラホート編)
イエスも食事の前に祝祷をする場面が何度か福音書に描かれていまし、使徒たちも会食でそうする姿が見られます。しかし、聖書にその決まりがあるわけではありません。

当時の宗教家は、聖書のひと言に多くの註解を付けてはあらぬ方向にその意味を捻じ曲げ、勝手に多様な規則を作っては自分たちの模範的行動を自画自賛していたのです。実際、ユダヤ教の口頭伝承は「聖書という一本の糸からつり下げられた山脈のようだ」と言われるほどに膨大な註解や規則と怪しげな伝説とで出来上がっています。その集大成であるタルムードが聖書のように流布しない原因といえば、その読んでいて頭が痛くなるような凡庸な繰り返しや民族差別の閉鎖的な言葉があって、世界から讃えられ愛される聖書に比べられるような出来では到底ないからです。

そのような規則好きの宗教家らに『あなたの弟子たちは、なぜ昔からの伝承を破るのか。彼らは食事の時に手を洗わない』と非難されたイエスはこう言い返されました。『ではなぜ、あなたがたも自分たちの伝承によって、神の掟を破っているのか』

福音書を開いてそこを読み、当時のユダヤを覗くなら、イエス・キリストと宗教家らの対照から、もっとも端的な善と悪の対話が展開されることを見ると言っても過言ではないほどです。本当に根深い悪というものこそ善を装ったもので、悪を正当化することによって悔いを拒否するものだからです。

キリストの当時の細々と規則を守る人々は、自分たちが神の前に「義人」とされていると思い込み、そこに自負心を抱いていましたから、そうすることのできない人々を見下す誘惑は小さなものではなかったことでしょう。
しかし、神経質に規則を守る彼らはイエスに『ぶよを濾し取り、ラクダを呑み込む』と非難されてしまいました。つまり、小さな善を幾つも行いながら、実は大きな悪を犯していたのです。(マタイ23:24)

その典型的な姿として描かれるものでは、「放蕩息子の例え」を記した同じルカ福音書の少し後の18章に「収税人とパリサイ人の祈り」の例えがあります。
パリサイ人は神殿に上ると、生き生きとしてこう祈ります。
『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この収税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一を献じているのです』(ルカ18:11-12)

これは自惚れというものです。ほかの人を踏み台にして自分を高め、優越感に浸り満足しています。
収税人はと言えば、罪深い自分をはばかって遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、自分の胸を打ちながら『神よ、罪人のわたしをお赦しください』と言うばかりです。もちろん、そう祈るからには収税人らしい悪行があったということなのでしょう。
それでも、この例えの結論としてイエスは『神に義とされて自分の家に帰ったのは収税人であって、あのパリサイ人ではなかった』と言われます。

これら二人の違いはまったく大きなものですが、ふたり共に自分たちへの神の眼差しがどのようなものであるのかに気付いてはいません。
それでも自分の非を悔やむ収税人はともかく、自分が神から受け入れられていると思い違いをしているパリサイ人の方は神の前に危機的状態にあるのですが、本人には一向それに気付くところはないようです。

普通なら人は自分から進んで悪人になろうとは思いません。
善なる道を歩んで神の是認の内に入りたいと願うのは自然なことで、また褒められるべきことと言えましょう。
しかし、忘れてならないのは、人は誰も義人ではなく、皆がイエス・キリストの犠牲を必要とする、アダム由来の『罪人』であるところは誰も変わらないということです。(ローマ3:9-10)
実はモーセの律法もそのことを知らせる働きを負っていたのですが、ユダヤ教徒はそれに気付かず、律法を守れば神の前に義人とされるとの一点張りであったところに「自らの完全な犠牲を捧げるメシア」であられるイエスを迎えてしまっていたのです。(ローマ7:7)



◆放蕩息子の例え
宗教的には恵まれない下層民に寄り添うイエスは、宗教的立場に満足していたユダヤの宗教家らに向けて、この「放蕩息子の例え」を語られました。
富裕な家に二人の息子が居て、弟の方が「わたしの受け継ぐ分の財産をください」と父に願い出ます。
そこで父親は息子二人にそれぞれの相続財産を分け与えました。

すると弟の方は出掛けて行って、娼婦と一緒に贅沢三昧の生活をし、財産をすっかり使い尽くしてしまいました。
しかも折悪く、その地方には飢饉が襲ったので、食べることもままならす、ある人のところに身を寄せたものの、畑で豚の世話を任されます。
しかし、困窮は離れず、豚の餌であったイナゴ豆で腹を満たしたいと思うほどの身の上になっていました。

イナゴ豆は乾燥によく耐える植物で、滋養に富んだ食品ですが、飢饉の中でも得られた貴重な食料であったでしょうけれども、それさえ放蕩した息子には与えられず、云わば「豚以下」の扱いを受けていたということでしょう。しかも豚といえば、律法では汚れた動物とされ、ユダヤ人なら飼うこともしないような忌むべき家畜でありましたから、豚飼いの仕事そのものが、イスラエルからもすっかり落ちぶれたことを息子に絶えず知らしめていたでしょう。

そこで彼は父の家を恋しく思い出しました。
家には有り余る食べ物を受ける多くの雇人がいました。そこで、そうだ「父よ、わたしは天に対しても、あなたにも罪を犯しました。 もう、息子と呼ばれに価しません。どうぞ、雇人のひとりにしてください」と言おう!と思い立ちます。
イエスはそこで彼は『本心に立ちかえった』と言われます。
その意味は、自分の歩みの誤りを悟り、謙虚に出直す決心をしたということなのでしょう。

しかし、頑固な父親であれば、財産を浪費した上のそんな虫のいい改心など聞き入れられるものではないでしょう。

ですが、下の息子が家に向かうと、何と父親は遠くから彼を見つけます、そのみすぼらしさを哀れに思ったのでしょう。変わり果てた下の息子に自分から走り寄って行き、息子の首をだいて接吻したとあります。
「わたしは罪を犯しました。雇人にしてください」と言っているその息子に、父は僕たちに命じて、急いで最も良い服を持って来させ、手には家の権威を持つ指輪をはめさせ、足には自由人の証しでもある履物を履かせようとします。

何という光景でしょうか。
本人が雇人にして欲しいと言っているのに、この父親はそれを聞いていないかのように大切な息子として迎え入れ、哀れな身繕いに代えて、一家の子としての威厳ある姿を与えようとするのです。そればかりか、肥えた子牛を屠り、食べて祝うことまで始めます。これはたいへんな待遇となったものです。

そしてこの息子の散財も放蕩も責めることもなく、こう言うのでした『この息子が死んでいたのに生き返り、居なくなっていたのに見つかった』。

この例えをイエスから聴いていた人々は何を感じたでしょうか。
放蕩した上に都合よく許された下の息子の「幸運」ではなかったでしょう。すべてを赦す親の情の美しさではありませんか。
確かに彼は放蕩を尽くしたとはいえ、その結果『息子と呼ばれるに価しません。雇人にしてください』と願い、「息子であるわたしを憐れんで以前のようにしてほしい」などとは言っていないのですから、息子も自分の歩みを悔いてはいるのです。

しかし、それに対しての父親の寛容さは、息子の再獲得という喜びの内にその云われを持ち、そこに彼が戻ったということだけですべてを赦している姿が描かれます。つまり戻ったことばかりを喜び、悔いの言葉も聞かずに過去の悪行をまるで問わないのです。

それは、当時のユダヤ教の道徳性から落ちこぼれ、律法の基準も踏み外し罪人とされ、アブラハムの子らと呼ばれるにも価しないと自らを評価していたイスラエルの下層民たちへの天の父である神の想いがどのようなものであるのかを知らせるものであったと言えます。
いや、むしろ、自らに不道徳を意識する人々こそが、謙虚さに於いて神の目に適っていたことでしょう。


◆弟を受け容れない兄
イエスはその話に続けて、彼の兄である上の息子の反応を語ります。
兄の方も去って行った弟が見出されたことを喜ぶかと言えば、むしろ、宴会まで開いて喜ぶ父の姿が不満で、しかも弟は財産を食い潰した悪者と思っています。
そこで、この兄は怒り立って家に入ろうともしません。言い付けを守り続けてきた自分のためには子羊でさえ一度として与えたこともないとすねるところは、この兄が父の処遇に不満を囲っていた様子が見えています。自分の謹厳な従順には対価に相応しい酬いがないとも思っているのです。

ですが父は長男には『わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。居なくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ばずにおれようか』と言うのでした。

ここで兄と弟とを分けるものは、弟の不行跡ではなく、そこからの悔いを通した謙虚さなのでしょう。
この例えを聴いていた宗教家たちはこの話に心を動かされたでしょうか。律法を守ることばかりが神の前に喜ばれるのではなく、そこから悔いて道を改める人々にはそれ以上の意味があることを心の固い宗教家らにイエスは悟らせようとされていたのです。本来、彼らもそれを喜ぶ理由はあるはずです。兄弟であり、同胞なのですから。

ユダヤ教の会堂に出入りできなかった人々、その会衆から排除されていた人々にとっては、いなご豆で空腹を満たしたいと思う放蕩息子のようであったのでしょう。
神の恩寵から締め出されていた彼らが、イエスの許で神に関する言葉の数々を聴けるようになったことを『兄』は喜ぶでしょうか。

やはり、宗教家らの反応は芳しいものとはなりませんでした。
例えの兄と同じように、宗教家らは悔いる人々を喜ぶことも受け入れることもできず、結果として『家に入ろうと』、つまり、キリストを受け入れることなく、むしろ退ける態度によって『神の王国』への招待に応じようとしないことを示すことになってしまいます。弟の帰還も親の喜びも不満であるとしている彼らの姿勢は、この例えを通して、律法に従いながらも、情愛の無さがはっきり知らされることにもなりました。



◆常に省みるべきこと
この兄は、ふたりの息子それぞれに対する父親の処遇を損得勘定から見ているようで、自分の弟を愛しているようには見えません。
そこがまた、宗教家らに訴えるべきところでもあったのでしょう。

潔癖症的な律法主義がもたらしていたものと言えば、それは利己主義でもありました。
パリサイ人がそうであったように、自分は神に是認されていると思うとき、その証拠が欲しいものです。
すると律法を守っていないように見える人々を目にすれば、そこで優越感が避けられません。それがまた自分の正しさの証拠とする誘惑ともなり兼ねないでしょう。

ですが、これはキリスト教でも起こり兼ねない問題でもあるのです。
新約聖書には、確かに弟子たちが神の前に『罪』を許された状態にあると書かれています。
また、それらの弟子たちは『世の基が置かれる前から選び出されていた』ともあります。
ですが、それらの言葉が必ずしもその読者に向けたものであるという証拠があるでしょうか。
教会の教え手たちは、「あなたが信仰を持ったことそのものが証拠です」または「神は信仰あるどの人も受け容れます」と言うことでしょう。

そこで、聖書に書かれているからというだけで「クリスチャンは罪を赦されている」と思い込み、自分が信仰に入ったのも、遠い昔から選ばれていたことで、「救いは生来的」とも「神が一方的に自分を選んだ」などと教えられるかもしれませんが、そのような信仰のもたらすもの、その良識を外れた精神はどんなものとなるでしょうか。
隣人愛を説くはずのキリスト教が、地獄行きの不信者とは違う天国行きの信者の幸福を教えるとすれば、それはどこかで道を踏み外しているのではないのでしょうか。
これが陥り易い罠であることを、独善的なユダヤの宗教家らを通し、聖書の字面の言葉にこだわり、愛や憐みを持たないことへの大きな警告として聖書に書かれているのでしょう。

パリサイ人の自信は、律法を細々と守る行動にありましたが、実は同時に失っていたものがあります。
それが『愛』であり、同朋を愛していたにしては、病人たちがイエスに癒されるのを見ては、安息日に癒しをするのは律法違反だと言い張り、イエスの許で下層民が言葉を聴く姿に不平を鳴らしていたのも、共感が欠けていたためと言うほかありません。その結末はイエスへの敵対となっていったのでした。

キリスト教徒でも、やはり「すべての人がキリストの犠牲を必要とする罪人」であることを忘れるとすれば、この「放蕩息子の例え」の兄のように、隣人を愛することを離れてパリサイ人の悪い精神に陥り兼ねないでしょう。

確かに、新約聖書には『神が義と宣した』人々、また『有罪宣告の無い』弟子たちのことが書かれています。(ローマ8:1.33)
しかし、信仰を持ってバプテスマを受ければそのように義とされるというわけではありません。

聖書が語るところの「その人々」は、人類に先立って『罪』を赦された『初穂』として刈り取られる『聖徒たち』であり、『新しい契約』に入ったことが奇跡を行う『聖霊の注ぎ』によって証しされている人々の事を言うのであり、使徒時代には奇跡の聖霊を注がれた弟子たちは存在したものの、今日の世界のどこを探してもそのような人は現れていません。彼らは、人類の救いのために終末に再び現れることでしょう。その時には『聖霊によって語る』弟子たちの現れが予告されているからです。(マタイ10:18/ルカ21:12-15)

彼ら『聖徒』は、キリストに続いて『どれほど恐るべきことをも恐れず』『自分の魂を見出そうとせずに見出す』という態度で迫害に臨む人々であり、自分を無にして『新しい契約』を全うすることを試みられるのであり、キリストの道を歩む彼らは、天国の安楽を待ち望んでいるような利己心とは無縁です。(マタイ10章)

キリスト教徒である自分は「罪を赦されたクリスチャン」と思い込むのも自由ですが、その優越感がどんなものをもたらすかを省みるなら、たとえ教会の教えであっても喜んで飛びつくようなものではないでしょう。
「神の是認が自分にある」と思えば気分も爽快でしょうし、心理作用としてはプラスに働き、自信を持って生活できるのかも知れず、その状態を善なる神からの祝福と思う教会員は少なくないようです。

しかし、イエスはこうも言われています。
『良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない』、『あなたがたは、その実によって彼ら(偽預言者)を見分けるでしょう』(マタイ5:18.20)
では「自分の罪は赦されている」と思うことはどんな「実」を結ぶでしょうか。まさに、イエスからそう言われて癒しを受けた人々も永遠に生きたわけではなく、同じ病に罹患することさえあったのではないでしょうか。そして最後には死を迎えることでは、他の誰とも異なりません。まして、不信者への優越感を抱く高慢な人を神が御許に召したりするでしょうか。
いや、やはり、すべて人はキリストの贖いと、道徳性の良し悪しを問わない赦しとによってこそ、神の是認の内に入れるのです。

神は自己義認のパリサイ人ではなく、「わたしは罪を犯しました」と悔いを表す人々こそを、父親のように喜んで迎えてくださるというこの例え話の教訓には、キリスト教徒であろうとなかろうと、人の心に響くものがあり、そして本当に悔いた人は謙虚であろうとするものです。そして神の赦しは、罪の重い者にとって豊かであり、その人にはより多くを感謝する云われもあるのです。(ルカ7:47)

聖書には『神の求める犠牲は、打ち砕かれた霊。砕かれ悔いた心。神よ、あなたはそれを侮られません。』と有り、他方で『主はみ腕をもって力をふるい、心の思いが奢り高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げます。』とも有ります。(詩篇51:17/ルカ1:51-53)

さて、キリストの教えに従うとは、どちらのような精神態度を持つことなのでしょうか。






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