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宗教からの奇行の原因 - 随想 -

2019.12.01 (Sun)


宗教から起こされる奇怪な行動
その不自然さはどこから来るのか


どうして、傍目には非常におかしな行動に人を駆り立てる「宗教」というものに人々は態々奴隷のように従ってしまうかを考えるに
おそらくは自然な思考から徐々に引き離されていった結果が、あのように極端な考えや行動や表れているのでしょうけれども、その過程を知らない者にとってはただ異様なばかりです。

それは「柱頭行者」のようにまったく奇異にしか見えない苦行ばかりでなく、細々した規則に従う潔癖症のような人々にしてもそうなのですが、結局は、自分に関心が向いているだけのことではないのでしょうか。

宗教というものの「怖さ」はよく語られるところですが、人は何を好き好んであのようなものに関わるのでしょう。
異様な行動をを促す宗教の怖さを感じると、たいていの人は自分も「感染」しないように心を閉ざし、どこがどうおかしいのかを指摘することはまずありません。

しかし、この件について思うところを書いて考えを整理してみようと思うのです。

さて、人は自分で生まれて来たわけではありません。
気付けばこの世に生きていたのであり、なぜ生きるのかの解説を受けて来たわけでもありません。

ですから、人は「自分という難問」を抱えて生きていることになります。
その「難問」には、「自分はなぜ生きているのか」「何のために生きているのか」という自己存在の謎があり、いずれは「死を迎える」という陰気な問題にも直面しないわけにゆきませんし、日々生きるための苦役の空しさをどうにか紛らわす必要もあるでしょう。

これらの難問を意識しないようにして過ごすことも一つの対処法ではありますが、人生を俯瞰すると「自分とはいったい何なのか」という事はどこかしらで考えに浮かぶことはまず避けられたものではありません。

「一度きりの人生だから悔いなく生きたい」と願うのは至極全うなことと言う以外に何と言えましょうか。
しかし、「間違いのない生き方の秘訣」やら「規則」などに従うことでそれが叶うなら簡単なことで、スピリチャルなどが流行るのも、「従っていれば良い」という安易さからでしょうが、人に「天からの指導」を求めさせ従わせるところでは経典の宗教も然程は変わりません。

所謂「カルト」と呼ばれる、信者の想いも行動も強く規制する宗教に入る人々の特徴の一つには、周囲の親しい関係者たち、また社会一般の規範のようなものに批判的で、実際に深い敬意を払えるような優良な指導を見出していないと感じる人々、また、自分が放置されていると感じていた人々が少なくないとのことです。

それは、その人の周囲の未熟度や、その人への関心の無さを表してもいるのでしょう。
しかし、社会一般はこの点で実際さほどのものを与えられない実情にあります。
この隙間を狙って、人々を支配したいと心の底では欲している宗教家らが人集めを始めると、そこそこの人数が集まってもくるでしょう。

そこで信者となる人々は、自らの周囲にはない、それ以上の「指導」や「関心」の必要を求めているのです。そしてこの人々が喜んで信じるのは、社会一般よりも優れたと思える規範であり、仲間の信者からの関心であり、そこで周囲からの遊離が起こり始めるのも当然と言えます。宗教教師も社会を見下し、または敵視さえするように仕向け、そうして集団に所属し、「この世以上」であることに優越感を抱かせ、信者の囲い込みを行い、新たな小社会を与えますが、それは指導者にとって多様な搾取を可能にもします。これは一見、奴隷制時代の農園(プランター)を思い起こさせるものでもあります。しかも働く者達は自発的に判断を放棄し、個性を失って働いてくれるのです。

しかし、これは紛れもなく信者にとっては損失です。なぜなら、その人々は社会に勝るものを探していながら、それ以下のものを掴んでしまい、しかもそのことに気付かないのです。つまり気付かれないように誘導するのが宗教家としての手腕です。そこで、多くの「カルト」と呼ばれる宗教が信者たちから情報を制限する必要が生まれ、定期的な集会への参加が必須のものとされます。つまり、常に信者の想いを制御して、理性的自己判断をさせない必要があるので、崇拝の名を借りて判断力を麻痺させ続けないとその教理や行動を強制できなくなってしまいます。この「自己判断」が個人が自らを『神の象り』として保つ「最後の砦」のようなものなのでしょう。ですから、カルト指導者として出来る事が二つ思い浮かびます。一つは自分で考えて判断することを「悪」として教えること、二つ目は外の情報を与えないことです。

そこで、宗派の中では教理の無謬性が教えられて、指導の絶対性が強調され、他方でインターネットを敵視、または独占化するところも少なくありませんが、その制限そのものが信者から自由で広い思考や判断を妨げ、自発性ある良心の働きを強制によって奪うことです。
なぜなら、人間は元より「カルト」向きには出来ていないからであり、「カルト」が求める事は、『神の象り』という人としての尊厳を捨てることだからです。それによって益を得るのは信者ではなく、紛れもなく教団であり、指導者です。

しかし、人間にとって「従う」ことは、自ら判断してより良い生き方が何かを考え続ける苦労がなく、体はともかく頭では他人任せでよほど「楽」なので止められないのでしょう。しかもそれが絶対的に価値があり、神の是認があると吹聴されればその安心感が宗教家の旨味です。そこに集まるのは奴隷予備者たちなのですから。あとは、幾らかまともそうな理屈をつけて「神はこう望まれています」と言えば、宗教家本人も驚くほど人は従順になるのです。しかも宗教家にとって吹聴した事は、病気の癒しの請負いでもない限り、大抵は人の死後の事なので責任もありませんし、死んだ人に問い詰められる心配もないのです。

やはり、この世という場は、ほとんどの場合で有意義な人生を人々に与えるほど甘いものではありません。
生涯を不自由なく終えられる人がどれほどいることでしょうか。
また、この世は不平等であり、社会には不公正が横行し、経済危機や戦争などの社会悪が有無を言わさず到来します。
病気や怪我は何時ともなくその身に生じかねず、それでなくても自然災害が覆いかぶさる危険性も避けられません。

このように有意義な一生、また幸福な生涯を阻害する要素の多いこの世を生きる人は、自分に不動な価値を添えること、つまり儚い命に持つに過ぎない自分の価値をどうにか保ちたいと願うものです。

人は、自分自身はもちろん、他の人についてもその存在価値を普段から実感しているものです。
その一つの表れとして、誰かが亡くなると弔いをする習慣を挙げられるでしょう。
それは故人を愛し、評価し、惜しむという精神の表れであり、それは故人ばかりでなく、自分を含めて人というものの価値を認識している証拠とも言えましょう。

ここで聖書の言葉を一言加えることが許されるなら、『悲しみの家に入るのは、宴会の家に入るのにまさる。死はすべての人の終りだからである。生きている者はこれを心に留める』という賢者ソロモンの言葉が相応しいように思えます。(伝道7:2)
もちろん、人は愉快に生きる喜びを必要としてはいるのですが、死の問題を避けてばかりいては自分の人生というものを考え、死ぬという問題に対処することを忘れてしまいます。

ですが、これは宗教を信じている人々でさえ陥っている問題でもあるのです。

と申しますのは、つまるところ、宗教の一つの働きには、「人間の価値をどうするか」という難問を何とかしてでも処理するというところがあるのです。

その「処理の方法」の一つが「死後の世界」つまり「天国」であり「楽園」ともなっていますし、輪廻転生もまたその類でしょう。
結論から言いますと、この世とは人の価値を相応しく認めるような場ではないのであり、そのことを最も承知しているのは、たいていは他ならぬその本人です。

そこで、この世に足りないものを何かで補充する必要があるのですが、それはかなり「深刻な不足」に対する補充と言えましょう。
宗教とは、この不足を何が何でも埋めようとして、人々がすがり求めるものであり、それが非現実な嘘であっても構わないところが便利でもあるのです。世の苦しみも「人を磨くための試練」としておけば、宗教家の立場もとりあえず安泰でしょう。

一方で、この世がもたらしている人間の価値の不認識のそっけなさは当然に世界普遍のものであり、「宗教」という人類共通の価値補充策を様々に練り上げさせてきたものです。
つまり、それが様々な「上なる者」(神)や教理や崇拝や信仰行動を存在させて、世界の各地でそれぞれに繁栄してきたということでしょう。その人類普遍の価値の欠損を埋める心理作用が宗教の本質ではないのでしょうか。それだけ「この世」という環境が人に苛酷だということです。そしてその対応策が様々な宗教であるでしょう。それぞれの宗教が与える益の特異性や大きさに応じて、信者には求められる事柄の程度や質が異なってきますが、それは益に見合う代価の支払いのようです。

そこで宗教を信じている人々でさえも「死の問題」を避けてばかりいて、対処を忘れる」危険性があると申しましたのは、宗教によっては自分の人生をどう生きるかについて、歪んだ見方をし兼ねないということなのです。

死後の幸福を説く宗教の場合、仮想上にしても人の価値は死後も保たれますが、現実では刹那的な生き方を選択し兼ねない危険も生じます。
つまり、死後の安寧と引き換えに現状の生また命を軽く見てしまう傾向への危険です。
そこで、その宗教の質が問われてもいるのですが、ある宗教が「教えに不備があるかも知れませんので自己責任でお願いします」などと信者に言うことはまずありません。ほとんどの宗教は、信者となることの益を請け負いますので、その教えは間違いのない絶対のものでなければ有り難くもなく、人心は離れてしまい兼ねません。つまり宗教とは教え手の欲と信者の欲の出会いから生じた便宜的関係という以外ありません。人と人との支え合いであり、神は名目でそこに居てくれれば十分です。

宗教の絶対化は、社会が全体で入信する「コミュニティの宗教」の場合には必須になってしまいます。そこでフランスが革命後に思想宗教の自由を掲げたときにどれほどの困難を乗り越える必要があったかには目を見張るものがあり、動機はともあれ百年をかけて流血まで見ながら徐々に達成されたものであったのです。

今日でこそ、日本のような国家環境では、当たり前のように人に信仰までを規定されることはなくなりましたが、実はこれも最近になっての自由であり、しかも先進国という限られた国でこそ当然の権利ではあるのですが、現実的には、多くの国に於いて人々に思想も宗教も自由があるとは言えません。思想や宗教の自由とは、人間が切り拓いた非常に優れた施策であり、公平性を教える良質な教育と、理想を堅持する大志のないところには存在し得ないものでしょう。大抵の人は放っておけば偏狭で利己的に傾くものです。

ともあれ、「基本的人権」として謳われるようになった思想宗教の自由は、人というものについて回る「宗教の必要」に自由さを加えるものとなり、自分の生涯をどう考え、どう生きるかをより良く自らの決定に委ねられる道となって開かれました。

しかし、残された問題は宗教の方です。
世界のあちこちで人間の必要を満たすべく興されてきたそれぞれの宗教が、本当に人の価値を保ち、同時に歪んだ生き方をさせてしまわないか否か、これは社会や為政者がジャッジするところではなくなり、個人の裁量に任されたわけです。
地下鉄サリン事件のような、ガイアナの集団自殺事件のような極端な実害のない限り、社会は審判者としては宗教に踏み込みません。

そこで、宗教が無謬を唱えてしまえば、人類が築き上げた思想宗教の自由など呆気なく相殺されるばかりで、それは牢獄から解き放たれた人々を別の獄に繋ぐようなものです。宗教の方は古代の蒙昧、中世の暗黒からどれほど進歩したのでしょうか。宗教には依然として人間の不合理性の未開の暗部が解消されずに残っており、それは人間が非常に愚かな事にさえ藁にもすがる思いで自分自身という難題を解決できないでいることの表れなのでしょう。

まさに、宗教が人の行動や生活様式に口を挟む場合、また、他の宗教や宗派に敵意を抱かせる場合、そこに実害がないとは言えない危険性にも注意が必要でしょうけれども、そこは自己責任となっているのが実情です。つまり、どの宗教を選ぶも自由という環境にはそれなりの危険があるのです。しかも、正面切って何かの信仰を否定し、信仰を止めさせる権限は法的には誰も持っておりません。

そうなりますと、人は自由な社会の中で、思想や宗教の大海に投げ出されることになるわけで、その大海の海水のほとんどは無信仰や、希薄信仰で構成されている一方で、貪婪な宗教家が肉食魚やクジラのように小魚を狙って跋扈しつつ、すべて世の潮流もあらぬ方向に強力な海流のように社会全体を押し流していることには気づき難いものです。

やはり、人は「自分をどう生きるか」という問いの答えを求めつつ、思想宗教の海を漂っているのでしょう。
いつかは死によって自分の価値や、自分の生涯を評価しなければならなくなる現実に正面から向き合わざるを得なくなる人間というものは、やはり宗教を手放せないでしょう。その点で言えば「無宗教」でさえ立派に宗教となっています。それも自己存在への対処法のひとつなのですから。加えて「考えないようにする」も対処法であり、それも一種の宗教ともなるでしょう。いや、宗教でさえ逃避となってしまうのです。

こうして人間と宗教の関係を見ると、宗教とは人が生きる上で必要とされる一方で、諸刃の剣であることになり、賢い判断が個人に求められていることが分かります。
しかし、それにしては人々が宗教ではあまりにも無防備に曝されているものです。しかも、これは個人で判断すべき生き方を含んでいますので、本来、誰かに相談して決めてもらう性質のものでもありません。

しかし、多くの宗教団体の信者は、教勢の拡大が善であると思い込み、とにかく誰かを信者仲間にしようとしていますから、「この信仰をするかどうかはよく考えてからにしてください」などと人権を保護しつつ言うでしょうか。
こうして社会と宗教の関係を考えると、「宗教には充分に気を付けて慎重にしてください」と言えるのは宗教家ということになるのです。これは社会構造上の矛盾です。

しかも宗教自身の最大の問題は、その不明性にあります。
これはつまり、宗教自身が抱える二律背反で、「信仰」というものが信者の主観による判断の結果であり、科学的に証明されるものではないからです。
もし証明されたなら、それは「信仰」ではなくなり、人の生き方に自由は存在しなくなるでしょう。

そこで宗教は本質的に証明の必要がありませんので、誰かを騙せればそこで成立するものなのです。
つまり、「虚構」がまかり通る世界が「宗教」の姿でもあるのです。人々はたとえ虚構でも自分という存在に安堵したいものですから、多様な宗教、相反する教理が並立するのも当然でしょう。それは人が見ている「夢」のようなもの、同床異夢です。

宗教という「虚構」の問題が解決されない原因は、その人間からだけの視点にあります。
つまり、自分が存在価値を持ってここに生きている以上、存在させた「何者か」を認める必要があり、「そちらから人間をどう見ているのか」というように、自分を一旦わきに置いて考えることなく、とにかく自分の価値の保存(保身)を何とかしようと焦れば、人間の欲に迎合した教理に酔ってしまい、却って自己価値を失い、宗教家の奴隷になり果てながらその実害にさえ気付けないという醜態を曝すことになってゆくでしょう。それは人からの願望で神を形作ってしまうからでしょう。一種の偶像のようでもあります。

さあ、そうなると人が「自分をどう生きるか」について、「正解」を宗教から得られるでしょうか?
これは「正解」ということでは得られないでしょう。

自分の限られた生涯を、間違いなく、充実感に溢れて生き抜くという前提にはじめから無理があるのです。
この世は、最初からそれを人々に提供しませんし、できません。個人の尊厳のような人間が創出し法に定めた価値についても、そう努めてもすべての人に配慮などできたものではないのです。

人は、この世に対して、自分と周囲の親しい人々の益を願って行動しているのですが、この世そのものの有り様を変えることはまずできませんし、人によっては思考の範囲外です。
精々が、社会を幾らか改善する程度で、本質的に誰にも価値を与え、幸福にすることなど有り得ませんし、人間自身がそのようには行動できないことは歴史も証明してきた通りです。

人々は、死後も自分の価値が残り、あるいは天国で、あるいは楽園で生き続けることを望むにしても、自分自身にそれを阻害する原因があることに思い致すことはまずありません。多くの宗教が、信仰すれば、拝めば、道徳律をまもれば・・などの自己価値の保存方法を説くにしても、つまるところ、個人の救いの請合いでしかなく、利己心を煽っているばかりではないでしょうか。道徳や慈愛を説きそうな宗教が、実は利己主義を教えているという矛盾がそこにあります。

人の価値を阻害するこの世を構成しているのは、紛れもなく自分たち人間であり、その自分たちが作り上げているこの世が自分たちの価値を阻害し、自ら宗教の夢を見させているというべきではありませんか。これは循環悪です。

この世に溢れる諸苦の根源を自らの内に持ちながら、そこから逃れる夢を見るのであれば、はじめから自らの諸苦の原因をどうするかを考えるべきではないのでしょうか。
それを教えない宗教は、ずっと「夢」を人に与えるでしょうけれども、それは原因と結果を堂々巡りさせる虚構というべきでしょう。

まさしく、キリスト教というものは、そもそも人が救いを必要としている状況の原因を特定する点で優れており、その悪の根源を人から除くという、もとより人間に不可能な事柄を教える点で特異であるのです。そのうえ「悪」の対極に「愛」があることを指摘したことでは他の追随を許さないほどの高みにあります。

しかし、教会でさえ、信者の天国行きを請け負うという教えに堕落し、利己心を煽る結果となってきたのはどういうことでしょうか。
そのうえ、その益を確かなものと吹聴するために、自説の正しさに頑なで、信者と不信者の間に「欲の壁」を築いてもきませんでしたか。「クリスチャンの生き方」なるものが、つまるところ、ご利益確定を印象付けるための差別化であるなら、それはただ人の欲を煽ることでしょう。

こうしてキリスト教という名の宗教も、他と然して変わらず、人の価値を保つことを看板に、却ってそこから外れ、カルト教団に至っては神の裁きからの延命を請合い、信者の信仰行動ばかりか、生活にまで細かく支配している姿を見なければならないのは大きな不幸というべきです。家庭内や親族間での暗黙の信仰の強制、不信者への蔑視や差別、こうしたことが人の価値を保全することでしょうか。
いや、明らかに逆でしょう。

しかし、人は何らかの宗教なしには済まないでしょう。
それが同時に自らを省みる人間らしさでもあるのですが、宗教というものが果たして、その人間らしさにどれほど貢献できているのか、人間らしさを高める方向に作用しているのか、これはかなり難しい状態にある、というのが実際のところなのでしょう。

人は、自らの存在の価値を保存しようとして宗教に頼り、結果として、その価値を見失い、奴隷化させられ、本人はたいへん良いつもりで不自然な奇行に走らされるのでしょう。それが不自然である程に、その確信が増すというスパイラルが起り、人々はその深い穴に巻き込まれてゆき、周囲との軋轢を生むことにもなるでしょう。

ですが、そのほとんどは利己心を煽られた結果というべきではないのでしょうか。
それで大半の宗教は信者の救いや益を騙り、信者は多いほど良いのです。
教祖と信者の飽くなき欲と欲との強固に固まった構造物が、宗教団体という名のグループ同士の間で、また信者と不信者との差別の壁を作るものとなってはいないでしょうか。やはり、奇行の本質は強欲の結果でしょう。







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