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あなたがたは世の光

2019.11.19 (Tue)


『あなたがたは世の光です。山の上にある都市は隠れることがありません。』
(マタイ5:14)


この言葉は、あの有名な「山上の垂訓」の中で語られたキリストの言葉です。
そのとき話を聴いていた人々に、光を世に輝かせるようにと言われます。
では、その『光』とは何について言われたのでしょうか?

また、なぜ『山の上の都市』を『光』に含めて語られたのでしょうか?
実は、この『都市』との関わりを知るなら、その『光』がどのようなものであるかを知る手掛かりを得られるのです。

まずこれを理解するには、この講話を聴いていた人々がイスラエル人であったことを考る必要があります。
なぜなら、イスラエルの人々であれば『山の上の都市』と言われたのが、彼らの首都エルサレムであることがすぐに分かったに違いないからです。

これは彼らイスラエルに与えられたモーセの律法の中で、すべての男子は年に三度の祭礼の度にエルサレムに上るよう求められていましたが、女性も子供たちも同行して祝祭を共にしていました。ですから、当時の神殿の中心にある『聖所』と呼ばれたイスラエル人だけが入ることの許された建物の中に「婦人の中庭」という女性のための場所もあったのです。

その祭礼一つである、秋の『仮小屋の祭り』(スッコート)は『収穫の祭り』とも呼ばれ、一年の収穫も終わることで人々は神の祝福である産物を喜びつつエルサレムに上り、その周囲に小さな小屋を建て、七日間その中で食事をするという定めがありました。
その祭りの特徴は神の恵みへの「歓喜」であり、神殿聖所には夜の間も大きな16の明かりが掲げられたことをユダヤ人の伝承であるミシュナーが伝えています。

その祭りの間、神殿の聖所の「婦人の中庭」には四基の巨大な燭台が置かれました。ユダヤの教典「タルムード」の伝えるところでは、金で被覆されたそれらの燭台は高さが22メートル(50アンマ)もあったとされ、頂上にはそれぞれ四つの金製の皿が有り、祭司たちの職服の古びた内衣や帯を裂いてを灯心とし、燭台に付属する階梯を若者が油壷を持って登っては、皿に油を供給したとのことです。(タルムード スッカー篇)

イスラエルの男たちは、夜通しそれらの間で歌い踊り、多様な楽器で伴奏されたともあります。
神殿そのものが、エルサレム市内でも幾分高いモリヤ山上に位置していたので、その光明は周囲を明るく照らし出し、『異邦人の中庭』と呼ばれた聖所の外側の境内はもちろん。その高く掲げられた光明はエルサレムからかなり離れたところからも見えたと伝えられています。

「山上の垂訓」をイエスがガリラヤの丘陵で語られたとき、この『世の光』の講話に聴き入っていたイスラエルの人々は、仮小屋の祭りでの聖都エルサレムの輝く姿を思い描いていたことでしょう。


◆諸国民の光
加えて、イスラエルには輝くべきもう一つの理由がありました。
この民族には、神から課せられた果たすべき役割があったのです。

今日のユダヤ人に、ユダヤ教の目的は何ですかと尋ねれば「諸国民の光となることだ」との答えを得るでしょう。
確かに、聖書の中に『諸国民の光』という言葉が出てきます。

イザヤ書の預言の第49章には、捕囚から買い戻されるイスラエルについて予告し、『あなたがわたしの僕となって、ヤコブの諸部族を再興し、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。むしろ、わたしはあなたを諸国民の光とさせて、わたし救いを地の果にまで至らせるであろう』とあります。(イザヤ49:6)
つまり、神が何者か任命した者(メシア)を通して捕囚に散らされたイスラエル(ヤコブ)の民を集め出し、元のパレスチナに帰らせることは実現しましたが、もっと重要な働きがあると神は言われているのです。

それはイスラエルの民が『諸国民の光』となることであったのです。
しかし、捕囚からの帰還が起ってすでに五百年が経つ中で、この「諸国民の光となる」という事が何を意味するのか、はっきりとは分からず、ユダヤ教の指導者らの中には、いずれはダヴィドのような強力な王が現れ、メシアとなって世界を統べ治めることであろうと信じる者が多く、イエスの御許に集まった使徒たちも、自分たちの主がそのような栄光の王と成られることを心待ちにしていた様が福音書に数回記されています。

その期待は、彼らの主イエスが復活した後でも変わらず『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか』と使徒たちは天に戻ろうとするイエスに尋ねてもいます。

そのときイエスは『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない』と答えられましたが、メシアとして世界を治める時が来ることは否定されませんでした。(使徒1:6-7)

ですから、やはり『イスラエル』と名の付く民が、メシアによって集め出されるだけでなく、『諸国民の光』となって世界の果てにまで神の救いをもたらすということでは変わることはないのです。

この点を裏付けるのが、イスラエルに与えられた律法契約というものの目的でもあります。


◆律法契約の目的
「律法契約」というのは、エジプトの奴隷身分に在ったイスラエル民族を、神がイエスより千数百年前の預言者モーセを用いて導き出し、パレスチナの地に入る以前に一つの国家として整える意味を持って与えた六百に及ぶ定めからなる法律として与えたものです。
その最初の十ヶ条は、神自らが二枚の石の板に書き記したもので「十戒」とも呼ばれました。

多くの定めからなる律法を守る事が以後のイスラエル人に要求されたのですが、その目指す目的が何であるのかを神はこう言われていたのです。
『今、もしわたしの声に聞き従い、わたしとの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民の間でわたしの宝となる。全地はわたしのものだからである。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となるのである』(出エジプト19:5-6)

ここにイスラエルの民が「律法契約」を守ることの最終目的が書かれています。
それはつまり『あらゆる民の間で』『祭司の王国、聖なる国民となる』とあるのです。神にとって『宝となる民』とはどれほど高貴な人々でしょうか。

では、世界の人々にとって『聖なる国民』となり、また『祭司の王国となる』とは、いったいどうなることを意味しているのでしょうか。
また、そのためにイスラエル民族が選ばれたのは何故なのでしょう。

もちろん、イスラエルが神との特別な関係に入るよう招かれたのには理由があります。それは、彼らの父祖アブラハムに対する『神の約束』であったのです。(ローマ4:16/創世記22:15-18)

モーセから更に四百年以上前のこと、イスラエルも存在していない昔に、遊牧民であったアブラハムに神は一つの事を申し出ました。
それは彼の子孫が増えて国民となること、またパレスチナの土地を彼らに与えるということでありました。
彼はその言葉を信じてパレスチナまでの長い旅をし、そこで正妻との間に貴重な独り子を得ました。

神はその独り子イサクからイスラエル民族を作り出し、その民をいよいよパレスチナに迎えるに際して「律法契約」を与えたのです。
そのずっと前に、神はアブラハムにこうも約束していました。
『あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のあらゆる国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう』(創世記22:17-18)

ですから、アブラハムの子孫の民に対する神の意志は「あらゆる国民を祝福する」ということであったのです。
そして、それが律法契約の目的として、更に具体的に『祭司の王国、聖なる国民となる』ことが示されていたことになるのです。

しかし、実はアブラハムへの約束に関わる神の意志は、それよりずっと以前から明らかにされていたのです。
それは何と、あの『エデンの園』での場面であったのです。


◆『女の裔』という謎
この『女の裔(すえ)』というのは、早くも創世記の3章15節に出てきます。
その場面はというと、アダムとエヴァが禁断の木の実を食べてしまった後のこと、創造の神から、蛇にも、エヴァにも、アダムにもそれぞれにその後の処置が言い渡されたところです。そこで人間は永遠の命から遠ざけられ、苦労して生活し、子供を生んでは世を去って行くというこの世の空しい有り様の始まりが宣告されています。

そこで害の元凶となった蛇について神はこのように宣言されました。
『神YHWHは蛇に向かって言われた。「お前はこのようなことをしたので、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は生涯這いまわり、塵を食らうことになる』。

しかし、神は蛇に対して、もう一つ言葉を加えてこう言われていたのです。
『お前と女、お前の子孫と女の子孫との間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くであろう。」』(創世記3:14-15)

この『蛇』というのが、人間に先立って存在し、この時には既に利己心によって創造の神に逆らう者、『悪魔、またサタン』と呼ばれる者が蛇を操っていたことは、聖書末尾の黙示録に明かされている通りです。そこには『かつての蛇で、悪魔とかサタンとか呼ばれ全人類を惑わす者』と暴露されています。(黙示録12:9)

そこで神の宣告の言葉にこれを当てはめると、悪魔と女、また悪魔の子孫と女の子孫との間に神は敵意を置かれた、また、女の子孫(裔)は悪魔の頭を砕き、悪魔は女の子孫(裔)のかかとを砕くことになるということになります。

これはつまり、悪魔の誘惑によって人間には大きな害が及ぶことになりましたが、エヴァから生まれる「子孫」(裔)という何者かによって、悪魔は致命傷を受けます、しかし、悪魔も女の子孫に何者かに傷を負わせることになるというのです。

その悪魔を死に至らせるようなエヴァの子孫(裔)とは誰のことなのでしょうか。
この原初の謎を追って、その後の聖書の内容が展開してゆくことになりました。
まずそれが、アブラハムへの約束となり、彼の信仰の深さのためにアブラハムの子孫からその『女の裔』が来るということを、また実際にアブラハムの嫡流の子孫がイスラエルと呼ばれる一民族となって、モーセの「律法契約」に入り、その目的が『祭司の王国、聖なる国民となる』ことであった意味が通じてきます。

そして、遂にイスラエル民族は、モーセ以来約束されてきた偉大な預言者、ダヴィドのように強力な王となるべきメシアを迎えることとなりました。つまり、ナザレ人イエスその人であったのです。

このイエスは、自ら『天から下って来た』と言われました。つまり、アダムの子孫ではなく、その『罪』を持たない方として『処女が妊娠して子を産む』という奇跡の誕生によって来られたことに於いて、エデンの園でも「男の裔」とは呼ばれなかった理由があるのです。(ヨハネ6:38/マタイ1:23)


◆女の裔は清められる
しかし『蛇』と呼ばれた悪魔は、現れたメシア『女の裔』の『かかとを砕く』ことに成功します。
それがつまり、キリストを磔にして処刑することでもあったわけです。

ですから、ナザレ人イエスを殺そうと躍起になっていたユダヤの宗教家らに対して、キリストはこう言われています。
『あなたがたは自分たちの父、つまり悪魔から出た者らであって、その父の欲望通りの事を行おうとしている』(ヨハネ8:44)

こうして真理を愛さず偽りを愛する当時の宗教家らは、自分たちに遣わされたメシアを退けるというこれ以上ない悪行に手を染めてしまいます。つまり『蛇の子孫』となってしまったのです。(マタイ23:33-34)

しかし、キリストの死は敗北とはなりません。神への忠節を全うしたキリストの死は、神に逆らう事が悪であることを永久に証明してしまったのです。
ですから新約聖書にはキリストの死についてこう書かれています。
『それは死の力を及ぼす者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。』(ヘブル2:14-15)

キリストの死は悪魔には勝利であるかのようでいて、実は悪魔の全き敗北の原因ともなったのです。
イエスは、ご自分の死によって神を高め、あらゆる被造物の中でも最初に『全き義』つまり倫理的完全性に到達され、モーセの律法を完全に成就されることになったのです。

この点について新約聖書はこう述べます。
『多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の帰すべき方、万物を造られた方にとってふさわしいことであったからです』(ヘブル2:10)
この言葉に『多くの子らを栄光へと導くために』とあったように、キリスト・イエスの到達した『全き義』の『栄光』を分け与えられる人々がいます。

その人々については、『自らを聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元はひとりの方(神)から出ます。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とはしない』と続けて書かれています。(ヘブル2:11)
つまり、その人々は「キリストの兄弟たち」であり、全人類をその『義』の清さによって救い出す『祭司』の働きを『大祭司キリスト』と共に天の神殿から行う人々を指しています。それは地上の神殿での祭司団が動物の犠牲でイスラエルの人々の罪の執成しを行っていたようにです。

この清い民はどのような人々であるかについては、キリストの使徒パウロがその人たちに向けた手紙で
『キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ』と呼びかけています。(コリント第一1:2)
つまり、キリストの弟子たちが『キリストによって聖なる者とされた』と言うのです。

これについては使徒ペテロもこう書いています。
『あなたがたは、父である神が予め立てられた計画に基づいて、聖霊によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけて頂くために選ばれたのです』(ペテロ第一1:2)

加えてペテロは同じ手紙でこうも書いているのです。
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の王国、聖なる国民、神につける民です。それによって、暗闇から驚くべき光に招き入れて下さった方のみ業を、あなたがたが語り伝えるためであるのです』(ペテロ第一2:9)
この『選ばれた種族、祭司の王国、聖なる国民』とは、まさしくモーセの律法がアブラハムの子孫イスラエルに与えられた目的を指しているではありませんか。

そこで神のアブラハムへの約束も、エデンの園での宣言も、キリストに信仰を懐き、キリストの『義』の清めを通して聖霊を注がれた弟子たちの上に成就していたということになります。こうして『女の裔』は、一人ではなく民となったのです。つまり独り子イサクがイスラエルの民となったように、イエスは『神のイスラエル』をもたらしました。
ですからパウロはこう教えます。『み子が多くの兄弟たちの中で初子となるため、神は最初に選ばれた者たちをみ子の象りとなるように定められた。』キリストの義を通し、彼らは『義なる者』として仮承認されます。(ローマ8:29)

ですから、使徒パウロが当時の弟子たちについて『キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのです』と述べていることがよく理解できるでしょう。つまり、『聖なる民』がキリストを土台として現れていたからです。(ローマ8:17)

このキリストの義を彼らに分け与えるのが『新しい契約』という『律法契約』に代る新しいイスラエルの民を集め出しました。パウロはそれを『神のイスラエル』と呼んで、血統のままのイスラエルではないことをガラテア書の中で丁寧に説明しています。(ガラテア4章)
その人々は、キリストの兄弟として同じ道を歩んで、狭い門から入るよう努め、共に迫害を受ける覚悟が必要になるのです。(マタイ10:38-39)

ですから『外面のユダヤ人がそのままユダヤ人ではありません』。当然ながら「クリスチャン」がそのまま『聖なる者』でもありません。
キリストによる『新しい契約』に入った人には、奇跡を行う聖霊が注がれていました。その聖霊がその人に『相続財産に与る保証』を与えていたことを新約聖書が何度も明かしています。(ローマ2:28/エフェソス1:13-14/コリント第二5:5)

この聖霊は使徒たちの時代以来、聖書が書き終えられてから過去1800年間誰にも注がれた形跡がないのですが、キリストの再臨の時ともなれば、再び注がれることも聖書は知らせています。(マタイ10:18)

その聖霊が注がれる人々の相続物とは、かつてイスラエルの父祖アブラハムに『地のあらゆる国民はあなたの子孫によって祝福を得る』とされた「約束」の相続であり、その相続人とは、空しいこの世にあっても『諸国民の光』となる人々を意味していたのであり、パウロが言うような『キリストと共同の相続人』となるのです。(ローマ8:14-17)

ですから、『諸国民の光』となった真実のイスラエル、つまりキリストの兄弟たちである『聖なる民』について知ることは、キリスト教の土台となるだけでなく、聖書の教えの根底を成すもので、これを知らずして聖書もキリスト教もありません。

その『聖なる者ら』の働きは、最終的に悪魔の『頭を砕いて』亡きものとし、その人類に対する『死の力』を無効としてしまうのです。彼ら『聖なる民』はエルサレムの神殿が模式的に表していた律法の祭司団が予型していたところの天の祭司団となり、キリストの血つまり『全き義』を用いて人類の『罪を清め』、遂に『罪』を悔いるすべての人々を『罪』のない、創造されたままの『神の子』とすること、それが『世の光』の意味であったのです。(ヨハネ1:12)

キリスト・イエスは『あなたがたは世の光です』と当時のユダヤ人に言われ、また『ともし火を点けてからそれを升の下に置く者はいない。燭台の上に置くものだ。そうすれば、家の中のものすべてが照らされる。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。あなたがたの良い行いを見て、あなたがたの天の父を人々が崇めるようになるために』。と続けて言われました。(マタイ5:15-16)

これは単にキリストの弟子たちが善行を行うと、それに他の人々が感心して同じ宗派に入信するというようなありきたりの宣伝行為を言うのではありません。そのようなことなら、どの宗教でも思想でも「見せるための善行に励むと人数が増える」と言うのに変わらないでしょう。むしろ、聖なる民が導かれたのは『驚くべき光』であったのです。

キリストが復活を受けて地を去ると、弟子たちには「聖霊の賜物」が降り、その業を見聞きした人々は『神を讃える』に及びました。それが人々から信仰を湧き起こさせたからです。もちろん、彼らが善行をしなかったのではないのですが、彼らには誰にでもできるようなものでない聖霊の業が与えられていたのです。

今日、聖霊の業を見てはいないにしても聖書にその記録を読むなら、その『光』がどれほどのものであったかを知ることはでき、聖霊の業を直接に見ていなくても、いち早く信仰を懐くことはできます。キリストはそのような人を『幸い』と言われることでしょう。(ヨハネ20:29)

イエスは亡くなる前の晩に父である神に祈り、『世の光』となるべき弟子たちについて見守ってくださるようにと願いましたが、それと同時にこうも願われたのです。
『また、彼らだけでなく、彼らの言葉を聴いてわたしを信じる人々のためにもお願いがあります・・』(ヨハネ17:20)
この『人々』とは、キリストの聖なる弟子たちが光を輝かせることで『天の父を崇める』ようになるところの聖徒以外の『諸国民』を指していたことは明らかです。
イエスが言われたように『世の光』となるとは、これほど大きな意味があったのです。


ですが、キリストが現れた当時のユダヤは、アブラハムの子孫であるために招かれた『世の光』となるようとのイエスの言葉に応じたでしょうか。
また、聖なる都エルサレムの光明が遠くまで届いたように、アブラハムの血統にあったイスラエル人がその光を輝かせ、彼らの神をほかの人々も崇めるように行動したでしょうか。

まして、その輝かしく世を照らす灯火の元となるメシアがそこに到来されていたのですから、諸国民の光となるべきアブラハムの血統の子孫、選ばれた民としてそれは当然に求められることであったのです。












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