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29.愛について

2019.08.11 (Sun)


愛とは不思議なもので、行いを通して表されるものであるのに、目には見えません。
しかも、その真偽を見分けるのも易しいことではありません。

そして、この見えない愛にキリスト教の本質また結論があります。
愛とは、人が持つ唯一の真実なものであり、神が人に求め、また人に問い掛けるものといえます。

創造の神が、自らの『象り』に人を創られたのであれば、人には自らどう振る舞うかについて倫理的に自由な選択が可能であるでしょう。
それですから、アダムとエヴァにエデンの二本の木の選択を任せ、それによって彼らに愛を求め、また問い掛けたと言えます。
神は全知全能で在られるにも関わらず、彼らを強制されず、その選択に任せました。純粋な愛は監視も強制もない自由の下でのみ働くからで、この処置は理に適うことです。

ヘブライ語で書かれた旧約聖書には「慈愛」(ヘセド)[חסד]という言葉が神の愛の形としてよく出ているのですが、この言葉ヘセドには「忠節」や「不変の」という意味を含んでいます。ですから、アダムとエヴァは忠節な愛を示さなかったと言うべきでしょう。

神は人と「忠節な愛」によって結ばれてこそ共にずっと生きることを創造の意図とされたのでしょう。もう一本のが『永遠の命の木』であったことがそれを示唆しています。
また、神は『忠節な者には忠節に行動される』と書かれています。(詩篇18:26)

他方で、人が愛の行いとされることをただ命令されて従順に行ったとしても、その人が純粋な愛を懐いているかは分かりません。必ずしも「そのような行いをしたからそれは愛だ」と決められないものです。愛とは人の内面にだけ存在するものだからです。
アダムたちが禁断の木から食べなかったからといって、それで神への忠節な愛が証しされたとは言えず、そこに新たな要素である「試み」が登場する理由もあります。
つまり、エデンの蛇、つまり悪魔がアダムたちを誘惑することにより、彼らが忠節な愛を示すか否かは試されましたが、それは人がただ生きたいという願望だけで神と共に生きることが許されるわけではないことを知らせています。

同じ様に、誰かが神に従順に行動したからと神への愛を懐いているとは証明されるものでもありません。あるいは自分の利益を求めて神に従順に行動し、実は賃金の支払いを請求するかように、神に義務を追わせようとの意図が、本人の意識するしないに関わらず働いていないとも限りません。その場合に、根底にある動機は愛とも忠節とも言い難いものです。(ローマ4:4)
エデンの園で蛇が誘惑を仕掛けたように、神への従順を示していると自認する人が試されるとき、さて何が起るでしょうか。

ユダヤ教の宗教家らは、モーセの律法を守ることに於いて、細かな戒めに至るまで注意深くあったのですが、その一方で、遣わされたメシアを処刑に追い込むほどの敵意を見せました。
このような矛盾がなぜ起こったかと言えば、彼らは神に対して従順であるという理由で自分たちは「正しかった」と思い込んだからであり、神の命令を守っているという正しさは、彼らにとって神の是認の証拠であり、ナザレから来たイエスについては、聖書が述べるままにベツレヘムの出身ではないとの判断が先に立ちました。また、律法を守るための神経質なまでの作法にイエスが従わないのを見て、イエスという人物がどれほどの奇跡を行おうとも、悪人と思い定めたのです。(マルコ3:1-6)

彼らは、イエスの奇跡の業によって同朋が癒されることに価値を見出さず喜べず、メシアを『悪霊の頭』によって不思議を行うものと断定しました。彼らの関心は、民の幸いよりは自分の立場の確保に向いていたようです。
そこでイエスは彼らにこう言われたものです。『人にはその犯すすべての罪も、神を汚す言葉も赦される。しかし、聖霊を汚す言葉は赦されることがない。また人の子に対して言い逆らう者は赦されるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることがない。』(マタイ12:31-32)

イエスが安息日の伝統を守らず、清さに達しない平民たちを蔑む宗教家たちの高慢さを暴露するので、律法を守ることによって自分の『義』に酔ったユダヤ教徒たちはイエスが聖霊を通して行う奇跡を認めるわけにゆきません。自分たちの方が「正しい」のですから。(ヨハネ9:16)

こうして「神への従順」を正しさの根拠とする人々は、愛も憐れみも欠いていることをキリストの現れを通して露わにしてしまいました。(ヨハネ9:29-34)
そこで聖霊の奇跡の業は、彼らの内面を裁きふるい分ける働きを行っていますから、イエスはこのようにも語られました。
『誰も行ったことのないような業を私が彼らの間で行っていなかったら、彼らに罪は無かっただろう。しかし今、彼らはその業を見たうえで、わたしも父をも憎んだのだ』。(ヨハネ15:24)

やがてユダヤの宗教指導者らはイエスを逮捕し、ローマの権力に処刑させてしまい、その罪の深さを表してしましました。
彼らの律法の文言へのこだわりは、聖霊の奇跡によって無意味なものにされたという以外ありません。
『愛を通して働く信仰こそ重要である』という観点が、まさしく彼らに欠けていたというべきでしょう。(ガラテア5:6)

しかし、今日のキリスト教界が、かつてのユダヤ教徒の失敗から学んだかといえば、そうも言えません。
確かに、新約聖書中には幾つかの道徳条項のような言葉もあります。しかし、それらは『新しい契約』という聖霊を注がれた『聖なる者』と呼ばれる人たちに求められる聖さの基準を述べているのであって、その他の人々に要求されているわけではないのです。(ペテロ第一1:15-16)

もし、新約聖書に記された道徳的条件を満たすよう努めるのがキリスト教であるとすれば、キリスト教徒がその道徳規準を守っていると自認するときに、そうしていない他の人々への利己的優越感を防ぐことができません。そこには自分は救うとしても人類を救うための『キリストの契約』の精神がないからです。
そのような人は、福音書にある『多くを赦された者は多くを愛す』という言葉、また『健康な者に医者は要らない』というイエスの慈愛深い発言の価値を味わい知ることはまずできません。(ルカ7:47/マタイ9:12)

人は、どう生きるべきかと自らに問うときに、何らかの規則を求め勝ちではあります。間違いのない人生を送りたいと願うことは自然なことですが、そのためか、多くのキリスト教宗派、修道生活は言うに及ばず、プロテスタントや新興団体においても、道徳律や規則が偏重される傾向が強いのです.
しかし、それは律法への従順を要求したユダヤ教のシステムへの逆戻りというべきでしょう。
パウロが再三指摘したようにキリスト教において重要なのは規則遵守の服従ではなく、自由から来るところの自発的な愛や信仰であることはあまりにも明白です。求められるのは真実な愛でしょう。(ガラテア3:14/5:1)

では、人々はなお神に従順を示そうとするのかと言えば、イエスを退けたユダヤの宗教家らも、今日のキリスト教徒も同じく「自分の正しさを得て救われたい」という欲求からでしょう。もちろん、人は自分が好んで悪者になりたいわけもないでしょうけれども、その気持ちを懐くところで、利己的になる一線を越えてしまうのでしょう。
つまり、自分が正しい、救われるとすることで利己心を許してしまい、そうなると、自分の清さや正しさのために周囲を蔑むという愛に悖ることをし始めてしまいます。その矛盾に気付けなければ、人は自らの内奥の人がどのようなものか、また、何を望んでいるのかを意図せずに露わにすることになるでしょう。それが「神の裁き」というものです。

もとより、創造界に不調和が持ち込まれたのも、優れた天使であった者が利己心を起こし、自分だけを愛して神から離れ、自分を神のように高めたいとの願望を宿したところから始まっています。その者が『悪魔』と成ったのです。(イザヤ14:13/エゼキエル28:14-15)
そこで神がアダムとエヴァに選択を委ねたのも、自ら進んで神への忠節な愛を選ばせるためであったと言えます。ですから『あなたがたは善悪を知る木からとって食べるな』と言われたのも、彼らに死すべきものとなって欲しくなかったからのことで、それは親として生み出した側からの創造者の願いであり、それでも監視も強制もしなかったのは、二人を自らの『象り』として尊重していたからでもあるでしょう。人を尊重することは、神が自らを尊重することでもあるからです。そこで試されたのは従順ではなく、明らかに愛、忠節で変わらぬ愛であったと言えます。

こうしてアダム以来、創造界では利己心と利他心とがせめぎ合っています。(ヨハネ1:5)
もちろん、神は創造界が互いの幸福を願う者らで満たされることを意図していることでしょう。そうでなければ、キリストの犠牲を与えなかったに違いありません。その犠牲は愛の極致であったからです。
そこで一人一人に問われるべきものがあります。
それは、神と人にどう関わって各人は生きてゆこうとするのか?との倫理に関する問いであり、愛によって神と人とに結ばれようとする人は、そこに生きるべき理由を得ることになります。

使徒ヨハネはこう書きます。
『神は愛です。愛に留まる人は神の内に留まり、神もその人の内に留まってくださいます。』
また、『愛には恐れがなく、完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰が伴うもので、恐れる者には愛が全うされないからです。』とも述べます。(ヨハネ第一4:16.18)

誰かが神に対して従順を努める背景に生存のための保身願望があると、創造者を「滅ぼす神」と捉えるので、そのために神の前に正しさを立証したいと願うにしても、それは恐れに基くものであり、上記の句からすれば、愛が全うされているとは言い難いものがあります。

まさに、イエスの当時の宗教家らについてイエスはこのように言われました。
『あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、その聖書は、わたしについて証しをしているのである。しかも、あなたがたは命を得るためにわたしの許に来ようともしない。わたしは人からの誉を受けることはしない。しかし、あなたがたの内に神への愛がないことをわたしは知っている。』(ヨハネ5:39-42)

つまり、宗教家らは自ら永遠の命を得ようとして聖書を調べはしても、目の前にいたメシア=キリストには敬意も関心も示しませんでした。懐いたのは排他性と敵意です。
なぜかと言えば、愛が無い、まさに同朋が奇跡の業に癒されるのを喜ぶでもなく、その業の偉大さに価値を感じることもなく、人も神も愛してはいなかったことを、まさにメシアの現れを通して示してしまっていたのです。

かつてイスラエルの大王としてダヴィデの王座に就く華々しいメシアを望んだユダヤの宗教家に対して、ナザレ村から来られたイエスはまことに質素であり、王となるどころか重罪人と共に極刑を受けるという、彼らには信じられない姿を見せました。
ユダヤ教は今日までパリサイ派であり、イエスがメシアであったなぞ到底認めることができません。

そして、キリストはこの世に再臨されると言われますが、将来の終末に於いてキリスト教界は彼らユダヤ人の轍を踏まないものでしょうか。聖霊を注がれる弟子たち、つまり『聖徒』らが真のキリスト教を再びもたらすとき、今日のキリスト教界は『聖徒』をキリストの業を行い、神を証しする者らとして認めるでしょうか。(ヨハネ14:12)
これは実に重要な問いとなるでしょう。聖霊によって語る彼らを拒むとすれば、その理由は何でしょうか。

今日、既にキリスト教の信仰に在ると自認する人々が真摯に自らの信仰の動機を吟味してみることは、神との関係、また人々との関係の根幹に関わる問いと言えましょう。それは自分という「内奥の人」を省みることです。

また、これまでキリスト教の外に在って、信仰に無いあらゆる人々にとっても、それは同様に重い問いとなるでしょう。
人を生きる、その方法の二本の道がそこに在り、わたしたちの誰もが『二本の木』の選択に相当する試みに面することになります。
それを分けるものは、利己心と利他心、他者とどう関わって生きてゆこうとするのか、つまり『愛』が試されるのであり、これは究極的な倫理問題であり、人はこの世が裁かれる終末にどちらかを選ぶことになるのでしょう。

このように、人々には規則によらず利他的に生きるべき理由が生じています。愛がその人の特質となる必要があります。
自らを省み、自分がどのような者であるのかを熟考し、かつての宗教家らのようにはならぬよう注意を向けることは、現に誰にもできることでしょう。宗教家らは信仰を持ち、敬虔とされながら『赦されることのない罪』に陥っていましたから、これは重い教訓とすべきことです。

パウロは『愛は隣人に悪を行わない』と述べ、「愛」が「罪」の反対に位置することを示します。それは規則を必要としないものです。(ローマ13:10)
したがって、新約聖書の「愛」(アガペー)[αγαπη]とは、自己本位ではなく、やはり利他的なものであるはずです。使徒たちもキリストの教えの中心に『愛』を置き、最重要なものとしてどれほど高く掲げていることでしょうか。

キリストの「愛の掟」は「神と人を愛せよ」という以外に何の拘束も有りません。(ヨハネ13:34-35)
もちろん、キリスト教徒は何をしても良いというわけではなく、むしろそこで「愛の掟」が意味を持つことになります。
つまり、愛するゆえに、キリスト教徒は他の人々を気遣い、自分の行動を自ら抑制しようと努めたいと願うでしょう。(ヤコブ2:14-17)
他者の喜びを自らの喜びとするからです。また、誰かが幸福であっても、誰かが不幸であることを望まないからです。

キリストの「愛の掟」は、そのシンプルさゆえに、無数の条項で成る法律と異なり、様々な場面に適用できるものとなり、その人の内面が問われるものとなるでしょうし、愛は規則や型にはまらないで様々な姿で現れることになるでしょう。
つまり、「愛せ」と命じられているだけなので、それを行おうとする人は、自分の持つ同情心や共感や知恵などを総動員して努めることになり、それはその人を次第に向上させるものともなり得ます。

いずれにしても、人に問われる愛とは、見せるため救われるために示すものではなく、その人の内奥から湧くものであるはずです。信仰の動機は愛にあり、信仰に優る特質であるのです。(コリント第一13:13)
神の創造の意図は愛によってすべてが結ばれることであり、その一致の要となるのが、愛の真正さを地上で見事に体現されたイエス・キリストの愛であり、それによって『完全にされた』この方を仲介者として、すべての者が一つの愛の内に集められることであるのです。(ヘブライ2:10/エフェソス1:10)

そのようにして神の創造が完成され、いつの日か神の意志があまねく地になされることになるでしょう。イエス・キリストは、それを祈り求めるようにと言われているのです。(マタイ6:10)
愛の使徒ヨハネが語りかけるように、それこそが、わたしたちと神とを繋ぐ絆となるのです。





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