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28.キリスト教の歴史

2019.08.06 (Tue)

聖徒に始まったキリスト教の歴史


聖書中の『聖徒』、つまりイエス復活後の五旬節以来、聖霊を注がれた弟子たちが存在していたことは、カトリック教会や東方正教会に残る「聖人」に関する初期伝説として痕跡が残されています。
この人々に関する説話は、13世紀の西欧で物語に脚色され、人々の間で愛読されて大いに広まり、後々まで絵画の題材とされてもいたのですが、その多くは迫害に遭って命を落とし、その過程で奇跡を行ったことが描かれています。
つまり、それらの聖人たちの生きた時代は、ローマ国教化の以前で、権力の保護を得ていない頃のことです。

しかし、これは単なる伝説とは言い切れません。
聖霊を持った『聖徒』の存在については、「教父」と呼ばれた初期のキリスト教の指導者たちの記述にも表れていますし、キリスト教界の初期の三百年の歴史を記したエウセビオスの「教会史」にも様々な記述を見出すことになります。

例えれば、「当時はまだ神の霊による多くの奇跡的な力が彼らを介して働いたので、大勢の人々が、皆初めて(彼らについて)聴いただけでも、その魂に世界の創造者への敬虔な念を抱いたのである。」とエウセビオスは書いています。(教会史Ⅲ37 秦剛平訳ちくま書房

第二世紀のキリスト教徒ヘゲシッポスが「使徒たちの聖なる合唱隊がそれぞれ絶え、神的な知恵を自分の耳で聴くことを許された世代が過ぎ去ると、神を信じない血迷った一団が、単なる教義を教える者たちの瞞着によって根を下ろした。」と述べていることを教会史は今日に伝えています。(教会史Ⅲ32;以下同上)

加えて、第二世紀中葉に現れた不思議を行う異端に関する記述には、「当時はまだ神の賜物によって多くの不思議な業が各地のエクレシアで行われていたので、そのために人々は彼らも預言者であると信じ込んだのである。」ともあります。(教会史Ⅴ3)
このような「偽聖徒」はこの時代に横行し始めていたようで、彼らが本物の聖徒の群れに入るとどうなるかを、聖書外典の著者であるローマのヘルマスがこう書いています。「神の霊に満たされた者らの中に彼が足を踏み入れ、人々が祈り始めると、たちまち彼はからっぽになってしまう。この世の霊は恐怖にとらわれて彼から逃げ去り、この男は黙して一言も発することができなくなってしまう。」(牧者XI,13 荒井献訳 講談社文庫「使徒教父文書」)
これは聖霊と悪霊の違いを言うのでしょう。この著者はまた偽聖徒らが貪欲に人々からの栄誉に預かろうとする醜態も記しています。

やはり、十二使徒の最後まで残り第二世紀の始まる頃に世を去った使徒ヨハネは、偽りの霊を警戒するよう述べています。
『すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか試しなさい。多くの偽預言者が世に出てきているからです。』(ヨハネ第一4:1)

こうして、使徒時代が終わろうとする頃には、キリスト教徒の集まり「エクレシア」を挟んで、聖霊と悪霊とのせめぎ合いが起りつつあったことを歴史資料は示します。

しかし、第二世紀は聖霊の奇跡が地上から去って行く時期でもありました。
例えれば、この時期にシリアで書かれたとされる外典「イザヤの昇天」の中では、聖霊による「預言者」が当時にほとんど居なくなってしまった事態をイザヤの予告に投影して語っています。(イザヤの殉教と昇天Ⅲ,25-27)

それでも第二世紀のはじめには、自らが「預言者の聖霊」を持っていて、当時は仲間たちによく知られたというシリア出身のクワドラトスという人物が、西暦117年頃には、キリストに癒された人々の内の何人かがまだ生存していたことをその護教論に記しています。

その後も、第二世紀後半を生きた著名な教父であるエイレナイオスは「神を恐れ、御子の到来を信じ、信仰によってその心に神の霊を迎え入れる人々こそ清い人々、神に生きる人々と呼ばれる。人間を浄め、神の命へと導き上げる父の霊を有しているからである。」と述べ、彼の時代には「父の霊」を持つ人がいたことを窺わせます。(異端反駁Ⅴ9:1-3 大貫隆訳 教文館

このような証言は、第四世紀に入っても見られ、史家エウセビオス自身も使徒たちについてこう記します。
「彼らは、自分たちと共に働く神の霊と、自分たちを介して成し遂げられるキリストの奇跡を行う力だけを使って、天の王国の知識を全世界に宣べ伝えた」。(教会史Ⅲ24)
これは使徒パウロの『わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によるものだった。』という言葉と合致するものです。(コリント第一2:4)

キリスト教初期のこうした資料は、聖霊というものを清い人々と結びつけて語り、今日の教会員のように自分に聖霊があり「イエスさまが心に住んでいてくださる」というような、有るのか無いのか本人にしか分からないようなものではなかったことを教えています。

しかし、第二世紀が去る頃には、聖霊の奇跡は過去になったことを他ならぬ「教会史」を記した第四世紀のエウセビオスが「当時には・・」と語っているところからも明らかです。
聖霊を注がれなくなった第三世紀以降のキリスト教界には様々な変化が訪れることになります。もちろん、それは良い変化ではなく、『悪霊の教え』というべきもので、パウロが警告していたように、キリスト教界は宗教的支配の圧制が敷かれる中世の暗闇が垂れ込め、西ローマ帝国が消滅した西欧では、ローマ教皇権がかつての帝国の領域各国をまとめた欧州封建制度の頂点に君臨し始め、東方では東ローマ帝国の支配の下に国家権力とキリスト教とが一体化します。こうしてどちらの欧州もかつてのローマの領域でキリスト教を介した政治支配が行われます。(使徒20:29-30)

その後、西欧カトリックと東方正教会は互いに異端宣告して呪詛(アナテマ)し合いますが、そこに強力な共通の敵が現れるに及んで、二つの教会は協力し合うことに同意します。
その強力な敵とはイスラム教のことであり、西欧カトリックは東方教会と東ローマ帝国を助けるべく、あの「十字軍」を招集して11世紀以後長く続く殺戮の時代を招来することになりました。
その間、キリスト教はローマ帝国からの異教や、欧州各地の土着信仰を吸収してゆき、聖霊の有った時代を描く新約聖書とはかけ離れた宗教世界を形作っていました。

しかし、14世紀に入るとイングランドから当時のキリスト教会を嘆く気鋭の宗教家が現れることになります。ジョン・ウィクリフが、自ら聖書を英語に翻訳して民衆に元来のキリスト教を再布教する努力を始めるというキリスト教の回復運動を興したのですが、これが続く西欧キリスト教の新たな潮流を形作ることになるのでした。
人々は聖書の内容に驚愕し、自分たちの教えられて来たことと聖書との余りの違いについて聖職者を責めるほどになったといいます。

この運動は、ボヘミアの王妃がイングランド王家に嫁ぐことにより、チェコにも飛び火し、15世紀に入るプラハからはヤン・フスという神学者がウィクリフの活動に共鳴します。
フスはカトリックから咎められ、異端として火刑に処されてしまうのですが、チェコを中心に「フス教徒」と呼ばれる勢力が残されたため、ローマ・カトリックはこれに手を焼き、諸侯に軍隊を送って鎮圧しようとしましたが、フス派はこれに抵抗して防衛することに成功しました。

それからしばらくの後、16世紀初頭の北ドイツのヴィッテンベルクでは、一人の修道僧が悩みを抱えていました。
どれほど修道を重ねても、自分の中の悪が去らないことを上長に打ち明けたのですが、やはり修道を続けるように命じらるばかりでした。
当時、カトリックの聖書離れは甚だしく、諸侯からの収益ばかりか、民衆からも地獄行きの恐怖を利用して免罪符の販売に節操もありません。しかも、死んだ人々の罪まで免罪符の購入で軽くできるとまで言い放ったところで、そのヴィッテンベルクの修道僧が遂に異論を唱えて、自分の勤める大学のある城教会の門にカトリックへの疑問を95ヶ条に記して張り付けたと伝えられます。その修道僧が誰かは言うまでもなくマルティン・ルターその人で、それは1517年のことでした。

提出された異議は平素からローマ・カトリックに不満を覚えていたドイツの人々と諸侯の賛同を集めるところとなります。
これをカトリックが放っておくはずもなく、彼もフスのように呼び出されて殺害されるところを、ルターの地元のザクセン選帝侯が一年間も自分の城に匿い、教会側にはしらを切ったのでした。
その間、ルターは聖書のドイツ語訳に携わり、印刷技術の革新的進歩に助けられ、翻訳聖書は以後の宗教改革の基礎となります。

ルターの運動はライン川を越えてフランス側に波及し、ストラスブールには改革運動の拠点ができ、そこにはジャン・カルヴァンも参集していました。
さらにストラスブールの運動はライン川を遡ってスイスにも達し、その地では都市毎にそれぞれのキリスト教派が興り、特にジュネーヴはカルヴァンを受入れカルヴァン派つまり「改革派」の拠点となり、都市による神権政治が施行されるに至ります。

この「改革派」はやがてイギリスに渡り、ウィクリフ以来の運動が戻って来たかのようになりますが、その以前にイギリスでは王ヘンリーⅧ世の離婚問題という、おおよそ宗教と関わりのないような事で、国家としてカトリックを離れる誘因が働いていました。

結果として、イングランドはカトリックを離れ、古くにキリスト教が伝わった地を中心に据え、「英国国教会」を興し、カンタベリー大司教を王が任命して王自らが首長となります。これが「聖公会」の由来です。その後はカトリックの勢力の削減に努め、修道会は解散させられ建物の多くが廃墟と化しました。
その一方で、英訳聖書が各教会堂に置かれるようになり、人々は説教の最中ですら声を上げて聖書を読んでいたといいます。

しかし、正しさを巡って一度分裂を始めたプロテスタントは、次々に分裂を繰り返すことになります。
その原因は「正しさ」の追求にあったと言えましょう。何が正しい教理かを追求してゆくと、それぞれのキリスト教理解の違いが正しさの根拠になってしまうので、聖霊の無い中で正しさを求めるとなれば意見の相違だけ無数の宗派が始まることになります。
実際、カトリックを離れた新教派は、多種多様な教えによって無数に分派してゆきました。現在は二千ほども宗派があると言われます。

この時期からか、純粋なキリスト教生活を送ることを求めて、外界との接触を最小限に留める小さな宗派がいくつも現れています。
今日のアーミッシュ、クエーカーやシェーカー、メノナイトなどがよく知られていて、今日でも19世紀のような質素な自給的生活を新大陸で続けています。

17世紀後半のイングランドからは、カトリック色を残した国教会に不満を持ち、自らを「清教徒」と呼ぶ派が現れていますが、彼らはやがて権力まで持つようになり、その指導者クロムウェルは遂に一時的にイングランドの王政を排して、宗教と政治の首長となります。これは「名誉革命」とも呼ばれていますが、この清教徒の革命はクロムウェルと共に終わることになります。

その以前から、キリスト教の純粋さを求めた一部の清教徒らは、謹厳な理想のキリスト教の実践のために新大陸に新たな活路を見出そうと、北米のボストン近郊、マサチューセッツに植民を始めます。その第一波が1620年のメイフラワー号であったのですが、インディアンの寛容な協力を得て生き延び、今日の新教白人(WASP)によるアメリカ合衆国の礎となり、彼らは「ピルグリム・ファーザーズ」と呼ばれています。

一方、宗教改革に対してカトリックも何もしなかったわけではなく、イタリアの山地トレントで自分たちの改革を進める会議を持ち、また、大航海時代に発見された国々への宣教に励むことになりました。
そうしてアジアの東の端にある島国にまでキリスト教が達することになります。
即ち、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによる日本宣教であり、宗教改革から32年後の1549年夏に九州鹿児島に到達したカトリックは、鎖国までの間に宣教しつつ戦国時代の日本を観察することになるのでした。日本からも大名の何人かがローマ教皇に使節を送ってもいます。

また16世紀以降、東方正教会でも広がりが見られましたが、このような伝説が伝えられています。
それは、ロシアの皇帝が国教を定めるのに、イスラムも含めて様々な宗派を調べさせた結果、正教会の美しい荘重さが相応しいということになり、国としてロシア正教を定めたというものです。

ロシアでは東方正教会とカトリック、またイスラムの勢力がぶつかる場でもありましたし、現在もその傾向を宿します。そこで、この伝説はロシアとしての宗教の選択の理由を唱えるためのものでもあったのでしょう。
ロシア正教会が旧東ローマ圏のコンスタンティノープル府主教から正式に認可された後、ロシアの東方遠征によって正教会も広げられ、その一部は19世紀後半の明治直前の1861年に北海道函館にまで到達し、その後に東京神田のニコライ堂の落成に至っています。

その後のロシア正教会は、20世紀のソビエトによる徹底した反宗教政策と無神論教育にも絶えることなく、今日でも東方教会最大の派を構成しています。ほかに東方正教会はイスラム圏にも幾らかの信者を有して、アジア大陸からアフリカにかけても広く浸透していると言えます。

さて、こうしてキリスト教の歴史を俯瞰してみると、次のキリストの言葉にこれらの要約を見るかのようです。
『「天の王国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。またほかの譬を彼らに語られた、「天の王国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体が膨らんでくる」。』(マタイ13:31-33)

聖霊を失ったキリスト教は大きく成長し、今日では信者総数20億を超える世界最大の宗教となっています。
その拡大に伴い、キリスト教という名の下に、様々な異物を取り込みましたが、それは大衆の異教傾向に加え、政治や商業との結びつきがあってのことです。

しかし、それでも「キリスト教」と称する宗教のこれほどまでの伸張にも、キリストの例えの言葉にあるように、何らかの神の意図が有ってのことで、キリスト教とは、ただ信者が増えてゆけばそれで良いということではないのでしょう。

聖書の全体は「終末」という、再び聖霊の降る時期の来ることを説くものであり、それがいったいどのような結末をもたらすものか、そこに神の遠謀深慮を予期するべきなのかも知れません。








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