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27.聖書と聖霊

2019.08.03 (Sat)


キリスト教と言っても、多種多様な宗派があります。
古くからローマ・カトリックまた東方正教会があり、、カトリックから分かれたプロテスタントはルター派とカルヴァンの改革派をはじめとして更に許多のグループに分かれています。それに新たに起こされた独立的な宗派も加えて、二千近くが確認されているそうです。そのほとんどが聖書を経典としているのですが、実は、初期のキリスト教徒が新約聖書をはじめから持っていたわけではありません。彼らにとって教理を教えていたのは「書かれたもの」ではなく、現に「語られている」キリスト伝承と仲間たちの聖霊の発言でありましたから、パウロが『今は神の多様な知恵がエクレシアを通して知らされる』と述べたのも、当時の集まりの様子を今日に伝えるものと言えます。(エフェソス3:10)

さて、キリスト教のはじまりは、イスラエルの一神教を基礎とし、キリストもその神に崇拝を捧げるユダヤ人であり、十二使徒をはじめとする初期の弟子らの多くも同じく割礼を受けたユダヤ教徒であったのですが、イエスが天に去った後、キリストの御傍に仕えた弟子たちは、この後もエルサレムに留まり、一か所で集まりを習慣にしていたところ、ユダヤ教の七週(ペンテコステ)の祭りの日を迎えると、突然の轟音と共に聖霊を注がれるに至ります。(使徒2:1-)

その日から、弟子らは習ったことのない言語で話す(異言)などの奇跡の賜物が聖霊と共に与えられ始めたのでした。
特に使徒筆頭のペテロの賜物はイエスの癒しを思わせるほどに強く、人々は彼の通る道に病人たちを並べ、その影がかかるだけでも癒されたと、自らが医師であったルカが使徒言行録に記しています。(使徒5:15-16)
癒しの点では、使徒パウロの行った奇跡の業もルカは自ら目撃しており『異例なほど』のもので、彼の身に着けたものでさえ人を癒したと書いています。(使徒19:11-12)

その後には、ユダヤ教徒ではない異邦諸国民にまで聖霊が注がれるようになり、キリストの奇跡の業を行う人々の群れに加わってきましたが、それらの血統上はイスラエルでない人々が『接木された』とパウロは述べています。(ローマ11:17-)
つまり、地のすべての種族の祝福の基となるという、アブラハムの子孫への神の約束を本当に受ける人々は血統だけによらず、キリストへの信仰によって選ばれたユダヤ人に加え、諸国民によっても構成される選民『神のイスラエル』となって、初めて地上に現れたことを聖書は説明しています。(創世記22:18/ペテロ第一1:2/3:6)

つまり、キリストから始まった宣教活動は、単に信者を得ることを目的としていたわけではありません。
そこには、遥かな過去にアブラハムに約束された、彼の子孫『アブラハムの裔』、人類から『罪』を除くための『祭司の王国、聖なる民』、「真実のイスラエルの者らを呼び出す」という極めて重要な目的があったのです。(ペテロ第一2:9/出埃19:5-6)

彼らが『聖なる者たち』(ハギオイ)と呼ばれたことにも、聖霊を注がれ奇跡の業を行ったという理由があってのことで、ただキリストを信じて水のバプテスマを受けたということではありません。
また、これは大半のキリスト教の宗派で認めたくもないことなのでしょうけれども、新約聖書の記録からすれば、明らかに彼らは聖霊を注がれて超自然の業を行っていました。『わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。』とキリストが予告したようにです。(ヨハネ14:12)

例えれば、ギリシアの港町コリントスには多くのギリシア人の弟子らがいましたが、パウロは彼らが賜物に欠けることなく様々な能力を得ていることを誉めています。
彼らの集まりでは、今日ではどんな教会でも見られないほどの奇跡の業によって、彼らの『聖なる者』としての立場を証されていた様がパウロの手紙に窺えます。(コリント第一1:4-7/14:22-25)

加えてイエスは、聖霊が弟子たちを『真理の全体に導く』と予告していましたが、ユダヤ教を遥かに超えるキリスト教の理解は聖霊を通して初期の弟子たちに直に知らされていました。ですから、使徒ペテロも『それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちさえそれを覗き見みたいと願っている』と当時のキリスト教徒に述べています。(ペテロ第一1:12)
実際、イエスの生涯はユダヤ教徒としてのものでありましたが、キリストとして律法を成就させて後の、新たな「キリスト教」と呼ばれる革新的教えが始まるのは使徒時代以後のことであったのです。(ガラテア4:4/)

キリストが地上を去って初期の弟子たちに聖霊が働くなか、第二世紀の聖霊持つ小アジアの著名な弟子(パピアス)が、マルコ福音書など書かれたものを余り評価していないことを述べた記録さえ残っています。彼らには、現に神からの音信が聖霊を通して伝えられていたのであれば、そのように書かれたものについての高くもない認識も理解できることでしょう。
書かれたものが必須となったのは、聖霊が引き上げられて霊感が地上から去った後のことであり、残されたキリスト教徒にとって、新約聖書がこの上なく貴重な経典の立場を得ているのも、まさに聖霊の無い現実を物語っていると言えるでしょう。

初期の弟子たちに奇跡の業を行わせた聖霊が、彼らが特別に選ばれた人々であることを証していたことを聖書は次のように指摘しています。
『あなたがたもまた、キリストにあって真理の言葉、即ち、あなたがたが救いをもたらす福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印を押されたのである。
この聖霊は、わたしたちが神の国を受継ぐことの保証(手形)である』(エフェソス1:13-14)
ですから、この奇跡を与える聖霊は、信仰に無い他の人々にもそれと分かるように『顕現』するものであり、今日の教会の信者が言うような本人にだけ分かるようなものではなかったのです。(コリント第一12:7)

確かに、イエス・キリストが磔刑に処される前の晩に十二使徒と食事を共にし、彼らには別の助け手として『聖霊』が与えられることを知らせています。(ヨハネ14:16・26)
また、キリストが復活した後にも、彼らが聖霊を受けることがその意志であることを語られてもいます。(ヨハネ20:22)
キリストは公生涯を通して律法を尽く成就し、完全な義に到達されました。次いでイエスは自ら選び出した人々にその『義』を契約によって与えます。(ヘブライ2:10-11)

イエスは『誰でも新しく生れなければ、神の王国を見ることはできない』と教えられましたが、この「新しい誕生」とは聖霊の注ぎを受け、アダムの命に生きるのを止め、復活したキリストの命に在って生きること、つまり、アブラハムからの相続財産である『神の王国』の一員として招かれ真実のイスラエルに含まれることを言うのです。(ヨハネ3:3/ペテロ第一1:3-4)
これがつまり『新しい契約』の本来の意義であり、かつて旧約聖書のエレミヤが預言した、律法契約に代るところの「その掟が文字ではなく心に記される」人々の到来を指していました。(エレミヤ31:31-33)

彼らは、キリストの犠牲の価値を人類全体に先立って適用されるために、アダムからの『罪』を赦免される状態に入ったと見做されます。そうでなければ、彼らが『新しく生まれて』キリストの命に生きているとは言えません。
ですから、使徒パウロも『今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはない』と述べます。(ローマ8:1)
また、『すべて神の霊に導かれている者は、神の子である』とも言うように、彼らは『罪』から仮赦免を受けたので、キリストと共に『神の子』の立場に入ったことが知らされています。(ローマ8:14)

彼らが『キリストと共同の相続人』であり、キリストの『兄弟たち』であるとされるのは、そのように『神の子』としての立場に入ったことを指しています。
しかし、それが『契約』に立脚している以上、彼ら『聖なる者たち』には契約を守るべき務めがあり、元からはアダムの子孫である彼らに与えられた赦免といっても、やはり未だ他の人々と変わらない以上、契約無くしては存在し得ない立場です。

ですから、イエスは神の王国について『狭い戸口から入るように努めなさい。確かに言うが、入ろうとしても入れない人が多いのだ』と言われたのも、聖霊を注がれても契約を全うしない者が出てしまうことの警告でありました。(ルカ13:24)

その裁きは、終末にキリストがこの世に臨在するときに行われることになります。
『この世』のありさまが『神の王国』によって大変革を遂げる以前に、その王国を構成する『聖なる者たち』は『キリストの許に集められる』必要があります。彼らが『キリストと共なる王』とされるからです。(テサロニケ第二2:1/テモテ第二2:11)
しかし、この世の為政者らがキリストを信じて自分たちの支配を譲るでしょうか? それはまず考えられそうにありません。

そこでイエスは弟子たちが『王や高官の前に引き出される』という、緊急事態に至ることに注意をむけて預言していたのです。(マタイ10:17-20)
しかし、聖霊が彼らを助けるとも言われます。
『人々があなたがたを連れて行って引きわたす時には、何を言おうかと前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語るのはあなたがた自身ではなくて聖霊なのだ。』(マルコ13:11)
このように、終末の時期には、再び聖霊が注がれることはイエスの言葉にも明らかと言えます。

それでも『新しい契約』から脱落してしまう者が出ることは避けられないようで、『聖霊』という財産を預かっても、何ら運用もせずキリストの帰還の際に『怖くなった』と言って、主人に退けられる奉公人の例えである「タラント」や「ミナ」のキリストによる挿話は、その脱落する聖徒を指して訓戒するものとなっています。(マタイ25:14-30/ルカ19:12-27)

また、イエスの終末預言の中では『ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される』との言葉によって、キリストの許に召されるか否かの分かれ目が警告されてもいます。
つまり、契約を全うする者は、天に召されて『神の王国』をキリストと共に構成する栄誉を受けますが、『残される』とは契約を守らずに、『神の王国』から除外され、『この世』と運命を共にすることを意味します。(ルカ17:33-37)

この契約を守った『聖なる者たち』の天への召しを、「選ばれたクリスチャンだけが天に召される」と誤解され、プロテスタント系の人々に「携挙」(けいきょ)と呼ばれて、突然にそれが起るものと信じ込まれ、「それは今年中に起る」とか「来年だ」とか例年のように言われています。ですが、以上のようにこれは『聖霊』を注がれる『聖徒』と『新しい契約』の関係、また『神の王国』を理解しない短絡的な発想というべきでしょう。

こうしてキリスト教の原初の姿を見回すと、今日の「教会のキリスト教」との間に大きな違いがあることは余りにも明きらかです。
特に、人類の祝福となるべき『アブラハムの裔』、つまり『聖なる者』の理解を持たないところに、大きな分かれ目があります。
つまり、キリスト教とは、人類を救うという大志を持つことを意味するのですが、教会の教えではただ信者を救う宗教に変えられてしまっているのです。
これは小さな違いとは言えません。『アブラハムの裔』によって人類が祝福を受けるようにされた神の意志に対して、教会の教えでは、その祝福が教会員に占有されてしまうのです。救われるのは洗礼を受けた信者だと教えるからです。

その精神はどんなものかを考えるとすぐに気付くことですが、本来人々に広く益をもたらし利他的であったものが、信じた者だけの狭く利己的なものに置き換えられています。
まさしく、教会員の多くは、未信者は地獄に行くと本気で信じ込んでいるのですが、これは神の寛容な精神とは真逆です。

預言が指し示すように、神はこの世の終末に於いて、聖徒たちを通して世界に奇跡の言葉を知らせ、どんな思想信条を持つ人であろうと、聖霊への信仰を持てるように導くのであれば、それは神の寛容さの表れと言えます。その裁くところは聖霊の奇跡を見ながらも頑なであることを敢えて示す者らだけを神の祝福から除外するのであり、『神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため』であったとは、このように寛い赦しを与えようとの意図を教えるものです。(ヨハネ3:16)

しかし、聖霊の注ぎが第二世紀ころに一度終わりを迎え、キリストの不在(アプーシア)が始まると、キリスト教界は『聖徒』がどのような者であるのかを見失い、信者の誰もが聖書に書かれた『聖なる者』だけの恩寵を受けられるものと勘違いを始めます。『聖霊』や『契約』がどんなものかを理解しないで聖書を読むとそうなることは容易に想像がつきます。

例えれば、ペテロが『契約の子孫』であるユダヤ人に『バプテスマを受けなさい、そうすれば聖霊を受けます』と語った言葉を、「クリスチャン」は洗礼を受けると誰でも聖霊を受けることができ、心にキリストを迎えることができるようになって、それが『神の王国はあなたがたのただ中にある』との意味であるともされています。つまり、『神の国』が自分の中にあるというのです。

しかしこれは、イスラエルの民にこそ王国を継承するべき権利があること、当時、正統なダヴィデの王権を持つメシアがそこに居たことに注意を向けた言葉であったのです。このように「クリスチャン」とは、聖書の言葉を当時の背景の中では捉えず、今、現に自分に語られたものと読んでしまい勝ちな人々なのでしょう。

また、自分中心に聖書を読む「クリスチャン」は、『神の王国』についての最初の予告がエデンの園で『女の裔』として語られたことについてパウロが語った、『世の基礎の置かれる前に、神はわたしたちを愛して、御前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいて選らばれた』との言葉を、自分が信者になったのも世の始めから神に選ばれていたので、自分の救いは「生得的」で生まれる前の遠い昔から決まっていたことだとも言うのです。

しかし、その精神の狭さはキリストに激しく反対したパリサイ派のユダヤ教徒のようだと言うべきでしょう。「パリサイ」とは清く「取分けられた」という意味があり、アブラハムの子孫に生まれた自分たちは、生まれながら神に是認されていると信じ込んで諸国民を蔑視していたのです。(エフェソス1:4/ルカ18:9-14)

パリサイ派は旧約聖書に精通し、モーセの律法を細心の注意を払って守ろうとしていたので、それが彼らの自負する『義』であったのですが、しかし、元はパリサイ派であった使徒パウロはこれについて『義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった』と認めます。(ローマ9:31)
これはキリスト教界にとっても重い教訓とすべきことなのですが、実際に、聖書は信じる者に道徳的な生活をさせるための書であるとの教えは様々な教会に広く見られ、神に喜ばれる生活を送る方法が聖書によって知らされていると信じられています。
しかし、これはキリスト教が律法遵守のユダヤ教に退行することであり、イエスに反対した人々の道に意図せず入っていることになってしまいます。

確かに、新約聖書にも道徳規準がいくつか書かれてもいるのですが、これは『聖なる者』が契約を全うするために自らを『聖』とするための務めであって、聖霊もない誰かがこれらの規準に従ったからといっても、特に神の是認があるわけもありません。(ヘブライ2:11)
むしろ、新約聖書は『信仰による救い』を唱えます。それは人間が自分の『罪』を悔い、一重にキリストの犠牲の贖いに希望を託すことであって、「自分の義」を立てて、それを神に認めさせようとする態度とは正反対なのです。(ガラテア2:16)

そこで学ぶべきは、実に「聖書への見方」なのです。
パリサイ派が聖書に対して神経質なほどに従順であろうとしたように、キリスト教徒の間でも聖書への偏った依存心が見られます。
なぜ、依存するかといえば、今日は聖霊がなく、神からの音信はただ聖書に収められているからなのですが、同時に、それらの言葉が自分を救ってくれる確約であると思い込むところで、聖書にすがりつき、その中の自分にとって有難いと思える言葉を探し出しては喜んでいるのであり、それは一種の偶像崇拝のようで、よく見られる宗派のシンボルに十字架と共に、開いた聖書があるのは、その傾向を助長し兼ねないのではないかとも見えます。

そうした傾向の根源は何かと問えば、「自分への関心」というべきではないのでしょうか。
つまり、神の意志はともあれ、自分が救われることを第一にする場合、何かを偶像化してすがる傾向を強めることでしょう。それが自分の救いの具体的な証拠や約束だと思い込むからです。もちろん、偶像化の対象としては、ほかにも様々な表象が挙げられます。十字架ばかりでなく聖画や聖遺物などはもちろんですが、聖書もそこに加わり兼ねないものです。

これに類いするものに、聖書の「逐語霊感説」というものがあります。
これは、聖書の言葉の一字一句が神の霊感の下に書かれたという考えで、聖書の言葉は絶対に間違いがないとするものです。
もちろん、神が預言の言葉を預言者に語ったものは間違いはないでしょう。
しかし、それが一度書き記されたところからは、どのような経過があったかを確認する術は現代人にはありません。ただ、古来の写本の比較検討によって信憑性の程度を判断できるくらいです。

ユダヤ教と異なり、専門の写字生を持たなかったキリスト教界の新約聖書では、写本同士の差異はずっと大きいものですが、それでも古写本の綿密な照合による多数決の原則から、ある程度に信頼できそうな本文(ほんもん)をいくつか作成することはできています。例えればネストレ・アーラントの新約聖書ギリシア語本文がありますが、版を重ねる毎に幾らかの改訂も続けられています。
それでも、マルコやルカなどの文章には、歴史資料との相違点が僅かながら残されていて、おそらくは原著者の勘違いがそのまま書かれたであろうとも言われますが、思い違いの記述はマタイにもあります。(マルコ6:14-/ルカ2:2/使徒5:36-/マタイ27:9)
また、後代に付け加えられた挿話があるともされますが、その部分の前後の内容からするとかなり怪しいのですが、却って人々からは、その内容で好評を博しています。(ヨハネ7:53-8:11

また、旧約聖書でも問題がないとは言えません。新約ほどに異なる写本に然程は悩まされないにしても、古来ヘブライ語には母音字が無いために、発音が分からなくなっている単語が散見され、僅かとはいえ、その読み方によっては意味が違ってくるところもあります。加えて、言葉が余りに古くなってしまい、それが具体的に何を指しているのかが現代のユダヤ人にも分からないという単語も無くはありません。ですから、旧約聖書が翻訳されるとき、推測で補われる箇所もあちこちにあるのです。また、写本作成の専門家『書士』らも、僅かながら良いつもりで言葉を置き換えた形跡もあるとされます。しかも、その以前に、モーセの五書からして後代に編纂し直され、今日のかたちをとっていることはその記述そのものに明白です。(創世記22:14/申命記34:6)

こうした実態を考慮すると、読書は聖書の逐語霊感説のように聖書を絶対化して崇めるのではなく、バランスのとれた観方を要します。
むしろ、聖書に向かうべき姿勢は、奴隷であるかのように硬直的な従順を示そうとするのではなく、語り部の言葉に耳を傾け、行間で言わんとしているその精神を自ら悟ろうと努めることと言えるでしょう。一方で聖書の言葉に対して信者が奴隷のようになりたいと思う動機と言えば、ご利益という酬いを確定したい欲求が働くからではないのでしょうか。(ローマ4:4-5)

まして、イエスが多くの例えを用いて語り、その意味を誰にでも区別なく教えたのではなかったのであれば、それらの例えに決まったように『耳ある者は聴け』と最後に付け加えられた一言に、聖書をどう読むかが示されていたのでしょう。つまり、言葉の表層を絶対視するのではなく、自ら判断しつつ言葉に込められた意味を追ってゆくべきことです。つまり聖書を読むときには読者自身がどのような動機を持つ者であるかが問われているということです。

語られた言葉を理解するためには、聖書だけ読んでいればよいわけではなく、文章を読解する習慣も求められ、いくらかの素養もないと言葉の真相を察知するには困難がつきまとうでしょう。むしろ「聖書だけを読んできた人」というのは「偏った人」と同義語にならないものでしょうか。
また他方では、「聖書を勝手に解釈しては危険なので、専門家である宗教家に判断することを任せるべきだ」という諸教会でよくある考え方は、自ら抱くべき信仰を捨て、奴隷化することが正しいと言うに等しいことで、それが「地獄」の恐怖に脅える中世的な宗教隷属を生んだ根源でしょう。その「危険」というのは、「救われたい」保身の態度で聖書を読むべきだと言っているのです。

そのように聖書を絶対視する動機といえば、自分の利益の確約、つまり聖書を至福への権利証書のように見立てることもあるのでしょう。
かつて、カトリックが聖書の記述に余りに無頓着で、教理が異教的に堕落し幼稚化してしまったことを告発し、打破するために、プロテスタントが聖書主義を打ち出したことは、当時の強大なカトリックに抗してキリスト教会の改革するには必要であったでしょう。

ですが、正統の権威として聖書主義を打ち出したことは、もう一方の極端への傾斜の危険を孕んでもいたのです。
それは「聖書に従えば神を喜ばせ、また正しい崇拝者になれる」という、あらぬ方向に進む危うさでありました。
しかも、聖霊や聖徒の理解は既に失われて久しい状況で、当時の改革者にも絶対の正しさというものなど聖霊の無い以上は願っても与えられるものではありません。
『神の義』は追い求めることはできても、聖霊の注ぎを待つことなく、自ら『義』を獲得することなどあり得ないことだからです。

結果として聖書主義は、神を聖書の中に押し込めてしまい、「必要な事はすべてこの本の中にある」との仮定を信じるよう多くの人々を導きました。
ですが、これは聖霊という神の奇跡の働く場を自ら奪ってしまう信仰であったのです。どうして「神は語り終えた」などと人が断言できるものでしょうか。

聖霊なきキリスト教界は、聖霊というものの意味さえ見失ってしまい、おしなべてこの状況に在る限り、儀式に凝るにしても、聖書の記述に厳密に従うにしても、自ら正しく崇拝を捧げられないばかりか、第一に必要な聖霊を求めることもなく、却ってそれが現れるときには反対し兼ねないほどの「信仰」を人々に勧めていることになっているのです。

そこで結論は、聖書とは神の言葉を記録したものであっても、神の言葉そのものではないというべきことです。
それでも、聖霊の無い今日であればこそ、聖書はこの上なく貴重な一書です。かつて存在した聖霊ある純正なキリスト教の姿を伝え、人間を遥かに超える情報の唯一の源となっているからです。

しかし、それがすべてではなく、人が注意を傾けるべきは本ではなく神の方であり、その次なる言葉は聖霊によるのであり、聖書に書かれた言葉の表層に拘っていれば、キリストが現れたときのパリサイ派の轍を踏むことになるでしょう。

こうして見ると、人間とは「自分の義を立てる」傾向が強いことは否定できません。ユダヤ教徒もキリスト教徒も同じ性向を示しがちであり、その動機と言えば「保身」、または「ご利益」であり、その関心は神ではなく自分に向いているところにあるのではないでしょうか。

人は神を前にして、あまりに自分の存在の危うさ、また儚さを何とかして欲しいと強く願い、神の語るところをじっくりとは聴けないのでしょう。
ですが、神が人の願う以上の祝福を備えようとしているのであれば、これはすべてを台無しにしてしまうことです。






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