FC2ブログ

主観の自由である「信仰」 蹂躙不可!

2019.05.17 (Fri)

キリスト教でも他の宗教でも、「信仰」を持った人々というものは、自分の何かを差し出して、神からの益に与ろうとするものではあります。それによって人は神のような何か「上なるもの」との関係を築くことができると教えられるので、それが「信仰」の為せる業とも考えられていることでしょう。
そうであるのなら「信仰」というものの目的は、人を何かの基準に沿った行動をさせることなのでしょうか。また、同じ信仰になく、そうしない人をどう見做すのでしょう。


さて、人は自分をどう生きるか、という問題を考えなくてはなりません。

というのも、人は誰も自分から生まれてきたわけでもなく、自分という人間について、その人生にどう意味を与え、儚い一生にどう対処するべきかを生まれながらに知らされていないばかりか、人々の間にすら誰もが納得しているような答えもありません。

そこで、それぞれに人生の意味付けを捜すことにもなれば、ある人はどこかで諦めてしまうことにもなるでしょう。
ですから、今、何かの信仰を持っているということは、その教えに人生の意味付けや目的を見出しているということなのでしょう。
もちろん、それは確信を得たうえで信仰を持ったのでなければあまり意味もありません。


それにしても、世界には様々な宗教の信仰や思想に基づく信念があり、人々がそれぞれ望ましい何かに人生の意味を見出してきたのです。
しかも、それぞれに確信があってこそ、信仰に熱意も抱けるものです。ですが、その人がどれほど確信を抱いたからと言って、信じた事柄が誰もが認める事実や真実になったわけではありません。それは依然として「ひとつの信仰」に留まっているのです。

そこで、様々な信仰を持つ人々がそれぞれに確信をもって熱心であるほどに、自分の信仰、また他の異なる信仰というものをどう見なすか、という難しい問題にも直面することになります。

特にキリスト教のような多神教ではない信仰の場合には、「あれか、これか」という信仰の条件がついてまわります。
何かの教えを唯一正当とすると、その人の信仰そのものが、別の信仰と両立し得ないという事が起こりますから、どちらかが正しく、どちらかが間違っていることにならざるを得なくなるのです。しかも、自分たちの「正しさ」が絶対であるとするなら、他の教えの「間違い」によって、つまり他との違いに「依存する」ことにもなってきます。周りが「間違っている」ことを頼りにして、それを自分たちの「正しさ」の証しにしてしまうのです。

そうなると信仰の有無や違いによって、比較による差別が避けられず、人間関係にいろいろと制約も生じることはまず避けられません。その酷い結果に宗教紛争もあるのでしょう。破壊と殺戮を繰り返す過激派の「正しさ」というのは、どういうことなのでしょうか。
そこで人は正しさを巡って戦うのですが、武器を持った争いばかりでなく、差別や嫌がらせや、優越感や蔑視など、多様な害悪がその「正しさ」の中から出てきてしまいます。それは人間関係の阻害なので、もちろん道徳的には正しくもありませんが、理屈のうえでは、それぞれの「正しい教え」から出てきているのです。

それを特に信仰を持つでもない人々から見ると、「人生について考え過ぎるのは良くない」という結論を誘うことにもなります。信仰の行いが却って愚かで有害に見えるからです。
そのため独善的な教えを持つ宗教は、外部の観点を断つために信者の情報を制限しなくては正当性の維持も難しくなってくるでしょう。実際に幾つかの宗派がそれぞれに「インターネットは危険」としますが、「自分たちだけが正しい」とのその主張は、そこまで外部の評価に耐えられないほど「危うい正しさ」なのでしょう。

「真理は一つ」と口で言うことはいかにも簡単なことですが、人は宗教上の「真理」を証明することができません。精々が聖典に書いてあるとか、信者の行状が道徳的だという程度のことにしかなりません。「圧倒的な真理」など、どこに存在するでしょうか?どんな信仰であれ、たとえ絶対に正しい信仰というものがあったとしても、信仰というものはやはり信仰の範疇にあり、人それぞれの倫理観や価値観による判断を必須とするものではありませんか。

そのうえ「正しい宗教」を広めようと伝道を行っても、あまり人々に喜ばれないのも、教えようとする側からの圧力や、優越感などを、聞く側が敏感に感じ取るところに原因があるように観察されます。伝道する側からすれば、善いことをしているつもりなのですが、受ける方では自分の意志や決定権が脅かされるような不安があるものです。相手は理屈を準備しているに違いないので、洗脳の危険を感じるとも言えるでしょう。

さて、そこでこの状況を冷静に考え直すなら、視界に入ってくるものがありませんか?

つまり、人間というものには、絶対の宗教や正しさというものを強制することができません。それは人の性質に反するのです。
たとえ、本当に「絶対正義」がこの世に存在したとしてもです。
信仰とは、確定していないことへの主観的な判断を含んでいますので、絶対の真実の下には存在しようがありません。

信仰に関する人間にとっての「正しさ」は、常にその人の主観によって「正しい」のであり、科学や数学のような客観では、人生に関する絶対の真理なり正しさなりの正解がないという現実を直視する必要がどうしてもあるのです。無生物である法則には何の倫理を期待できるでしょうか。神が人に信仰というものを求める限り、科学は神の存在も不存在もけっして証明できないでしょう。

人は内心の傾向によって、信じたいものを信じるからこそ、神は信仰によってその人を終末に見極めもすると言われるのでしょう。即ち、問われるのは倫理であり、自他を、また神を認識し得るものにこそ意味のある事柄です。そこでは、神はいないと信じることも含まれる個人の決定、倫理問題の解の一つです。

そこで人には、自分の人生を自分で決める自由があることになります。
それは数式のように導き出せるものではなく、個人の意志の自由によって「見出される」必要があるでしょう。
それが「倫理」と呼ばれる、個人個人が選択し責を負う領域のもので、他の誰が代れるものでも押し付けられるものでもありません。

それに加えて、元来、神が「信仰」というものを介してこそ人間と関わる理由を考えれば、この結論はたいへん納得のゆくものともなるでしょう。
もし、全知全能の神が存在し、その神が自らを人々に現されるときには、どんな人間であれ、圧倒されてしまい、信仰どころかただ真実だけがそこにあり、何の異論も反論もできないでしょう。それは一種の奴隷状態です。

そこでは、真理はひとつであり、選択肢も逃れ場もありません。
人は神との関係を自分で決めることなど「冒涜」などと決め付けられて不可能となり
ただ従順である以外に何の自由も持てません。
そこには神の意志だけが正しく、あとはみな間違いとなります。人の意志さえ意味を持たなくなるでしょう。

さて、人はそれが幸福と思えるものでしょうか?


多くの人々は、自分自身をどう生きるのか、その目的は何か、などの答えを求めて宗教に向かって問い掛けてきたことでしょう。
そこで、「決定的な解答」に出会いたいと思うのは自然な願いでしょうけれども、そもそも人を創られた神が、人の意志を尊重して、絶対的には自らを現さず、示さないとしたら、どういうことになるでしょうか。

実に聖書には、『神は自らに似せ、その象りに人を創られた』とあります。
その同じ神が、人を威圧してしまうなら、その意志も自由な判断もわざわざ奪ってしまうことになるでしょう。それは隷属というほかありません。

ですから、エデンの『園の中央に二本の木を植え』、アダムとエヴァを監視せず、垣も設けなかったのも、その意志の選択を見るためであり、神が自由な意志を持つように、人にもそれを持たせ、犯さなかったと言えるのではないでしょうか。
そこで強制してしまうなら、そもそも『二本の木』の必要がありません。

神が人をそのように扱われたのは、自らの『象り』を尊重することであり、人の意志決定を妨げたなら、神は自らを卑しめることになったでしょう。
そこで試されたのは「従順」と言うより、他者との関わり方の選択であり、それが「倫理」と呼ばれる個人の決定でしょう。人は自ら望むままに生きるよう創られているのではないでしょうか。

では、どうなのでしょう。
神は「絶対的な正義」を示して、人に服従を求めているのでしょうか。
それならば「信仰」とはいったい何ですか?


ですから、聖書にある規準に従えば、神に受け入れられて救われる、との教え
また、神は人に対して主権を行使することを望んでいる、など
これらは人間一般が陥り易い「神への誤解」でありましょう。
神が人を自らの『象り』としたと書かれているにしては、むしろ支配し奴隷化が目的であるとするところはまったく大きな誤解です。

「人は神の定めた摂理に従って生きることが幸福である」とはそうであるにしても
人は絶対的で不動の幸福を願うあまりに、自らを縛って『神の象り』の自由な意思決定を踏みつけてしまう傾向が非常に強いため、神や上なるものに対して自分を奴隷として差し出して自分を正当化し、内心で保身を謀ってはいないものでしょうか。その関心は自己保存本能という『恐れ』からきてはいないでしょうか。つまり、自分を売り渡すことによって、「救い」という代価を得ようとしているのです。

しかし、聖書詩篇は、人にとって『命に勝る』ものがあることを述べます。Ps63
それは『神との関わり(忠節な愛)』とありますが、保身目的で神に近付こうとするなら、その人は逆に『命』の方が『神との関わり』に勝ると言うことになってしまいます。
キリスト教徒であれば、それがイエスの示した精神とは真逆であることに疑問の余地がありません。
聖書の主題は「永遠の命」ではなく「愛」であって、神はそれを人に問われます。愛ある人こそ神と結ばれ共に生きるべきだからです。神が保身目当ての崇拝者に囲まれることを望むでしょうか。

人が「永遠の命」を目当てに「信仰する」のなら、命や救い欲しさに自分の自由を縛った信者は、他の人々まで縛ろうとするでしょう。特に子の世代、二世以降の信者はその強制の被害を容易に被り兼ねません。
確かに、誰も愛する人に「過ぎ去る存在」になってほしいわけもありません。しかし、「救いのためには愛する者も強制して奴隷化させる必要があり、それを神も望む」というのでしょうか。

「我飢えるとも、子は飢わさじ」とは天晴な親の姿ではありますが、そもそも神は災害ではありません。
神が全能であることを信じるのであれば、神にとっては誰であれ永生を与えることができるはずであり、その神が人を脅して信者を得る必要があるのでしょうか。他方で、不老不死を望むことはどんな悪人でも、いや貪欲であるほどに手に入れたいと思うことでしょう。

そこで誰かが「信仰しない危険」を唱えるとすれば、それこそは神ではなく、常に人間が唱えるのであり、人々の欲を煽り、しかも自らは更に貪欲で横柄な人格の持ち主でしょう。危険だから信仰するものではないからです。

しかし、往々にして、「絶対の宗教」は自分と愛する者たちための保身になることを請合うので、信者自ら奴隷化することが、必ず信者に救いを与えて幸福にすると信じて疑わないまでに硬直化し強度の頑迷さに至ります。
さて、それが「信仰」でしょうか。

天国や楽園などで「生ける希望」などと吹聴しながら、実は保身目当ての絶対主義で、キリストの死によって死への恐怖から解かれたとは言えず。むしろ、神の裁きの理由も考えず、ただ利益を望んでいる状態を「信仰」とうそぶいていませんか。
パウロはこうも書いています。
『働く人に対する報酬は、賜物ではなく、当然の支払いである。
しかし、働きはなくても不敬虔な者をさえ義とする方を信じる者は、その信仰が義と認められるのである。』ローマ4:4-5

キリスト教に於いては聖典にある言葉に固執し、人にとって生きて行くために重要な事柄から引き離して奴隷として働かせ、そうして「言葉の罠」に嵌まらせて神からの支払いを期待させ、神の言葉に精通しつつも自然の情愛を失い、聖典の言葉の本来の意味からさえ遠く離れてゆく姿は、かつてキリストを葬り去った宗教家の轍を踏んでいませんか。(シナイ契約はメシア信仰へのアンチテーゼなのでしょう。パウロはそれを「奴隷」としています)

こうしたパリサイ派のようなことは、独善的な宗派に於いては当然のように教えられ、まさに実践されていることではありませんか。
保身の為に自分を差し出し、隷属の業を課され人格を制限された人々の群がそこに見られるでしょう。

自己義認が強く、唯一正統で、他は悪魔の滅びの道、などと主張する愚かさがどれほど利己的で醜いものであることか。
それは神がその栄光を与えるべき人間を踏み躙っているのであり、延いては神をも卑しめていることになるでしょう。

人は自分という存在について探求し、対処法を考えている内に、理屈を捏ね繰り回す貪欲な宗教に「信仰」を懐いて、実は神でない誰かに自分を差し出してしまい、奴隷となってしまうのです。それは怪しい投資話に夢中になるのに似ています。
ですから、あちこちの宗派で「永遠に比べれば、今の人生など僅かだから・・」といわれて、生活を投げ出して宗教団体に「投資する」よう誘惑されているのです。

そんなひどい話に乗ってしまう原因といえば、その人の貪欲が煽られた結果なのでしょう。つまり、利己心という「サタンの象り」であり、自分を差し出した相手であるボスと同じ性質を帯びるのです。その圧制の下で人の自由を尊重する姿勢は失われることになり、誰が偉いかを問い始めることにもなるでしょうし、権威を横暴に振う者も現れるでしょう。弱きを顧みず切り断つことで自分の身の安全を感じ、そこで優越感に浸る主人のはびこる「奴隷制」だからです。

「自分たちだけが正しい」と唱えることで、その人たちは周囲との関係に問題を抱えることは避けられません。その本質が倫理問題だからであり、問題は家庭の中からさえはじまり、友人知人、仕事でも学校でも、更に差別化が強ければ、果ては病院や介護施設から墓に至るまで、人と人の関係を阻害し、軋轢を生むことさえ起こり兼ねないでしょう。しかし、当の信者は、それが反対に遭うという犠牲をはらい、大事になるほどに確信を強めることになります。迫害されているのだから「ますます正しい」と説かれて信じてゆくことになるでしょう。

ですが、周囲から自分の人格が認められ、また自由な決定を尊重して欲しいのであれば、まず、自らが周囲の人々を尊重するべきではないのですか。自分が自由に述べ行動するように、他の人々も自由に主張することを認めてはじめて、人は人らしく生きられるものです。自己義認が無ければ、わざわざ人間関係を荒立てる理由がありません。しかし、唯一正当などと自認している人が真実な謙虚さをもって振る舞えるものでしょうか?それはまさしく倫理問題です。

逆に、真の信仰であれば、それは事実とは未だ成っていない事柄への自分の「主観による判断」であることを認められるはずであり、まったく事実であるかのように正しいとは言わないでしょう。それは「信仰」を通り越した「決め付け」ではないのでしょうか。

ですから、自由のあるところに惹き起こされるのが信仰と言えましょう。
それは強制できるものとはいえませんし、脅して抱かせるものでもないのです。
人が恐れなく、束縛のないところで自ら選び取るものが信仰であって、その結果に隷属があるなら、それは矛盾しています。

この点で、唯一正統を主張し、絶対正義を唱える「信仰」というものがあるなら、それは少しも「信仰」ではなく、人格を無視した「強制」であって否応なく人を奴隷とすることを意味するでしょう。
その「教え」は「信仰」から外れて大いに間違っているばかりか、創造の神を自分のような圧制者であると吹聴していることにもなるでしょう。

神の御言葉が『諸刃の剣より鋭く、心の想いと願望とを切り分けるほどに鋭い』というのは、このようなことではないのでしょうか。ただ字面に従っていれば神に受け入れられるのではないのです。
また、『人はそれぞれ、その欲によって引き出され試練を受ける』のであれば、注意するべきは行動の外面よりは、心の中ということになります。
しかもそれは、気付き易いものではなさそうです。 よほどに気を付けていてすら誰にとっても『心は不実』なので、「自分は信仰にある」と自らの心を疑わずに慢心しているなら・・さて、どうなるのでしょうか。自分の意志と逆の方向には進みたくないものです。

このように、人が、自らの存在意義を探ってその空しさに怯え、却って「信仰」の名の下に自由を失い、人の奴隷になるということ、それが現に起こっているのです。
誰かが「唯一正統」を唱えるなら、その人は「神」の座を占めているのであり、自分が崇拝されることを願っているのです。それに従う「信仰」とは、神へのものではありません。





トラックバックURL
http://irenaeus.blog.fc2.com/tb.php/235-873d0b49
トラックバック
コメント
お読み頂きましたうえ、コメントまで頂戴し、ありがとうございました。

人が生きて行くということは、それだけでも難しいことですが、それを何かのドグマで更に難しいものにして、自分と周囲を不幸にするということが、宗教の名によって行われていることは、本当におかしなことですね。

それも、見ていながら指摘しても聞いてさえもらえないという状況は、たいへんにもどかしいものです。
信仰に固い人ほどに、その悲劇を理解しないというのは、いったい何が起っているのでしょうか。

何を信じるにしても、人を生きるということでは、より幸福に周囲の喜びとなるようにしたいものです。
本来、キリスト教とはそのようなものに違いないと思います。

思いの習慣を変えることは容易でないとしましても、「根本的なことに気付く」というだけで、きっと大きな変化になることでしょう。
今後のk・Fさまの探求がより価値ある実を結んで行かれますよう、祈念しております。
Ειρηναίος | 2019.05.18 21:32 | 編集
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top