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血で表される「魂」による復活

2018.01.01 (Mon)


◆血の清め

創造の神は、生きるものの価値について、特に動物の命を聖書の中では『血』を通して特別視し、そこから人間に対して命あるものへの尊重を求めるところがあります。(申命記12:15)

イスラエルに与えられた律法の祭祀では、主に動物の犠牲が求められていました。それは、動物の命を軽視することではなく、動物の命の価値を通して、人間の命の重さを知らせるものとなっています。
彼らが、また異邦人崇拝者であっても、神を崇拝し近付こうとするときには、羊や山羊や牛などの動物を屠ることが神から求められていたのです。

創造の神が、動物の犠牲を求めるということに違和感を覚えるかも知れませんが、これが表すものは、むしろ創造者であるからこそ生命に対する価値を教えるものとなっていると言えます。

人が行う神への祭祀で繰り返される動物たちの犠牲を通して、人が神に近付くには、死による代償が必要であること、その理由としては神とアダムの子孫との間には『罪』という壁が自由な交友を阻んでいること、その『罪』とは倫理上の欠陥であることを教えているからです。
人間の不道徳性から行われた多くの悪は軽く済むものではありません。それは今日まで見聞きしている通りに巨悪というべきほどのものです。これまでにどれほどの悪が人々によって行われて来たことでしょうか。

聖書は『罪の酬いは死である』と宣告しています。(ローマ人への手紙6:23)
そして旧約聖書も『生ける者はひとりもみ前に義とされない』と言うのです。(詩篇第143:2)
そこで人は神に近付くのに「身代わりの死」を動物を通して要求されるのは、人と神の間を隔てる『罪』を考えると道理に適います。

つまり、『死』には『死』の代替が求められるのであり、倫理という観点からこの崇拝方式を捉えると納得できるでしょう。「罪』ある者の死は『罪』ない者の死によってはじめて身代わりとなり得えるのであり、アダムの子孫である人は、誰も他の人のための『罪』の身代わりには成れません。まして動物は尚更です。そこで捧げられた動物たちが、到来するひとりの完全な身代わりとなる人キリストの犠牲の死を指し示していたとすれば、神の先見と不変の意志とを知らされることになります。(ヘブライ人への手紙9:28・10:4)

さて、人の『罪』のための代償として動物が捧げられた証しとして神が求めたのは、動物の肉よりはその血の方に贖いの意義が重くされています。それは、エジプトを立つ前の晩に捧げられた子羊にそのことが示されています。

肉は家々で食べられても、骨を含めたその残りは火で焼かれましたが、血は表象として入口の柱と鴨井に塗り付けられ、それを見た天使らは、その家を過ぎ越し、長子の命を奪わなかったのです。(出エジプト記12:21-23)

それに加え、荒野で律法契約が結ばれるときにも、モーセは民に『これは契約の血である』と言って、民に雄牛の血を振り掛けていました。(出エジプト記24:6-8)

また、律法祭祀の施設や器具など必要物が整い、祭祀の始まる前にもそれらの器具類ばかりでなく、大祭司アロン自身とその職服も含めて血の浄めを受けています。(出エジプト記・29:20/レヴィ記8:23・30)
これらの血による『清め』について、後代の使徒パウロはこう語ります。
『ほとんどすべての物が、律法に従い、血によって清められたのである。血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない。』(ヘブライ人への手紙9:22)

これらのことは、神にとっての「清さ」が何かを教えるものとなっています。それは倫理的な清さです。
つまり、医学的に見れば血液とは清潔なものではないにも関わらず、血が清めを行う理由は、人間の『罪』の汚れは死の代償なしには済まないということであり、それを律法は繰り返し教えています。(ローマ人への手紙6:23)

そこで神にとっての「清さ」とは、『罪』という倫理上の欠陥の無い状態を指すのであり、血を用いての「罪の代償」が聖書中に強調されていることになります。ですから、『罪ある人』『聖なる神』との間には、『血の犠牲』の介在が、どうしてもなくてはなりません。

また神YHWHは、民が食事で肉を食べるときにも、必ず血抜きし、その血だけは地面に注ぎ出すようにと律法で命じられました。(申命記12:24)
その理由として『肉の魂は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、贖いをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は魂であるゆえに、贖うことができるからである。』とYHWHは言われます。(レヴィ記17:11)

聖書では、動物にも魂がありますので、罪ある人間の魂の代わりに、血の犠牲として神に捧げられていたことになります。『魂は血にある』からです。
そこで、人は動物の肉を食べることが許されますが、動物の魂までは食べることは許されません。本来、生きる物は全て創造の神のものであるので、確かに神は『すべての魂はわたしのものである』と明言されているのです。(エゼキエル書18:4)

そこで律法の血抜きの要求が関わっています。肉を食べても神のものを奪わないためです。
とはいえ、血液の成分の中に『魂』があるということではありません。
人はその抽象的な『魂』というものを直接に扱うことができませんから、血という具体的な物の扱いを通して初めて、神の創られた命ある物に対する所有権を尊重することができたのであり、それはキリストの血の犠牲が捧げられることの意義の重さを教えるものともなっていました。

しかしそれは、血を神聖視し、飲まないことも含め、さらに進めて輸血を含め体内に入れることを拒むような上辺の行動が創造神の本来の意図であるというのではありません。むしろ、神に創造された『魂』の価値の大きさ、また命の重みをわきまえるところに血の扱いの意義があります。
今やキリストの『罪なき血』が捧げられたのですから、神が人にどんな『血』であっても犠牲に求めることは二度と無いでしょう。キリスト以後、実際の血に関わる崇拝は明らかに過去のものです。(ヘブライ人への手紙10:11-12)



◆創造者だけが行える復活

この『魂』(ネフェシュ)という言葉は、日本語での「魂」の意味とは幾らか異なっていて、聖書翻訳する際に「命」や「思い」などに入れ替えられることもたいへんに多いのですが、この『魂』(ネフェシュ)はヘブライ語独特の意味を持っていて、別の語に置き換えてしまうと、聖書全体の理解を壊してしまうほどになってしまいます。⇒「ネフェシュ翻訳の実態

しかし、どうしても他の言葉に置き換えられない場所もあります。
例えれば、イエス・キリストがこのように言われた箇所があります。
『体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。』(マタイ福音書10:28)
ここで、人の命を奪う者も、その人の魂までは殺すことができません。しかし神は、魂までをも滅ぼすことができることを教えています。

聖書には、『死んだ魂』という言葉もあります。律法の祭司たちが職務上の清さを保つために『死んだ魂』に近付くことが禁じられていました。つまり「死体」に近付くことを意味します。ですから『魂』は肉体の死と共に死ぬことになります。
では、イエスの言葉では、神は魂までも殺すことができるとなっていますが、これはどういうことになるのでしょうか。

人が亡くなると、その屍はその人の名残ではあっても、もうその人とはいえません。
鄭重に葬るとしても、そこにその人が居るというわけにはなりませんから、死は「旅立ち」にも例えられてきました。
しかし、残った人々にとっては、故人があたかも話し掛ける相手として、まだ心の中に存在するということはあるものです。
そこに関わってくるのが、聖書独特の『魂』というものなのです。

では創造を行った神が、過去のあらゆる人を『魂』としてご自身の中に所有されるのであれば、再び生かすことはできないでしょうか。
確かに『復活』こそは、特にイスラエル人が懐き続けた希望であり、人を存在させた創造神だけが成し得る偉大な奇跡です。

そこで、イエスの弟子たちの中には、イエスご自身がそうであったように、激しい迫害の中で命を落とした人々も居ます。
彼らは、確かに死にましたが、神への忠節を捨てなかったために、神はその人の魂を滅ぼさずに永遠の命を与えることをイエスは『体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな』という言葉によって、弟子らに注意を向けさせていたのです。

ですから、『魂』はその人の体と共に死を迎えることがあっても、神の許では滅ぼされることなく存続すると言えます。
まさにイエスが、ご自分の刑死を目前にされた中で、「復活などはない」とする人々に向かってこう言われています。
『死者が復活することについては、モーセも「柴」の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んでいる。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は神にとっては生きている。」』(ルカ福音書20:37-38)


この言葉聞いたユダヤの宗教家の中からも、深く同意し『見事なお答えです』と言う反応があったことを福音書を書いたルカが記しています。復活と永遠の命がユダヤ人古来の希望であったからです。
また、エルサレム近郊のベテニヤ村のマルタという平民の女も、自分の死んだ兄弟について『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』と語っている場面が聖書にあります。(ヨハネ福音書11:24)

この世の多くの宗教では、人は死後に霊魂となり意識を保って、天国や地獄、また何らかの死者の世界に旅立つものとされていますが、そのように故人の意識が残っているという教えは、エデンで『蛇』が『あなたがたは死ぬようなことはないのです』と言った偽りの上塗りであり、アダムもエヴァも神の言われたように死んで『土に帰り』、創造の過程を逆に辿って無に帰したことは否定できるものではありません。

聖書には、死者の無意識がはっきりと『生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない』とあるのです。(伝道の書9:5)

しかし、創造神の信仰に於いては、人という存在はただ消えゆくものではありません。
イエスは『あなたがたの髪の毛までが数えられている』との神の人への関心を知らせ、たとえ死んでもその『魂』はいつの日にか命を得て復活することを繰り返し教え、他ならぬイエスご自身についても、使徒ペテロは『あなたは、わたしの魂をハデース(墓)に捨ておくことをせず、あなたの聖なる者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。』との旧約の言葉を引用しつつ『このイエスを、神は復活させた。そして、わたしたちは皆そのことの証人なのである。』と人々に宣言しています。(使徒言行録2:22-36)
ですから、イエスがアダムの身代わりとなって贖いの代価となったのも、そこに二つの魂が在ったからにほかなりません。



◆魂による復活

では、復活とは善人だけが受けるのでしょうか。
イエスはそうではなく、善人も悪人も復活を受けることを明らかにしています。
『南の女王が、今の世代の人々と共に裁きの時に起き上がり*、彼らを罪に定めるであろう。』(マタイ福音書12:42)*[エゲイロー]「目を覚ます」
つまりシェバの女王は、その千年も後のイエスの現れたときにキリストを迎え入れるべきであったのに退けたユダヤの世代と共に復活して彼らを断罪するというのです。

また、こうも言われます。
『ニネヴェの人々は、今の世代の人々と共に裁きの時に起き上がり、彼らを罪に定めるであろう。』(ルカ福音書11:32)
ニネヴェとは、かつて旧約の時代、イエスの時代から八百年も前に、イスラエルの預言者ヨナの警告を聴いて悔い改め、神の是認を受けた街のことを言います。

当時のキリストを受け入れず退けたユダヤの世代は共に目を覚まして起き上がるのですが、シェバの女王からも、ニネヴェの人々からも、彼らは断罪されるとイエスは予告します。つまり、善人も悪人も誰もが共に復活することになるのです。
この点では使徒パウロもこう述べています。
『義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身(ユダヤ人)も抱いている望みを、わたしも神にあって抱いております。』(使徒言行録24:14-15)

これを語った使徒パウロは、手紙の中ではこう書いています。
『人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている』(ヘブライ人への手紙9:27)
これは、すべての人が復活を受ける目的を教えています。
つまり、神は『すべての魂はわたしのものである』と言われてから、『罪を犯す魂が死ぬ(滅ぶ)のである』と続けて言われる理由を示唆しています。(エゼキエル書18:4)
つまり、すべての人が、アダムと同じ倫理的に完全な状態に復してから、同じように「エデンの問い」を受ける必要があるからです。そこでは、自分の過去を悔いる道も開かれることでしょう。「罪多き者は、多くを愛す」とイエスは言われます。(ルカ福音書7:47)

ですから、わたしたちの髪の毛までが数えられているという創造の神にあっては、今生きているものも、かつて生きたものも、そのすべてを『魂』として把握され、創造者であられる以上、死んでもそれをもう一度生かすことができることでしょう。
それですからイエスが、アブラハムもイサクもヤコブも『神にとっては生きている』と言われた道理があり、神はイエスご自身の『魂を墓に捨て置かれず』復活させて『死の眠りについた者の初穂』とされたと言うことができるのです。(コリント人への第一の手紙15:20)

ですから、人は生きていようと死んでいようと『魂』であり、すべての人が神の所有権の内に保たれていると言えます。
どれほど悲惨な生涯を送ろうと、どれほど短い命で終わろうと、ひとたび創造された人がそのまま終わるとは言えません。
復活によって、人の善悪も立場も関わりがなく、誰もが神の栄光を受ける日が必ず来ることを聖書は知らせます。
この復活によって、あらゆる人が栄光ある姿に復されるときに、創造を行われた方のみが行える偉業は、何者が真実の神であるかを証しするものとなるでしょう。(エレミヤ書10:11)

他方で、人間はこの世での存在のはかなさから、死後も命や幸福を得ようと躍起になり、様々な宗教にすがって神の善意を得ようと、善人を演じたり敬虔を装ったりしてきました。
また、そのような『滅びへの奴隷状態』にある人々の不安を利用して、宗教家たちが活躍し、信者には天国行きなどの死後の幸福を請け負っては自らの生計を立ててもきたのですが、そのすべては創造の神に在っては全く無用です。神の『魂』の所有権は、どんな人間の教えの言葉に勝る保証であるからです。(ローマ8:20-21)

キリストの血の犠牲が捧げられ、アダムの子孫のすべての魂は神に買い取られている今、これまでに存在したすべての人が、ことごとく神の手の中に『魂』としてしっかりと握られているのです。
ですから、たとえ死んでも、誰もが永遠に消え去ることはなく、必ず復活を受けることになると聖書は教えています。
そのとき、真実の神が『とこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民の屈辱を全地の上から除かれる。』との言葉が実現することになるでしょう。(イザヤ書25:8)

創造の神は、いつの日か死者に呼び掛けるほどに『ご自分の御手の業を慕われる』と聖書にはあります。(ヨブ記14:15)
そうでなければ、貴重な独り子を犠牲にはされなかったに違いないのです。














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コメント
わたしもそう思います。

愛とはすべての絆であり、創造の動機なのでしょう。
それは神と人を結んで永久に歩む動機をもたらします。
人はみな、生まれたときからずっと
いや、その以前からも、神の愛の中に居たのでしょう。
神は後に現れる人を予告し、話し掛ける場面さえありました。

人にとっての愛は、罪の対極に在って諸苦無くし
政治と宗教を無用のものとするでしょう。
虚無に歩む人に存在することの価値を教え
虐げに束縛される者にも神の象りの栄光を回復します。
誰も完全には体現できませんが、身を伸ばすことはできそうです。

C.Aさま、貴重な一言を頂き、ありがとうございました。
Ειρηναίος | 2018.07.19 19:11 | 編集
神は愛である、という言葉がまさしく真実であると実感できました。
C .A | 2018.07.18 22:57 | 編集
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