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モーセを介した律法契約

2017.12.29 (Fri)


◆イスラエルに秩序をもたらす律法

ある日、シナイ半島の荒野に、一国家に相当するほどの群衆が現れたとすれば、それを導くためには理に適った確固たる指導は欠くことが出来ません。
エジプトでの隷属から脱したイスラエル民族は百万を越え、そこに家僕やエジプトから行動を共にすることにした幾らかの諸国民もあり、その全体に秩序を与える必要には大きなものがあったことでしょう。

アブラハム、イサク、ヤコブという「族長時代」には、家族という範囲で何事も処理できても、国民となったからには、どうしても「統治」の必要が生じます。
かつてアブラハムは、カナンやエジプトの人々の道徳性を信頼してはいませんでした。
その神々の教えに問題があったからです。
しかし、こうしてイスラエルが民族としてエジプトから独立した以上、彼らの神がどれほどの指針を与えるのかが注目されます。

エジプトを立って三か月目、イスラエルはシナイ半島内陸にあるシナイ山の麓に集合していました。
そこで神は彼らと契約を結ぶと言われます。つまり、自分は神であるからと強制的に従うようにとは求めないのです。

契約の前に、神は予め次のように提案します。
『もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。』(出エジプト記19:5)

これは、イスラエルが自動的に自分の民となったのだ、というわけではありません。
明らかに、『あなたの子孫に約束の地を与える』というアブラハムとの契約とは異なる、別の契約をイスラエルと結ぼうということなのです。
その神の『声に従う』ことは同時にイスラエル民族に秩序をもたらし、その神の崇拝者に相応しい人格や行動を促す働きも込められています。

それはつまり、エジプトから導き出した神の言われることに従うなら、イスラエル民族を全地のどの国民にも勝って神に選ばれた貴重な選民としたいと、その神YHWHは望んでいたのです。

荒野でいろいろと不平を鳴らした民ではありますが、大いなる奇跡の数々をもって奴隷から救い出されたのですから、これに異を唱える者はいません。
そこで神は、イスラエルにそれから三日を精進潔斎するようにして待つよう告げます。

そして三日目の朝を迎えると、シナイの山体が激しく振動し、山は黒雲に覆われ、百雷が耳を弄するほどにとどろくので民は非常な恐怖にふるえます。
それから神は、『わたしはあなたの神、YHWHであって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である』と改めて自己紹介を行い、次いで『十戒』と呼ばれる最も基礎的な戒律をイスラエルの民に直接に語ります。
しかし、その大音量に民はすくみ上がり、自分たちに直接話さず、モーセを介して話してほしいと嘆願するほどでしたが、モーセは『神はあなたがたを試みるため、またその恐れをあなたがたの目の前において、あなたがたが罪を犯さないようにするために臨まれた』と言います。(出エジプト記20:20)

神の選民となるからには、それなりの意識や決意が求められます。シナイ山に神の臨御が示され、その神が諸国民の偶像の神のようではなく、恐るべき超絶性を持っていること、また、その言葉を軽々しく扱うべきでないことがここに示されます。

こうして後、モーセはシナイ山に登り、そこで神からイスラエルの守るべき法を授かります。
特に最初の十ヶ条については、人手によらずに二枚の石板に刻まれ、それらが法律の全体を象徴するものとして保管されることになります。

これらのモーセを仲介者としたイスラエル民族との契約による法規の全体は、ヘブライ語では「教え」を意味する「トーラー」と呼ばれ、それは「律法」と訳されています。これは現在の創世記から申命記までの五巻の書に含まれており、これらは「モーセ五書」とも呼ばれます。

こうしてイスラエル民族は、アブラハムへの契約の通りに『約束の地』に入植するだけでなく、モーセを仲介者として神との契約関係に入り、この律法を守る務めを受け入れたのでした。
そこで確かに、アブラハムの子孫が法典を持つひとつの国民として整えられてゆくことになりました。



◆契約に値しない不信仰

ですが、アブラハムの子孫とはいえないほど、この民は良い性質を表しません。
以前から奇跡と見ながら不平をこぼしていましたが、モーセがシナイ山に40日間籠っている間にも、勝手に偶像崇拝の祭りを始めてしまい、それを見たモーセは怒りのあまりに二枚の石板を一度叩き割っているのです。

その後も、彼らの不信仰は続き、エジプトから二年目に『約束の地』に入るに及んで、カナン人を立ち退かせる力は自分たちに無いと言って嘆きます。そればかりか、モーセ以外の指導者を立ててエジプトに帰ろうとさえ言うのです。
神はこう言われます。
『この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしが諸々のしるしを彼らのうちに行ったのに、彼らはいつまでわたしを信じないのか。』
そしてモーセにこう言われます。
『わたしは疫病をもって彼らを撃ち滅ぼし、あなたを彼らよりも大いなる強い国民としよう』(民数記14:11-12)

しかし、モーセはこれを聞いて喜びもせず、かえって神を気遣い、その意志を留めます。
『いま、もし、あなたがこの民をひとり残らず殺されるならば、あなたのことを聞いた諸国民は語って、「YHWHは与えると誓った地に、この民を導き入れることができなかったため、彼らを荒野で殺したのだ」と言うでしょう。どうぞ、あなたの大いなるいつくしみによって、エジプトからこのかた、今にいたるまで、この民をゆるされたように、この民の罪をおゆるしください』(民数記14:15-19)
そこでモーセの執成しを受け容れたYHWHは、自分たちは『約束の地』に入れないと嘆いた世代に当たる20歳以上の者らが、死んだり去って行くなりして絶え果てるまで、以後38年間荒野をさまよわせることを定めます。(民数記14:20-30)

これは、「律法契約」そのものの結末を暗示するものとなりました。
信仰の人アブラハムのような者は、例えその子孫であっても多くはないという現実がここに表れています。
イスラエルの崇拝は契約であり、旧約聖書では個人的な「信仰」よりも、契約の遵守の「業」が強調されます。しかし、それもキリストの到来により変化することになります。(ガラテア人への手紙2:16)

はっきりとしていることは、「信仰」は遺伝しないということであり、これは人それぞれに異なるものですから、本来、親は子であっても信仰を強要することはできません。

そしてやはり、イスラエル民族は『約束の地』に入っても律法を守らなくなってゆきます。
モーセの後継者であるヨシュアは、彼らを『約束の地』に定住させるために、生涯を費やした指導者となりましたが、その晩年にイスラエル民族の示してきた性質を回顧してこう言っています。
『あなたがたはYHWHに仕えることはできないであろう。』(ヨシュア記24:19)

ヨシュアの危惧はその通りになり、後の時代に、神は律法を守らないこの民を『約束の地』から追い払い、他国への流刑民とすることになってしまいます。
その流刑のひとつが「バビロン捕囚」と呼ばれるもので、その間は『約束の地』からは人が絶え、神殿も破壊されてしまいました。律法の三分の一は、崇拝の場所が無ければ守り行うことができないものでしたから、彼らは律法を守ることができなくなります。

しかし、それでも神はこの民族との契約を続行します。
そこにはキリストはまだ到来しておらず、彼らを用いて成し遂げる事柄が残っていたからです。



◆「過越し」の子羊によって買い取られた祭司団

さて、神はシナイに逃れてきた民にエジプトを出る際に屠られた子羊についても語ります。

子羊の血が門口に塗られたので長子が救われたのであるから、子羊の血の代価によって神はイスラエルの長子を買い取ったと言われるのです。(民数記3:12-13)
従って、すべての長子について神が所有権を持たれるとも語られます。(民数記3:45)

そこでイスラエルのすべての長子に代えて、モーセとアロンの属するレヴィ族を神に属する者とし、彼らを崇拝を委ねるべき祭司職に任ずると言われます。(民数記3:6-10)

それから崇拝の場である天幕と、崇拝に用いる器具類を製作するようにと指示が出されますが、その製作方法までがモーセを介して伝えられます。
天幕の中は二つの部屋に仕切られ、祭司たちが奉仕する聖所と、大祭司だけが入るその奥の至聖所とに分けられます。

聖所には、七又の燭台、香の祭壇、パンを置く机が置かれます。
奥の至聖所には、新たに金をかぶせた箱が作られ、十戒を記した二枚の石板と、マナを入れた壺が、それからしばらくしてアロンの杖も入れられて安置されます。
天幕の外の庭には、動物の犠牲を捧げるための祭壇が石で組まれ、祭司らが身を洗い清めるための水槽も置かれます。

この崇拝の場所は一か所であり、中央集権的な動物を犠牲とする祭祀がイスラエルの神の崇拝の中心となります。
そこではレヴィ族が崇拝を取り仕切る役割に任じられ、中でも祭司らは役職に当たるために白い亜麻布の服を着用することが求められ、アロンは崇拝の第一人者である『大祭司』とされます。

この崇拝方式全体の目的は、神との執り成しにあり、贖罪、つまり動物という「代償」の提出による罪の赦しを主要な目的としています。そこには、やはり神と人との間に『罪』があり、人が神の子として復帰するには、『血の贖い』が必要であることを繰り返し教えるものとなります。

ですが、後に使徒パウロはこう述べます『こうした(動物)の犠牲は何ら罪を除くことはありません』。(ヘブライ人への手紙10:11)
真実の犠牲は、ただ一度限り、完全な人イエス・キリストによって捧げられる必要があったのです。
律法がイスラエルに求めた崇拝方式も、やがて到来するキリストの犠牲を指し示す模式、また前表であるので、使徒ヨハネもこう述べています。『み子イエスの血が、すべての罪からわたしたちを清めるのです。』(ヨハネ第一の手紙1:7)

そこでイスラエルは、これらキリストの犠牲を予め示す模式的な崇拝方式を律法の中に与えられて、イエスの到来まで過ごすことになりますが、これらの意味が知らされるのは千年以上も後のキリストの到来の後になるのでした。








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