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安息日という解放

2017.12.28 (Thu)



◆安息日を支える神

紅海での救出によって、エジプトの奴隷身分を後にすることが出来たイスラエル民は、戦える男性だけでも60万人を数えるほどであったことが記されていますので、そのほかを合わせれば150万人から200万人にもなる大集団を構成していたことでしょう。

彼らは、紅海の対岸のシナイ半島を鉱物採取の道を辿って、半島の内陸にあるシナイ山に向かいます。
奇跡の救出を目の当たりにしたイスラエルでしたが、砂漠のように何もない荒野に大群衆が群がって来ましたので、その途中では、水や食料を巡って民は不平をこぼし、エジプトに居た方がよかったとも、モーセは人々を荒野に連れ出して殺すつもりだとも言うのでした。

それでも、神は彼らが水が欲しいと言えば、岩からさえ水を湧き出させ、肉を食べたいと言えば、見渡す限りのウズラの大群を彼らのところにもたらします。
エジプトで十の奇跡を行い、海を割って民族を丸ごと救出したことでさえ、到底人間の及ぶ業ではありませんが、それに加えて、数百万人を荒野で養うという、更なる偉業を神は続けられたのでした。

やがて、神はこの民を日々養うための奇跡を備えます。
それが「マナ」と呼ばれる天から毎朝降ってくる甘い味のする食物であったと出エジプト記は知らせています。
毎朝といっても、七日に一日はマナが降らない日がありました。その一日に断食をさせるというわけではなく、六日目には二倍の量のマナが降り積もることで、その日に集めたマナだけは翌日まで保存ができたのです。しかし、それ以外の五日間のマナは翌日まで取って置くことができません。つまり、『日毎のパン』であり、贅沢な食事ではありませんが、荒野で餓死する不安からは解かれます。

こうして、イスラエルには七日に一度、神の意向により生業を離れる日が習慣づけられ、それは『安息日』(シャバット)と呼ばれるようになります。
その一日は、『聖なる日』とされることが求められ、生計と立てる仕事の一切、また、そのように見做されるものを避け、自分の場所に安んじることが定められ、長い距離の移動も禁じられました。


◆聖と俗と分かつもの

この神の奇跡に基くこの不労働日の要求は、人の生活を支えるものが、神の供給力にあるのであって、人が食物を巡って労苦することにあるのではないことを教えています。
人は懸命に仕事を行ってこそ生きてゆけるという、この世の定めは、『顔に汗してパンを食べ、遂に地面に帰る』という、堕罪後のアダムへの宣告に表れていました。
しかし、それがすべてであるなら、人はただ「生きるために生きる」生活を余儀なくされ、大自然の中に必要物を無償で備えた聖なる創造者を意識することなく過ごすことでしょう。そのような人にとっては、全ての物が「価格」のせめぎ合いの俗世の中に存在するのであり、それは資源も加工品もすべての必要物が人に属しているという見方です。

ですがそのような見方をしていては、人間に残された『神の象り』としての人の美しさや資質も、『この世』の奴隷労働によってすっかり塗り込められてしまうことになります。実際、『この世』とはそれを人に強いる場となっています。
そのようにして形成されるのが『俗』であり、人々は利害に敏感で、様々な欲に放漫になり、その話す内容も卑近な事柄となるものです。
まさしく、神は『聖なるものと俗なるものの区別を知るよう』『安息日を聖別せよ』と言われますが、これは単に生業を休むことだけでなく、その人の思いを『この世』から神の領域へと引き上げることを促しているというべきでしょう。(エゼキエル書44章)

後に到来したイエス・キリストは、モーセの言葉を引用して、人に何が必要かをこう語られます。
『人はパンだけで生きるのではなく、人は*の口から出るすべての言葉によっても生きるのだ』(申命記8:3/マタイ福音書4:4) *(旧約ではYHWH)

そして、やはり神は『安息日を聖なるものとせよ』とイスラエルに命じられています。(出エジプト記20:8-9)
この意味は、堕罪以前にアダムが神の御前で得ていた栄光ある『神の子』の状態に思いを馳せることを含んでいます。元より神は人を俗なものに創ったでしょうか。いえ、そうでないからこそ、み前に清くないものは容認されないと聖書は言うのです。(ローマ人への手紙8:20-21/ハバクク書1:13)
もちろん、「アダムの業」から人間が全く解かれるには、『この世』の終りを待たねばなりません。
それでも『安息日』を通して、聖にして『罪』のない創造本来の人の清い姿を、七日に一度は思い起こす機会を神は設けられたと言えます。

そして、創造の神が『女の裔』を通して、人類を神の是認された創造物に復帰させようとの意志を持たれるのであれば、『この世』がいかに長く続こうとも、解放の『第七日』、つまり安息日が表すところの、人の聖性の回復の日が必ず訪れるに違いなく、イスラエルにはその希望を『安息日』を通して思い起こすことができるはずでした。

ですから、人は『神の象り』として、人らしく在るよう創られているので、生業の多忙や窮境に呑み込まれてしまうべきではないのです。
奇跡の『マナ』を通して神が教えることは、イエス・キリストが教えられたように『なにを食べるのか?なにを着るのか?と思い煩うことを止め』、またパウロも言うように『一切のものを惜しみなく与えてくださる神に希望を置くこと』、そして『この世』の奴隷となって「生きるために生きる」という心の殺伐とした生き方から、今でさえ解放されることであるのです。


◆規則にされた解放

しかし、後のイエスの当時の宗教家らは、この『安息日』を「絶対に守るべき規則」と捉えました。
彼らの関心は、神の命令である『律法』に全く忠実に従うところにありましたが、それは実際には『安息』というよりは、細々した規則に従うことに於いて、エジプトの奴隷に戻るようなもので、『安息』の意味を汲み取るというところがありません。

安息日には、怪我をしたところに包帯を巻くことさえ、それは「仕事」であるから行えないというのです。
このほかにも、宗教家らは39種類にも類別される、首をかしげたくなるような無数の細目を加えたので、民にとって安息日は平日よりも緊張を強いられる一日となってゆきました。

イエスの一行が旅の途中で空腹になり、畑に入って両手の入る程度の麦を食べたことがありましたが、これは律法の許すところです。(レヴィ記23:24-25)
しかし、安息日だったために、それを見た宗教家らは、イエスたちが「収穫」をして「脱穀」をしたと見做して批難します。
その宗教家たちからすれば、安息日に仕事をしないという命令に正しく従っていると思っていたのでしょうけれど、マナを降らせた方の意向は無視されています。

宗教家たちにとっての『安息日』とは、自分たちの正義を主張するための道具であり、それを守っている自分たちこそが、神に従順で正しく是認されているという優越感に浸るためのものとなっていたのです。今日のユダヤ教徒にとっても『安息日』は平日より遥かに緊張を強いられる日となっていると言われます。多くの定めがあって日常生活が大きく制約されるからです。

かつてのユダヤ教徒も、イエスが安息日に堂々と難病の人々を癒して憚らないことがどうにも許せません。『これは神からの人ではない。安息日を守っていないのだから。』と難病から人を解放するイエスを批難します。(ヨハネ福音書9:16)

しかし、イエスはこう言われます。
『安息日は人のために定められたのであり、人が安息日のためにあるのではない。』(マルコ福音書2:27)
つまり、『安息日』に多くの規則を与えて民を縛っていた宗教家たちは、却って『安息日』を解放から隷属へと戻してしまっていたことになります。
今日でも、「週に決められた一日は仕事を休んで宗教の集まりや奉仕活動をするべきだ」と唱えるキリスト教派もあるかも知れません。
しかし、一日を休むことよりも、宗教的な活動を行うことよりも、更に重要な安息日の意義は、自分の置かれた「この世の隷属」に気付き、そこからの解放を希求するところによほどの重要さがあるでしょう。それは日毎の意識、また生き方となり得るもので、意味を悟るなら週に一度で済むものではないのです。
『安息日』の精神には、エデンの園でアダムが受けていた自由への希望があり、『顔に汗してパンを食べ、遂に土に帰る』という『この世』の空しい奴隷労働からの解放にあると言えます。

この点では、エジプトの奴隷から解放された人々であっても、『罪』ある以上は、奴隷のような生活を真実には後にしてはいませんでした。日毎にマナを集める行為が、人の生業を象徴しており、『安息日』の意義も七日に一日はマナの取集めをしないところに象徴されていたでしょう。しかし、それらは象徴に過ぎません。
イスラエルであっても、やはり『罪』の奴隷であり、『この世』のもたらす苦役を背負っていたところは、今日の人々も変わらないのです。

『安息日』について、神は『それは、わたしとあなたがたとの間のしるしとならなければならない』と言われます。(エゼキエル書20:20)
律法に従うイスラエルとって、これは週に一日の『安息日』を守ることを意味しました。
しかし、その意味するところは俗を離れた心にあり、週に一度の休日を守るかどうかではなく、人が俗世にあっても自らは神聖さを願うことを神は求めていると言えます。休日を守ることに勝る意義は、人が真の解放、つまりアダム以来の『罪の隷属』から解かれることにあるというべきです。

イエスはこう言われました。
『何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、諸国民が切に求めているものなのだ。しかし、あなたがたの天の父は、それらがみなあなたがたに必要であることを知っておられる。』(マタイ福音書6:31-32)


ヘブライ語だけでなく、新約聖書が書かれた古ギリシア語単語の「信仰する」(ピステウオー)でも、「信頼する」という意味が含まれています。
ですから、「信じる者」(ピストス)は、ただ神の存在を信じるのではなく、神を信頼できている者を表します。

では、わたしたちにとって、人を生かすのは神でしょうか、それとも人でしょうか。あるいは『この世』でしょうか。
神を信仰するとは、人や世ではなく神を供給者と認めることで心に安息を得られ、想い煩いを去ることができ、そのうえ神の象りとしての自らの栄光を求めることになるのです。
まったく世に頼り切って、それが自分を支えていると思い込まないことが、『安息日を神聖なものとする』ことになり、その信頼が神と『その民との間の印』とされるにふさわしいことです。








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