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奴隷から救出されるイスラエル

2017.12.27 (Wed)



◆イスラエル人の現れ

人類祝福の『女の裔』が、アブラハムを通して来ることは、独り子を捧げようとした彼への神の約束の言葉に示唆されています。
『地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう』。(創世記22:18)

その独り子イサクも父となり、エサウとヤコブという双子を得ます。
アブラハムからの神の約束を受け継ぐことを深く望んだヤコブは、その願いの強さのために「神も圧倒する」ほどであることを示したので『イスラエル』との別名を授かります。(創世記32:28)
こうして『女の裔』に連なるイスラエル民族の歴史が幕を開けることになりました。

ヤコブは十二人の男児を得ますが、それがイスラエル民族内の各部族を構成することになってゆきます。
その中の息子で、ひとり家族を離れたヨセフは、不思議な巡り合わせを経て、エジプトのファラオの信任を得て宰相となります。
やがて、父ヤコブと十二人の兄弟で共にエジプトで暮らすようヨセフは一族を招き、肥沃なナイル河口のデルタ地域に定住させ、そこで人数を増え、ヤコブの子孫はいよいよイスラエル民族となってゆきます。

ですが、エジプトの王朝が代ってしまうと、イスラエルはファラオからの恩寵を失い、一族そろって奴隷身分に落とされてしまいました。
彼らは過酷な日々を過ごすだけでなく、ファラオはイスラエルが増えることを恐れて、生まれてくる男児の殺害が命じます。
そこに、ひとりの男児が生まれ三ッ月の間はなんとか隠されていましたが、エジプト人の追求から遂に隠しきれないと悟った母親は、その子を防水した籠に入れナイル川に流し、その運命に任せるほかなくなりました。
しかし、導かれるようにして、折よく水浴に来ていたファラオの娘に拾われることになり、この男児はファラオの一家として宮廷で育てられるに至ります。
この人物が、後の預言者モーセと呼ばれ、イスラエル民族を率いて『約束の地』パレスチナへの旅へと出立させることになります。

モーセは、ファラオの家族として何不自由ない生涯を送ることも出来ました。
しかし、彼はそうしようとはしません。
後代の使徒パウロは、モーセについてこのように書いています。
『信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの娘の子と呼ばれることを拒み、空しい罪の楽しみに耽るよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリスト(任命された者)としての受ける嘲りをエジプトの富に優るものと考えたのです。』(ヘブライ人への手紙11:24-26)

しかし、彼は気持ちが先走り、イスラエル人を不当に扱うあるエジプト人を殺めてしまいます。
処罰を恐れたモーセは、シナイ半島に逃れてゆき、ホレブと呼ばれる山の近くに暮らすケニ人で、アブラハムと同じ神、エルシャッダイを崇拝する祭司エテロの客人となり、その長女チッポラを娶り、子らも得て平穏に暮らして四十年に及び、そのまま静かに生涯を終えるかと思われたところですが、老境に入った八十歳になってから、神は彼をイスラエル民族の救出に用いると言っては彼に話しかけるのでした。

つまり、イスラエル民族を奴隷の境遇から救い出し、アブラハムに約束した通りに、彼らをパレスチナの土地を与え、そこに住まわせるという大任をモーセに委ねると言われます。(出エジプト記3:6-10)
イスラエルの解放は若き日のモーセが熱烈に願っていたことではありましたが、しかし、老いたモーセはこれを聴いて大いに狼狽します。彼は若かった頃の正義感に従った失敗に懲りています。ですが、今度は神が後ろ盾になると言われるのです。また、話すときにどもる癖があることも心配すると、神は彼の兄アロンも共に遣わすと言われます。(出エジプト記4:12-15)

次いで、神の名を訊かれたら何と答えれば良いかと問うと、神は自らを「在る」という意味の[יהוה]、ローマ字では「YHWH」という固有名を名乗られます。(出エジプト記3:13-16)
この名のヘブライ語の四文字はすべて子音であり、どのような母音を付けて読まれていたかは、イエス・キリストの後の世代に入ってから誰にも分からなくなってしまい、今では「ヤハ」という省略された発音だけが残されています。

代々にわたるご自分の名を決められた神ヤハは、それからモーセに奇跡を行う能力を授け、それによって人々から信仰を集め、またイスラエルを解放するようファラオを説得するための神の印とします。こうして若き日には、イスラエルの解放に情熱を燃やしたモーセは再びその意志を神によって呼び起こされることになります。しかも、このたびは一人の解放者としてではなく、イスラエルを解放する神の使い、また預言者としてエジプトに立ち向かうことになるのです。



◆解放されるイスラエル

こうして、モーセはエジプトに向かい、途中で兄のアロンと合流して、いよいよファラオの前に立ちます。
イスラエルをエジプトから出すようにとアロンが語り、モーセは奇跡を起こして見せますが、ファラオは同意しません。
四百年ほどの間にイスラエルは百万単位の大きな民族になっており、エジプトには欠かせない労働力となっていたのです。

イスラエルの奴隷解放を認めないファラオに、神はモーセとアロンを通じて九度の奇跡を行い、出国の許可を促しました。
しかし、様々な奇跡によってエジプトが苦しんでも、ファラオは頑なに拒絶を続けます。

そして、エジプトには決定的な十度目の奇跡が臨むことになります。
神は、イスラエルの民にその準備を命じましたが、それは各家庭で雄の子羊一頭を用意し、春先のアビブと呼ばれる月の14日にその羊を屠って一家で食事をとることでした。(出エジプト記12章)

その羊の血は、家の門の柱と鴨井に塗り付けるなら、神の使いはその家の長子の命を奪いません。
しかし、そうしていない家は、尽く長子を失うことになります。

その夜、エジプト人の家々からは悲痛な叫びが上がりますが、それはファラオの家も例外とはならず、継嗣の死去が避けられませんでした。
夜の内にモーセはファラオに呼び出され、遂にイスラエルの出立が許されるに至ります。(出エジプト記12:29-42)

つまりイスラエルの各家庭で犠牲にされた子羊によって、奴隷からの解放が実現し、羊の犠牲が長子を守ったのです。
それは後のキリストの犠牲を予め暗示するものであり、イスラエルでは、これを記念して毎年の陰暦1月14日の夜にイスラエルでは『過越しの祭り』が行われるよう求められることになりました。(出エジプト記12:26-27)

後代のイエスに「バプテスマ」という水への浸しの儀式を施した荒野のヨハネは、イエス・キリストを『神の子羊』であると明言しています。(ヨハネ福音書1:29)

そして、イスラエルの「過越し」の祭りの夜は、千年以上後のイエス・キリストの最後の晩餐の夜ともなりました。
キリストの使徒パウロは、イエスの弟子たちに『キリストはわたしたちの過越の小羊として屠られた』と手紙に記しています。(コリント第一5:7)

また、使徒のヨハネは磔刑に処されたイエスの体の骨が折られなかったことを福音書に明記し、同じように『過越しの羊』の『骨は折ってはならない』というモーセの指示との一致に注意を促しています。(ヨハネ福音書19:31-36/出エジプト記12:46)

『神の子羊』であるキリストのもたらす救いは、人々が陥っている『この世』の奴隷状態からの解放であり、人類はキリストによって、いつの日にか同じように『この世』を後にすることになります。



◆再び起こる紅海の裁き

イスラエル民族はエジプトを立ちますが、ファラオは彼らを解放したことを悔やみ、戦車隊を率いて後を追い、紅海のほとりで追いつきます。(出エジプト記14:1-9)
神はエジプト軍を妨害しながら、強い風を吹かせて紅海の水をふたつに割り、対岸までの道を開きます。
イスラエルが渡り終えると、エジプト軍もその奇跡の道に入りますが、海水が戻ってしまい、海の藻屑とされてしまいます。(出エジプト記14:19-28)

これが神の裁きの原形を構成し、この世の終末にも同様に救いの意味を持つ大きな奇跡が起こることを、預言者ミカは『末の日』について次のように述べています。
『わたしは彼らに、あなたがたがエジプトの地を出たときのような驚くべき業を行い示す。
諸国の民がどれほど強かろうとも、それを見て恥じ入る。彼らは口に手を当てて黙し、耳は聞く力を失う。』(ミカ書7:15-16)

もちろん終末では、神に信仰を働かせるあらゆる人々が解放されるのであり、終末に於ける神ヤハの奇跡の規模は紅海の比とはなりません。
預言者エレミヤの書には、このように神YHWHの言葉が記されています。
『YHWHが国々と争い、すべての肉なる者を裁き、悪人を剣に渡すと、YHWHは言われる。
万軍のYHWHはこう仰せられる、「見よ、国から国へと災厄が出て行く。大きな嵐が地の果からわき起こる」。』(エレミヤ書25:31-32)


これが神の『この世』への裁きであり、『この世の神』は創造の神ヤハではないので、イエスはご自分の犠牲を通して『この世の支配者は裁かれた』と言われました。(コリント人への第二の手紙4:4/ヨハネ福音書16:11)
この世の支配者とはサタンのことであり、それは『この世』の性質にも明らかに見えています。(ヨハネ第一5:19)

聖書最終巻の黙示録では、『ヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所に』諸国民の軍隊が集められ、神とこの世との戦いとして神の裁きが描かれています。(黙示録16:16)
それは、邪悪な強き者らから、神の側に立つ弱き者らを救うという神の裁き(シャファト)であり、『子羊』キリストがその救いを達成する王となられます。(黙示録17:14)

このように聖書の内容は、神が古代に行った事跡を将来に行う事柄への予告とされることが多く、以前に行われた事柄の意味するところは「前表」または「予型」と呼ばれ、後に同様の意味の成就として起る事、またその予告は「対型」と呼ばれます。

聖書の預言には、この世の終末に関わる「予型」が非常に多く含まれていて、わたしたちのなお将来に関わるその時に強く焦点を合わせています。

終末のその時には、忘れられた神の名も示され、あらゆる名に優るものとして高く掲げられると、「預言者たち」(ネイヴィーム)が語っています。(イザヤ書12:4/エレミヤ書16:21/エゼキエル書39:7/ゼカリヤ書14:9)







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