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神の友 アブラハム

2017.12.17 (Sun)


◆人間の価値

「生まれたからには死んでゆくのが当たり前」と人の命を見做すとすれば、今生きているということはたいへん不思議なことになります。
人が生きているということは、単に自然の為せる業なのでしょうか。

そうであれば、自然には生命を生み出そうとの意志を持っていることになるでしょう。
では、自然が意志を持つでしょうか。

地上に人が存在し、広大無辺の宇宙の余りに大きな広がりと、その創始者を考えているという事も、巡り合わせと言うには実に不思議です。
まして、その創始者が、宇宙の砂粒というにも満たない地球の上の人に関心を払うとなれば、不釣り合いにさえ感じられます。

それでも人は自分という存在に何らかの意義を見出そうとするものです。
なぜなら、人の知性は価値観を生み、その価値観は自分という存在にやはり価値を見出すからです。

人は、自らの生涯を俯瞰して何かを成し遂げる達成感を感じたいものであり、また人生の意味を問います。
自らは微少な存在であるのに、自分の存在を遥かに超える物質的でない何者かを仰ぎ見て、繋がりを求めようとする性質も表してきました。

そこに人は自分自身の「存在の不思議」を悟ってきたからでしょう。
つまり、なぜ自分は存在するのかという不思議です。

もし、アダムの子孫が創造者との関係を今日まで保持し、親しく意思の疎通を持っていたなら、こうした心の隙間を埋めようと苦労することもなかったことでしょう。人間に様々な宗教もなく、懸命に死後の幸福を求めることも必要がありません。

ですが、物質的に見れば、人は神の創造の業のほんの僅かな一部ではあっても、神にとって人は、けっしてなおざりにできない存在です。
それが証拠に、神はたったひとりの我が子を死に至るまでの犠牲としたからです。


◆奇跡の独り子

しかし、宇宙創造という途方もない業を行われる神に対して、本当に人間はそこまで顧みられるに値するものでしょうか。
この問いは、サタンにとっては、人類を贖いに値しない悪者とすることで、自らと共にいずれは滅びに至るものとし、神の創造の業を台無しにしてしまうことになります。
人間は、神が貴重な犠牲を払ったとしても、「ご利益」を受け取るだけ、そのうえにあぐらをかくだけの利己的で不敬な者たちに過ぎないのでしょうか?
あるいは、人間がそれに値しないなら、救い主であるキリストを不要とすることができ、サタンは自分の頭が砕かれる危険も過ぎ去ると考えたのかもしれません。

しかし、その反論の前に、ひとりの父親が立ちはだかります。
彼こそは、人間には神の独り子を捧げられる価値があると、その行いを通して証明した人物であり、それが遠い古代の中東に暮らした、アブラハムと呼ばれたひとりの遊牧民でありました。

広漠とした野を移動して生活する彼に、全能の神はある約束をします。
『「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。』(創世記12:1-2)

そこでアブラハムは、この神に従い、妻と家財を携えて大河ユーフラテスを渡り、今日のパレスチナに入りますが、甥のロトも伴っていました。なぜかと云えば、アブラハムの妻は不妊なうえ、もはや二人とも若くなかったので、ロトから自分の約束の子孫を得ようと考えていたからでしょう。しかし、このロトはやがてアブラハムから離れてゆくことになります。

ですが、神の意志はアブラハムと正妻サラからの男児に、パレスチナという「約束の地」を与え、そこで繁栄させるというものであったのです。
約束の地で生活するうちに、アブラハムもサラも子を得ずにいよいよ高齢に達してしまいましたから、常識で考えれば、とても継嗣を設けるのは絶望的だったのです。
サラは神の言葉を聞いても『自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに』と思って笑ったと書かれています。
しかし、その翌年に彼女は男児を生み『イサク』(笑い)と名付けます。あまりの高齢で子を得たことが信じられないほどであったからでした。

アブラハムにとってイサクは奇跡のような子であり、正妻との間の独り子でありましたから、その愛情の深さが推し量れます。


◆神の犠牲に足る者

しかし、しばらくするとアブラハムの神は、信じられないような命令を彼に下すのでした。
『あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を焼き尽くす犠牲として捧げなさい』(創世記22:1)

それではアブラハムへの『アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受ける』という神の意志も、『イサクを通して』『あなたの子孫にこの地を与えよう』という約束もすべてが反故にされてしまいます。

ですが、アブラハムが二度と戻らぬ覚悟で大河ユーフラテスを渡って30年ほどの間に、その神(エル・シャッダイ)との様々な歩みを経て、強い信頼が築かれていたのです。
キリストの使徒パウロは、そのときのアブラハムの心中をこう書いています。
『アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた』(ヘブライ人への手紙11:19)

つまり、彼は独り子を奇跡によって得られた経験、また、それまでの様々な神の意志の成就を見てきたので、アブラハムの神に対する信頼は非常に深いものに育っていたというべきでしょう。

彼は、独り子イサクをモリヤと呼ばれる小山に連れて行き、まさに屠ろうとするときになって、神の使いが介入します。
『その子に何もしてはならない。わたしは今こそ分った。あなたは神を畏れる者である。あなたはわたしのために独り子さえ惜しまなかった。』(創世記22:12)
アブラハムが息子から目を上げると、そこには一頭の雄羊が、角を藪にとられて動けなくなっているのが見えます。
彼は、それを息子の代わりとして、神に捧げました。

すると神はこう約束するのでした。
『わたしは自分を指して誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫を増やして、天の星のように、浜辺の砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」』(創世記22:16-18)

これはもはや契約ではなく約束であり、不動のものとして神の意志となりました。(ヘブライ人への手紙6:13-17)
即ち、『女の裔』はアブラハムを通して来るのであり、まさしく信仰の人アブラハムはその父祖となるに相応しく、人間の中には、神の独り子を捧げるに足る人物が居ることを、このひとりの父親が実証して見せたのです。

それからおよそ二千年の後、このモリヤの山の上で神の独り子が犠牲となって捧げられることになります。それが『ナザレ人イエス』であることをわたしたちは知ることになります。

こうして神はアブラハムを『我が友』と呼ぶようになりました。
それは、宇宙の創始者と遊牧民の父親との友情の証しであり、言葉を絶するほどにかけ離れた存在であっても、互いに最も貴重なものを差し出し合った仲であり、まったく信頼できる『友』となったのです。

まさしく、「信仰」というヘブライ語(ヘムナー)には「信頼」という意味も込められています。
アブラハムが「信仰の人」と呼ばれるのは、この神との信頼の深さを表していると言えます。

加えて、この故事を読む人々は、ひとりの父親であるアブラハムの試練を通して、神の捧げる『独り子』の犠牲がどれほどのものであるかを、人の感覚として鏡を見るかのようにして味わい知る機会を得、そこはかとない気持の内にその価値が例証されることになりました。

ですから、アブラハムとの信頼を通して、創造の神の人類への愛顧の深さが示されています。
加えて、神が後に奇跡を通して遣わすことになる独り子「イエス」を、人類に犠牲として与えた愛の真性さに、神の人への愛は、サタンといえども何の反論の余地も無くなっています。

ですから、全人類は、この古代のたったひとりの人物にすべての希望のきっかけを負っています。
『地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう』と全能の神が予告された通りです。
神への信頼とは、なんと大きな価値を人にもたらすものでしょうか。










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