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仲介者キリスト

2017.11.30 (Thu)



◆神と人との仲介者


人と神との間には『罪』の壁が在って、隔てられていることは聖書中の言葉を知らせています。
かつて預言者イザヤは民にこう言っていました。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
ただ、あなたがたの不義が、あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が、主の顔を覆ったために、お聞きにならないのだ。』(イザヤ書 59:1-2 )

当時には、神との契約を結び、その神だけを崇拝すると約束したはずの民も、異神を崇拝し、多くの悪を行うことによって神は、彼らの祈りをも聴かないと言うのです。

預言者ハバククの書には、神についてこう語ります。
『あなたは目が清く、悪を見られない者、また不義を見ていられない方です。』(ハバクク書1:13)

また、詩篇の中でイスラエルのダヴィデ王はこう歌っています。
『あなたは、決して邪悪なことを喜ぶ神ではありません。悪者が御許に住むことも許されません。』(詩篇5:4)

これは創造の神の清さ、つまり、創造の本来の意図と、『罪』あるこの世の現実との差に、神の是認の無さを知らせています。

神は、人と契約を結んで関わりを持つときには、動物の犠牲を求めています。
それは、神と人とが関わりを持つときに、その両者の間に命の犠牲を必要としていることを教えています。
つまり、アダムの子孫は『罪』に陥っているために、そのままの状態で神に近付くには問題があるのです。
それは、尊い公職にある人が、犯罪者と親しくもなれず、まして直接に取引などを行えないことに似ています。

しかし、神はアダムとエヴァが自ら選んで不義の道に入ったにしても、その子孫は『同じ罪を犯していない』こと、罪を負って『生まれながらに、怒り(を受けるべき)』状態にあることから、救出の道を備えられました。
使徒パウロは、イエス・キリストについてこう書いています。
『 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も唯一人であって、それは人間キリスト・イエスです。』(テモテへの第一の手紙2:5)

使徒ヨハネは福音書にこう記しています。
『神はその独り子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネ福音書3:16)



◆もうひとりのアダム

この神の独り子がイエス・キリストであることは良く知られたことで、言うまでもないことですが、キリスト自身については知られていないことが実は多いのです。

一般に知るところとなると、人々の罪の身代わりとなって十字架に磔にされ刑死したこと、クリスマスに生まれたらしいこと、馬屋で生まれたことや処女の母から生まれたとされていること、世間一般の常識で知られるのは、これくらいというべきでしょうか。
ほとんどの教会では、キリストも神様と教えられますが、これは「三位一体説」をローマ国教化以来受け継いでいるためです。

こうして見ると、これほど有名であるイエス・キリストについて聖書が示すところのごく表面だけの知識、また、誤解が広められてしまって、世間一般でのキリスト像というものは、間違ったままに広く知られているところがあるものです。
しかし、イエスという人物に込められた意義のようなところはどこにあるのでしょう。

例を挙げれば、「救いの御子」と歌われるこのイエスがどのように「救い」となるのでしょうか? このように一歩踏み込んだ途端に、その答えに困ったり、様々な意見が聞かれたりするのは、これ以上なく有名である反面、知られていないところの方がよほど多いということなのでしょう。

もう少し詳しい人なら、キリストの救いとは、イエスが刑死することによって、人類の罪の身代わりに罰を受け、こうして人々が罪の酬いから解き放たれることだ、と言うでしょう。

キリストがそのように人々の『罪』の代わりとなれるとしたなら、キリストには『罪』が無いことが求められるでしょう。
罪人が罪人の身代わりにはなれません。それぞれ自分の罪を負うばかりです。
しかし、パウロはキリストについてこう言っています。
『この方は、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。』(テモテへの第一の手紙2:6)
つまり、キリストには、人類の身代わり、『贖い』(あがない)となれるだけの『罪』のない立場にあったことなります。

そこでキリストの処女からの誕生に宗教的説話以上の意味が出てきます。
もし、アダムの子孫であるなら、誰も人々の身代わりは務まりません。

キリストの誕生の由来について、天使は処女マリアに説明してこう述べています。
『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。』(ルカ福音書1:35)

この妊娠は特別のものとなられねば、生まれる子はやはり『罪』あるアダムの子孫となってしまい、キリスト(任命されて者)となる意味がありません。
しかし、これは当の処女マリアにとっても信じ難いことであったので、こう言います。
『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ男を知りませんのに』
この時の天使ガブリエルはこう言います。
『神には、不可能なことは一つとしてないのです。』

つまり、マリアから生まれる子は、アダムの血統になく、堕罪前のもう一人のアダムのような人となる必要があります。
そこで処女からの誕生は、キリストを高めるための説話では収まらず、人の『罪』を負うことのできる人物、まさしく「救世主」としての役割に求められたものであったと言えます。

これにより、キリストが『最後のアダム』と呼ばれる理由ともなっています。(コリント人への第一の手紙15:45)
キリストとなったイエスは、堕罪以前のアダムに相当する『罪』のない人であったことが、そこに示されています。
それは、『ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされる』ためであり、アダムの『罪』に向かう行いとは異なる、『義』への行いにより、アダムの子孫を導くことがキリストに委ねられたのであり、
この『贖い』が、キリスト教の最大の教えとなっているのです。(ローマ人への手紙5:19)


◆神の『初子』にして『独り子』

使徒パウロは、イエス・キリストについてこのように述べています。
『彼は見えない神の象りであり、すべての創造物の初子である』(コロサイ人への手紙1:15)

また、黙示録の中でキリストは自らを指してこう言われます。
『神の被造物の初めである者』(黙示録3:14)

では、キリストは地上に生まれる以前があったのでしょうか。
キリストに反発するユダヤ人はイエスにこのように詰め寄った場面が福音書に記されています。
『「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。
イエスは彼らに言われた、「確かに言うが、わたしはアブラハムの生れる前から居るのである」。』(ヨハネ福音書8:57-58)

目の前にいる三十歳ほどのイエスのこの答えを、ユダヤ人は到底受け容れることが出来ず、キリストに殺意を抱くほどでありました。

今日でも、「三位一体説」を信奉している多くの教会員にとって、キリストも「神」であると考えようとしますので、キリストが神ではなく、やはり創られたもの「被造物」であるということは受け容れることが難しいことでしょう。

しかし、聖書中のイエス・キリストは、一度として自ら神だと語ったことがありません。むしろ、常に神を『父』とし、自らを『子』と呼ぶことを習慣として『神の子』であることを一貫して示しています。(ヨハネ福音書10:36)
また、以上の聖書の言葉も、キリストもまた創られた存在であり、しかも最初に創られた被造物であることを示しています。

また、聖書はキリストについてこう述べています。
『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネ福音書3:16)

また、キリストが『独り子』であることについては、旧約聖書の箴言の中に、神の創造の業を手伝った『知恵』(ホクマー)と呼ばれる存在がいたことが書かれていて、こう書かれています。
『YHWH(神の名)が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。
いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。』(箴言 8:22-23)

この言葉は、新約聖書の『被造物の初めである者』また『すべての創造物の初子』というキリストを指す句と一致していますし、創造の初子なら、けっして何人もいるわけもありません。

そのうえで、この箴言は神が様々な創造を行われているときに『わたしは、その傍に在って名工となり、日々に喜び、常にその前に楽しんだ』とも告げます。
ここから新約の福音書の述べる『独り子』の意味が示唆されています。
つまり、キリストは地に来られる以前には、最初に創造された存在者で、神と共にその創造の業を共にしているということです。

新約聖書のコロサイ人への手紙の句がこれを裏付けて、次のように続けていることはもはや決定的というべきでしょう。
『彼は見えない神の象りであり、被造物の初子です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子によって造られたからです。
つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。』(コロサイ人への手紙1:15-17)


そこでキリストとは、神の最初の創造物であり、他のすべてのものの創造に携わった存在者であり、もちろん神そのものではなく、『神と人との仲介者』の役割を果たすことのできる、非常に貴重な立場にある方である、と結論できるのです。つまり、キリストには、人間から『罪』を去らせて、神との絆を取り戻させるための希望が託されているのです。

しかし、その仲介を行うのに地に来られる必要があったのでしょうか。





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