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宗教は『罪』から生まれる

2017.11.28 (Tue)


◆宗教を必要とする人類

アダムの子孫の全体に宿ってしまった倫理上の欠陥である『罪』は、人間社会を利己的な害のはびこる世界にしてしまったばかりか、人間と神との間も隔てられてしまいました。

そこで、もう一本の木からも食べることのないようにと、『燃えて回転する剣』という最初の権力が置かれたことは、もはや人間が神から信頼に値しない「鍵」の必要な存在となったことを、また、配置された二人のケルブたちは、人間が監視の対象に墜ちたことを物語っています。
そして、この不倫理性の隔てによって、神と人の間は引き離され、アダムの子孫は神との間に、本来なら必要のないものを新たに媒介とすることになります。

つまり、創造者と隔たった人間は、自分という存在に関わる疑問、また自分をどう生きるかについての何らかの答えが必要になり、それが「宗教」という名の、厄介で普遍的な正解のない各個人でバラバラな理念です。
たとえ無宗教を標榜していてさえ、人は自分の生き方、また神を含む他者との関わり方、つまり倫理基準を定めるところで、やはり何らかの「主義」や「思想」を持つといえます。

アダムは神と自由に会話し、その是認と慈愛の中に居ましたが、彼にとって神は現実の存在であり、信仰を必要とする状況に居たわけではありませんし、創世記で宗教的犠牲を捧げたのは、その二人の息子からであり、アダムにもエヴァにも神を崇拝する場面が一度もなく、神が彼らに犠牲を求めた記述もありません。

アダムとエヴァについては、エデンで無垢であったときには神の創造物の栄光があり、神の是認の内にありましたが、堕罪によって、引き返すことのない道に自ら入ったアダムとエヴァについては、その子孫とは異なり、どれほどの犠牲を費やしても『罪』の贖いは得られないので、彼らには神に執り成しの必要がないでしょう。
しかし、自ら堕罪したわけではないその子孫については、神との隔たりのために「宗教」が必要になってゆくのは自然なことで、以後は聖書中で神に犠牲を捧げる行為がアダムの子孫らによって繰り返されてゆきます。

この点で、使徒パウロはこう述べます。
『アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった』(ローマ5:14)
これはつまり、アダムの『罪』が子孫に遺伝してしまっており、その子孫がアダムと同じ違反を犯すとは限らないので、そこに酌量されるべき余地があることになります。

そこでまさしく、キリスト教とは、創造者から隔てられて死に至る人類を引き戻すことを目的としているのです。つまり、創造の神と『罪』に陥っている人類とをイエス・キリストが執り成して、関係を修復させることなのです。

しかし、今日では「宗教」という言葉に良い響きはありません。
ひとつには、古代人なら心底信じることのできたそれぞれの宗教の古い教えも、科学の発達に伴い陳腐化してゆき、それに加えて信者を隷属に置く指導者の醜態があちこちの宗教に見られてきたからでしょう。
そればかりか、宗教は往々にして政治的な影響力まで振って、人々の敵意を煽り、政争から流血に至るほどの争いを助長し、また原因にもなってきました。

こうした争いの誘因のひとつになるのが「ご利益」であり、ほとんどの「宗教」でも「崇拝」でも人間の願望を煽り、信奉する信者だけが「救われる」などの限定された利益を宣伝し、不信者は「地獄行き」ともされていますが、この利己心を煽る教えは宗教家の信者集めに利用されてきたというべきでしょう。
そこでは、「なぜ生きるのか?」「なぜ人生は空しいか?」などを問う人々は格好の餌食とされてしまいますし、その教えが正解であるかどうかは一生涯分かりません。神の存在も、死後の状態も、科学には客観的正解がないからです。

またこの点では、信者の側にも問題がないわけではありません。
つまり、神の意志を探るより、自分たちの願いが叶うことを優先させるなら、その人は自己中心になって神に向かっているのであり、この利己性こそ人間の始祖が神から離れた理由であったことからすれば、創造の神に近付けるわけもありません。

むしろ、おおよそ宗教とは、人間の根本的疑問に答えることを装いながら、利己心を煽り、人々の争いや分裂をもたらす要素となってきたと言うべきでしょう。自分の信じる事柄が絶対に正しいとするその人は、人間の倫理上の限界を超えてしまっており、正しいどころか、優越感と蔑視という害悪をもたらしてきたのが現実です。

しかも、「上なるもの」との繋がりという人間の必要に付け入る危険な者らが現れたことを聖書は告げます。


◆神々の現れ

人類は世代を経る内に、いよいよ神から遠ざかり、考えから締め出すようになって多くの悪を行うようになっていった様子が創世記に描かれます。
やはりサタンから誘惑を受けた堕天使らという存在が、地の人間界の悪を助長したとあり、創世記にはこうあります。
『人が地のおもてに増え始め、娘たちが彼らに生れた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。』(創世記6:1-2)

この『神の子たち』とは人間を意味しません。アダムとエヴァは『生めよ増えよ』と命じられていたのですから、その子孫も娶ることは当然のことです。また、堕罪によってアダムも子孫も、すでに『神の子』の立場を失っていたので、この『神の子たち』とは人間以上の存在、天使らのことを述べています。

創世記でアダムの時代の後に『人の娘たちを娶った』という『神の子たち』については、新約聖書のユダの手紙で『自分たちの地位を守ろうとはせず、その在るべき所を捨て去った御使たち』と暴露されています。(ユダの手紙6)

これらの堕天使は、特殊な能力を保持したまま人間の身体をまとって地上に現れたためか、ギリシア神話さながらに、神を自称して好き勝手に行動していたようで『人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。』と言われるほどに地上は無秩序に陥っていたと創世記は伝えます。(創世記6:5-7)

その後、神は地上を大洪水で覆い、動物たちとノアの一家を箱舟によって生き長らえさせることになります。
地上に来ていた堕天使らは、人間ではないので死ぬことはありませんでしたが、その後は『大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められた』とユダの手紙は記しています。(ユダの手紙6)

堕天使らが拘束されているとはいえ、神を自称していた頃のような影響力をその後も人類に及ぼし続けています。
人間が生きてゆくうちに、「自分はなぜ生きるのか」などの根本的疑問を懐くのは、まさに創造者から疎外されたためなのですが、そこに自分も神であるという堕天使らが「雑音」をたてるかのように割って入ります。彼らを堕落させた親玉であるサタンは、エヴァに善悪を知る木から食べても『けっして死なない』と偽ったままに、人間には死後の世界があるかのように装い、亡霊を見せ、死者の意向を騙り、あるいは、人に前世があるかのような不思議を行って今日に至っています。

旧約聖書にある「律法」の書が、交霊術を強く排撃し、行う者を厳罰に処す取決めを設けていた理由も、それがけっして故人との接触ではないからです。(申命記18:9-12)
創造者から隔てられた人類は、堕天使という非常に厄介な導き手が神や個人などを偽り、様々に影響されていることを聖書は暴き出しているのです。(コリント第一10:20)
交霊術などにどこか暗い印象が付いて回るのも、堕天使らの将来は裁きによる消滅であるからでしょう。それでも、意のままになる人に憑りつくことがあり、その危険もまったく無視できるものでもありません。(マルコ5:1-5)

キリストの時代にも、この堕天使に憑りつかれていた人々が聖書に何度か描かれていて、それらは『悪霊』と呼ばれています。
『悪霊』は今日でも、巷のあちこちで影響力を用い、不思議を起こして驚かせ、人々の程度の低い好奇心を煽っては、だれかに憑依しようとしていたりするので、それが時折、事件に発展することも見聞きすることでしょう。 『悪霊』との接触は必ず害を成すもので、わざわざ近付くものではありません。


◆宗教に潜む利己心

人間が創造者から隔てられているということは、もちろん良いことではありませんし、特に、世界を客観的に調べる自然科学からではけっして分からない、人間の由来という難問を尋ねるところで、人はこのように騙され易い状態に置かれているということになります。

それでも、多くの人々が神と通じることを望んできましたから、様々に「上なるもの」との関係を築く方法、また難問への解答を模索して、多くの宗教・宗派を興してきました。
ですが、それらが本当に神に通じるものかどうかを判断することは、客観的事実で証明も判断もできないのです。

ここで人は、「信仰」という主観、つまり自分の価値観に従わざるを得なくなり、人々各人の想いが異なるように、「信仰」には分裂、また争いが付き物となってきました。
すでに人間には、経済的また政治的での利害の対立があり、そこに民族た貧富の差などの憎悪も加わって争いをもたらしているのですが、それでもまだ足りないかのように、また、それらに便乗して、宗教や価値観をさらなる対立の理由としてきたのです。
こうした人間の姿は、賢い外見を持ちながら、憎しみ争うところでは愚かしく、とても「万物の霊長」や「叡智の持ち主」とは言い難いほどではありませんか。

おおよそ宗教とは、人の生き方を形作るもので、最も高い価値観を与えるとされるため、自分の信仰を至高のものとしないではいられないものが古来多いものです。
そこで、思想信条の多様な人々の中で平和を保ち、自由に過ごすには、他の人々の信奉するものを、ある程度は尊重することが求められますが、教えにそうした備えのない粗野な宗教と出会うところで、争いは起こりやすくなりますし、親密な交友さえ断たれ兼ねません。

これが宗教に潜む利己心であり「独善」と呼ばれるべきものです。
この原因は、自分に正義があるという思い上がりであり、そこに欠けているのは、「真の正義を人は持ち得ない」という現実に気付くことです。つまり、人にはみな『罪』があり、だれも倫理的完全は持ち得ないという、この世に明らかな現実を認めない頑なさに囚われてしまっているのです。そこからいったい誰が益を得られるものでしょうか。

使徒パウロはこのように述べています。
『ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです』『次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。』(ローマ人への手紙3:9-11)
そこでパウロはこうも言っています。
『あらゆる人が偽り者であったとしても、神こそ真実な方とされるべきです。』(ローマ人への手紙3:4)

キリスト・イエスはこう言われました。
『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらの(必要な)ものはみな与えられる。』(マタイ福音書6:33)

では、人の義ではなく、『神の義』を求めるとはどんなことを指すのでしょう。





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