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政治は『罪』への対処法

2017.11.23 (Thu)


◆罪ある人間に秩序を与える政治

エヴァとアダムが、倫理上の決定を伴う行動の結果として陥った状態を、聖書は『罪』と呼びますが、人間の不倫理性、その道徳上の欠陥は、今日の世相にも歴史にもあまりにも明らかなことです。

その原因について、キリストの使徒パウロはこう述べています。
『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ』(ローマ人への手紙5:12)

アダムが『罪』に陥って以来、人は寿命をもって老化してゆくだけでなく、『生涯の間、顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る』という空しい一生をも避けられなくなったことを創世記は告げています。
しかし、そればかりか、人類は常に悪に傾く性質に背負ってきましたので、利己心による貪欲を招き、他者との争いを止めることができず、社会での多くの苦難を自ら付け加えてきたのです。本来、人と人が共に生きるのは、易しいことではありません。

『罪』を負った人々は、そうした倫理のうえでの苦しみを受けつつ、『この世』という生きる場を形作ってきました。
もし人々が、それぞれ個人の思うまま、その欲望のままに振る舞えば、社会は奪い合いで危険な無秩序な場となってしまいます。そこである程度の秩序をもたらし、人と人とが何とか共に生活を築いてゆけるようにするためには、他者を無視した横暴を抑え込む必要があります。

そこで必要とされたのが「支配」であり、それはあらゆる個人や集団に対し横暴を強制して抑制できる実力がなくてはなりません。
そうでなければ、誰かの貪欲を抑え、社会全体で共生してゆくことができないからです。この強制力は「権力」と呼ばれます。

ですから支配には「権力」という、横暴を抑え込めるだけの実力が必要になりますので、その社会で最も強力な者が常に支配者となってきました。支配の実力がはっきりしないところでは政情不安となり、政変も起きかねませんが、逆に権力が強すぎ、民に深く介入すると圧政が生じます。それは権力者そのものが横暴なのです。

民主主義という支配も、人々が行政に権力を託しているのであり、その実質的支配者が「王」であれ、「行政府」であれ、「議会」であれ、「裁判所」であれ、どんな支配も権力による人々への抑制であることに変わりありません。
共にどんな支配者も、その社会で最も強い実力をもち、他のすべてに強制力を行使できなければ、社会の秩序は脅かされてしまうのです。

ですから人間とは、強制されなければ秩序を保てない存在であることは隠しようもないことです。
そこに、だれの例外もなく、利己心を懐く『罪人』としての姿が見えていると言わざるを得ません。

わたしたちは互いに警察力によって保護されていますが、人はみな権力の恩恵なしには、日常生活を営むほどの安全も得られません。
どれほど清廉潔白に見える人であっても、『善だけを行って、罪を犯さないような人間は、この地上にはいない。』という言葉を否定することはできないのです。(伝道の書7:20)

あらゆる人に、権力が番人として必要なことをパウロはこう記しています。
『支配者たちは、あなたの益のための神の奉仕者です。しかし、もし悪を行うのなら、恐れなければなりません。彼らはいたずらに剣を帯びておらず、悪を行う者に怒りをもって報いる、神の奉仕者だからです。』(ローマ人への手紙13:4)
わたしたちが、だれかから横暴に扱われないことに一定の安心を抱けるのも、そのような事をすれば、黙ってはいない復讐勢力である「権力」のお陰であり、それは同時に自分の行動をも監視しているのです。
この点で、古典的政治哲学者のトマス・ホッブスは、「背後に剣の無い契約など空しい言葉に過ぎない」と、支配には実力が必要不可欠であることを宣告しています。

これが「政治」というものの基礎であり、人々の欲望を抑制し、支配することで秩序をもたらすことを第一の目的としています。
人に『罪』という欠陥がある以上、だれもが必要とするものなのです。
近代の社会学者マックス・ウェーバーも「国家とは、ある一定の領域内での、正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体である」としています。まさしく政治とは、有無を言わさぬ暴力を原資とする支配であり、一人一人の貪欲の調停による秩序の達成を目的としているのです。

つまり、人と人とは法律と警察力で保護の壁を作り、そうしてはじめて秩序ある生活を送ることができるのです。
これは本来は犯罪者への対処法ですが、もちろん、神は人間をこのようなものとして創造されたわけではなく、『罪』のない者、悪に傾く性質のない者には「支配」そのものが必要ありません。
もし、人々に『罪』が無かったなら、個人同士を抑える警察も、国家同士の争いに備える軍隊も必要がないばかりか、『罪』のない人々に『剣』は、まったく不必要で場違いに見えるだけで、それは単なる暴力にしかなりません。神の創造界にそのようなものは意図されていないというべきでしょう。『剣を鋤の刃に打ちかえ・・国は国に剣を挙げず』とは、国連の標語とはされていても、実行できるのは、人類から『罪』を除くことのできる方だけなのです。(イザヤ書2:4)



◆金銭で成り立つ世の中

『罪』が人類にもたらした影響は、この「権力」という強制だけに留まりません。
それが、他人のためには働かないという基本的な態度です。
この交換の原則は、他人の貪欲の犠牲にならないためには避けることができません。

おおよそ人は、自分の家族のためには無償で援助しますが、その外側に居る人々に対しては代償を求めます。
この世では、そうしなければ生きてもゆけないでしょう。

ですから人々は、それぞれの生活に必要なものを互いの持つものを交換することによって手に入れなければなりません。
その交換は、人の生活を豊かなものにすることができますので、人は互いの必要を満たす「交換社会」を作ってきましたが、それは今日世界規模に広がっていて、輸出入がなければ、突然に不便で貧しい暮らしに落ち込むことになってしまうでしょう。

その重要な「交換」を媒介するのが「金銭」なのですが、交換するものの「価格」において、人は互いにせめぎ合い、奪い合うことになります。
売る側には、高い価格にしたい誘因があり、買う側には、安い価格にしたい誘因があります。しかし、互いに牽制が起こるので、どちらも極端な貪欲は許されず、最終的に価格は相場に向かってゆくことにはなるのですが、その過程には熾烈な競争や駆け引きを伴うものです。旧約聖書のソロモンの箴言にはそのような世相がこう描かれています。
『買う者は「悪い、悪い」と言うが、買ってしまえば、それを自慢する。』(箴言20:14)
こうして価格が適正化されるとしても、そこでは給与の削減や過酷な労働、そればかりか会社の倒産や失業、破産などの「淘汰」を当然のものするのです。欲望と欲望がせめぎ合い、必要さえ奪い去る争いがそこにあります。

このような世の中で、他の人々よりも一層の富を得て安楽に暮らそうと思うのは、ごく一般的な人々の願いです。そのためには不正や欺きをも用いようとする人も絶えることなく、今日も生活のごく身近にそうした罠はいくらでもあり、それを見分ける知力や猜疑心がなければ、ただ犠牲になるばかりです。しかし、これは互いの人間性を低めるものでしかありません。
使徒パウロはこう言っています。
『金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れるのです。』(テモテへの第一の手紙6:9)

しかし、害を受けるのは、富を追い求める者ばかりではないのです。
真面目な弱者にも、『働かざる者、食うべからず』といえども、人が働きたくても働く事ができない、働いても生活を確立できない、などの恐るべき不毛の砂漠のような危険が避けられません。(テサロニケ人への第二の手紙3:10)
そのうえ、金銭は富んだ人に集まる傾向が強く、生きるのに必要な人々にその必要に応じて配分されるわけではありません。
世界の富の大半は富裕な人々に所有され、僅かな残りを得るために大多数の人々が厳しい労苦によって生活を支えているという現実が、古来続いてきています。

つまり、富裕な人の贅沢を支えているのが多くの人々の苦しみであり困窮です。このピラミッドは今日までもこの世を支配しているのですが、どのような体制の国であっても、これを是正することはできていません。
善意を懐く僅かな勢力や行政が、こうした社会の殺伐とした状況に「完全雇用」や「富の再配分」などの手を打とうとしていますが、この世の有り様そのものを変えることは不可能です。そこでは経済の犠牲者が絶えたことがないのです。
富んだ人にとっての慈善事業や寄付の効果も世の趨勢を変えることもなく、むしろ、施しも富んだ人の最高の贅沢、また気休めにさえなり兼ねません。

イエス・キリストは、質素な生活の中でも、付き従う使徒らに困窮する人のための寄付を活用させていましたが、『貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいる』と言われました。つまり、貧困がいつまでもなくならないことを指しています。また、近付いた金持にイエスは『持っているものをみな貧しい者らに与えなさい』と勧めました。(ヨハネ12:8/マルコ10:21)
ですが、この世が利己心を基礎に置いているところで、人間社会の構造を根本的に変えることなど、人間には無理があります。その前に、まず自らの『罪』ある人間の有り様に気付かねばなりません。

歴史上、社会の変革を夢見たのが、理想郷を実現しようとした「ユートピスト」たちでありましたし、近代の産業化の波の中で資本家と労働者の富の偏在を問題とし、あるいは計画経済を唱えて国家を打ち立てた試みも次々に失敗に終わってゆきました。そこに人間の普遍的な病根である『罪』への認識がどれほどあったでしょうか。この問題こそは、経済的立場でも、民族でも教育程度でも誰もが抱えている悪であり、これがある限りどんなユートピアも破壊してしまいます。

この点で人間は、経済のもたらす巨大な不公正の苦しみを解決することができず、ただ、比較的に状況の良い、つかの間に自分たちの短い安泰を楽しんできただけということなのでしょう。
やはり預言者イザヤの言葉がこの世に当てはまると言わざるを得ません。
『悪しき者は波の荒い海のようだ。静まることができず、その海水は泥と汚物とを打ち上げる。』(イザヤ書57:20)
そして人は、その荒波の中で生きるほかありません。人間社会は奪い合いで静まることができないからです。
ソロモンの箴言には『貧しさも富もわたしに与え給うな』とありますが(箴言30:8)
バブルと不況のはざまで、狂喜と絶望とに翻弄される人間の姿は、どちらも良いものではありません。
しかし、人間の幸不幸がすべて金銭で測られるものでしょうか? 人は幸福を望んで、懸命に富を追い求めることが人生のすべてなのでしょうか?


◆人類を気遣う神

この世の苦しみも、元はと言えば人類の始祖が利己心に従い『罪』に陥ったところにあるとはいえ、神はその苦しみを眺めているだけかといえば、そうではありません。
経済学者らは、今日までの人間の歴史を俯瞰して「人類の歴史の大部分において人間は底知れず貧しい状態にあった」と結論していますが、歴史は始まって以来、貧困は常に絶えることのない人類の不治の病であったに違いありません。(ダスグプタ「経済学入門」)
旧約聖書には、イスラエル国民に与えた法律、「モーセの律法」が含まれているのですが、そこには再三に、弱者への具体的な救済の指示が見られます。それは今日の法律にないほどの合理的な貧困への対策が見られます。

例えれば、収穫のときには、落穂までを拾ってはならず、採り残りがあってもそのままにするようにという掟がありましたが、それは困窮者のために残すようにとの規定でありました。また、他人の畑に入って、両の手を満たす分量ならば誰でも取ってよいともされていましたが、これも異国の旅行者を含め、いよいよ窮した人々が命をつなぐ手立てとして備えられた取決めでありました。

モーセの律法では、窮境にある人々に何かを貸し与えることに渋らぬよう諭され、しかも、質に取った物であっても生活の必要物であれば、夜の間は返すようにとも命じられています。
これらの命令に困窮者への神の配慮が明らかに見えます。

そのうえ、50年毎に一切の債務が免除されるという規定があり、自分の家代々の所有地を再び回復できるという、今日でも考えられないような、経済的再出発の機会が神の法によって取り決められていたのです。そこで、過重な債務に、いつまでも奴隷となることからの解放が備えられ、イスラエルの中では貧富の差が極端に開くことが配慮されてもいました。

また、新約聖書に入ると、イエス・キリストはこう言われます。
『何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった』(マタイ福音書6:25-29)


人を創造した神は、成功して富を得ようとするような願いを聴くことはありません。キリスト教がいわゆる「ご利益信仰」ではないことは明らかです。「富や成功を引き寄せたい」なら、ほかの宗教に向かうべきでしょう。
ですが、人がこの世を生きて行くうえで窮境に陥ることを創造の神が望まないことが旧約聖書にも新約聖書にも明らかです。
キリストは、富の蓄えが人に安寧を与えるのではなく、出来ることを行いながらも神を信頼するようにと教えました。(ルカ19:19-21)
また、使徒パウロもこのように訓戒しています。
『この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。』(テモテへの第一の手紙6:17)

富むことは諸刃の剣というべきでしょう。
安心や豊かさを与えるように見えて、真に心を休ませるものとはならず、神の慈愛を知らずに過ごすことになるのです。(列王記第二4:1-7)


人間の苦しみは、社会的なことだけでなく、『罪』によってエデンを追われた人類には、様々な病気にも悩まされます。
医学が今日までに大きな進歩を見せたとはいえ、患者は尽きることがありません。

まさしく、イエス・キリストが神からの奇跡の力を得て、あらゆる疾患を治し、累々と並べられた病人を長い時間をかけて、ひとりひとりを癒したと福音書は述べています。(マタイ福音書4:23/ルカ福音書4:40)
それは、人が再び『罪』を去り、創造された意図に従う『神の子』に復した後には、もはや何の病に罹ることがないことを予告するものでありましたし、神の、病人たちへの暖かい眼差しも感じられます。(イザヤ書33:23/ヨハネ福音書1:12)


こうして、この世と聖書とを眺めることで、人間というものの置かれた実情が見えてきます。
欠陥ある人間社会に生まれてきたわたしたちは、それを当たり前に見てしまい、あまり意識もしないのですが、時折に、人生の空しさに、自分の生きる意味や、神の存在を問い掛けるばかりです。

しかし、聖書に向かい、そこに書かれた全体像を把握してゆくと、人間の生きる境遇がどんなものであるのかが分かります。
ですが、分かっただけでは何の解決にもなりません。
そこで創造者は、『アダムと同じ罪を犯してはいない』人々を『この世』から救い出すために、「救世主」を任命され、世に遣わすことになるのです。(ローマ人への手紙5:14/ヨハネ福音書3:16)









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